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2006/09/28

ヌイグルミ夢一杯のロボットさ

今日は宮澤賢治忌…それとも…お絵描き記念日?!」でちょっと画像を紹介したが、帰省したら、居間(茶の間)の座卓の上に、ヌイグルミがデーンと置いてあった。
 上掲の記事では写真を示しただけだが、実はこのヌイグルミ、喋る。
 というか、正確には反応するといったほうがいいかもしれない。
 ヌイグルミの所定の位置を触ったり叩いたりすると、その箇所により(あるいは時間帯によって同じ箇所でも違う反応を示すことがある)、予めインプットされていた言葉をヌイグルミが発するわけである。
 例えば手先を摑むと(正確な言葉は忘れたので、以下の言葉はサンプルだと思って欲しい)、「ワーイ」とか、「最近、疲れてなーい?」とか、「遊んでよー」とか言う。
 あまり強く握ると、「八つ当たりしているのー?」などと言う。

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→ 帰省の際、茶の間で愛想を振りまいていたヌイグルミ!

 面白いのは頭を強く叩くと、何故かヌイグルミは「キャハハハハ」と笑うことである。「どうして頭を叩かれているのに、こいつ、笑うのか」と父は不思議がっていた。
 頭を叩くというのは、ストレスが溜まっている場合、怒っている場合である。小生の解釈は、ヌイグルミに笑わせることで、その怒りの情を少しでも和らげ解放しようという計算がヌイグルミの設計者にあるのではというものだが、さて。

 そう、ヌイグルミと主に戯れているのはほとんど小生の父であった。

 帰省した日から、テレビのある、食事もする父母と小生三人の部屋で、父はずっとヌイグルミの相手をする。
 母はしらけた顔をして父の戯れを見守るだけ。
 たまに、ヌイグルミを放っておくと、ヌイグルミは「遊んでよー」と、おねだりする。
 すると、父は、今はテレビ、見てるとか、食事中だから今は静かにしとらんとダメだろ」と、またヌイグルミの手を触ったり頭を叩いたりして、ヌイグルミにちょっかいを出す。

 ヌイグルミは、一定の時間、放置されていると、「遊んでよー」と言うのだが、もっと長く放置しておくと、だんまりを決め込む。つまり、大人しくしているわけである。
 誰かの誕生日のデータを入力しておくと、その日が来たら、「ハッピーバースデーツーユー!」と言ってくれる。
 新年については事前にセットしてあるらしく、「あけましておめでとう!」と言う。
 目覚まし機構(お休み機構)もあって、タイマーをセットしてあれば、例えば朝の7時半とかに「おはよう!」と言うし、夜の何時かになると、自動的に「ZZZZZZ]となり、手を握ったりしても、反応が鈍くなる。
 よく出来たものである。

 大概の大人なら、いくら賢い、出来たヌイグルミであったとしても、多少は相手にしても、すぐに飽きるはずである。いずれにいても、人間の干渉に反応するといっても、ヌイグルミには決まったパターンの言葉しかインプットされていないわけだし、そもそも、人間のちょっかいに対して的確な、その場に応じた言葉を返してくれるわけもない。
 尤も、その時にはちぐはぐな応答振りがまた、面白かったりする。ヌイグルミ(あるいは幼い子ども)が大人の問い掛けに的確に応じるとは限らないわけで、チンプンカンプンな遣り取りが反ってリアリティを持ったりするから面白い。
 面白い以上に興味深い。
(父が小生の前で、小生よりもヌイグルミを相手にするのは、父なりのコンプレックスがあるように、小生は感じていた。いい年をして結婚もせず、当然ながら後継ぎとなる子どもも居ない我が家。また、小生は無愛想な人間なので、家に居ても、あるいは人と居てもこちらから話しかけるようなことは基本的にしない。両親とさえ、あまりコミュニケーションが取れていない…。これは小生の肉体的な事情もあるのだが、その辺のもろもろの事情はここでは略す。)

 興味深いというのは、「三木清…非業なる最期も知らず恋路かな」という記事に対し、 pfaelzerwein さんが以下のようなコメントを寄せてくれたことに関連する(かもしれない):

>花、風、土、石、生き物、感じ、湖面の細波、情…。

この無生物・生物の混合した列挙ですが、意識されたものなのかどうか?と言いますのは、所謂ロボットの擬人化などの現象に興味を持っておりますので、是非話題にして頂きたいです。

