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2006/10/03

山川登美子…紅き花胸を焦がして命果つ

「2006年10月3日(火)01:00~15:00の約14時間」の予定だったココログのメンテナンスもようやく終わったようだ。
 早速、記事をアップ!

 先週来、久世光彦著の『夢あたたかき 向田邦子との二十年』(講談社文庫)を車中で読んでいた。
「向田邦子の中には二人の才女がいた。情熱的な与謝野晶子と、引っ込み思案な山川登美子。そんな二人をこっそり胸の中に抱えていたから、みんなに好かれ、頼りにされていたのだろう。久世光彦が語る向田邦子の想い出」といった本だが、ここにあるように山川登美子という人(の歌)が紹介されていた。
(「向田邦子資料展パンフレット」というサイトを今日、発見。なかなか! 掲げた画像もこの頁から。ホームページは、「実践女子大学図書館
 この文庫本の表紙画像(カバー装画)は、川村みづえ氏の手になる。「Tokyo Illustrators Society」の中に同氏の名が見える。)

F06s1

山川登美子 – Wikipedia」を覗いてみても、情報が豊かとは言えない。彼女の人気を反映している?

 ここからは生没年を参照するだけに留める:
 1879年(明治12年)7月19日 - 1909年(明治42年)4月15日)

 忙しいのか暇なのか分からない昨日から今朝にかけての営業中、山川登美子という美貌で秀才の女性の非業の生涯を想っていた。
 今の世にもいるんだろうな、こんな人が。
[以下、この記事は、既に廃盤となっているらしい、ヴィヴァルディ 『四季』(イ・ムジチ合奏団 バイオリン:カルミレッリ(ピーナ)  PHCP-9001 1993年5月26日発売 マーキュリー・ミュージックエンタテインメント)を聴きながら書いている。実際に買ったのは95年末か96年頃に買ったように思う。部屋の整理をしていて発見。他にも数枚、懐かしいCDたちと再会!]

 山川登美子は、与謝野晶子と並び称せられた時期もあったようだが、今では一般にどのような存在となっているのか。
 というわけで、与謝野晶子のことは知られているし、今回は脇役に回ってもらう。

後瀬山歴史街道」の中の、「山川登美子」を参照させていただく。

 冒頭に、「明治の短歌史に与謝野晶子、茅野雅子、中浜糸子、林のぶ子等と共に閏秀歌人として名高い」とあるが、小生は上掲書を読んで、そういえばこういう方もいたっけとようやく思い出したものだった。
 まして彼女の歌は、一つも浮んでこない。

 ここには、「明治33年4月、梅花女学校の研究生となって英語を学ぶかたわら、同月創立された東京新詩社の社友となり、その機関詩『明星』を舞台に晶子と歌才を競い、初期の女流歌人として浪漫主義短歌の進展に大きく貢献しました」とあり、さらに、「 「白百合の君」と称せられた登美子の歌風は、晶子の奔放華麗なのに比べ、清楚哀婉の趣に富むと賞賛されました。同年11月には与謝野鉄幹を迎えて浜寺公園で歌会を催し、鉄幹・晶子とともに京都南禅寺に遊び、ひそかな恋心をもって鉄幹の指導のもとに新派の作歌活動を続けました。が、秋頃より本家山川駐七郎との縁談が具体化し、鉄幹をめぐって晶子との恋に敗れ、同年12月に父の決めた山川駐七郎と仮祝言を挙げ、翌年正式に結婚しました」とある。
 晶子という相手(恋敵)が悪かったのか、そもそも鉄幹からすると山川登美子はどんな存在だったのか。女性としては? 短歌運動の同士としてはどうだったのか?

