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2006/10/31

日の下のサツマイモの時ほくほくと

カラスの森?!」なる記事の末尾で(さらには、関連してコメント欄でも)、以下の話題を疑問の形で提示している:

 植物は、大地に根を下ろしている。それは強みであると同時に、外敵に対し、移動(逃避)という手段を取れない憾みがあるということでもある。
 それでも、植物はここの種類においてはあれこれあっても、生き物全般としては大成功を収めている。
 植物って、どうして綺麗なのか。
 綺麗だと思っているのは人間だけなのか。動物…鳥や昆虫類も綺麗だと思っている? それとも蜜などに惹かれているだけ?
 だったら、どうしてあれほど多彩・多用な花々を咲かせる必要がある。無用なことにエネルギーを費やすはずもなく、花びらの形や色の多彩さは何を物語っているのか…。
 ま、読みながら、ボチボチ、瞑想・妄想してみることにしようと思っている。

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→ 30日、日中、日比谷公園脇で仮眠。

 そのため、取っ掛かりとして、西田治文著『植物のたどってきた道』(日本放送出版協会)を日曜日に借りてきたのだが、車中で読むはずが、日中は予想外に忙しくて読めず、夜は疲れているし、目を酷使したくないこともあってやはり読めず、に終わった。
 なので、本書の感想文はいずれということにする。

 ここでは多分、関連する話題を扱う。
 話題の焦点は、サツマイモ。
 でも、青木昆陽の話ではない。

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2006/10/30

カラスの森?!

 以下は、某サイトに書いた日記:

カラスの公園?!
 昨日、図書館でCDなどと共に三冊の本を借りてきた。
 その中の一冊が、松田道生著『カラスはなぜ東京が好きなのか』(水谷高英/挿画、平凡社)である。
(「古(いにしえ)の先の先にも人のあり」参照。)

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→ 大倉山公園。高台にあるので、眺望がいいね。

 さて、今日、昨日、行った郷土博物館で入手したパンフレットで馬込エリアには大倉山公園があると知り、自転車で行ってみた…が、児童公園よりは大きいけど、あまり工夫を感じられないような、来た甲斐を感じない公園。
 でも、やや高台にあるので大森山王などを展望できる。

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← 大倉山公園。木々の奥には怪しい建物が! 実は、馬込文化センターでした。何か、催し物があったらしいが、小生が公園から建物内を覗いた頃には、片付け作業中だった。

 せっかくなので、その足で馬込文士村のルートを辿って自転車散歩。

 あちこち、坂の多い高台の道を走り回っていたら、公園なのか、それとも個人の家の庭なのか分からない、不思議な森(林か)に行き会った。
 そうした林があることは知らないわけではなかったが、車などで通り過ぎるだけで、林の中の様子を覗いて見たことはなかった。
 公園(?)はフェンスなどで覆われていて、その中には鳥小屋ならぬカラス小屋があったりする。奥のほうには民家もある。
 やはり、個人の家の庭なのか。
 それにしては広すぎる。
 しかも、ようやく見つけた入り口には、鉄柵があって、立ち入りを一切、拒む風情。

 カラスがやたらと多い。
 あるいは、カラスの森で、区の管理下にある施設であり、民家に見えるのは、管理人(世話人)の家なのかもしれない。
 とにかく、その森(林?)にはカラスが一杯。十数メートルの木々が数多く聳え立っていて、木々の枝分かれした陰には、どうやらカラスの巣があるようだ。
 頭上にはカラスが右往左往。
 どうやら、得体の知れない者が、つまり小生が中の様子を伺っていることに気付き、警戒しているよう。
 鳴き声が喧(かまびす)しい。

 小生、上掲の本を読み始めていることもあり、カラスの巣を探したが、やはり素人には簡単には見つけられない。
 とりあえず、持参したデジカメで中の様子を撮影。
 その際、ついフラッシュ撮影となったようで、そのフラッシュがカラスの警戒態勢を一層、強めたのは明らか。 鳴き声のトーンもペースも速くなり、不穏な空気さえ漂ってくる。
 小生、段々、怖くなってきた。 このままだと、カラスに襲われる。 ヒッチコックの映画「鳥」をふと、思い出したりして。
 小生、早々に退散してしまった。

 それにしても、取りあえずは、カラスの森と呼んでおくが、あの公園(林? 森?)は謎だ。

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2006/10/29

古(いにしえ)の先の先にも人のあり

 以下は、某サイトに書いた昨夕の日記:

今日の失敗(未遂?)

 今日の失敗といっても、毎日、大小あれこれと数々の失敗をやらかす。
 全部を挙げるってのは難しい。昨日の食事の内容も覚えていないのに、自分の失敗の数々を一々覚えているわけがない!

 ここに書くのは、さっき、あったばかりで記憶に鮮明だから。

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→ 土曜日の午後、自転車を駆って、大田区立郷土博物館へ行ってきた。

##############

 夕方。クリーニングを出すついでにパン屋さんへ。
 カップ麺、ケーキ、食パン、ハム、羊羹。
 レジで小父さんがレシートを打ち出している。旧式のタイプ。小生のタクシーにも、つい一昨年まで使っていたような、青色インクで印字する奴だ。
 ダダダ、ダダ、ダダダダダ、ダダ……。

 打ち出されるのを待つ身には、ちょっと長い。
 が、打ち出している店側にとっても、実は長く感じられている。
 小生、つい懐かしさもあって見惚れていた。
 で、お釣りと一緒に、その買い物明細と料金などを印字されたレシートを貰った。
 その瞬間、小生、
 「忘れ物、ござ……」と言いかけてしまった。

 そう、仕事上での口癖である。
 お釣りとレシートを渡すと同時に、「釣銭を確認してください。お忘れ物のないように。」と、必ず声を掛ける。
(釣銭は、こちらが断らなくても)お客さんが必ず確認するだろうが、特に「お忘れ物のないように」という一言は、最低、二度は言う。
 その口癖が、買い物に行った店のレジで、つい、口を突いて出てきそうになったのだ!

 でも、安心召されい!
「忘れ物、ご……」くらいで、口篭ったから。

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2006/10/28

オシアンの夢…目を閉じてこころ澄ませて聴くケルト

 26日の営業中、ラジオからブラームスの曲が。夜の小憩タイムとなったので、裏通りに車を止め、仮眠を取る前に、ちょっとだけNHK-FMを選局。
 すると、聞こえてきたのは、フルートの曲。どうやら、ブラームス作曲の「ソナタ 第2番 変ホ長調 作品120 第2」らしい。小生は初耳だろうか。学生時代の初め頃、ブラームスばかり聴いていた頃があった(時期によって次々と変わったっけ)。
 そのイメージからすると、あの曲は(小生が勝手に作り上げていた)ブラームス像を覆すようなものだった。もう一度、聴いてみたい。
 曲調が小生には目新しかったこともあるが、大概は十分も聴けば仮眠モードに入るはずが、なかなか寝入ることができない。あるいは、曲に心が踊らされた?

