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2006/10/08

ウロボロス…土喰らうその土さえも命なる

座乱読後乱駄夢人名事典・歴史上のお友達?」を覗いていたら、どの記事もその画像などが楽しくて、つい前の記事まで遡ってみてしまった。
 すると、「ウロボロス」という項に目が留まった。
 古来より各地でいろんな意味合いを篭められつつ継承されてきた、興味深い(ある種の)シンボルなので、小生も以前、何かの短編の中で使ってみたことがある。
 上掲の頁にも、「自分の尾を自分で食う蛇・・というのがウロボロスの概念で、中世では死と再生を繰り返す円環として、死して復活するキリストにたとえられたり、あるいは錬金術などでは、完全・世界を現すとされたりしました」など、以下、ウロボロスについて簡潔に纏められている。

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→ 「ウロボロス - Wikipedia」より

 小生としては、もう少しウロボロスの周辺を巡ってみたい。
 例によって、ネット逍遥の手引き乃至は手掛かりにしようと、「ウロボロス - Wikipedia」を覗いてみるが、「ウロボロス (Ouroboros) は、古代の象徴の一つで、己の尾を噛んで環となった蛇もしくは竜を図案化したもの」とか、「世界創造が全であり一であるといった思想を表し、グノーシス派などが用いた。他にも終わりが始まりになる円運動、永劫回帰や陰陽など反対物の一致など、意味するものは広い」とあるが、珍しく情報が少ない。

 それでも、末尾に「今日の無限大の記号(∞)のモデルとなった」とあったのが興味深い。
 ただ、掲げられているウロボロスの像からどうやって今日の無限大の記号(∞)に成り代わるのか、分かるようで分からない。

東京大学総合研究博物館ニュース」のシンボルマークにもウロボロス像が使われている。「Ouroboros(ウロボロス)とは、自分の尾を噛んで環を作る蛇または竜で表現されるシンボルをいいます。
始めと終わりがないことから、自己の消尽と更新を繰り返す永劫回帰や無限、真理と知識の合体、創造など幅広い意味を持っています」といった説明はあるものの、一体、この画像は誰によって描かれたものなのだろうか。何処に典拠があるのだろうか。

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← 京大学総合研究博物館ニュース 「Ouroborosとは」より

 ネット検索してたら、「ぼくのWeblog  ニ卵性双生児のウロボロス」という頁に出会った。
「パトゥーカの古い伝説によると、ひとりで死を迎えることになる男のもとには、死の使いが訪ねてくる。死を怖れぬように、という配慮なのだが、それは別れた家族や、古い友人の姿をしている」以下、この頁の記述自体が読んで面白い。
 すると文中にて、「美しい画像を見付け次第メモする - 「始まりも終わりも無い」ウロボロスが好きだ」という頁へリンクしてくれている。
 幾つか興味深い図像が載っているのだが、その冒頭に「無限大の記号(∞)のモデルとなったウロボロス」ということで、無限大の記号(∞)の元に(?)なったと(少なくとも関連が)推測される図像が掲げられている。ウロボロスというと、大概は蛇(竜)によって象徴されるのだが、その蛇(竜)が8の字が横になった形の図なのである。

 ただ、この図だと、蛇(竜)は一匹で、それが8の字の形を描いている。それはそれで瞑想を誘わなくもないのだが、これでは円環の延長の一種に過ぎなくなるような気もする。
 と思っていたら、「『信のたわむれ』 《情熱のウロボロス》 哲学日記-ウェブリブログ」の中に興味深い記述を見つけた。
「キリスト教という共通基盤を持ち、かつ、仏教、特に禅の深い理解者たち」である「八木誠一と滝沢克巳」の思想に関連する話の一環でどうやら、八木誠一と滝沢克巳、あるいはそこに久松真一が加わっての、三竦み(さんすくみ)の状態が扱われているようだが、、その話には深入りしない(できない)。
三竦み(さんすくみ) 」とは、「蛙(かえる)は蛇を、蛇はナメクジを、ナメクジは蛙を、それぞれ恐れてすくむこと」あるいは「三者が互いに牽制(けんせい)しあって、だれも動き出せないこと」(状態)を意味する言葉である。
 要は、「二匹のへびを円環状に配置させ、互いの尾尻が互いの頭にくるようにすることによって得られる構造、すなわちウロボロス、情熱のウロボロスとしてイメージすると分かりやすい」というわけだ。
 そして、「二匹が同じ、つまり互いに相手を喰いちぎるスピードと量が等しい場合、言い換えれば、両方の立場がその強さ、深さ、広さ、一言でいえばその根源性において等しい場合、いくつかの帰結の可能性が考えられる」として、話が展開されていく。

