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2006/09/21

今日は宮澤賢治忌…それとも…お絵描き記念日?!

 昨日、水曜日は用事があって富山市の中心部(繁華街)へ。もち、ママチャリで颯爽と!
 何故だか、天気のいい日、ママチャリを駆ると、昔、「8時だよ、全員集合!」という番組で加藤茶がお巡りさんの格好をし、白い車体の自転車に乗って舞台に登場する際に歌っていたピンカラ兄弟の「わたしがぁ ささあげたぁ その人に~ あなただけよと すがって 泣いた ♪」という歌が口を突いて出てくる。
 東京で乗っているタイヤの口径の小さい自転車だと、こういったド演歌はまず出てこない(坂が多くて余裕がないってこともあるけど)。

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 詳しい事情は省くが(他人様と関係するので)、貰った商品券で本を購入した。それも二冊も! 一昨年の四月から本も新聞もやめているが(新聞はキャンペーンの時、サービスで一時的に取ることがある)、今回、二冊買ったことで、この約30ヶ月で合計四冊となる。
 衝動買いなので、デパートの小さな書籍売り場にあるものから選ぶしかなく、迷った挙句、買ったのは以下の二冊。

 一冊は、内田 康夫著の『風の盆幻想』 (幻冬舎)である。
 内田 康夫氏に付いては、若干の因縁があるので、ミステリーものは基本的に読まない小生なのだが、同氏の本はこの本で三冊目か四冊目となる。

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 こういった本に内容説明など野暮なのだろうが、「哀切な胡弓の調べと幽玄な踊りで全国的に有名な富山・八尾町の「風の盆」祭り。その直前、老舗旅館の若旦那が謎の死を遂げた。自殺で片付けようとする警察に疑問を感じた浅見と内田は独自の調査に乗り出す。そして、飛騨高山、神岡と越中八尾を結ぶ、秘められた愛にたどり着く―。」といった話らしい。

 言うまでもなく、今年も見物し損ねた富山・八尾町の「風の盆」祭りが俎上にあるとなると、読まないわけには行かない。ま、衝動買いの典型だ。
 以前、読んだ、「おわらブーム」に火をつけたことでも有名な、高橋 治著の『風の盆恋歌』(新潮社)とどうしても読み比べることになるだろう。

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 もう一冊は、キャサリン・ブラックリッジ著『ヴァギナ 女性器の文化史』(藤田 真利子 訳、河出書房新社)で、昨年末の刊行の本。そこそこに売れているからデパートの書籍売り場にあったのか、それとも売れ残りだったのか、判断しかねる。でも、9刷だから、売れているのかも。
 内容説明によると、「ヴァギナ。女性器。私たち人間が皆すべて、産まれ出た場所。その神秘の場所・ヴァギナについて、歴史的・生物学的・医学的に様々なアプローチにより解き明かした決定版! 図版多数収録。
「本書にはヴァギナの姿が描かれている。非正統的な姿、色鮮やかな姿、偏狭な視点から見た姿、革命的な視点から見た姿。本書は幅広い資料からヴァギナを描きだしていく。科学に、歴史に、神話と伝承に、文学と言語に、人類学に、芸術に、それぞれの分野に登場するヴァギナの姿がある。女性生殖器の飾り気のない全体像を提供しようというのがわたしの狙いである。・・・」(序文より) 」だって。

『ヴァギナ 女性器の文化史』は、ひたすら好奇心で買ったもの。図版多数収録ってのがいいね。画像でないところも、また、いい?!
 類書に、イェルト・ドレント著の『ヴァギナの文化史』(塩崎 香織、作品社)などがあるようで、こちらのほうが図版が多いらしい。

 余談だが、無粋で駄洒落好きな小生は、「花の街」という歌(の歌詞「輪になって 輪になって」)を聞くと、ついつい…。
 ああ、小生って、こんな奴なんだよなー。

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 ついでというわけではないが、以前、このブログでも話題にしたことのある、若林美智子さんのCD『風の盆恋歌』も、これまたカウンターに、どうだ! とばかりに置いてあったこともあり、衝動買いしてしまった。
 いっそのこと、前から買いたかったエンヤのCDも買っちゃえと思ったのだが、その書籍部には置いてなかった。それどころか、デパートの中にはそもそもCDなどのショップ自体がないという。なんということだ!