 結婚した時の心境を、山川登美子は以下のように歌っていたというが、この歌に篭められた思いとは(「紅き花」とは鉄幹のこと):

「それとなく紅き花みな友にゆずりてそむきて泣きて忘れ草つむ」


 山川登美子については、以下のサイトが詳しい:
Blue Signal -歌と女性 Uta to Josei-

 この中の、以下の2頁を参照する:
Blue Signal ~登美子の歌~- (1-2)
Blue Signal~歌と女性~- (2-2)

 冒頭に、「明治歌壇に君臨した与謝野晶子と、相対する存在として生きた山川登美子を比べた歌人釈迢空(折口信夫)の言葉」として、以下の言葉が掲げられている:
「運命が若し入れかはつてゐれば、山川の方がすぐれた歌人としての業蹟をのこしたかも知れない」

「運命が若し入れかはつてゐれば」…。けれど、入れ替わっていることはなかったのだろう。歌の世界であっても、運動ということになると、運の良さもあってほしいし、自己主張する気の強さ、あくまで意思を通す我の強さも必要だろうし、その意味で、鉄幹からすれば晶子のほうが頼りがいがあると感じられたのだろうし、女性の燃える肉体と心を赤裸々に歌って憚らない晶子というのは、時代を超えて凄みを感じさせる。
 ただ、晶子は晶子でやっていけるとして、山川登美子は、運命に翻弄されたという俗な表現の中に埋没してしまいそうである。誰から掬い取ってやらないといけない弱さがあったのか。

 但し、そんな小生の、まるで達観したかのような見解に痛棒を加えるようなコメントが上掲の頁に載っている:
登美子の恋の断念については、「近代的自我の確立を果たせなかった古い考えの女性だったから」という 意見がある。確かに山川家は小浜の名高い旧家であり、厳格な父の意見は絶対だった。しかし、「親の意志に従ってその路線を歩むことが、自我にまかせて家を飛び出すよりも、却って強い意志を必要とする場合も ある。登美子を、晶子より弱いと見ることはできない」と、登美子研究に造詣の深い白崎昭一郎氏は、自ら恋に幕を下ろした登美子の強さを評価する」。


 以下のくだりは、悲しみの念を以てしか読めない。多くの(明治の)自己主張する意思のあった(が果たせなかった)女性はこのような人生だったのだろう:
「翌年の春、登美子は上京し、駐七郎と結婚した。処女歌集『みだれ髪』で晶子がセンセーショナルなデビューを果たすのを横目に、日々家事にいそしみ、発病した夫の看病に尽くしていた。
 しかし、結婚前から肺を病んでいた駐七郎とは、2年 も経たずに死別する。夫の死後、登美子はいったん小浜へ戻ったが、再起をかけて上京。日本女子大に通うなかで、再び鉄幹や晶子との交流が始まる。やがて、鉄幹の編集によって、「明星」の代表歌人である晶子、茅野雅子と共に詩歌集『恋衣』を刊行するが、それが世に出た登美子の唯一の歌集となった。すでにこのとき、登美子は夫から感染したと思われる結核を患っていたのだ。登美子が29歳の若さでこの世を去るのは、『恋衣』刊行後4年が経った春のことである。」

 しかも、追い討ちをかけるように、父の発病と死が彼女を襲う。


 山川登美子や与謝野晶子ら女性陣ばかりがクローズアップされる。
 たまには男性側の立場から、ということで、以下の頁が参考になる:
安島喜一のホームページ おたまじゃくし」の中の、「敗荷(はいか) (与謝野鉄幹・山川登美子)」である。

 鉄幹にとって、登美子は、「嫁いでしまったのに、胸にいつまでも残り、思い切れない人。枯れて、折れた己の向こうに輝く、美しい人、才ある人。伏目がちの君は「山川登美子」。前年(33年)8月と11月に出会ったばかりでした」わけである。
 その心情が「敗荷」の中に切々と歌われている。
 そう、決して鉄幹は晶子や登美子を翻弄したわけではなかったのだ。
 晶子や登美子ら若く才能溢れる、美貌の女性らに関わったなら、身も心も千千(ちぢ)に乱れるのも無理はない。
 父に鉄幹や歌への接近を制止され、父の決めた相手と結婚した登美子は、「明治34年4月、正式な結婚式が行われ、牛込区矢来町三番地の山川家に住みました」とのこと。