「無限大の記号(∞)のモデルとなったウロボロス」像というのは、一体、一匹の蛇(竜)が8の字の状態になったものを図案化したものなのか。あるいは二匹(それとも三匹、もしかするとそれ以上の蛇たち)が互いの尻尾をまさに喰わんとしている状態を象徴しているのか。
 さらには、一匹の蛇(竜)であっても、双頭の鷲がいるくらいだから、双頭の蛇(竜)、さらには頭は一つであっても尾っぽが二本の場合だって考えられる。
 それどころか、一匹の蛇(竜)がよじれて円の状態になっている、メビウスの輪という位相をも考えてもいいわけだ。
 まこと、ウロボロスは罪深いイメージ喚起力を持つ!

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→ エッシャーのウロボロス

 それとも、それほどに現実自体が捉えどころのない、「平家物語などで、源三位頼政に射殺されたという怪物。頭は猿、体は狸、尾は蛇、脚は虎に、それぞれ似ていたという」鵺(ぬえ)だということか。
(『古事記』での八岐大蛇(やまたのおろち)のことは、ここでは思い浮かべもしない。)

美しい画像を見付け次第メモする - 「始まりも終わりも無い」ウロボロスが好きだ」(「ぼくのWeblog  ニ卵性双生児のウロボロス」)という頁には、「エッシャーのウロボロス」像も載っている。

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← ダグラス・R・ホフスタッター著の『ゲーデル,エッシャー,バッハ―あるいは不思議の環』(白揚社)

 エッシャーが登場すると、話は一層、輻輳する。もう二十年以上も昔、エッシャー展に行った際の眩暈のするような感覚、あるいは、エッシャーというと思い浮かべる本のうちの一冊、ダグラス・R・ホフスタッター著の『ゲーデル,エッシャー,バッハ―あるいは不思議の環』(野崎 昭弘/はやし はじめ/柳瀬 尚紀 訳、白揚社)などに言及するしかなくなる!
 この本、日本においては、まさにバブル経済に突入する最初の年1985年に刊行されたのだった。
(バブル…。泡。ウロボロスの環を何も円(たとえそれが二重であっても)に限る必要などないわけで、球状という様相を想定してもいいはずだ。現実というのは点、線、面、立体、さらには四次元やそれ以上の位相空間がありえるわけなのだし。でも、そうしたことも、ここでは我が手に余るし、想定の外に置いておく。)
 この本は、数学や論理学、記号論その他が苦手でも、一読の価値はある。エッシャーの絵を眺める楽しみはあるし、バッハの曲を何かしら流しながら、読みつつ瞑想…という名の居眠りに落ち込んでいくのも愉しからずや、である?!

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→ ダグラス・R・ホフスタッター著の『ゲーデル,エッシャー,バッハ―あるいは不思議の環』(白揚社)……20周年記念版が出ていた! 今も読み継がれている!