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← 26日・夜。またまた東京タワー。もうすぐその座を墨田区・業平橋地区に建設予定の新東京タワーに譲る。新タワーは、地上610m! だとか。

 とうとう、次の曲も聴いてしまった。
 それは、フランク作曲(ゴールウェイ編曲)の「バイオリン・ソナタ イ長調(フルート版)」だった(はずだ)。
 この曲を最後まで聴いたところで、とうとう仮眠を就ることは諦めて、車を走らせた。
 走らせつつ、ライネッケ作曲の「フルート・ソナタ ホ短調 作品167“水の精”から 第2楽章」も聴いていたような。

 思えば、これが失敗の元で、夜半を回って、いよいよ夜の仕事が本格化するところで、折り悪く疲れと眠気が襲ってきて、二時間以上もまとめて車中で寝入る結果を招いてしまったのだった。
(以上、記した曲(名)などは、多分だが、「ドイツ・シュヴェチンゲン宮殿ロココ劇場で収録」の、「エマニュエル・パユ演奏会」からのものだったようだ。「(フルート)エマニュエル・パユ / (ピアノ)エリック・ル・サージュ」)
 曲を楽しんだのだから、ま、いっか。

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2006/10/27

ケルトとはウロボロスの輪の積み重ね?

 この頃、ようやく自転車通勤に慣れてきたような気がする(期待を篭めて!)。往路、会社に辿り着いたころには疲れきって、一休みする必要があったし、帰路も、家に辿り着くと、倒れるようにロッキングチェアーに体を沈めてしまう、なんてこともなくなった。
 自転車を駆っての町並みを眺める時間が楽しいし、心地いい。

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→ 「ダロウの書」。装飾頭文字(イニシャル)(:University of California, San Diegoが印象的)。
 
 さて、昨日も車中での待機中に鶴岡 真弓著『ケルト美術への招待』 (ちくま新書)を読んでいた…と書きたいところだが、決して忙しいわけではないが、かといって暇というほどでもなく、待機する空車の列に付くと、本の頁を開く間もなく、前車が少しずつ移動していく。
 夜は、日中の営業回数が多かったせいもあって(お蔭様でほとんどが短距離!)か、疲労が蓄積し丑三つ時を過ぎる頃、ちょっと休憩のつもりがグッスリ寝込んでしまって、なんと、二時間も車中で寝てしまった。
 目覚めた頃には、仕事のタイミングを逸してしまっていた!
 
 というわけで(なのかどうか)、昨日もほとんど本を読めなかった。十頁も読めていない。
 最近は、こんな日が増えている。景気が良くなっている徴候?
 でも、売り上げは低迷したままだ!

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2006/10/26

神無月…神々の集いし月や喧(かまびす)し

 今日は格調高く(?)テーマは「神無月」を選んでみた。
10月 - Wikipedia」を覗くまでもなく、「一般には、出雲の出雲大社に全国の神様が集まって一年の事を話し合うため、出雲以外には神様が居なくなる月の意味と言われており、出雲では神在月(かみありづき)と呼ばれる」ことは結構、広く常識(?)として知られているようだ。
 が、「ただしこれは中世以降、出雲大社の御師が全国に広めた説であり、「神無」の宛字から生まれた附会である」という。

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→ 街中で美少女発見!

 そう、「古くから我が国では10月を神無月(かんなづき)と言います。これは10月に日本中の神様が、出雲の国(現在の島根県)に集まり会議を開き、他の国には神様が居なくなってしまうことからそう呼ばれてきました。神様の集まる出雲の国では反対に10月は神在月(かみありづき)と呼ばれています」(「大阪仏壇仏具センター 越前屋・ミニ知識 神無月」より)というのは、後半の下りはともかく、前半に関しては疑問符が付くと思ったほうがいいようだ。

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2006/10/25

タクシー…雨の日と日曜日と

 日曜日そして火曜日と雨の中の営業だった。
 雨の日はタクシーは比較的忙しくなる。少なくともお客さんを乗せて稼動する回数は増える。

 火曜日は雨だったのに、さほど忙しくなかったが、22日の雨の日曜日は文字通り、息継ぐ暇もないという繁忙ぶりだった。

 小生は日中は都心を中心に営業している。
 一旦、何処かで誰かお客さんを乗せたら最後、行く先、着いた先でお客さんが待っている、、少なくともそんな気がするほどに日曜日は何故か街中に人影を見た。
 あっと、これは正確じゃないかもしれない。

 小生は営業は午前10時半過ぎに開始するのだが、営業所を出始め都心に向って車を走らせた時は、あ、これは方角の選択を間違っているかもしれないと思った。
 日曜日の、あと一時間余りで昼という時間帯らしく、人影が少ない。
 予報では雨のはずだったが、まだ降り出していない。というより晴れ、である。
 となると、人は観光地へ車や電車で繰り出してしまい、都心で人が多いというと、渋谷や六本木その他、普段は来れない都心以外の人たちが御上りする繁華街。
 それ以外の都心部は、道路沿いを見る限り、人影は少ない。

 こんな日は、何処か郊外の町で駅などに張り付いたりして営業したほうが効率がいい。
 ああ、車の向きを変えてローカルな町へ向うべきか。
 でも、惰性もあって、いつもどおり都心へ。
 ええい、こうなったら、何処か駅に車をつけて客待ちしつつ車中で読書だい!
 ちゃんと、鶴岡 真弓著『ケルト美術への招待』 (ちくま新書)はドアポケットに忍ばせてある。
 既に半分は読んだが、頁辺りの情報が多いし、掲載されている写真も興味深いから、残り百頁余りを読みきることはないだろう。たとえ、今日一日、暇な営業が続いたとしても。

 けれど、実情はまるで違った。

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2006/10/24

胡桃持つ手の温もりも痺れおり

 久しぶりに「季題【季語】紹介 【10月の季題(季語)一例】」を覗かせてもらう。
中身なくせめて題名凝ってみる」で一覧にしてみたように、表中から少なからずの季語を扱ってきている。
 秋10月ともなると、サンバ(の表)の季節が終わり、本来の季語随筆関連の記事を扱う気持ちが戻ってくるということなのか。

 今日は、表を眺めていて、ふと、胡桃(くるみ)に目が合った。
 どうしてなのだろう。
 我が心の表面の頑なさを痛感している?