 さて、町へ(我が町で「町へ」という表現をする時は、市内一番の繁華街・商店街のことを指す。尤も、今では必ずしも一番の繁華街ではなくなっているが)繰り出したのには、銀行にも用事があったからなのだが、目当ての三菱UFL銀行がなかった。未だに富山市には三菱UFL銀行がない!
 確かに、富山は、かの安田財閥を設立した安田善次郎の出身県である。富士銀行、そしてみずほ銀行がしっかり地盤を固めているのかもしれない。でも、三菱さんも証券会社だけじゃなく銀行も支店の一つは置いて欲しいな。

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→ 石垣を修復中の富山城

 さて、天気もいいし、富山市の中心部を自転車でキョロキョロしながら走っていたら、富山城に遭遇。今、石垣の修復工事の真っ最中である。その工事のお蔭で、謎だったことも判明したというが、これは機会があったら書くことにする。
 そして、春には、桜吹雪の舞い散る中、遊覧船で優雅に七橋巡りなどが楽しめる松川を渡る。せっかくなので、富山城と併せ、携帯電話のカメラでパチリ。

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← 松川

 ところで、火曜日、親戚が何人かやってきた。その中に、保育所に通いだした子どもたちもいる。綾取りとか、いろいろ遊んでいたのだが、お絵かきにも熱中している年代。
 その子たちが描いた絵など見ているうちに、小生も描いてみたくなり、父の筆ペンを拝借して、そこらにあった紙切れに絵など描いてみた。

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→ 四十年ぶりの処女作?!

 絵というより漫画を描くのは、何十年ぶりだろうか。少なくとも四十年は経っている。もっとも、高校時代に美術の時間に絵など描かされたけれど、それは授業での話。
 描きたいという衝動で描いたのは、小学校以来のことだろう。
 下手糞な絵。手が指がまるで動いてくれなくて、不器用な絵だけど、とにかく楽しい!

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← モデルは今のところ、縫いぐるみ。いつか、人間や風景、静物など描いてみたい!
 
 で、今日、市街地へ散策した帰り、コンビニに寄り、筆ペンと白い紙の束(白いレポート用紙がなく、書道用の練習紙の束)を買った!
 そして、夜、食事など、用事を済ませた後、一人、縫いぐるみ(この縫いぐるみは、手や顔や頭や足などを触ると、あれこれ子どもの声でお喋りする! 後日、この縫いぐるみについて書くかもしれない)をモデルにお絵描き!
 手先に神経が行き渡っていない感じがする。
 でも、絵を描くことがこんなに楽しいなんて。癖になりそう!
 
 さて、ようやく本文(?)である。


今日は宮澤賢治忌

 今日9月21日は、童話作家・詩人の宮澤賢治、文学の鬼と呼ばれた宇野浩二、『松川裁判』などの作品で有名な廣津和郎の各氏の忌日である。
 廣津和郎は、宇野浩二とは生涯の親友だったというが、忌日までが一緒というのは、出来すぎ、などと書くと不謹慎か。
 情けなくも小生、彼らの作品は、周辺の近松秋江も含め、ほとんど(あるいは全く)読んでいない。葛西善蔵を何か読んだことがあるだけ。
 だから、大急ぎで通り過ぎる。
 では、宮澤賢治はというと、好きな作家で少なからず読んできてはいるけれど、彼の作品について、どういった切り口で語ればいいのか、まるで分からず、遠巻きに、「賢治の俳句…花はみな四方に贈りて菊日和」や、以下に示す拙稿「幽霊の話は後に尾を引く」があるだけ。


幽霊の話は後に尾を引く

 かの宮沢賢治を貶めるわけじゃないけれど、幽霊というと、つい、彼の詩を思い出してしまう。あまりに有名で言及するのも今更かもしれないが、好きな詩なのでやはり触れるしかない。

 わたくしといふ現象は
 假定された有機交流電燈の
 ひとつの青い照明です
(あらゆる透明な幽霊の複合体)
 風景やみんなといつしよに
 せはしくせはしく明滅しながら
 いかにもたしかにともりつづける
 因果交流電燈の
 ひとつの青い照明です
(ひかりはたもち その電燈は失はれ)

 これらは二十二箇月の
 過去とかんずる方角から
 紙と鉱質インクをつらね
(すべてわたくしと明滅し
 みんなが同時に感ずるもの)
 ここまでたもちつゞけられた
 かげとひかりのひとくさりづつ
 そのとほりの心象スケツチです

 これらについて人や銀河や修羅や海胆は
 宇宙塵をたべ、または空気や塩水を呼吸しながら
 それぞれ新鮮な本体論もかんがへませうが
 それらも畢竟こゝろのひとつの風物です
 たゞたしかに記録されたこれらのけしきは
 記録されたそのとほりのこのけしきで
 それが虚無ならば虚無自身がこのとほりで
 ある程度まではみんなに共通いたします
(すべてがわたくしの中のみんなであるやうに
 みんなのおのおののなかのすべてですから)

