川瀬巴水…回顧的その心性の謎床し
相変わらず、毎夜、『こころにしみるなつかしい日本の風景―近代の浮世絵師・高橋松亭の世界』(清水 久男:編集、国書刊行会)を寝入る前に眺め、溜め息を付く日が続いている。
本書を知り、高橋松亭の世界に魅入られるに至った経緯については、ブログ「高橋松亭…見逃せし美女の背中の愛おしき」にメモしておいた。
→ 『こころにしみるなつかしい日本の風景―近代の浮世絵師・高橋松亭の世界』(清水 久男:編集、国書刊行会)
今回は、上記のメモではザットしか触れることの出来なかった川瀬巴水のことを自分に銘記する意味もあって若干のことを書いておく。
川瀬巴水については、彼の作品も含め、ネットでも豊富な情報を得ることができる。
ここでは、まず、小生の好きなテレビ番組である『EPSON~美の巨人たち~』を手掛かりに、川瀬巴水の世界へ分け入ってみたい(ああ、我が部屋のテレビが画像をちゃんと映してくれたらと、つくづく思う。美術番組が辛い!)。
「EPSON~美の巨人たち~ 川瀬巴水 新版画」なる頁を覗く。
「高橋松亭…見逃せし美女の背中の愛おしき」でも紹介したが、「日本の江戸文化の華・浮世絵は、明治期になると、西洋の新しい絵画技術や印刷技術の流入によって、一気に衰退の一途を辿りました」といった時代背景がある。
そこに、「明治に生まれ、大正、昭和を生きた版画家・川瀬巴水は、我が国伝統の文化復興を目指し、江戸浮世絵でも日本画でも油絵でもない、新しい浮世絵版画「新版画」を生み出した人物」として登場するわけである。
大事なのは、「一方、横浜の貿易商で浮世絵の輸出の仕事に就いていた渡邊庄太郎は、日本国内で顧みられなくなった浮世絵が次々に海外へ流出していく光景に心を痛めていました。このままでは日本の伝統芸術が消えてしまうと考えた庄太郎は、22歳で自ら版元となり、浮世絵版画の復興に努めることを決意します」という渡邊庄太郎という存在だろう。
彼の力が明治以降の浮世絵版画の復興に預かって大きかった。
← 川瀬巴水 『塩原おかね路』(傑作とは言い難いということなのか、ネットではなかなか画像にお目にかかれない)。
「巴水のデビュー作は『塩原おかね路』」だという。「作品の舞台である塩原は、体の弱かった巴水がたびたび療養で訪れた故郷のような町」だかららしいが、より詳しくは、「塩原を選んだのには理由がある。幼い頃,病気がちだった巴水は,夏になると東京の両親のもとを離れて,伯母夫妻が土産物屋を営んでいた塩原で過ごした。巴水自身,「塩原は私を非常に可愛がつて呉れました。…懐かしい故郷のやうに思はれます」と書き残している」とか(「風景の旅人 川瀬巴水 - nikkeibp.jp - ナショナルジオグラフィック日本版」より)。
以下、「EPSON~美の巨人たち~ 川瀬巴水 新版画」では、「庄太郎は巴水の筆を忠実に再現させようと、彫りや摺りの職人たちに、従来の技術とは全く違うものを要求した」として、「色彩のコントラスト」や「凹凸のある輪郭線や、ざら摺りと呼ばれる新版画独特の技法を使い、土の感触を表現」するなど、工夫の模様が語られていく。
この辺り、実物をじっくり眺めつつ苦労の様など思い浮かべてみたいものだ。
→ 川瀬巴水『馬込の月』(小生の居住する地域は古くは大きく言うと「馬込」なので、ちょっと感懐深く見入ってしまう)。
が、「大正12年に関東大震災が起きると、庄太郎の版画店に収められていた作品の全てが焼失。巴水も大切な写生帖200を失ってしまいます」といった苦難が彼らを襲い、「それまでは理想の作品を作ろうとしてきた二人も、震災後は、売れ筋商品を優先せざるを得なくな」るのだが、そんな中、生まれた傑作が「昭和5年に描かれた『馬込の月』」である。
「EPSON~美の巨人たち~ 川瀬巴水 新版画」なる頁の最後は、「浮世絵の衰退という大きな時代の流れに抗って、日本の木版画の復活を目指した庄太郎。その夢をまた自らの夢として新しい版画芸術の創造に挑んだ巴水。信じた道を突き進んだ二人の情熱は、まぎれもなく日本の近代版画隆盛の礎となりました」といったふうに締め括られている。
確かに版画人気は高まったままに今日に至っていると言えるのかもしれない。
しかし、版画の購入者や販売者はともかく、製作する担い手となると、一体、どうなのだろう。
← 巴水『泉岳寺』(小生は9年ほど高輪に居住したことがある。歩いても十分も要しないところに泉岳寺があったので、折々、散歩に行ったっけ)。
ネット検索していたら、「巴水の絵」という頁に遭遇。
川瀬巴水の個々の作品に纏わる話題を知ることが出来る。
ここでは、ディズニー作品との対比で「宮崎駿に代表される日本製のアニメーションは、江戸時代と同じく「職人の力」によって生み出されているような趣を感じます」といった興味深い指摘に注目する。
「アニメーションを作り上げている何千枚か何万枚の絵の一枚一枚が、近代的な商品生産のための単純労働としてではなく、「一枚の絵をきれいに書くことが出来た。」という職人的満足のうちにつくり出され、それが重なって一本のアニメーションとなっている、という姿を感じてしまいます。おそらくこのような制作システムは浮世絵の時代に完成されたものではないでしょうか」など、現代においては、アニメに版画の制作システムの伝統が生きているのではと、指摘されている。
そうはいっても、以前、アニメ制作の現場に働く若きアニメーターたちの仕事ぶり(生活ぶり)の特集番組を見たことがあるが、彼らを取り巻く環境に日の目が当ることは少ないような気がする。
「アニメ制作会社 - Wikipedia」によると、「かつての東映動画や虫プロダクションといった大手制作会社はアニメーターを含め社員として雇用していたが、後にクリエイターを社員として抱えてしまうと人件費や制作本数の調整が困難で経営に支障をきたすため、あるいは才能が求められる職業であり、固定給では評価できないという理由からその多くが出来高制での業務委託契約による非雇用者として従事するようになった」とのことで、長時間労働をしかも低賃金で強いられるという現状が垣間見られるのである。
あるいはサービス残業の典型的業界?