季語集・秋」によると(「歳時記宝石箱」参照)、「姫胡桃 鬼胡桃 沢胡桃 新胡桃」などの類語があり、「外皮は堅くいが、渋皮に包まれた種子は美味で栄養価高し」と説明されている。

 まずは「山くるみ 完全無農薬、無肥料の殻付き天然胡桃を販売 山菜屋.com」にて「胡桃(くるみ)」の画像を。
 冒頭にリスの絵が。
 胡桃というと、リスが付き物? 何故?
 リスがくるみを食べる仕草が可愛いのは確かだけど(「こたままBlog くるみ」を覗いてみる?)。

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2006/10/23

週末ジタバタアタフタ日記…スタジオ篇

 以下は、20日(金)の朝、21日(土)の夜、某サイトで書いた日記。メモ風の日記をそのまま転記:

やば!(20日)
 21日を日曜日と勘違いして用事を作ってしまった。
 21日って、土曜日じゃん。
 仕方ないので、土曜日は用事のため使うことにして、土曜日の仕事は日曜日に変更!
 ああ、でも、気付いて良かった。
 気付くのが遅いけど。

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→ 10月22日の宵闇時。そぼ降る雨の東京タワー。タワー観望スポットの一つ。

今日はサンバ漬けだ! (21日)
 所用があって、サンバチーム・リベルダージ(G.R.E.S.LIBERDADE)の練習場へ。
 せっかくなので、受付のお手伝いがてら、練習風景を。 サンバのバテリア(打楽器陣)の音が一杯。 音の洗礼を受けていたら、そのうちダンサー陣も。

 小生、今朝は4時過ぎまで起きていて、それから寝入り、目覚ましで起きたのが、8時半。
 小生には睡眠不足。食事を済ませ、途中、所要を済ませて(会報誌原稿の入手)練習スタジオへ。

 実は、原稿を届けたら、一旦、スタジオを出て、何処かで仮眠し、午後3時からの総会に臨席するつもりでいたのだ。
 総会のテーマ(の一つ)は、来年の浅草サンバカーニヴァルに関係するものだったので、どういう話し合いが行なわれるのか、この耳で確かめておきたかったのだ。

 ところが、打楽器の音の洪水、そしてダンサー陣の踊りとの協奏(バツカーダ)に圧倒されて、とうとう最後まで練習を見物。午前の11時半前から3時まで、受付席近辺でかぶりつき状態だった。
 肝心の総会が始まる頃には、午前中、歩き回ったツケもあって、眠気に襲われる始末。
 なんとか、起きて聞いていたけど、総会が終わった頃には、眠気と疲れで体がフラフラに。
 総会が終わると、会場の後始末(掃除)の手伝いもしないで、帰途に。
 電車は土曜日なのに、混雑はしていないものの、座れなくて、持参した本も、頁を開いたものの、眠気で頭に入らない。

 帰宅したのは5時半前だったろうか。 それから二時間弱、ロッキングチェアーでグッスリ。
 やっと、ついさっき、目覚めたところなのである。
 とにかく、請け負った用事を無事、果たせて、安堵!
 これから、シャワー、そして食事だ。
                           (転記終わり)

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2006/10/22

宮沢賢治…若き日も春と修羅との旅にあり

宮沢賢治の童話と詩 森羅情報サービス」の中の、「Kenji Review 400 「秋田街道」「ポラーノの広場のうた」」を読んでいた(以前も書いたが、「まぐまぐ」から配信しているメールマガジン「宮沢賢治 Kenji Review」に登録し購読している)。
 その中で、「秋田街道」や「美しいこころの人たち-河本緑石と宮沢賢治」などの小文が紹介されていた。
 普段なら、読むだけに留め、賢治の世界の一端に触れてお終いのはずだった。
 ただ、たまたまネットサーフィンしていたら、某ブログで、鉱物(石英、水晶)のことが話題になっている。
 小生、つい、コメントを寄せたりして。そう、その直前に読んだ賢治と鉱石のことなど思い浮かべながら。

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→ オリヴァー・サックス著『タングステンおじさん―化学と過ごした私の少年時代』(斉藤 隆央訳、早川書房刊)

 同時に、小生、ふと、そういえば、小生の好きな書き手に(神経科の石…じゃない、医師なのだが)オリヴァー・サックスがいて、彼には彼が子供の頃、金属や化学好きだったことなどを書いた『タングステンおじさん―化学と過ごした私の少年時代』(斉藤 隆央訳、早川書房刊)なる本のあることを思い出したのだった。

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2006/10/21

川瀬巴水…回顧的その心性の謎床し

 相変わらず、毎夜、『こころにしみるなつかしい日本の風景―近代の浮世絵師・高橋松亭の世界』(清水 久男:編集、国書刊行会)を寝入る前に眺め、溜め息を付く日が続いている。
 本書を知り、高橋松亭の世界に魅入られるに至った経緯については、ブログ「高橋松亭…見逃せし美女の背中の愛おしき」にメモしておいた。

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→ 『こころにしみるなつかしい日本の風景―近代の浮世絵師・高橋松亭の世界』(清水 久男:編集、国書刊行会)

 今回は、上記のメモではザットしか触れることの出来なかった川瀬巴水のことを自分に銘記する意味もあって若干のことを書いておく。
 川瀬巴水については、彼の作品も含め、ネットでも豊富な情報を得ることができる。
 ここでは、まず、小生の好きなテレビ番組である『EPSON~美の巨人たち~』を手掛かりに、川瀬巴水の世界へ分け入ってみたい(ああ、我が部屋のテレビが画像をちゃんと映してくれたらと、つくづく思う。美術番組が辛い!)。

EPSON~美の巨人たち~ 川瀬巴水 新版画」なる頁を覗く。
高橋松亭…見逃せし美女の背中の愛おしき」でも紹介したが、「日本の江戸文化の華・浮世絵は、明治期になると、西洋の新しい絵画技術や印刷技術の流入によって、一気に衰退の一途を辿りました」といった時代背景がある。
 そこに、「明治に生まれ、大正、昭和を生きた版画家・川瀬巴水は、我が国伝統の文化復興を目指し、江戸浮世絵でも日本画でも油絵でもない、新しい浮世絵版画「新版画」を生み出した人物」として登場するわけである。

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2006/10/20

金子みすゞ…野暮天も不思議愛しむ心あり

 忙しいような暇なような摑みどころのない昨夜の仕事だった。

 景気が回復基調にあるという。かの日銀の福井総裁(今も総裁!)が一昨日だったか、景気の回復傾向に自信を持っているとの談話を発したとテレビのニュースで伝えていたような。
 まあ、彼の周辺や彼の仲間内は磐石の経済基盤の上にあることは間違いない。その意味で彼のコメントもあながち間違いとは言えないだろう。

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→ 19日の夜、芝公園で撮った東京タワー。過日より、「東京オリンピック招致サポート企画  大展望台・フットタウンビル文字ライティング実施! 」とのことで、「大展望台4面のうち都庁側(西面)に「2016」、海側(東面)に「TOKYO」の文字を配置し、各文字はオリンピックカラーで着色」だとか。
 小生は東京にオリンピックを招致する意義がまるで感じられない。それより暮らしやすい東京にしてほしいのだが。

 けれど、経済の回復を実感している人は、今の日本の中でどの程度、居るのだろうか。テレビで元気な顔を見せているような一部の政治家や優良企業の関係者やコメンテーター、財テクに成功した人……。
 勝ち組の数が限られているのは否定できないだろう。ただ、彼らはマスコミに発言権を持っている(そういった類いの経済評論家と仲がいい)。政治(家)への影響力を持っている。