 (略)

 すべてこれらの命題は
 心象や時間それ自身の性質として
 第四次延長のなかで主張されます

                      『春と修羅』(序)より

 一部であっても略するのは惜しい。(序)の全文を読まれたい方は、例えば下記のサイトを参照願いたい:
 http://www.page.sannet.ne.jp/inforest/kenbun/jo.html
[↑三年前には生きていた頁だったけど、最早、削除されているようだ。 代わりに、「春と修羅・序」にて読める。 (06/09/21 記)]

  この序に心打たれた方は多いだろう。特に冒頭の一句、「わたくしといふ現象は 仮定された有機交流電燈の ひとつの青い照明です (あらゆる透明な幽霊の複合体)」というのは、あまりに絶妙すぎる。その意味などを忖度するのは、野暮だ。
 括弧を付された(あらゆる透明な幽霊の複合体)というのは意味深だ。
 解釈はいろいろに可能だろう。そして恐らくはどんな解釈も、詩文から受ける感銘の、ほんの一部をさえ掬うことはできないだろう。
 ここでは、そんなことは承知の上で勝手な瞑想的考察を試みてみたい。

 例えば、ネット検索で見つけた下記のサイトを見てみよう:
「ほうとう先生の自省式社会学感覚」
  第8章 自我論[全3回]
 http://archive.honya.co.jp/contents/knomura/lec/lec26.html 
[↑ やはり、既に無効になっている。ネットの世界の流動性の激しさをつくづく感じる。 (06/09/21 記)]

 その最後に、このように一応の説明がなされている:

「わたくし」=自我が流動的な現象であり、自然と他者の関数であり、それゆえ矛盾を内部にかかえこんだ複合体であるということ。このような考え方は、自分自身を実体化してとらえて疑わない日常的な常識がたんなる幻想・幻影にすぎないことを明晰に照らしだしている点でもすぐれているし、デカルトの「われ思う、ゆえにわれあり」という近代主義的な素朴かつ単純な思想をはるかに超出した、哲学的には「現象学的思考」といっていい考え方である。まさに二十世紀的思考である。自分自身を規定してしまっているものがなにかを鋭い感性で冷静に分析する、その明晰さと痛みへの感受において、社会学はとてもかなわないという気がする。

 但し、「序詩第一連はあくまでも受動的な相で自我をとらえたものにすぎない。賢治の射程はもっとそのさきに延びているのだけれども、それは本書の枠をこえている。」という注釈をつけた上での理解であることは、考慮に入れておくべきだろう。

 その上で、例えば、デカルトの「われ思う」の「思う」を、「考える」に止まらず、広く思うということ全般と捉えると、結構、デカルトのこのテーゼの意味深なことが感じられるのではないかと思う。
 デカルトは、このテーゼをラテン語で「コギト エルゴ スム」と表現している。これは単純に訳すと、「思う 故に 在り」ということになる。文法上、第一人称になっているが、主語が、「我」だとか「私」だと明示してあるわけではない。
 このことをデカルトの哲学的用心深さの故なのだとしたら、下手すると、宮沢賢治の「わたくしといふ現象は 仮定された有機交流電燈の ひとつの青い照明です」よりも、「わたくし」という主語が明示してないぶんだけ、哲学的含意が深いと解釈する余地がある。
[ そもそも、デカルトの懐疑は、方法的懐疑と考えるべきもの。「デカルトの「われ思う、ゆえにわれあり」という近代主義的な素朴かつ単純な思想」といった理解は、必ずしもデカルトについて妥当かどうか、微妙なところかもしれない。パスカルの『パンセ』が優れて方法的であり虚構性に満ちているのと、位相は違うとしても、案外とデカルトにしても、「われ」も、「われあり」についても、少なくとも、決して素朴でも単純でもなかったのは確かなような気がする。そうでないと、パスカルにしてもデカルトの文章にしても、あのような極度の緊張感に満ちた張り詰めたものであることの理解が叶わなくなる、ような気がする。小生のエッセイ 「思う、故に、時折、我、在り」など参照願いたい。(06/09/21 記)]