 余談だが(この記事自体が余談?!)、小生は「エッシャーの騙し絵」という呼称が好きではない。上記したように、現実というものはエッシャー以上に鵺的な世界だと思う。エッシャーは、むしろ、現実を理解する、ある種の明快な通路(ルート)の幾つかを示したに過ぎないのではなかろうか。
 実体験、観察、感情、瞑想と、現実に迫る道は様々にある。様々というより、際限のないほどのルートがあるということの証左の一つに過ぎないのではないかと思われるのである。

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← 吉野 裕子著『山の神―易・五行と日本の原始蛇信仰』 (人文書院)

 さらにネット検索していくうちに、「So-net blogカイエ蛇と聖ゲオルギウスと時間」なる頁に遭遇。
 ここでは、吉野 裕子著の『山の神―易・五行と日本の原始蛇信仰』 (人文書院) などが参考にされていて、記事自体が面白く、一読の価値がある。
 吉野氏は、「神社のしめ縄は、交合している二匹の蛇である」と言うのだが、なるほど、上記したように野暮な三竦みばかりを想う必要はなく、「交合している二匹の蛇」のほうが、生々しい!
「蛇は何度も脱皮を繰り返すことから再生と不死身のシンボルであり、強い治癒力の象徴でもある」といった蛇への思い入れは古来より日本に限らずされてきたようである。
 蛇が忌み嫌われるのも、その形や土の中、家の床下など、住む場所にも関係するのだろうが、その殺しても殺しても生き返ってくる(かのような)不死性への嫉妬と恐怖の念も預かって大きいのかもしれない。
(余談だが、小生は以前、蛇を想って、「嫌われて床下 潜む守り神」といった迷句を作ったことがある!)

 紹介した頁で小生が一番興味深かったのは、「ウロボロスは、自らの尾を喰らう円形の蛇または竜として表される。円は、永遠の循環、すなわち、終末が、始点につながる永劫回帰を象徴し、天地創成神話やグノーシス派では、「世界創造が全にして一であること」を示す象徴として使われている。また、錬金術においては、原初のカオスに対立する、秩序世界や、宇宙の永続性や循環性を象徴するという」という、まさに、後段の「錬金術においては、原初のカオスに対立する、秩序世界や、宇宙の永続性や循環性を象徴するという」点にある。
 なるほど、ウロボロスは、「秩序世界や、宇宙の永続性や循環性を象徴するという」コスモスそのものの象徴なのだった。

 さて、ここらで最初の記述「Ouroboros(ウロボロス)とは、自分の尾を噛んで環を作る蛇または竜で表現されるシンボルをいいます。始めと終わりがないことから、自己の消尽と更新を繰り返す永劫回帰や無限、真理と知識の合体、創造など幅広い意味を持っています」に戻ろう。
 思えば、人は過去の遺産を喰って生きている。石炭、石油、天然ガスなどのいずれにしても、「動物や植物の死骸が地中に堆積し、長い年月の間に変成してできた有機物の燃料」である化石燃料に他ならないわけで、「その燃焼に伴い、地球温暖化の原因とされる二酸化炭素や、大気汚染の原因物質である硫黄酸化物、窒素酸化物などが発生」するのは別にしても、要は過去の遺物という尻尾を今に生きる我々が喰っているわけである。その尻尾は何も蛇(竜)などでははいにしても、大地であり大地の恵みの結果(象徴)のはずなのではないか。

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→ 水上勉著『土を喰う日々』(新潮文庫)

 われわれが直接口にするどんな食べ物も、見かけは洗練され糊塗されていても、何らかの生き物の変形であって、要するに生き物を食べていることに他ならない。
 水上勉に『土を喰う日々』(新潮文庫)という本がある。副題に「わが精進十二ヶ月」とある。
 これは、「少年の頃禅寺で精進料理をつくり、かつ本を書いた時点でも自分で野菜達を作り料理を作り続けている作家」の本なのである。名著だと思っている。
 
土を喰う日々」!
 言いえて妙ではなかろうか。我々は誰しもウロボロスの輩(ともがら)なのである、などと決め付けたりしたら野暮の極みなのだろうけれど、息をするだけで、大気中の無数の微生物を吸い込み殺してしまうことを想うと、菜食主義や精進料理など、小生には片腹痛くなる(体質で野菜しか食べれないなどの理由は別儀として)。
 生きているだけで、自分のものか他人のものか分からない尾っぽに喰らい付き、齧り、貪り、煮、焼き、ソースをかけ、大地を、この世を喰っている。
 その我々も、遅かれ早かれ灰となる。煙となる。霞となる。そうして土となって、土壌を肥やし養い喰われる立場になるわけである。
 