 ニュースやワイドショー、経営の雑誌などで語られるのはそういった一部の成功者の息のかかった評論家の勇ましい、ご都合主義の弁に限られる。

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2006/10/19

スウィフトや遠路はるばる風刺かね

 昨日18日、フレッツ光が開通!
 システムを変更するのは、パソコンに疎いものには気鬱の種になる。大抵、切り替えた直後は何かのトラブルがあるものだし。
 今回は、最小限のトラブルとも言えない不都合があっただけに終わり、ホッとしている。
 まるで、このときの悪夢のような……。

10月19日 今日は何の日~毎日が記念日~」を漫然と覗いていたら、今日19日は「晩翆忌」だという。「詩人・英文学者の土井晩翆の1952(昭和27)年の忌日」なのだそうだ。
 土井晩翆(どいばんすい)というと、小生にはちょっと悩ましい人物。
 小生の郷里である富山と小生が学生時代を過ごした杜の都・仙台との両方に関係ある人物なのである。

 以下の記事は、「富山で感性を育んだ滝廉太郎」を参照させてもらう(あるいは、拙稿「富山と滝廉太郎、その周辺」参照)。

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← 14日、龍子記念館に行って来たときの画像。その時のブログ記事に載せるのを忘れていた。

 作曲家・滝廉太郎の傑作「荒城の月」は、作曲に際し、何処の古城をイメージして作ったのか、必ずしも確然とはしていない(晩翆が訪れたことのある会津若松の鶴ヶ城だとか、あるいは、富山の城だという説があるし…)。
 それはともかく、東京音楽学校が教科書としてこれまでにないすぐれた唱歌集を目指して「中学唱歌」を作った。その際、「編纂にあたって作歌と作曲を文学者・教育者・音楽家などの専門家に広く求め」、「当時の文士に作詩を求めましたが、その中の一人に土井晩翆がい」たのだった。

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2006/10/18

ケルト…エッシャー…少年マガジン

 ブログ「無精庵徒然草」は、一部、メンテナンス中ですが、すでにコメントなどが行なえるようになっています。

 本日、「フレッツ光」が正式に開通しました。
 月曜日は小生が手作業でやったため、ちょっと負荷と無駄の多い接続だったようです。
 今日は、業者の方に来てもらい、修正してもらいました。
 というわけで、本日が「フレッツ光」の正式開通日となります。
 ワーイ! パチパチパチ……。
 ……シーン。

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← 「ヤン・ファン・エイク TOPページ」より「ヴァン・デル・パーレの聖母子」。敷物に注目。

 昨日、仕事のほうは比較的忙しかったのだが、そんな中、車中での待機中などに鶴岡 真弓著『ケルト美術への招待』 (ちくま新書)を読み始めた。
 まだほんの読み止しなのだが、、「アルノルフィーニ夫妻の肖像」などで有名なヤン・ファン・エイクの「ファン・デル・パーレの聖母」や作者不詳の「聖ジルのミサ」という絵が紹介されていた。

 それらの絵を見てちょっと驚いた。

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2006/10/17

高橋松亭…見逃せし美女の背中の愛おしき

 浮世絵というと江戸時代のものというイメージが強い。実際、写楽・歌麿・北斎・広重といった名前が並ぶと壮観で、江戸時代が浮世絵の絶頂期だったことは間違いない。
 というより、江戸時代、彼らの版画絵によって浮世絵が始まったのだから、浮世絵というと江戸時代と思うのはむしろ当然なのだろう。
 もっとも、江戸時代の人が浮世絵を高く評価していたかどうかは別問題である。

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→ お馴染み紫苑さんに戴いた桔梗と薄(すすき)の画像です。仲秋の名月を見逃されたのだとか。詳しい事情は、画像掲示板でどうぞ。

 幕末から明治にかけて、日本に来た外国人が浮世絵に(も)着目し、海外に流出し(持ち出し)、マネ、モネ、ゴッホなど印象派を中心に影響を与えていった。そして逆輸入的に日本においても浮世絵の評価が高まったのだった。
 そうした次々と日本の文化の結実がドンドン海外に流出する現実、明治維新以後の混乱もあって、版画家も刷り師ら職人の生活も危うくなって、浮世絵や版画の文化が崩壊してしまうのではという危機意識も一方では明治には関係者の間にあったようだ。

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← 新井宿(あらいじゅく)。「Shôtei.com   Shôtei Gallery 」より。

 いずれにしても、幕末から明治にかけての浮世絵とは言い難いかもしれないが、その伝統を背負っての版画家に小林清親(こばやしきよちか)、川瀬巴水(かわせはすい)ら、錚々たる面々がいることも知られている。
 他にも新版画運動を起こした伊東深水などのような有名な版画家がいるじゃないか?
 ここでは、文明開化時代の東京や明治の日本の風景を描いた画家に焦点を合わせている。その理由は、ブログ記事「週末ジタバタ日記(フレッツ光へ!)」の末尾などを参照してもらいたい。

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2006/10/16

週末ジタバタ日記(フレッツ光へ!)

 以下は、昨日の日記から(の抜粋)。舌足らずな記述(表現)なのは、メモ書きだからということもある:

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← 龍子記念館に行って来たとき、去り際に撮ったもの。

 今日、日曜日は自転車で散歩。ついでに足を伸ばして龍子記念館へ行ってきた。

 いつだったか散歩の途次、建物の外観は見たし、写真にも収めたことがある。
 その日は、休館日だったので、入館しなかった。来た時間も遅かったし。

 入館し、受付を覗くと誰もいない……。声を掛けると女性の姿が。
 その受付の女性が美人だった。

 最初、展示室内に入ったとき、入場者は小生の他に一人しかおらず、閑散。
 のんびりできていいなと思っていたら、十分もしないうちに数組の方が次々と入館。
 それでも、ゆっくり見て回れた。
 大きな建物ではないので、展示物は一通り見て回っても、すぐに最後になってしまう。
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 小生が驚いたのは、本格的な作品より他のこと。
 まず、絵画の色素材の多さ。青や緑)系統に限っても、緑青から群青、藍色など何十種類も。
 それと、彼が十二歳から十四歳の頃に学校で描いた作品の見事さ。
 その旨が断ってなかったら大人になってからの作品と言われても、疑わなかったに違いない。筆の冴えは幼少のころからだったのだ。
 細い線も見事なら暈しの表現も見事。
 今の小生が十年訓練しても、川端龍子の少年時代の域にだって到底、達しない!
 (転記終わり)

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2006/10/15

中身なくせめて題名凝ってみる

 自転車通勤に少しは慣れてきた…ような気がする。

 でも、気温が下がってきて、会社にあるいは自宅に辿り着いても汗ビッショリにならないという事情も負担感の少ない理由なのかもしれず、まだまだ体力が向上したというには早計のようだ。
 油断禁物である。
 実際、仕事を終え、自転車で帰宅した当日は、終日、ベッドでロッキングチェアーで寝たきりとなっている。自転車通勤以前のように、ウイークデーの夕方に散歩がてらに図書館へ、なんて気力はまるで湧かないのが、まだ地力が付いたとは言えないことの何よりの証左なのかもしれない。
 ただ、自転車を駆るのは実に楽しい。

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→ 我が愛車公開。自転車を撮っても手振れこれ如何?

