モンテーニュの知恵
雨がシトシト降っている。いよいよ秋の長雨の季節の到来だ。関西などは一年を通じて梅雨の時期の雨が多いというが、関東だと秋の長雨の季節のほうが、梅雨の時期より雨(の日や量)が多いという。
自転車通勤を始めた小生、口に(あるいは文に)しなかった話題がある。そう、雨である。
今までは幸いにして雨に祟られることはなかった。夜来の雨でも、いざ出かけようという時間には上がってくれたり、会社に着いてしばらくして降り出したり。
あるいは、雨が降りそうだというニュースを聞いて、仕事を早めに切り上げてしまったり。
火曜日の未明は、降り始めてポツポツする中、自転車を走らせたが、幸い、本格的な雨にはならなかった。
それどころか、帰宅して数時間経っても、雨にはならない。
これだったら、通常通りの時間まで営業できた!
雨。さて、自転車はどうしたものだろう。傘を差して乗る?
それとも、タクシーを拾って、自転車をトランクに詰めて会社へ?
冗談じゃないよね。
バイクだとヘルメットに雨合羽だったんだけど、自転車の場合、合羽は着用するとして、頭はどうする。バイクのヘルメットを被るか?!
折々覗かせてもらっているサイトでモンテーニュのことが扱われていた。「「第40章 キケロについての考察」より跋粋」したという一文が載っていたのだ(「世界の大思想6 モンテーニュ 随想録(エセー)」(松浪信三郎訳 河出書房新社)からの引用のようだ)。
でも、それはそれとして、読み流すだけに終わっていた。コメントするほどの知識もないし。ただ、ああ、いかにもモンテーニュらしい発言に目を付けているなと感じて読んだだけだった。
夜半になり、さて、何を書こうか迷っていて、あれこれネットの世界を巡っていたら、今日9月13日はモンテーニュの忌日に当ることを知る。
(あるいは無意識のうちにモンテーニュの話題を探していたのだろうか…。)
「ミシェル・ド・モンテーニュ - Wikipedia」によると、「ミシェル・ユケーム・ド・モンテーニュ(Michel Eyquem de Montaigne, 1533年2月28日 - 1592年9月13日)は16世紀ルネサンス期のフランスを代表する哲学者。モラリスト、懐疑論者、人文主義者として知られる。現実の人間を洞察し人間の生き方を探求して綴り続けた主著『エセー』は、フランスのみならず、各国に影響を与えた」という。
「フランス宗教戦争(1562-1598年)の時代にあって、モンテーニュ自身はローマ・カトリックの立場であったが、プロテスタントにも人脈を持ち、穏健派として両派の融和に努めた」とも。
「体系的な哲学書ではなく、自分自身の経験や古典の引用を元にした考察を語っている。宗教戦争の狂乱の時代の中で、寛容の精神に立ち、正義を振りかざす者に懐疑の目を向けた。プラトン、アリストテレス、プルタルコス、セネカなど古典古代の文献からの引用が多く、聖書からの引用はほとんどない点が特徴的である」というが、「聖書からの引用はほとんどない点」には、小生、ずっと気が付いていない。
だからだろうか、「17世紀のデカルトやパスカルにも多大な影響を与え、後には無神論の書として禁書とされた」というのも興味深い。
モンテーニュについては、モンテーニュ著『エセーⅡ―思考と表現』(荒木 昭太郎訳、中公クラシックス刊)についての書評エッセイの記事である「モンテーニュ著『エセーⅡ―思考と表現』」の中で若干、触れている。
この中で、「さて、現下、世界は非常にきな臭い状況に立ち至っている。アメリカの突出した動きが世界を掻き回している。少なくともイスラム社会(だけではないと思うが)を揺るがしていることは否定できない。意図しているかどうかは別として、宗教戦争の様相さえ、下手したら帯びそうな雲行きなのである(背景にはイスラム系の人々の人口の増大がある。欧米には日本人には想像もつかないことのようだが、殊のほか、脅威と感じられるのだろう)。」と書いているが、世界が流動化しており、先行きが不透明で、漠然たるあるいは具体的な不安や懸念・杞憂に誰しもが恐れ戦いているように感じる。
文章表現には哲学を典型とする論理性を重視する在り方もあるし、虚構性・物語性という膨らみの中で語りたいこと表現したいことを示すという在り方もある。
その中でエッセイ(但し、モンテーニュの語り試みた方法での)というのは、時代が不穏で揺れ動く中にあっては、表現の仕方として最適なのではないかと思われる。
最適というのには抵抗感があるなら、エッセイ以外に表現の方法が見出せないと言ってもいい。
ここまで決め付けると、要は自分の事情に引き寄せすぎるということになるかもしれない。
上掲の記事の中で、「千々に乱れる状況の中で、自己を人間を冷静に観察する。一つのテーマに沿って、腰を据えて探求するのではなく、状況に応じ、日々の心の動きに応じ、瑣末から壮大に至る話題を採り上げる。順序など関係なく、日記風でもあり、同じテーマを、何度も、繰り返し、但し違う角度から、古典に依拠しつつ採り上げる」とも書いている。
「ある程度、観察し探求したなら、深入りはしない。それはモンテーニュに探求する能がなかったということではなく、あるテーマについて、その都度に、必要十分な観察と探求と省察をしたなら、それ以上に瞑想的な沈思は避ける知恵があるということなのだろう」…。よって、「そうした姿勢に見合うものとしては、まさにエッセイという表現形式以外に採る在り様はなかったということでもあるのだろう」という結論めいた言い草になるわけである。
