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2006/09/29

ザビエルや死して大分走らせし

 自転車通勤に少しは慣れてきた…ような気がする。でも、通勤で乗るのは早朝だったり、遅い時間でも10時頃なのに、到着するとアンダーシャツは依然、汗ビッショリとなる。
 小生がえっちらおっちら坂道を登っている脇を子どもを乗せた奥さんがスイスイと追い抜いていく。悔しい! そのうち、小生も体力を回復させて、今度は小生が追い越してやるぞ、なんて思ったりもするが、下手すると小生の老化のほうが早いかもしれない!

0609201_1

← 富山・松川の光景。九月の二十日のもの。いつかは松川遊覧船に乗りたいものだ…。

 テレビではあまり話題にならないようだが(というか、小生が見逃しているだけかもしれない)、今年はフランシスコ・ザビエルの生誕五百年の年に当るということで、ラジオでは関連する話が最近、時折、耳にする(仕事中に!)。
 そう、「フランシスコ・ザビエル(Dominus Franciscus de Xabier)は、 1506年4月7日に生まれたのだ。亡くなったのは、1552年12月2日のようだ。
フランシスコ・ザビエル - Wikipedia」が全般的な情報を得るに便利だし、情報も随時更新され新しい。
「フランシスコ・ザビエルは、カトリック教会の宣教師でイエズス会の創設メンバーの1人。1549年に日本に初めてキリスト教を伝えたことで特に有名だが、日本だけでなくインドなどでも宣教を行い、聖パウロを超えるほど多くの人々をキリスト教信仰に導いたといわれている」という。
 また、「ザビエルはバスク語で「新しい家」の意味である」とも書いてあるが、ザビエルはバスク人かどうかは分からないが、スペイン・バスク地方生まれだったようだ。

(駄洒落が好きな…、あるいは勝手に頭が駄洒落する性癖のある小生、バスク人というと、あくまで語感繋がりでバスコ・ダ・ガマを連想してしまう。実際、彼は辺境バスク族と関わりがあったらしいが(それも、言葉繋がりで!)、残念ながら辺境バスク族と、今、話題に採り上げているバスク人とは別物のようだ。→「サイト名変更についての解説」)

Franciscus_de_xabier2

→ フランシスコ・ザビエル

 バスク人のことについては、以前、雑文「バスク人のこと」を書いたことがある。たとえばイグナチオ・デ・ロヨラなどもバスク人であり、彼がイエズス会の創始者であることは学校でも習ったことがあったような。
 そのイエズス会の宣教師がインドなどを経て日本において宣教活動をしたわけだ。戦国時代から江戸時代の初め頃まで急激に信者が増えたが、幕府の禁教と弾圧で(表向き)信者は激減した。
 それでも、日本に異質な文化が伝わったことで、その後の日本への影響は甚大なものがあったと理解すべきなのだろう。
 その意味で、バスク人は、日本とも関わりが深い民族だといえる。

 フランシスコ・ザビエル生誕五百年に事寄せてなのだろうか、ラジオで(テレビでも)ポルトガルと日本との戦国時代を中心とした、あるいはその頃からの関わりが話題に採り上げられる。
 例えば、過日は、種子島への鉄砲伝来の話題がNHKで特集されていた。
 1543年、種子島へやってきたポルトガル人が日本人に鉄砲なるものを伝えた、というのは常識的理解だろうか:
鉄砲伝来の島」を参照させた貰うと、その冒頭に、「1543年(天文12年)8月25日,九州南方の種子島にやってきた一隻の中国船に,ポルトガル人フランシスコ・ゼイモトが便乗していた。彼の持っていた鉄砲に着目した時の島主種子島時堯は,金2,000両を投じてこれを譲り受け,使用法を教わる」とある。

 最近は上記の説明に意義を唱えるような説がいろいろ出ているという。
鉄砲はじめ火器は倭寇勢力により日本へも持ち込まれていた。『鉄炮記』は鉄砲伝来を記す唯一資料でもあるが、江戸時代の慶長年間に種子島氏が鉄砲伝来を記念して記されたもので、歴史学においては資料的価値に疑問が持たれている」というのである。
 そもそも、「東アジアから東南アジアにおいて、15世紀には中国の明が海禁政策を行い、また日本の室町幕府との日明貿易(勘合貿易)が途絶した事などにより倭寇(後期倭寇)による私貿易、密貿易が活発になっていた」という時代背景があったわけである。