 さて、昨日から今朝にかけて、ロッキングチェアーで寝て過ごしたこともあってか、少しは(期待を篭めて)疲れが抜けたような気がする。
 せっかくなので、久しぶりに季語随筆絡みの小文を綴っておきたい。

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2006/10/14

いじめ事件…虐めるか見て見ぬふりが良識か

 いじめによる(と思われる)児童生徒の自殺がこのところマスコミを賑わす。
 いじめ…なんだかガキの頃のことが思い出されて、身につまされる。
 小生自身のことは、いずれ書く機会があるかもしれない。
 隠遁の術(?)でサバイバルを図ったっけ…。
 今は辛い当人たちも、とにかく生き延びて欲しいと思う。
 日本の社会は狭くとも世界は広いのだ。
 風に吹かれて流されるのではなく、ふところに風を入れてみて欲しい。

 そうはいっても、大人になってもいじめからは自由になれないのが悲しい。

 以下、採り上げる事件は、必ずしも直近のニュースではないが(この自殺報道が連日伝えられるという事実がまた悲しいが)、北朝鮮の核問題報道と前後するようにして伝えられワイドショーでも話題の俎上に上っていたものである:

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2006/10/13

アンゲルス・シレジウス…寄る人を刺すこともなき薔薇ありや

ウィトゲンシュタイン哲学宗教日記―1930‐1932/1936‐1937』(イルゼ・ゾマヴィラ編、鬼界 彰夫訳、講談社)をバッハのヴァイオリン協奏曲やエンヤのCDなど聴きながら読んでいたら、シレジウスという名の詩人に言及されていた。
 シレジウス……。聴いたことは、早々と堕ち零れたとはいえ、曲がりなりにも哲学徒だった小生、名前くらいは聞いたことがあるが、どんな人と聞かれても、答えに窮する(ほんの一瞬、学生時代の一時期聞き浸ったシベリウスと混同しかけた)。
 誰にも訊かれないうちに、彼に付いてネットで拾い集められる情報をメモしておきたい。
 アンゲルス・シレジウス(Angelus Silegius、1624-77)は、一般的には、ドイツ・バロック期の神秘主義的宗教詩人と冠せられる。

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← 或る日、山間(やまあい)の道にて。

 本書『ウィトゲンシュタイン哲学宗教日記』に拠ると、「シレジウスは神秘思想を摂取し、それは彼において汎神論的な色彩を帯びていた。彼は一貫した哲学体系を展開するのではなく、神と永遠に対する人の関係についての彼の思想を「知の断片」(W.フレミング)として表現した」という。
 また、同書に拠ると「ダニエル・チェプコの『箴言集』にならって大体は二行詩の形で書かれているが四行で対立的に構成されたアレキサンダー詩句の形で書かれているものもある」とか。

 ネットでは(小生が探した範囲内では)彼に付いてのまとまった記述は見出せなかった。
 残念ながら、以下に示すような名言の類いが(多くは、『シレジウス瞑想詩集』よりの)引用の形で掲げられているだけである。
 小生は、アフォリズムは嫌いではないが、名言・格言(集)の類いは好きではない。簡潔な表現の中に的確な指針や深い知恵が示されているとは思うのだが、読んでみても、だから何。それがどうしたの。現実は言葉とは違うでしょ、などと反発してしまう。小生は、そんなひねくれた根性の持ち主なのである。

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2006/10/12

太陽光発電…広まれば日向ぼっこも夢の夢?

 車中でラジオに聞き入っていたら(運転中に自然と耳に聴こえて来たのです)、短い期間の間に何故か太陽光発電の話題に複数回、遭遇した。
 無論、こんな話題が特集されるのはNHKラジオである(民放のラジオも聴いているのだが)。
 どういう事情があって、太陽光発電の話題が採り上げられる機会が増えているのか分からない。
 ただ、「我国の住宅用太陽光発電システムは、これまでに延べ約30万件が設置され、ようやく全世帯数の1%近くまで普及」という事情が背景にあるとは思える。

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→ 10月12日の早暁。久しぶりの朝焼けなので、思わず車を路肩に止めて、パチリ! 陽光という恵み。

 この、「全世帯数の1%近くまで普及」という「1%」という数字は、関係者によると非常に大きな意味を持つそうで、一旦、この数字に到達すると(逆に言うと、この数字に至るまでの準備期間、助走期間が大変で政府など公的機関の後押しが重要だということ、場合によっては研究開発と期待倒れに終わる可能性もあったということだ)、あとは爆発的に普及する可能性を孕む、そんな数字なのだという。
 NHKラジオでの特集でも、この数字の持つ意義が強調されていた。

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お知らせ2件

●1.弥一(やいっち)からのお知らせ
 我がホームページ「kunimi Yaichi's ROOM 国見弥一の部屋へようこそ」は、01年2月5日に開設し、地味ながら今日まで細々と生きながらえております。
 日頃、可愛がっていただき、ありがとうございます。
 このたび、ホームページ中の掲示板「ようこそ国見弥一の部屋の踊り場へ」について、あまりにスパム的書き込みが多いため、コメント投稿設定を変更しました。
 書き込みしていただいても、投稿された記事(コメント、メッセージ)は直ちには公開されません。
 内容を確認の上、管理者によって正式公開されます。公開まで、しばらく時間をいただきます。
 場合によっては、公開までまる一日を要することもあります。
 また、内容によっては掲示しないことがあります。
 公開するかしないかについて、小生自身が判断します。
 公開しない理由について、一切、説明するつもりはありません。
 不本意ながら、本日、午後より、このように設定変更させていただきます。
 

●2.ココログからのお知らせ

ココログフリーメンテナンス実施のお知らせ
 2006年10月17日(火)16:00 から 2006年10月19日(木)16:00

 この間(まる二日!)、無精庵徒然草(方丈記、万葉記)については、コメントもトラックバックもできなくなります!
 悲しくも、更新もできません!
 でも、ブログを覗くことはできるので、来てね。
 なお、更新については、ミラーサイトなどでやる所存でおります。
 メンテナンス期間中、何かあれば、ホームページの掲示板などでも情報を提供するつもりです。