登美子が息をひきとる前年の1908年(明治41)、「明 星」は100号をもって廃刊した。実らぬ恋に生き、自分の死を深く見つめた登美子の短い一生は、まさに「明星」とともに輝き、消えていった」というが、登美子の存在の大きさを物語っているかのようだ。


 惜しいことに、以下の展覧会が今年の四月から五月にかけて催されていたようだ:
テーマ展「歌人 山川登美子の生家-小浜藩士 山川家の資料―
「歌人・山川登美子が育ち、晩年を過ごした家と什物が、平成18年2月に小浜市へ寄贈され」たことを契機の企画だったようだ。
 但し、「寄贈された山川家の住宅などは平成19年以降、公開される予定」とか。

 山川登美子の歌は「青空文庫 Aozora Bunko」にて読める:
恋衣   山川登美子・増田雅子・與謝野晶子」
山川登美子

 冒頭の四つと最後の二つのみを転記させてもらうが、是非、一通り味わってもらいたい:


髪ながき少女とうまれしろ百合に額(ぬか)は伏せつつ君をこそ思へ

聖壇(せいだん)にこのうらわかき犠(にへ)を見よしばしは燭(しよく)を百(ひやく)にもまさむ

そは夢かあらずまぼろし目をとぢて色うつくしき靄にまかれぬ

日を経なばいかにかならむこの思たまひし草もいま蕾なり

歌よみて罪せられきと光ある今の世を見よ後の千とせに

あなかしこなみだのおくにひそませしいのちはつよき声にいらへぬ

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コメント

こんばんは!

「山川登美子」を思い出させてくれてありがとうございます。

与謝野晶子と競い合い、鉄幹への想いをあきらめてしまった人というイメージがあります。そして、薄幸の女とイメージも・・・。気になって書棚にある古い本をひっぱりだしてみました。

「山川登美子--明星の歌人」竹西寛子著、講談社刊(1985)です。改めて読み直してみたいと思います。

強烈な個性の晶子も好きですが、抑えた感情をうたう富美子も好きです。

投稿: elma | 2006/10/05 21:49

elmaさん、コメント、ありがとう。

山川登美子さん、名前は何処かで聞いたことはあっても、ピンと来ない。やはり与謝野晶子の陰になっている。
でも、短歌の数々を詠むと、なかなか情熱的だったことが分かる。父との板ばさみなどがあって、不遇だった面もあるけど、なかなかの存在だったのだと初めて知りました。
女性にもいろんなタイプがあるってことですね。
読み返すに値する女性だと思いました。

投稿: やいっち | 2006/10/06 01:50

やいっちさん
お久しぶりです

山川登美子さんとは またなつかしい
若い頃に心惹かれたものでした

亡くなる直前の歌

 をみなにて又も来む世ぞ生れまし
  花もなつかし月もなつかし

自らの生涯を肯定する思いの深さは
今も心に響いています

投稿: はれあめ | 2006/10/10 18:28

はれあめさん、コメント、ありがとう!

山川登美子さんというのは、一頃は与謝野晶子とは違った輝きを持つ歌人として人気があったものの、最近は、あまり脚光を浴びていないようですね。
本文中に示した「恋衣」の中の彼女の歌をこれを機会に詠んでもらいですね:
http://www.aozora.gr.jp/cards/000318/files/2086_15764.html

> をみなにて又も来む世ぞ生れまし
       花もなつかし月もなつかし

 なるほど、自らの生き方を省みて悔いなしだったのですね。
 決して、運命や状況に翻弄されたと愚痴るような人ではなかったということをつくづくと感じます。

投稿: やいっち | 2006/10/10 19:39

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