「世界創造が全であり一である」というグノーシス派の思想、「終わりが始まりになる円運動、永劫回帰や陰陽など反対物の一致」という表現をすると、やや仰々しいようだが、でも、ウロボロスといった観念は案外と素朴な現実の一端を捉えている象徴であるとは思っていいのかもしれない。
(文中では参照することはできなかったが、グノーシスについては、「図像学派タナローグ グノーシス」での「高橋秀元┼鈴木達也」両氏の対談が面白い。多少はウロボロスにも言及しているし。)

[ 「人は死ぬと土に還る」も読んでいただけたらと思う。 (06/10/12 追記)]

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コメント

TBありがとうございました。
また記事中で拙記事をご紹介いただき、感謝しております。
僕は、三竦みというと鏡花の「春昼・春昼後刻」を思い出します。(関係ないことを書いてすみません。)
早速「美しい画像を見付け次第メモする」を覗いてきました。とても面白いサイトですね!
貴重な情報、ありがとうございました。

投稿: lapis | 2006/10/08 10:08

こんにちは。
トラックバックだけして失礼しました。
ウロボロスから「蛇と聖ゲオルギウスと時間」というのは、小生には手の届かない展開。貴サイトを紹介するだけに留めるのも、小生の力不足からです。
貴サイトを紹介することができただけでも、ウロボロスの記事を書いて良かった!
トラックバックとコメントをいただき、嬉しく思っています。
ウロボロスの世界の奥行きの広さに今更ながら驚いています。

>三竦みというと鏡花の「春昼・春昼後刻」を思い出します。

さすがですね。鏡花の有名な作品は読んでも、『春昼』『春昼後刻』は読まない:
http://www.chuwol.com/syuntyu.htm
http://blog.so-net.ne.jp/lapis/2005-07-12
なるほど、『陽炎座』! 小生は、鏡花というより、大楠道代と改名する前の彼女のファンだったので観に行った記憶がある?!

投稿: やいっち | 2006/10/08 12:38

お久しぶりです。ヴィラ=ロボスの時以来、リーダーに登録して毎回拝見しております。
今回もヴィラ=ロボスかと思ったらウロボロスでしたか。絵は見たことがありましたが、名前は初めて知りました(感謝)。
ではまた。

投稿: リベラ33 | 2006/10/08 16:50

リベラ33 さん、コメント、ありがとうございます。
ヴィラ=ロボス……ウロボロス。なるほど!

来訪、ありがとう。
ブログ、来訪者を楽しませる工夫が一杯ですね。
リンクさせていただきました。
お互い、毎日、書くって、楽しみでもあるけど、結構、大変ですね。刺激し合っていけたらと思います。どうぞ、よろしく!

投稿: やいっち | 2006/10/09 01:12

おくればせながら、素晴らしい記事のトラバ有難うございます。まあ、本分には私のブログまで乗せていただいて光栄です~♪
 ウロボロス・・・昔から、興味のある題材なのですが、知識があちこっちして、とても、このように要領よくまとめられていると嬉しくなってしまいます。
 今後ともどうぞよろしく♪

投稿: 乱読おばさん | 2006/10/11 10:41

乱読おばさん、こんにちは。
こちらこそ、書く切っ掛けや題材をいただき、感謝しております。
毎日、ネタを探すのが大変。
乱読おばさんも、毎日、書いたり描いたりしておられますね。楽しくもあり、苦労もあるのではないでしょうか。
これからも、どうぞ、よろしく!

投稿: やいっち | 2006/10/12 07:11

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吉野裕子は、『山の神』の中で、蛇信仰は、エジプトを起源とし、それが全世界に広まったとする伝播説を取ったうえで、以下のように述べている。 日本蛇信仰における蛇は、世界各原始蛇信仰にみられたと同様に先祖神としての蛇であって、それは従来、日本民俗学其他で定説となっている単なる「水の神」というような低次元の神ではない。私見によれば、蛇は絶対に祖霊であり、先祖神である。             ... [続きを読む]

受信: 2006/10/08 09:52

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