道行きや虚実皮膜の風の盆
今日も、午後、自転車を駆って、市内をうろうろした。某店で、水墨画の本を買った。小林東雲著『水墨画を始める人のために』(池田書店)である。
まだ、水墨画用の筆一式は買ってなくて、府でペンで描いているだけだが、水墨画に凝りそうな予感。
夜、食事や片付けのあと、せっせと筆ペンで書道用箋にあれこれ描いて楽しんでいた。
ただ、指先に神経が通っていないようで、細かい線がまるで描けない。
だからといって、大胆な線を描けるというわけでもなく、ま、これから気長に練習していくしかない。
← ゆくゆくは俳画を描きたい!
ほんの少しだが、今夜もヤモリちゃんが姿を現すのではと、密かに心待ちにしていたけれど、期待はずれに終わってしまった。残念。
ま、気を取り直して、本題に入ることにする。
一昨日のブログ「今日は宮澤賢治忌…それとも…お絵描き記念日?!」で紹介した内田 康夫著の『風の盆幻想』 (幻冬舎)を昨夜、読了した。
本書の粗筋などについては、「有鄰 No.456 P5 人と作品 奥泉光と『モーダルな現象』/ 「有鄰らいぶらりい」」が分かりやすく、過不足なく説明してくれているので、このサイトを参照願いたい。
ここでは、「毎年9月の初めに富山市八尾[やつお]町で催される風の盆は、元禄時代から伝えられてきたものだが、20年ほど前、高橋治の小説『風の盆恋歌』に描かれたのをきっかけに、日本中に有名になり、観光客でにぎわうようになった」とある。
小生自身、簡単にだが、風の盆について小文を書いたことがある:
「おわら風の盆をめぐって」
「「おわら風の盆」余聞」
(なお、「「おわら風の盆」余聞」では、「花街の風情を残す墨田区向島の見番通りで23日、「おわら風の盆in向島」が開かれる」というくだりがあるが、これについては、「おわら風の盆 - Wikipedia」によると、「東京都墨田区で2年前に始まったイベント「おわら風の盆 in 向島」に対し、おわら風の盆の本場である富山市八尾町の越中八尾観光協会より「風の盆」の名称を用いることに対してクレームが付けられた」という!)
ついで、「この小説はその幻想的風趣豊かな風の盆を背景にした推理小説。 おなじみの名探偵浅見光彦と作者内田康夫がコンビで登場し、風の盆のさなかに発生した事件の謎に迫るという趣向である」ともある。
この点、特に「幻想的風趣豊かな風の盆を背景にした推理小説」については、後述する。
その上で、本書の中身については、「事件とは、1人の男の、山中での異常死だ。 死んでいたのは、市内の老舗の旅館「弥寿多家[やすだや]」の若主人・安田晴人だった。 服毒死と断定されるが、警察は自殺として片付けた。 しかし、それに疑問を抱いた知人の知らせにより、内田、浅見のコンビが登場するのであ」り、「風の盆をめぐっては、市内を二分する地元民の対立があった。 1つは、あくまでも伝統を墨守しようとする一派。 それに対し、これを観光資源として本番以前から町流しを催して盛り上げようとする一派。 安田晴人の父は観光に力を入れる一派の中心人物だったが、晴人は伝統派の娘と相思相愛になったため、歪んだ結婚を余儀なくされていたのだった……。 風の盆の風趣も楽しめるミステリーだ」とある。
本書の冒頭では、「風の盆をめぐっては、市内を二分する地元民の対立があった。 1つは、あくまでも伝統を墨守しようとする一派。 それに対し、これを観光資源として本番以前から町流しを催して盛り上げようとする一派」など、地元の事情について、それなりに詳しく書かれてあり、地元の対立も含め、ある程度は実際のことを踏まえているので、ここまで書いていいのかなと読みつつ思ったりもしたが、恐らくは、作家としての何らかの配慮がなされているのだろう。
地元で取材してリアリティを出す、一方、過度に人物群像を描きすぎても差し障りがあろうし、事件はともかく物語を綴るというのは、大変だろうと変な感想を抱いていた。
尤も、そもそも物語(これも芸の一つなのだろうし)というのは、虚実皮膜のギリギリの狭間に成り立つものなのだから、当然至極のことなのだろうが。
それにしても、ドラマの原作になったりして、「おわらブーム」に火をつけたことでも有名な、高橋 治著の『風の盆恋歌』(新潮社)もそうだが、不倫モノの物語となってしまうのは、どうしてなのだろう(厳密には、内田 康夫著の『風の盆幻想』 は不倫モノではないのかもしれないが、微妙に、しかし密接に不倫が話の本筋に関わっていることは否めない。
風の盆という祭り、というより行事の特質が不倫という本来はあってはならない情の念の交錯を虚構せしめてしまうのだろうか。
ん、その前に、公式サイトを紹介しておくべきなのかな:
「八尾町観光協会[富山県]」
「幻想的風趣豊かな風の盆」というけれど、上掲のサイトを覗くと、「おわらが年中楽しめるようになりました」とあり、嬉しいというより、ちょっと興醒め?
画像も含め、「おわら風の盆」というサイトが内容豊富で覗き甲斐がある。
特に、●「おわら風の盆」の始まり」なる頁は、ネットでは一番(?)詳しい説明が得られる。
とにかく、風の盆は、祭りではなく行事であるということ、性格からして盂蘭盆と無縁ではないことが要諦のようではある。
「現在の「おわら風の盆」は、日本古来の祖先信仰の「魂祭」、中国の『盂蘭盆経』の「盂蘭盆会」、豊作祈願の「習俗」、それらが結合したものだと思います。若衆や娘たちの踊りが不文律のようになっているのも、地域共同体の宗教行事であった名残のように思います」という点は、留意すべきだろう。
そう、本来、風の盆は「若衆や娘たちの踊りが不文律」だったのだ。
今も?