好きだからこそ頑張れるのかもしれないが、善意に甘えてばかりでいいものか。「制度改正などの支援策が望まれている」というのも、むべなるかな、である。
テレビでは、アニメ制作も外注(その「外」とは、海外を意味している)になっている傾向がある、といった現状も指摘されていたっけ。
やはり、こうなるとアニメも版画も、職人のなり手が少ないし、厳しい時代であることには変わりはないような。
→ 巴水の絶筆『平泉金色堂』
あれあれ、また、大きく脱線してしまった。
小生、仕事柄、一般の方より都内各地を駆けずり回る機会が多い。新人で右も左も分からないころ、馴染みのない地名や通り、風景に戸惑ったことは数知れない。
でも、今となると、十年一昔ということか(小生も今年で十一年目)、初心者の頃に遭遇した町や地名を目にすると、胸がジーンとしてくる。
川瀬巴水の作品が、小生の新人の頃に眺めた都内の風景を髣髴とさせてくれるわけではないが、地名と風景とを作品を通じて眺めると、ああ、小生が走り回った町も、ほんの数十年の昔はこうだったのだろうか、自分らの親やそのまた親の世代の人が、こうした風景の中を懸命に、あるいはのんびりと生き暮らしていたのかと、妙に懐かしくなるのである。
しかし、こうした回顧的な心性って、いかがなものなのだろう。分析の余地がある?
川瀬巴水の作品については、以下のサイトで豊富に見ることが出来る:
「渡邊木版美術画舗 川瀬巴水」(「渡邊木版美術画舗」)
「hanga gallery Kawase Hasui」
なお、拙稿に「川瀬巴水 旅情詩人と呼ばれた版画絵師」(2007/12/02作)がある。
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コメント
おはようございます。
コメントをいただき、ありがとうございました。
川瀬巴水の展覧会は、8~9月にかけて行われていたのですが、忙しくて、見逃してしまいましたね。やはり、懐かしい!と感じてしまいます。「馬込の月」「平泉金色堂」をはじめとして、心にしみいるものがありますね。
投稿: elma | 2006/10/21 06:18
追加投稿です。
>地名と風景とを作品を通じて眺めると、ああ、小生が走り回った町も、ほんの数十年の昔はこうだったのだろうか・・・
こういう心情になるのも、いいのではないでしょうか?
私も転勤で、いろいろな地域(土地)で働いてきたので、感慨をもつことがありますよ。ふと、思い出し、その街を歩きたくなりますが、行ってみると様変わりにビックリさせられることがあります。
投稿: elma | 2006/10/21 06:24
elma さん、コメント、ありがとう。
東京、特に都心だと様変わりすることには慣れているけれど、それでも、ほんの数十年の昔、父祖の代の人たちが息衝いていた、各地を(当時は徒歩のみで)歩き回っていたことを思うと、夢のような気がします。
以前、住んでいた高輪でも、足下には島崎藤村などが教師として歩いていたらしい。でも、住んでいたころは、小生、気付いていなかった。
過去を振り返ること自体は悪いことだと思わないけど、どうも、最近、そういった傾向が自分に強いなと感じています。
投稿: やいっち | 2006/10/21 09:38
昨夜の9時台の途中から川瀬巴水関連の記事へのアクセスが急増している。
750回ほど。
何故? テレビで彼の話題が出たからなのか。
時間帯からして「開運!なんでも鑑定団」が切っ掛けに思えるのだが、分からない。
以前にも山崎覚太郎で新発見があったとき、話題になり同氏関連記事へのアクセスが増えたものだった:
http://atky.cocolog-nifty.com/bushou/2006/02/post_aa11.html
投稿: やいっち | 2007/12/19 01:40
江戸東京博物館の川瀬巴水行ってきました!
530円で売られていた小冊子の「主要参考文献」に昨年開催の大田区立郷土博物館の図録が挙げられていることから、大田の回顧展は本格的なものだったようですね。
1990にも大田で回顧展とその小冊子に載っていますが、弥一さんご覧になられたかな?
巴水の映画「版画に生きる」も上映、ずっと見ていると45分もかかります。
アメリカで新版画の大規模な展覧会が開かれ巴水の名前は外国でも著名になったとありましたが世界的な版画家だったのですね。
投稿: oki | 2008/02/28 23:16
okiさん
川瀬巴水、見てこられたのですね。羨ましいです。
大田でのものは、前後半に分かれていました。
両方を見ると、醍醐味を味わえたかも。
小生、ロートレック展も逃してしまった。情けないです。
富山はやはり展覧会も音楽も何もかもが…。
でも、追々発掘していくつもりです。
世界的な版画家は、まだ他にもいますね。日本でより海外でのほうが有名な人も居るようです。
投稿: やいっち | 2008/02/29 01:01