 そう、「九州南方の種子島にやってきた一隻の中国船」というが、要は、当時、中国の沿岸の一部と九州の一部などに勢力を持っていた倭寇の船に乗っていたポルトガル人が日本に鉄砲を伝えた。否、その前にポルトガル人ではなく、倭寇の誰かか、あるいは中国人かが種子島以外の日本の何処かへ伝えていた可能性があるという指摘(研究)も出てきているという。
 また、伝えられた年度についても、1542年ではないか、という説も出ているとか。

 ただ、歴史とは何らかの文書(など)に記載された事項に他ならないから(伝聞であっても、その伝聞が文書に書き残されていたら、信憑性はともかく、歴史研究の対象になりえる)、その意味で、「1543年、種子島へやってきたポルトガル人が日本人に鉄砲なるものを伝えた」というのが穏当なのかもしれない。

 さて、大分が西洋音楽発祥の地であることをご存知であろうか。少なくとも、大分の関係者はそのように主張されておられる(西洋音楽という言葉で厳密にはどんな音楽を思い浮かべればいいのか。西洋の楽器での演奏か、それとも演奏された曲も賛美歌など西欧の音楽だったということか…。後述するかも)。ラジオでも、その関連の話題を最近、幾度か耳にする(ホント、仕事が暇でラジオと同衾状態だ!)。
西洋音楽発祥の地(おおいた百景)」なる頁を覗いてもらうと、「1557年のクリスマスイブ,府内の地で宣教師による演奏がおこなわれたことを記念」するという像の写真が載っている。
 大分は、「キリスト教伝導活動の拠点のひとつ」ともなっている。

(ここでは素通りするが、他にも大分には、「西洋外科手術発祥記念像」がある!)

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← 豊後ルネサンス音楽祭2006

 さて、「大分が西洋音楽発祥の地である」として、一体、どんな音楽がどんな状況で演奏(披露)されたのか気になる。
日本における西洋音楽と演劇発祥の地」という格好の頁が見つかった。
 その冒頭に、「 「西洋音楽と演劇」布教活動には音楽がつきものである。ミサのとき、オルガンが奏でられ、聖歌が歌われた。やがて聖歌隊(合唱隊)も結成された。すでに弘治三年(1557)三月の聖週のとき、府内教会で二つの合唱隊がオルガンの伴奏で聖歌を歌い、滞在中のポルトガル人の数人が合唱に加わった」とある。

 関連する行事として、「18年 6月16日 「マンハッタン・ジャズ・オ-ケストラ」のみなさんが市役所を訪問されました」などといった記事も見つかる。
豊後ルネサンス音楽祭開催にあたって」なる頁を覗くと、「豊後ルネサンス音楽祭」が「2006年は、日本に初めてキリスト教を布教した聖フランシスコ・ザビエルの生誕500年にあた」ることと関係していることが分かる。

 このに拠ると、「大分市が「西洋音楽発祥の地」、と自負しているのはザビエルと唯一出会ったキリシタン大名の大友宗麟のサポートで豊後に教会が建つとグレゴリオ聖歌や西洋音楽が演奏された様子が宣教師達の手紙に報告されている由縁でもあります」とか。
 興味の湧いた方は、「豊後ルネサンス音楽祭2006」を覗いてみて。まだまだやっているし。