 唯一、宮沢賢治が、(あらゆる透明な幽霊の複合体)と注釈しているが故に、詩的にははるかに現代的であり、瞑想を誘うような含意において優れているといえるのだと感じる。
 思う。誰が思うのか、私に違いない。常識的にはそう考えるしかない。しかし、日常的には「私が考えている(思っている)」わけではなく、思い、悩み、感じ、想像し、憂慮し、退屈に死にそうになり、恐怖に怯える、そんな状態があるだけなのである。
 人に指摘されたり、我に帰った時に、その主体は自分(私)なのだと確認しているに過ぎないのだ。
 このことの意味するものは、相当に深いものがあると思う。が、ここでのテーマではないし、小生の手に余る問題でもある。

 それにしても、宮沢賢治の詩文に戻ると、彼は何ゆえにこのような<認識>を持ったのだろうか。上掲のサイトによると、「そもそもこの序詩は賢治が友人への手紙のなかで「私はあの無謀な『春と修羅』に於て、序文の考を主張し、歴史や宗教の位置を全く変換しようと企画し、これを基骨としたさまざまの生活を発表して、誰かに見て貰ひたいと、愚かにも考へたのです」」と述べているという。
 その思想的な企図はともかく、その前提として、あるいは情念的土台として、やはりかの「永訣の朝」に篭められた、妹への哀切な思いがあるに違いないと思う。そして無力を痛感するしかない自分への絶望:
 http://homepage1.nifty.com/ihatov/har_1/047_d.htm
[↑ このサイトも「NOT FOUND」だ! 代わりに、「永訣の朝」をどうぞ。「あめゆじゅとてちてけんじゃ」…。何度、読んでも目頭が熱くなる。(06/09/21 記)]

 特に最後の一連である、「おまへがたべるこのふたわんのゆきに わたくしはいまこころからいのる どうかこれが天上のアイスクリームになつて おまへとみんなとに聖い資糧をもたらすやうに わたくしのすべてのさいはひをかけてねがふ」という願いが篭っていると感じるのである。

 小生は幽霊の存在を信じない。けれど恐れもするし、否定もしないし、存在を願うほどに自分の無力さを感じる。腸の千切れる思いで、ただ生き長らえているだけの人がどれほどいることだろう。何故にあの人はいなくなったのか。あんな不条理な形で。なのにあんな奴がのうのうと生き延びているし、それどころか、ますます巾を利かせているじゃないか。
 神とか仏とかを信じるのか信じないのか。そんな問いなど、とっくに忘れた。ただ、張り裂ける思いがあるだけ。
 私とか自分とか俺とか小生とか、そんな<主体>など、雪がやがて溶けて泥まみれになるように、グジャグジャなのだ。
 ただ、青い照明の影、揺れる蝋燭の焔、ざわめく木の葉、何処へともなく流れ行く笹舟、そんな<現象>の数々があるだけなのだ。
 幽霊とは、死にきれない情念、死に果てたはずなのに捨てきれない夢、ただ訳もなく苦しむしかない日々そのものなのだろう。
 私とは私に、あるいは愛する誰かにしがみ付く執念のことなのだ。そして幽霊とは、その不毛な執念以外の何者でもないような気がするのだが。
                                   (03/08/30 記)

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コメント

おはようございます!

オオ~!今日は「宮沢賢治」の亡くなった日なのですね。賢治は好きですが、やいっちさんのように「深く」は読んでいないです。いつも感覚的にしか捉えていないようです。

ところで、やいっちさんの絵はかわいいですね。
「あどけなさ」がよく出ていますよ。

これからに期待!

投稿: elma | 2006/09/21 05:56

elma さん、早いでございます。
小生は、昨夜は一時半過ぎにこのブログを書き上げ、それから昨日買ってきた『風の盆幻想』を読み始め、さていつ頃、眠りに着いたやら。
朝は7時半にアラームをセットしてあって、ボチボチ起き上がり、珈琲で一服してから食事の準備を開始、という毎日。
但し、食べ終えた食器などを洗ったら(つまり、もうすぐ)寝不足解消のため一眠りする!

宮沢賢治に限らず、でも、賢治の場合は特に作品を静かに味読すればいい、とは思っているのだけど、つい性分であれこれ詮索したくなる。
何か事実などが分かったからと言って彼の世界をより深く知ったことに繋がるわけじゃないのだけど。

お絵描きのほう、始めた以上はボチボチ気長にやっていきたい。俳画も視野に入れています。
処女作、改めて見てみたら、絵のほう、モデルより相当に太っている。
作者の体型を反映してしまったのでしょうか。

(このレス、若林美智子さんの胡弓演奏を聴きながら書いていました。)

投稿: やいっち | 2006/09/21 09:48

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