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2006/10/11

ひたぶるに生きる百舌鳥ただ焦がれ見し

 今日は何の日というサイトを覗いていたら、今日11日は、「「リンゴの唄」の日」だという。
1945(昭和20)年、戦後初めて制作・公開された映画『そよかぜ』が封切られた。並木路子が歌う挿入歌「リンゴの唄」は戦後を象徴する大ヒットとなった」とのこと。
 小生もこの歌は好きである。決して同時代に生きたわけではなく、小生が物心付き、テレビにかじりつくようになった頃にはこの歌は既に懐メロ的に折々歌われていた。
 ネット検索してみると、「永遠に歌い続けられる  「リンゴの唄」の並木路子」という頁を発見(どうやら、ホームページは、「石のコロンブス」のようである)。
 一読して、もう、この頁を発見しただけで、本日のブログは書き始めた甲斐があったと思った。
 是非、リンク先に飛んで、一読願いたい。

 何故だろう、ふと、百舌鳥(もず)という鳥のことが思い浮かんだ。別に最近、その姿を見かけたわけでも、その声が耳を叩いたというわけでもない。
 まさか、小生の食卓には必ずといっていいほど、モズクが添えられているから? 帰省して食事の用意や買い物にも小生が行くのだが、あれこれ買う中の一品はモズクなのである…。
 ま、これは冗談として……。

 気になるので、季語随筆のブログでもあるし、鵙(=もず。ほかに、「百舌 鴃 伯労鳥」などとも表記するようだ)のことを調べてみたくなった。
 手元の『連句・俳句季語辞典 十七季』(東 明雅/丹下博之/佛渕健悟 編著、三省堂)を開いて、「鵙(もず)」の項を覗いてみると、以下のようである:
[三秋・動物]モズ科の鳥の総称。同類=百舌鳥、鵙の高音、鵙日和、鵙の晴。関連=春の鵙[三春]、冬の鵙[三冬]。

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2006/10/10

週末ジタバタ日記(後篇…所沢パレードへ)

 我がサンバコスコーラ(チームあるいはクラブ)・リベルダージ(G.R.E.S.LIBERDADE)の「ところざわまつり」でのパレードは商店街でのパレードとしては年内最後とあっては見逃すわけはいかない。
 例によってデジカメと文庫本を一冊抱え、いざ所沢へ。
 所沢というのは、小生が仙台から上京した際、事情があって引越しの荷物を某所に仮置きさせてもらったこともあって、ちょっと懐かしい。50ccのバイクを駆って日中、車の激しく往来する所沢街道を(気分の上では)どこまでも走って、延々、二時間も走った頃、ようやく荷物のある場所へ。
 今では、所沢が遠かったという記憶しかない。

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→ パレードの先頭車両。パレードが来るよ!(今回は、画像はクリックしても、あまり大きくはなりません。あしからず! その代わり、32枚、載せます。画像は時系列のままです。)

 その所沢でのパレードは、今年で何度目になるだろう。
 リベルダージファンになり、またメンバーになって四年目の小生だが、一度、所沢へは行かなかったことがある。やはり、三度目か。
 所沢は、祭りの会場としては道路も広く、またサンバパレードについても何年も経験があるので、沿道に集う観客からの声援も他より多いという印象がある。
 やはり、観客の反応がいいと、メンバーにしても張り合いがあるのではないだろうか。

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← ここでも会えたね! 今夜は満月だよ。

 さて、持参した文庫本は、加賀乙彦著の『頭医者留学記』(講談社)である。
(小生が手にしていたのは、講談社文庫なのだが、今は、中公文庫に『頭医者事始』『頭医者青春記』『頭医者留学記』の合本の形で所収。)

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→ 懸命に撮ったけど、これがせいぜい。小生は、ぜいぜい。

 パレードへはここのところ、電車・バスを利用している。今はバイクを手放してしまったから当然だが、手放す前から公共機関を利用するようになっている。要は、時間がなくて、読書する暇がないので、移動する合間に少しでも読もうというわけである。

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2006/10/09

週末ジタバタ日記(前篇…パレード前日)

 この土日月は多くの人にとっては三連休らしいが、小生のような稼業の者には、曜日など関係がなく、決まった日に仕事、決まった日に休日で、この週末は土日が休みで月曜日の振り替え休日は仕事である。
 土日が連休じゃないか、となるが、金曜日が営業日でその日の午前から仕事が始まって、終わるのは土曜日の朝。帰宅したら七時前後となる。以下、クダクダと書くが、土曜日は疲労困憊で終日、寝たきり状態となってしまうのである。
 特に金曜日が忙しいと、その傾向は強まる。
 さすがに三連休の前という事情もあってか、それとも秋の嵐のような風雨のためなのか、今年一番の忙しさだった。息継ぐ間もなく、次から次へとお客さんが乗ってくる。

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→ マリンバ-ヴィブラフォン奏者の三村奈々恵さんのCD『プラーナ』(鷲見音右衛門文広/神坂享輔 :Adapter、ソニーミュージックエンタテインメント)

 嬉しい悲鳴である。小生が今の仕事に携わった95年末から橋本(龍太郎)不況に突入した97年8月以前の時期を思わせる繁忙ぶりだった。
 尿意を催しても我慢、お腹が空いても我慢、まして休みたくても今日ばかりは我慢で、何処かの裏通りの人影のないところを走る機会に、人目のないのを確認して空車の表示を回送に変える。表通りや人の目のあるところで下手に変えると、見ようによっては乗車拒否とも受けとめられかねない。
 空車の車を何処から見ているか知れたものではなく、何処かの柱の陰で風雨を避けながらも、空車の来るのを待っているやもしれないわけである。回送に変更するにも戦々恐々というわけである。
 それでも、体力の無い小生、昼の最中に、夜の八時頃に、そして、さすがに人影の疎らになった丑三つ時の3回、休憩・仮眠を取った。但し、最初の2回はいつもより短め。
 休まないで仕事をすると、風雨の中の営業であるし、注意力が散漫にならないとも限らない。安全と無事が何より優先する。

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2006/10/08

ウロボロス…土喰らうその土さえも命なる

座乱読後乱駄夢人名事典・歴史上のお友達?」を覗いていたら、どの記事もその画像などが楽しくて、つい前の記事まで遡ってみてしまった。
 すると、「ウロボロス」という項に目が留まった。
 古来より各地でいろんな意味合いを篭められつつ継承されてきた、興味深い(ある種の)シンボルなので、小生も以前、何かの短編の中で使ってみたことがある。
 上掲の頁にも、「自分の尾を自分で食う蛇・・というのがウロボロスの概念で、中世では死と再生を繰り返す円環として、死して復活するキリストにたとえられたり、あるいは錬金術などでは、完全・世界を現すとされたりしました」など、以下、ウロボロスについて簡潔に纏められている。

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→ 「ウロボロス - Wikipedia」より

 小生としては、もう少しウロボロスの周辺を巡ってみたい。
 例によって、ネット逍遥の手引き乃至は手掛かりにしようと、「ウロボロス - Wikipedia」を覗いてみるが、「ウロボロス (Ouroboros) は、古代の象徴の一つで、己の尾を噛んで環となった蛇もしくは竜を図案化したもの」とか、「世界創造が全であり一であるといった思想を表し、グノーシス派などが用いた。他にも終わりが始まりになる円運動、永劫回帰や陰陽など反対物の一致など、意味するものは広い」とあるが、珍しく情報が少ない。