 豊後ルネサンス→ルネサンス→イタリアのルネサンス期を代表する万能の天才レオナルド・ダ・ヴィンチという流れは、ちょっと無理があるかな。
 これは、ラジオはもとよりテレビでも新首相関連の話題の後に結構、採り上げられていたが、「 「モナ・リザ」は次男を出産直後に描かれていた」なんて記事は、とりあえずメモだけしておきたい:
「レオナルド・ダ・ヴィンチによって、永遠の命を吹き込まれた「モナ・リザ」のモデル。描かれた女性は、次男を出産した直後だったことが判明した。
 カナダの科学者チームが、赤外線や3D技術を駆使し、モナ・リザの服が透明の薄いガーゼ布に覆われていることを発見した。
 フランス美術館修復研究センターのMottin氏によると、16世紀初めのイタリアでは、妊娠中や出産直後の女性がこのようなガーゼ布を身にまとっていたという」。
 詳しくは上掲のサイトを参照願いたい。
 また、かの謎の絵画についての新説が登場したわけだ。
 この新説に拠ると、「モナ・リザ」は1503年前後の制作だというから、今年は「モナ・リザ」生誕五百年ということになる?!

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コメント

こんばんは!

モナリザの秘密が解明されてしまったのは、残念!

「女装したダヴィンチ」とか、「実の母親」とか言われて謎だったところがよいのだが・・・いかがお考えですか?

次男を出産した後のジョコンド夫人だったのですね。

投稿: elma | 2006/09/29 19:13

elma さん、コメント、ありがとう。
モナリザの秘密が解明されたかどうか、まだ微妙なのだ思っている。
仮にモデルが実在の人物だったとしても、描くダ・ヴィンチが実の母親…、あるいは自画像を密かに描いていたとも想像する余地はあると思う。
つまり、依然として想像と解釈の余地がたっぷりあると思うのです。

投稿: やいっち | 2006/09/29 21:55

こんばんは。
ザビエルさん生誕500年ですか! 確かにあまり騒がれていませんね。(単に私が情報に疎いだけかもしれませんが)
ミゲール=インデュラインが最後にツール・ド・フランスを走った年に、ツール観戦でバスクを訪問したことがあります。
どうやら96年のようですから、今からちょうど十年前ですね・・・
フランス・バスクが緑滴る森だったのに対して国境を越えたスペイン・バスクが赤茶けた砂漠のような山々だったのが妙に印象的でした。その時にザビエルが生まれたというお城に行ったのですが、ちょうどシエスタの時間帯で指を銜えて芝生のお庭だけ眺めてきたほろ苦い記憶があります。

あの赤茶けた土地はずっと昔からなのか、それとも最近のものなのか? 私にはよく分かりませんが、ああいった土地で生活してきたスペイン・バスクの人々はきっと大変だったろうなあと思います。

投稿: 縷紅 | 2006/09/29 22:39

縷紅さん、ツール観戦でバスクへ!
自転車の猛者だったのですね。小生には意外な面でした。
小生、自転車通勤の話題を書いているのが恥ずかしい!
小生など、鈴鹿八耐観戦ツーリングがせいぜいなのに。縷紅さんの行動力に脱帽です。

ミゲール=インデュラインについて調べてみました。バスク出身の凄い選手だったのですね。
バスク(スペイン)に付いてはここが詳しい:
http://asia.geocities.com/welovewoody/basque.html

スペインのバスク地方も、場所によっては緑豊かなのかも(小生には推測するしかない):
「バスクの谷間の村」
http://ch.kitaguni.tv/u/1877/%ce%b9%b9%d4%a1%a6%a3%b0%a3%b5%c7%af%bd%a9/0000288241.html

「ザビエル城は復元工事中」という記事を見つけました(昨年11月。もう工事は終わっているのか…?):
http://ch.kitaguni.tv/u/1877/%ce%b9%b9%d4%a1%a6%a3%b0%a3%b5%c7%af%bd%a9/0000285805.html

 ああ、小生にも縷紅さんの万分の一の行動力(それとも情熱)があればと思う…。

投稿: やいっち | 2006/09/30 06:41

大分には 今でも ザビエル と言う 美味しいお菓子があります。 ググッてみて下さい。

投稿: ・ | 2006/09/30 11:05

確かに「ざびえる」というお菓子がありました。その前に「ざびえる本舗」ってのがあるんですね:
http://www.rakuten.co.jp/tkdp/546511/547256/
甘党の小生、誰かお土産にくれないかなーって、思っちゃう。

投稿: やいっち | 2006/09/30 12:08

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