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2006/10/02

宗鑑忌我が句の先も杳(よう)として

10月2日 今日は何の日~毎日が記念日~」によると、今日10月2日は「豆腐の日」だとか。
 嫌いじゃないが(卵豆腐のほうが好き!)、駄洒落としては分かりやす過ぎて、パスする。
関越自動車道全通記念日」だとも。
 関越道については、小生には思い出話がいろいろあり過ぎて、これまたパスする。
 エピソードの一つだけでも、ブログをまるまる一週間、費やさないと書けないし。いつか、まとまった時間が取れたら、傾注して書ききってみたいと切に願っている(願い始めて十年以上が経ってしまった…)。

望遠鏡の日」だともある。望遠鏡については、「カーニヴァルテーマ「太陽」(3)」にて若干だが触れたばかりなので、これもパス。尤も、今、世界の名著シリーズのうちの一冊『ガリレオ』(中央公論社)を読んでいて、今はガリレオについての伝記の部分を読んでいるのだが、今日がまさに彼が望遠鏡(筒眼鏡とイタリアでは呼称されていたとか)の噂を聞きつけ、原理を理解し、筒眼鏡を自作し、月を観察して月の表面が凸凹だということ、さらに、驚くべきことに月の影の具合などから月にある山の高さを計算して示したり、木星の衛星を発見、あるいは太陽の黒点を発見し、それが動いていることも観察していたことなどを記述している箇所なのだった。
 でも、パスはパス!

 他に、「宗鑑忌」とあるではないか。「俳諧の祖とされる山崎宗鑑の1553(天文22)年の忌日」だという。
 思えば、小生、彼に付いてはまともに調べてみたことがない。
 このブログは、まがりなりにも季語随筆(読書創作日記)のサイトと銘打っている(付け加えるなら愚痴?!)。
 いざ、山崎宗鑑ワールドへ!

山崎宗鑑 - Wikipedia」で大よそのことを教えてもらう。
「山崎宗鑑(やまざきそうかん、寛正6年(1465年)? - 天文22年(1553年)?)は、戦国時代の連歌師・俳諧作者。本名を志那範重、通称を弥三郎と称し、近江国の出身とされるが、本名・出自にについては諸説あり定かではない」とあり、分かっていないことが多いようだ。
 以下、当該の頁を読んでもらうとして、「宗鑑の連歌作品として伝わるものはわずかであるが、俳諧連歌のもっとも早い時期に編纂された俳諧撰集「犬筑波集」があり、その卑俗奔放な句風は、江戸時代初期の談林俳諧に影響を与えた」というのは、さすがに小生もおぼろげながら聞いたことがあるような。
「荒木田守武とともに、俳諧の祖と称される」とも。

 最後の記述がいい:

 晩年「ヨウ(できもの)」を患いそのために命を失うことになる。したがって辞世は「宗鑑はいづくへと人の問うならば ちとよう(ヨウ)がありてあの世へといへ」。

 なるほど、杳(よう)として行方知れずになったわけだ!

「卑俗奔放な句風」というのは、小生にピッタリのような気がする、などと言ったら、生意気か(ですね)。
 俳諧撰集「犬筑波集」については、後日、改めて採り上げてみたい。

 句碑その他がいろいろあるようだ。
 例えば、「風寒し破れ障子の神無月」という句碑が「滋賀県草津市志那町」にあるとか(「全国の歌碑・句碑めぐり」より)。
 この頁には、「うつつきてねぶとに鳴や郭公(ほととぎす)」という句も紹介されている。

 また、「貸し夜着の袖をや霜に橋姫御」なる句を紹介している頁もあった(「貸衣装の夜着の袖を霜に濡らしている(遊女)橋姫さんよ」といった歌意のようだが、本歌があるようだ。「山崎宗鑑句碑 八幡町興昌寺境内一夜庵東  昭和32年12月建立」参照)。
書逍遙 山崎宗鑑句碑」なるブログの当該頁には、関連する話題や「俳祖山崎宗鑑が享禄元年(1528)から天文22年(1553)に没するまでの26年間を過ごした場所」だという「一夜庵(いちやあん)」の画像が載っている。
「一夜庵の名は、宗鑑が来客の一夜以上の滞在を許さなかったことに由来しているといわれ、次のように詠んでいる。「上は立ち 中は日ぐらし 下は夜まで 一夜泊りは下々の下の客」」とか。

芭蕉関係人名集」の中の、「山崎宗鑑」という項を期待して覗いてみたのだが、「手をついて歌申あぐる蛙(かわず)かな」一句が載っているだけ。
 ちょっとガッカリ…。でも、「宗鑑の芭蕉関係句」という主旨の頁なのだから、期待するほうが見当違いなのか。
 ただ、その解説の頁には、「古今集序に「花に鳴く鶯、水にすむ蛙の声を聞けば、生きとし生けるもの、いづれか歌をよまざりける」とあるように、蛙のキーワードは歌詠みなのである。あの真面目に前足をついてゲロゲロ言っているのは歌を詠んでいる姿なのだ」とあって、非常に参考になる。

 逆に芭蕉が(晩年の)宗鑑を思って作った句(書簡の中)「有難き姿拝まんかきつばた」があって、この句に纏わるエピソードが面白い。→「有難き姿拝まんかきつばた
 つまり、「その昔、近江公は、痩せこけて乞食のような山崎宗鑑がカキツバタを取っているのを見て、「宗鑑が姿を見れば餓鬼つばた」と詠んだという。その哀れな姿はカキツバタならぬガキツバタだというのである。しかし、私はそんな風狂の宗鑑こそありがたい人であり、カキツバタに宗鑑の姿を写していま一面のカキツバタを見ている。芭蕉の乞食趣味の表出である」というのだ…が、「芭蕉の乞食趣味の表出」というのは、ちょっといただけない気がする。
 ひとたび俳諧の道に志したものは、路傍の草露となるのは覚悟の上であり、西行、宗祇そして宗鑑もまさにそうした人だったという意味のはずだろうと思うのだが。

 例えば、「江口の里」という有名な話がある。ここでは深入りしない。「用語集 江口の里」などを覗いてみて欲しい。
 その上で、「『奥の細道』市振の宿の話は、この江口の「妙」と西行の関係を遊女と芭蕉に対応させつつ、かつ両者の関係を逆転させた発想で書かれているのではないかと 、しばしば指摘されるのである」が、小生は思うに、上述した宗鑑の句「貸し夜着の袖をや霜に橋姫御」をも芭蕉は意識しているのだと思う(その前に宗鑑は、「新古今集」所収の歌や西行の江口のエピソードを意識していないはずがない、ということは言うまでもない)。
 むしろ、乞食趣味というのなら、こちらのほうかもしれない。遊女らの泥沼にドップリ浸かった世界の、表面に浮んでいるその蓮の花を文化人たちが愛でているに過ぎない気がするのだ。

写本から版本へ」なる頁を覗くと、「当館(筑波大学附属図書館~TULIPS)所蔵の『新古今和歌集』は、室町時代中期に山崎宗鑑によって書写され、同和歌集の最も信頼される伝本のひとつとされる」とあって、宗鑑が文化人として多方面で活躍されていたことが伺える。

 小生も少しは見習いたいけれど、ちょっと格が違うね。

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