懐疑、懐疑する自分さえもその対象から逃れることのできない懐疑。
モンテーニュに限定されるわけではないが、「田舎で読んだ本」の中でも彼に触れている。この雑文の中では、竹田篤司著の『フランス的人間 モンテーニュ・デカルト・パスカル』(論創社刊)をも扱っているから、モンテーニュをも俎上に載せるのは当然なのだが。
この記事では、以下の点が小生にとっては眼目(の一つ)になっていた:
パスカルやデカルトなどフランス哲学に通暁されている方には常識なのだろうけれど、要はパスカルの『パンセ』は方法的であり虚構性に満ちているのであって、実は、デカルトの『方法序説』のほうこそが私的ドラマに満ちており、また、優れて私的、もっというと、表現者・思索者としてギリギリ限界に迫るほどに私的な書物なのである。
『パンセ』こそが、パスカルの肉声に満ちている。そのつもりで読んでいたし、実際、そういった文章、断片に随所で出会う。アフォリズムの極地を行く表現世界。
が、パスカルには信仰者として信仰の世界に読み手を引き摺り込むという明確な意図があった。『パンセ』は、信仰への誘惑の書であり、パスカルは繊細の精神、幾何学の精神の両極を渡りながら、想像力と表現力の力を駆使して読者を信仰の世界へ誘い込もうとしているのである。
だからこそ、パスカルの『パンセ』こそ、自覚的に方法的であり虚構性に満ちているわけである。
その上で、「デカルトは、ひたすらに省察する。方法的でもある。が、方法的でありながら、これ以上はないというほどに精神が研ぎ澄まされていて、精神の骨の髄が透けて見えるようなのだ。中世の闇夜の世界から絶対的な真実という光を追い求めての孤独な精神の戦いが繰り広げられているということが、ひしひしと感じられる」云々と続いていくのだが、このあとについては、興味のある人はリンク先へ飛んでみてほしい。
一方、モンテーニュはというと、「精神の世界への探究をデカルトやパスカルのように夾雑物を排除・除去して純化し、結晶化するのではなく、むしろ、混沌なる世界をありのままに見つめ受け止め表現するせんとする意図」、それとも大人の知恵に満ちている。
小生のような凡俗をも受け入れる度量がある、あるいはあると思わせる(ほとんど混沌に近い)幅の広さがある。
この記事、三村奈々恵さんの『ユニヴァース』 (ソニーミュージックエンタテインメント)を聴きながら書いていた。
最近は読書するのも音楽を聴きながら。従来の小生にはなかったことだ。
心にゆとりがある? それとも、一つのことに打ち込めなくなったから?
ま、その辺りの真偽を定かにしないで放っておくようになったのも、小生の変化の一つのようである。
さて、レヴィ=ストロースの名著『悲しき熱帯』を少しだけ読んで、寝るとするかな。この本がこんな内容だったとは! まるで初めて読むみたいだ!
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コメント
ず~っと雨だけど、風邪ひかないでね。
先日娘がある駅で倒れたって知らせが来て迎えに行き、あわやタクシー帰宅かと思ったときには、思わずやいっちゃん呼ぼうかと思っちゃったよ!
投稿: 志治美世子 | 2006/09/13 18:36
やいっちさん、ブログで紹介していただいて有難うございます(^^)。モンテーニュ、大学の時に授業で勉強したのに、なーんも覚えていませんでした(^^;。そもそも哲学者なんて自分とは無縁の天才だと思っていたのです。でも、今読むとけっこう共感する部分があるのですよね。彼はボルドー市長だったのだから、日本でいえば名古屋市長という感じでしょうか?田舎のワイン作りのかざらないおじさんと思えば、若い時にそんなに怖がらなくてもよかったのかもと思いました。無神論の書として禁書とされたというのには、びっくりしました。私もブログでモンテーニュのこと紹介するので是非読んでください。やいっちさん、やっぱり哲学専攻されただけあって、本当に詳しいですね!私なんか高校の倫社の教科書を今読んでる程度です。なさけなや~。
あ、今日がモンテーニュの誕生日だったというのは驚きでした。私ってそういう勘だけはあるのかも?
投稿: magnoria | 2006/09/13 22:22
志治美世子さん、娘さんが駅で倒れたことがあるなんて、びっくり。
大丈夫だったのでしょうか。
って、こういうコメントがあるってことは大丈夫だったと思っていいのでしょうね。
そういう場合は、タクシーでも自転車でも駆けつけます。
あっ、自転車じゃ、間に合わないか。
投稿: やいっち | 2006/09/14 07:22
magnoria さん、この記事を書く切っ掛けをいただき、ありがとうございます。
そうか、モンテーニュの誕生日が間近だとは気付かないで書いていたのですね。
やっぱり、magnoria さんの感性は只者じゃないですね。
哲学者に限らず、名を残す人は常人じゃないのでしょうね。それでもモンテーニュやルソー、デカルト、パスカル、アウグスティヌスとかの文章は読みやすいですよ。
投稿: やいっち | 2006/09/14 07:25