 話題にして欲しいといわれても、そもそも pfaelzerwein さんの問題意識が奈辺にあるのか分からない。
 まあ、ここでは勝手な思い付きを綴っておくことにしよう。
 小生は、以前、「ロボットは私を愛するか」という雑文を綴ったことがある。
 この中で、哲学が専 門の黒崎政男氏の指摘として、「「鉄腕アトム」は望み薄だし、自律型は少なくとも数百年は幻想だ」という話と共に、「当面はアイボのように、あるいはアイボ以上に精巧を極めたロボットが出現してくる だろうが、それは我々の意味付与作用の結果、つまり私の言葉に置き換えると「思い入 れ」の結果、自律的に行動するアンドロイドが出現したかのような幻想を抱くに過ぎな い、と氏は述べている」のである。

 その上で、小生は、「私も同感である。第一、クマのプーさんのぬいぐるみやリカちゃん人形にしても、全 く動かないのに愛らしいし、心を慰めてくれるし、中年の小生も人が見ていなければ抱 いて寝たいくらいのものだ。ぬいぐるみは夢と幻想の象徴でさえある…。 ましてアイボなどは動いてくれるのだ」、と書いている。

「思い入れ」というのは、非常に重要な指摘だし、ロボットを考える上でも要となる観点だろうと思われる。
 そう、自律型のロボットがあるいは必ずしも近い将来は難しいとしても、アイボならずとも、そもそもヌイグルミや人形に対してさえ、人は(人によって)相当程度以上の思い入れをする。
 何らかの観点からして擬人化されているヌイグルミでなくなって、亡くなった、あるいは去っていった誰かの形見、例えば写真、筆箱、衣服、日記etc.といった事物でも、人はそれに際限のない愛着の念を抱くものである。

 否、もっと前に、(科学的には実効性に若干の留保が要るようだし、実施するには専門家のアドバイスが不可欠のようだが)ロールシャッハテストという有名な性格などを判断する心理テストがある。インクの染みなどを見て、それが何に見えるかからその人の性格や心理傾向を探るというもののようだが、そういったテストという大仰な意味ではなくても、天井の染みを見て、あるいはもっと、気軽な事柄だと、空を流れ行く雲の形を見て、人の顔に見えたり、アンパンに見えたりするのは、世界を見るに意味や形を読み取ろうとする、すこぶる人間的な性向を思うべきなのだろう。
 田舎で父が散々語りかけちょっかいを出していた、反応するヌイグルミでなくて、ただのヌイグルミであっても、人形であってさえも、人はそれがただのヌイグルミとは思えない。
 ヌイグルミだということは頭の中では、意識の片隅では、理屈の上では分かっているのだけれど、そのヌイグルミをぞんざいには扱えない。抱っこしたり、語りかけたり、そうでなくても、部屋の片隅、棚の上にあるだけで気が休まったりする。
 犬や猫、鳥などのペットのことは言わずもがなであろう。

 車やバイク、果てはパソコンにも名前・愛称で以て呼びかけたりする、それが人間なのである。
 リカちゃん人形やフランス人形などを見ると、不思議な気分にさせられることがある。人形は無表情である。否、無表情であるはずである。感情など、あるはずがない。叩かれても押入れの奥に突っ込まれても、捨てられても文句一つ言わない…はずである。
 が、人形を愛する人は人形をただのゴミとして扱えるか、捨てられるか、そこにある人形の前を全く心を揺らがせることなく通り過ぎることができるか。
 恐らくは大概の人は無理ではなかろうか。
(ここでは、「ハンス・ベルメール」や「四谷シモン」などのことは触れないでおこう。『人形愛の精神分析』に分け入る能もないし。)

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← 藤田 博史著『人形愛の精神分析』(青土社

 擬人化。人間は、ロボットという前に、ヌイグルミも人形も、そもそもこの世界そのモノを擬人化して見る。否、人間の世界、擬人化された自然としてしか見ることができないのだ。
 というより、擬人化できなくなったときは、そのときは既にその人の精神状態は尋常ではない可能性を考えたほうがいいのかもしれない。

 そもそも論になってしまうけれど、人は生まれ育つ過程で、擬人化される。人になる。この世界の見方、感じ方を教え込まれる。動物(オオカミなど)に育てられ思春期を過ぎてしまったなら、もう、人間にはなれない。人間の世界に戻れない。加わることは不可能のようである。
 この世界というのは、一体、どんな世界なのか。モノの集積なのか。生きている事物の乱雑な組み合わせに過ぎないのか。生き物と事物とを勝手に分ける人間的発想は、あくまで人間的限界を出ることはありえないのではないか。存在と無のどらにシフトすべきなのか。

不遜ながら、小生が特にサラリーマン時代の最後の数年、必死になって表現しようとしていたものも、背景には「ロゴス的なものとパトス的なものをめぐる問い」が少しはあったと思っているのである。 現実を前にして絶句する。花、風、土、石、生き物、感じ、湖面の細波、情…。蠢き揺らめいて止まぬもの」と書いているが、その際には、小生の関心事として抽象表現主義やアンフォルメルのアートのことが脳裏に想い描かれている。