 それでも、末尾に「今日の無限大の記号(∞)のモデルとなった」とあったのが興味深い。
 ただ、掲げられているウロボロスの像からどうやって今日の無限大の記号(∞)に成り代わるのか、分かるようで分からない。

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2006/10/07

佐伯祐三…ユトリロのパリを愛してパリに果つ

 サイト巡りをしていたら、何処かのサイトで佐伯祐三(1898年4月28日 - 1928年8月16日)の話題が出ていた。小生の好きな画家の一人。
 でも、小生如きに新たに語るべき材料もあるはずもない。
 が、佐伯祐三が渡仏する前のことだが、アトリエを中落合に設けたことを知って、ちょっとだけメモしておきたいと思ったのである。
 小生、上京した当初の三年は西落合近辺のアパート暮らしだったので、落合という名前を聞くと、それが野球の落合博満氏であっても、落合恵子さんであっても、耳がダンボになるのである。
ヴォルス…彷徨う線刻の美」参照。

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→ 相変わらず行動的な紫苑さんに戴いた曼珠沙華の画像です。「プランターに植えていたものが咲いていた」のだとか。曼珠沙華の花言葉 「想うは、あなたひとり」だって!

佐伯は画家としての短い活動期間の大部分をパリで過ごし、フランスで客死した。作品はパリの街角、店先などを独特の荒々しいタッチで描いたものが多い」、そう、小生も思い込んでいただけに、中落合と関係すると聞いては、素通りはできない。
 佐伯祐三の作品は、小生のような絵にも疎い人間が見ても個性的あり、叙情性と独特の孤独感が漂っているのを感じる。

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2006/10/06

飛越地震…「地震」は遭っても「なゐ」とはこれ如何

 小冊子「富山県人」が過日、届いた。
 富山関係の情報がいろいろ載っていて、懐かしかったり、こんなこともあったのか、この人が富山に関係する人だったのか、など、毎月、読むのが楽しみである。
 せっかくなので、久しぶりに富山関連情報を。でも、別頁の地震情報は広く一般にも関心を持たれていい情報をも提供できていると思う。

2005年05月の索引…富山情報…浅野総一郎」の中で、「浅野総一郎の青春を描く映画の撮影が始まった」と伝えていたが、その映画の上映が「ラゾーナ川崎プラザ」にて始まっている。「延長も決まった」という情報を出演している歌手の仲代奈緒さんのブログ「仲代奈緒 オフィシャル・ブログ」で得た(仲代奈緒さんのオフィシャルサイトは「Nao Nakadai Official web site n++」):
九転十起の男 -浅野総一郎の青春- - シネマトゥデイ
 なお、この映画が上映されているのは「ラゾーナ川崎プラザ」内にあるシネコン「109シネマズ川崎」で、そのこけら落としとして上映されているものだとか(「映画:浅野総一郎描いた「九転十起の男」、26日に川崎のシネコンで上映 /神奈川:MSN毎日インタラクティブ」参照)。

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← 「九転十起の男 -浅野総一郎の青春- - シネマトゥデイ」(監督:市川徹  原作:新田純子) 浅野総一郎役の網本圭吾さん。他に、寺田農、仲代奈緒、武蔵拳、六平直政、高瀬秀司、堀田眞三、伊藤裕子らが出演

 その他、「世界3大バイオリン一同に こしのくに音楽祭(立山町・富山市)」など、メモしておきたいことがいろいろあるが、今日は、「特集 市民も進める黒部市のまちづくり  富山平野守る大事業 常願寺川砂防100周年」に焦点を合わせてみる。
(ちなみに、世界3大バイオリンとは、「バロン・ヴィッタ」「ストラディヴァリ」そして「ニコロ・アマティ」のこと。この音楽祭が富山は立山で開催されるのは、ヴァイオリニストの故シモン・ゴールドベルク氏が「1993年7月19日立山山麓で84年の生涯を閉じ」たことに機縁しているようだ。)

 常願寺川砂防事業というのは、1858年の「「安政の大地震」で、源流にたまった土砂が土石流となって下流に流れ、降雨のたびに富山平野に大災害を起こしたのが発端」という。

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2006/10/05

作曲家・市川昭介氏 死去…演歌とは顔で笑って茨道

 訃報を初めて聞いたのは車中だったろうか。
 作曲家の市川昭介氏が亡くなられたという。知ったのは9月27日のことで、「9月26日午前5時、肝不全のため都内病院にて死去した。73歳だった」という(「作曲家・市川昭介氏 死去 CONFIDENCE ランキング&ニュース -ORICON STYLE-」。あるいは、「メディア・【夕刊JanJan】さよなら市川昭介さん~名曲をありがとう」など参照)。
 今時の若い人は市川昭介氏といってもピンと来ないかもしれない。演歌や歌謡曲の時代ではなくなったようだし。

 ただ、影の薄くなったような演歌だが、今もドンドン、素晴らしい新人歌手が生まれていることは断固、明記しておきたい! 時流とは、直接重ならなくなったというだけのことであって、演歌というのは明治以来の歴史があり、これからも歌い継がれていくに違いない。
 そうはいっても、波止場、北(何故か北へ流れる)、霧、海峡、カモメ、涙、酒、酒場、女(あるいは男)、煙草、捨てる(捨てられる)といった紋切り型の歌詞(言葉)は、ますます使いづらい、時代とは齟齬する傾向を強めていくのだろう。

 市川昭介氏が亡くなられて既に十日となるが、演歌大好きで演歌・歌謡曲にドップリ浸ってきた小生としては、同氏とは直接の関わりは何もないのだけれど、簡単にでも触れておきたい。

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2006/10/04

ビュッフェ…剥き出しの心が見るは心なり

 この記事は、「山川登美子…紅き花胸を焦がして命果つ」同様、既に廃盤となっているらしい、ヴィヴァルディ 『四季』(イ・ムジチ合奏団 バイオリン:カルミレッリ(ピーナ)  PHCP-9001 1993年5月26日発売 マーキュリー・ミュージックエンタテインメント)を聴きながら書いている。
 実際に買ったのは95年末か96年頃だったように思う。
 部屋の整理をしていて発見。他にも数枚、懐かしいCDたちと再会!
 たまには、部屋の掃除や片付けなどもするものだ。
 近く、今のADSLを「光」に変更する。ああ、また、部屋の大整理という大仕事が待っている!