なのに、『風の盆幻想』も『風の盆恋歌』も、中年の男女の恋の物語なのは、不思議?!
けれど、中年の男女の(不倫の)恋にスポットライトが当っているとはいえ、若い日の不毛だったり引き裂かれてしまった恋への思いが通奏低音のように熟年の男女の誰にもずっと鳴り響いているのであって、見かけは、そして実際、年齢的には熟年であっても、恋に年齢など関係ない、超越しているとも言える。
そうして、祭り(上記したように、本来は行事なのだが)の夜に熟年の男女が夜陰に紛れるようにして、ひと目を避けるようにして恋の火を燃え上がらせる。
若い人の恋は、開放されつつある。昔は考えられなかったことだが、中学生や高校生でも、学校の帰り、仲良く二人連れで歩いていたりする。その足で何処へ行くのやら。
けれど、今、熟年を迎えている多くの人は、学校での男女交際なんて、せいぜい数人集まった形でならともかく、二人でデートなんて、まずはありえなかったのではないか。
だから、風の盆という(昼間も流しているけれど)夜、提灯の灯りの列の延々と続く闇の道、つまりは、情念の紅い、細く曲がりくねった道での、闇の底へと何処までも堕ちていくような、緩やかでひめやかな営為というのは、旧弊な常識を少しは取っ払ってくれる格好の舞台でありえる、という幻想を抱かせる装置となりえるのかもしれない。
けれど、現実的には時代はその人の表向きの形や肩書きや位置付けを何よりも重視する、窮屈な側面も生み出している。何処にも監視カメラがあるような、何処にも誰かの視線があるような、誰もが他人に無関心を装っているけれど、内実においては他人の振る舞いを徹底して注視し、ちょっとした言動の瑕疵があったならば(他人に知られたならば)、一挙に奈落の底に蹴落とされていく。
倫理がルーズになり、少なくとも恋も含め、行動の自由度が増したように見えて、実際には息の詰まるような、気の抜けない現代。そもそも倫理の価値基準や物差し自体が揺らいでいる。揺らいでいるから、好き勝手にできるかというと、そんな見かけの自由そうな風潮を鵜呑みにしてしまうと、呆気なく足元を掬われ、時代に流され、負け組に追いやられてしまう。
また、誰もが仕事で自分を輝かせきることができるわけではない。というより、仕事の多様さ傾向(ということは、限り無く細分化する傾向)は、自分という存在がどこまでも細分化され断片化されていくということとほとんど等価でもある。仕事にどれほど頑張っても、仕事の時空において丸ごとの自分など入り込む余地などありえなくなることを意味する。
どっちにしても、表面的には自由幻想の漂う風潮蔓延する反面、実際には誰も油断も隙も許されないのだ。
だからこそ、小説の上で、ドラマの上で、幻想の中で不倫も含め、情念と本音に忠実な生き方を模索してもらいたくなるのだろう。
小生など、現代こそ近松門左衛門という存在がクローズアップされる時代なのではないかと思う。
というより、彼の心中モノにいよいよ今まで以上に脚光が浴びるような気がする。
そう、不倫をテーマのドラマどころではなく、ドラマにおいては心中にまで行き着いてもらわないと物足りなくなるのではと予測しているのである。
打算も年齢のギャップも超えた純然たる恋への思いというのは、案外と人間の根深い欲求なのではなかろうか。
『風の盆幻想』の感想からは随分と離れてしまったけれど、そもそも幻想なのだから、これくらいは想像しても構わないだろうと思う。
大体、男女にしてからが、虚実皮膜の瀬戸際に生きているような感がなきにしもあらずなのだし。それとも、虚虚実実?
(余談だが、「虚実皮膜」は、「普通は「きょじつひまくろん」と読むが、原本には「きょじつひにくろん」と振り仮名があるという」←「See-Saw日記 近松門左衛門・浄瑠璃作りの秘訣」参照)
何処かのサイトの風の盆の写真を見つつ……。
何処までも行灯の道風の盆
行灯の灯の先の月風の盆
行灯の灯すは恋か風の盆
道行きや虚実皮膜の風の盆
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コメント
こんにちは。TB&コメント、ありがとうございました!「おわらが年中楽しめるようになりました」っていうのは知らなかったです。が、それじゃ盆踊りじゃないですよね…。死ぬ前に一度は見に行きたいなと思っています。
投稿: chiekoa | 2006/09/26 15:53
chiekoa さん、風の盆を縁の二人ですね。これからもよろしく。
風の盆の醍醐味は今じゃ、どうやって堪能できるか、難しいのだろうか。内田康夫氏の小説を読んでも観光化された祭り(行事)の運営の難しさを痛感させられました。
でも、そもそも風の盆というのは、原型はともかく、NHKで紹介されたような姿(向島の専門家によって洗練された形)となったのは歴史が浅いようです。
死ぬ前に、などとおっしゃらず、是非、近いうちにお邪魔してみてください。で、本当の醍醐味を堪能してほしい…。
なんて書いていながら、小生自身はまだ一度も行ったことがない。風の盆を催す八尾の近辺に親戚、いないかなー。
投稿: やいっち | 2006/09/27 07:52