 アンフォルメル芸術の営みというのは、世界を根底から見直す。世界をアンフォルメル化して、世界を<無>あるいは<無・意味>に、命と物質という分け隔てする以前の世界に還元する営為だったのだと思う。
 その心を解し溶かし心とモノとが水平な世界で、それこそメビウスの輪のように、そのある一面をなぞっていたら、気がつけば異世界に分け入っていた、そんな営為だったのではないかと思う。
 そこまで行くと、「花、風、土、石、生き物、感じ、湖面の細波、情…」というそれぞれ全く位相の違うモノどもは、徹底して同じ地平に居並ぶ、そんな相貌が垣間見られる…かもしれないという期待と野心との入り混じった野蛮な営為・アンフォルメル。

 話がとんでもない方向に飛んでしまった。

 ロボットの擬人化ということで何を意味しているのか、小生などには分からない。
 いずれにしても、ロボットの技術、特に日本が得意とする人間型ロボットの研究は加速度を増して進展していくのだろう。
 ただ、その際でも、究極のところ、人間とは何か、この世界とは何か、世界を何かと考える人間とは何かが問われてくることは間違いないと小生には思われる。

 ヌイグルミ、英語だと「stuffed toy」と訳される。これを日本語に直訳すると、詰め込まれた玩具。玩具の剥製。中身の詰まった玩具になるのか。中身、一体、何が詰まっていることやら、分かったものではない。下手に中を覗かないほうがいいのだろう、きっと。
 要するに、小生、思うに、人間にとって人形やヌイグルミは既にロボットの原型なのではないか、ということなのである。

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コメント

>ヌイグルミに笑わせることで、その怒りの情を少しでも和らげ解放しようという計算がヌイグルミの設計者にあるのではというものだが。

たしかにそうだなと思うのですが・・・そして、自分に合わせて笑ってくれたり、怒ってくれたりする人(物、動物)などが欲しいのだろうと思うのです。(同調者が・・・)

写真を拝見したときは、ただのぬいぐるみと思っただけなのですが・・・こういう優れもの欲しいですね。顔がかわいい!

投稿: elma | 2006/09/28 12:38

TB有り難うございました。人形はモノでありながら、何ゆえ『人』の形を与えられたのか? 捉え方によっては、いろいろと考えさせられることも多いかもしれませんね。興味深いです。

投稿: alice-room | 2006/09/28 23:13

elma さん、このヌイグルミ(人形じゃないよね)、とってもよく出来ています。
でも、ちょっと煩い。父母は夜は早めに寝るのですが、ヌイグルミは(予めの設定次第なのかもしれないけれど)夜半近くまで起きている。
だから、父母が寝所に引っ込んでも、茶の間で「遊んでよー」とか、一人で思い出したように何か言っている。
反って怖いような時も。

もらいものらしいのですが、もしかしたら高いものかもしれないですね。
でも、両親は本物の孫が欲しいらしい…。そうはいってもねー。

投稿: やいっち | 2006/09/29 07:55

alice-room さん、TBだけして失礼しました。
TBした頁の人形、セーラー服も何ですが、あの目がなんとも言えない:
 http://library666.seesaa.net/article/8149911.html
暗い部屋でこの人形と二人きりだと、怖いかも。
とにかく、人形は人を瞑想に誘います。

投稿: やいっち | 2006/09/29 08:03

ロボットの擬人化は、特に日本で、漫画の世界だけでなく、工学研究者、開発者に顕著な例としてTVなどでもよく特番が組まれます。これが前提の話題ですが、実際は人形などの擬人化とかの歴史とも関係深いですね。

「擬人化というのは、人工物を擬人化すること」で形見とかになり得る「物」ではないようです。またご神体は、擬人化出来ない。其々エトスとミトスでしょうか。

「擬人化された自然としてしか見ることができないのだ」は、なかなか重要な一節と思いますが、もともとここでロゴスとパトスとしての列記への本質的な問いかけです。例えば、乗り物などの人工物の擬人化はかなり一般的です。しかしそれに比べて、例えば岩石とか風、水を人形を取らずに擬人化することは殆ど無い。鉄はどうか?

擬人化するには、人 形 が必要とは限らない。三木の京大のリンクから「自然史と人間史を構想力の論理によって統一」を見つけましたが、これも特徴的な言説ですね。

投稿: pfaelzerwein | 2006/09/29 18:53

さすがpfaelzerwein さんですね。
せっかくなので、ロボットについてその周辺を瞑想(迷走)する雑文を書いてみました。

投稿: やいっち | 2006/09/30 06:15

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受信: 2006/09/28 13:01

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