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→ セリーヌ 著『夜の果てへの旅』(生田 耕作訳、中央公論新社)

今日は何の日~毎日が記念日~」を覗くのがこのところの習いみたいになっている。
 早速、「10月4日 今日は何の日~毎日が記念日~」を開いてみると、「古書の日」、「天使の日」、「いわしの日」、「陶器の日」などなど、いろいろある。
「天使の日」は、「婦人下着メーカーのトリンプインターナショナルジャパンが2000(平成12)年に、同社の製品「天使のブラ」の1000万枚販売達成を記念して制定」というが、小生は「「てん(10)し(4)」の語呂合せ」に絶句。負けた。小生にはちょっと思い浮かばない語呂合わせだ。

 こういう語呂合わせが許されるなら、たとえば、「10月4日」を「とうし」と読み、「とうし → とうひ」と転訛させて、「頭皮の日」としたらどうかと思ったりもする。
 尤も、「頭皮の日」で何を記念するのかは、自分でも分からない。あるいはウイッグ(カツラ)の日とするとか。

「いわしの日」も、「「い(1)わ(0)し(4)」の語呂合せ」というが、やや苦しくはないか。
「陶器の日」は、「古代日本で、陶器を「陶瓷」と言っていたことから、「とう(10)し(4)」の語呂合せ」というが、これは、素養がない限り、絶対に為しえない語呂合わせだろう。

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2006/10/03

山川登美子…紅き花胸を焦がして命果つ

「2006年10月3日(火)01:00~15:00の約14時間」の予定だったココログのメンテナンスもようやく終わったようだ。
 早速、記事をアップ!

 先週来、久世光彦著の『夢あたたかき 向田邦子との二十年』(講談社文庫)を車中で読んでいた。
「向田邦子の中には二人の才女がいた。情熱的な与謝野晶子と、引っ込み思案な山川登美子。そんな二人をこっそり胸の中に抱えていたから、みんなに好かれ、頼りにされていたのだろう。久世光彦が語る向田邦子の想い出」といった本だが、ここにあるように山川登美子という人(の歌)が紹介されていた。
(「向田邦子資料展パンフレット」というサイトを今日、発見。なかなか! 掲げた画像もこの頁から。ホームページは、「実践女子大学図書館
 この文庫本の表紙画像(カバー装画)は、川村みづえ氏の手になる。「Tokyo Illustrators Society」の中に同氏の名が見える。)

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山川登美子 – Wikipedia」を覗いてみても、情報が豊かとは言えない。彼女の人気を反映している?

 ここからは生没年を参照するだけに留める:
 1879年(明治12年)7月19日 - 1909年(明治42年)4月15日)

 忙しいのか暇なのか分からない昨日から今朝にかけての営業中、山川登美子という美貌で秀才の女性の非業の生涯を想っていた。
 今の世にもいるんだろうな、こんな人が。
[以下、この記事は、既に廃盤となっているらしい、ヴィヴァルディ 『四季』(イ・ムジチ合奏団 バイオリン:カルミレッリ(ピーナ)  PHCP-9001 1993年5月26日発売 マーキュリー・ミュージックエンタテインメント)を聴きながら書いている。実際に買ったのは95年末か96年頃に買ったように思う。部屋の整理をしていて発見。他にも数枚、懐かしいCDたちと再会!]

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2006/10/02

宗鑑忌我が句の先も杳(よう)として

10月2日 今日は何の日~毎日が記念日~」によると、今日10月2日は「豆腐の日」だとか。
 嫌いじゃないが(卵豆腐のほうが好き!)、駄洒落としては分かりやす過ぎて、パスする。
関越自動車道全通記念日」だとも。
 関越道については、小生には思い出話がいろいろあり過ぎて、これまたパスする。
 エピソードの一つだけでも、ブログをまるまる一週間、費やさないと書けないし。いつか、まとまった時間が取れたら、傾注して書ききってみたいと切に願っている(願い始めて十年以上が経ってしまった…)。

望遠鏡の日」だともある。望遠鏡については、「カーニヴァルテーマ「太陽」(3)」にて若干だが触れたばかりなので、これもパス。尤も、今、世界の名著シリーズのうちの一冊『ガリレオ』(中央公論社)を読んでいて、今はガリレオについての伝記の部分を読んでいるのだが、今日がまさに彼が望遠鏡(筒眼鏡とイタリアでは呼称されていたとか)の噂を聞きつけ、原理を理解し、筒眼鏡を自作し、月を観察して月の表面が凸凹だということ、さらに、驚くべきことに月の影の具合などから月にある山の高さを計算して示したり、木星の衛星を発見、あるいは太陽の黒点を発見し、それが動いていることも観察していたことなどを記述している箇所なのだった。
 でも、パスはパス!

 他に、「宗鑑忌」とあるではないか。「俳諧の祖とされる山崎宗鑑の1553(天文22)年の忌日」だという。
 思えば、小生、彼に付いてはまともに調べてみたことがない。
 このブログは、まがりなりにも季語随筆(読書創作日記)のサイトと銘打っている(付け加えるなら愚痴?!)。
 いざ、山崎宗鑑ワールドへ!

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2006/10/01

「落句拾遺 9-1」アップ!

落句拾遺 9-1」アップしました!


アップするその度ごとにアップアップ!
願わくはギブアップは避けたい!

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索引…ポット出のお湯の如きの情熱か

電気ポットを買った!

 電気ポットを買ったのは何年ぶり…、いや何十年ぶりじゃなかろうか。以前、高輪に住んでいた頃は一時期まであったはずだけれど、いつの間にか使わなくなっていた。
 あるいは湯沸しの出来ないポットは以後も使っていたと思うのだけど、そのただの保温のポットさえ、使わなくなって(所在が不明になって)十数年のはず。

 では、お茶はどうしているかというと、ペットボトルのお茶を買ってきて、必要な分を湯呑み茶碗に移し、電子レンジで温める。
 困るのはカップ麺で、これは湯呑み茶碗に水を入れて熱くし、カップ麺に注ぐ。
 よって、カップ麺でややこしい調理法のものは敬遠している(つまり、一度、お湯を注いで麺を温め、あるいはほぐし…って奴は買わない!)。何度も電子レンジで(湯呑み茶碗に水を入れて)お湯を作らないといけないし。

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 でも、この頃、スーパーでカップ麺を買うのに苦労する。調理の面倒なタイプかどうか、カップ麺の脇などに書いてある説明で確かめるのだけど、その文字が(老眼で)読めない!
 多分、お湯を注ぐだけの麺だろうと思って買ってきたはいいけど、自宅でいざカップ麺を食べようとして説明文を読んでショックを受けたりする。
 その場合は諦めて、具と麺をカップに出してお湯を注ぐだけにする。面倒だし。

 さて、いよいよ秋も深まって、カップ麺が今まで以上に恋しくなる季節。
 それに、田舎で父母が珈琲を毎朝飲む。だから小生も、朝食の準備に取り掛かる前に珈琲に付き合う。この前は、父母が飲まない紅茶もあった(もらい物だとか)。で、紅茶の味も思い出してしまった。

 そう、外ではともかく、自宅では、珈琲や紅茶も飲まなくなって久しいのだ。でも、心の余裕を持つためにも、これから珈琲や紅茶、勿論、ペットボトル以外の日本茶も飲んでいくつもり。

 流し台の脇にはお湯を沸かして、スタンバイしている電気ポットが小生を待っている。

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