ロボットよ生身の人に代わるなよ
例によって休日の前日は、ロッキングチェアーで夜を明かす。別に本を読みふけっているわけではない。音楽に聴き入っているのも事実だけど、要はベッドに入るのが面倒なのである。タクシー稼業の溜まりに溜まった疲れを、週末はとにかく泥のような体から搾り出すことに専念する。
イメージは、残り僅かとなった歯磨きのチューブから無理にも歯磨き粉を搾り出す…。無論、出すのは疲労であり、心の垢なのだが、なかなか出てくれないのが悩ましい。
→ 田近伸和著『未来のアトム』(アスキー刊)
動くのが面倒で、一旦、ロッキングチェアーに体を沈めると、もう、梃子でも動きたくなくなる。
週日だと、翌日は仕事というプレッシャーがあるので、時間が惜しいという切迫感もあり、目覚めている僅かな時間に本を読み、ネットし、音楽などに聴き入り、あるいはボンヤリもする。
が、翌日が休日となると、そうした緊張感が薄れるので、ロッキングチェアーで本を読むでなし、居眠りも飽きるほど貪り、溜まった郵便物に目を通し、後回しにしている用事を果たさないといけないと思い(思うだけだが)、そうしてダラダラグダグダしている間に夜が更け夜が明けていくわけである。
「ヌイグルミ夢一杯のロボットさ」で「ロボットの擬人化」について、若干、書いた。
けれど、誤解の余地が大いにあると、あとで気が付いたので、補足だけしておく。
といっても、そもそもロボットの話題の広がりはどこまでも果てがない。
「ロボット - Wikipedia」を前回は、わざと示しも参照もしなかったが、やはり手掛かりにもなるし、独りよがりの思い付きに走りがちな小生の場合、一般的な情報をメモしておくことは親切なことだろう。
まずは、「ロボット(Robot)とは、人の代わりに何等かの作業を行う装置、若しくは「人のような」装置である」とある。
その上で、主な定義として、以下が示されている:
1.機械の一種(後述)
・ある程度自律的に何らかの自動作業を行う機械。例・産業用ロボット
・人に近い形および機能を持つ機械。『機動戦士ガンダム』や『鉄腕アトム』
等のSF作品に登場するようなもの。いわゆる「機動兵器」や「人造人間」等。
2.インターネット(ウェブページ)上のリンクをたどり、情報を自動収集するプログ
ラムをロボットということもある。→クローラを参照
ここでは、2のプログラム上のロボットは勿論のこと、産業用ロボットのこと、いわゆる「機動兵器」や「人造人間」やスーパーロボット(横山光輝の『鉄人28号』を先駆けとされるような)等なども、とりあえず素通りしておく。
但し、「永井豪原作の『マジンガーZ』の登場により、巨大ロボットに人間が乗り込むという手法が確立し、この作品の登場によって主人公とロボットの一体感、擬人化がなされた」など、これらのロボットも擬人化の観点からは非常に大きな考察(それとも瞑想?)の余地があることはいうまでもないのだが。
要は鉄腕アトムを原型ないし祖型とするような、人間型ロボットを主にイメージしている。
その上で、ロボットと擬人化について、小生がやや気軽というか安易に「ヌイグルミ夢一杯のロボットさ」といった発想を示したのは、やはり誤解の余地が大いにあると改めて痛感する。
(前稿でも、また拙稿「田近伸和著『未来のアトム』を読了して」の中でも重要な観点の一つとして身体性の問題を扱っているが、その問題も、ちょっと惜しいけれどここでは素通りさせてもらう。)
というのは、この雑文で小生が(頭の中で勝手に)前提としていたのは、擬人化は人間が関わる限り、「人に近い形および機能を持つ機械」でなくとも、そもそも「自律的に何らかの自動作業を行う機械」であれば、それどころか、動く機構が一切備わっていない場合でさえも、人間は対象物を擬人化して見たり思い入れたりするものだよ、という意見を述べてみたに過ぎないのだった。
だから、擬人化が(いろんな方向での擬人化の可能性がありえるだろうが)常に関心事になるけれど、そもそも人間とは何かがまるで雲を摑むような話であることはこの際度外視するにしても、安易にこれが擬人化されたロボットだとばかりに何かの現物が目の前に提示されたなら、とりあえずは、どの機種であっても(つまり、実際にはどれほど不完全なものであっても)、人は対象に「こころ」があるかのように扱ってしまいがちなのではないかと思う。
ただそれだけのことを書いてみたに過ぎないわけである。
ただ、ある段階を過ぎると、メーカー(技術者群)が提示したロボットが、あまりに出来すぎていて、その動作に人間味を感じ、逆にこの場合にはこう動作し反応するほうが人間的だ、それどころかあるべき姿や振る舞いだとなって、まるで人の行動の上での見本・お手本にさえ、いつかロボットがなりかねないような気がする。
人と会ったら挨拶する。首を相手や状況に応じて所定の角度で曲げ、場合によっては握手をし、愛想笑いを浮べ、気候の挨拶など取り留めのない話題でお茶を濁し、名刺など差し出し、老人は敬い、婦女子には優しく接し、右の頬を叩かれたら左の頬を笑って差し出し、ゴミは捨てない、ゴミを目にしたら拾う(国家や内閣が示した倫理規範に外れた、教育基本法の改正に反対するような人間もゴミとして排除し!)、赤紙が来たら躊躇なく国家のために身命を賭し、敵(あくまで国家が敵味方を識別する)は倒し、国旗・国歌には敬意を示し……、そんなロボットでありたいわけない!
いずれにしても、擬人化の方向に終わりがあるとは思えないけれど、ある段階を超えると、危険水域に達する怖れは近い将来、十分にありえる。
それに、人間より(少なくとも自分は人間だと思っている大方の我々より)人間味溢れるロボットは現実化されてしまう可能性は近い将来にありえるかもしれない。
さて、ロボットの擬人化の問題だが(小生はロボットの問題にも疎いのでロボットという観点を当面、忘れて)、とりあえず「擬人化」や「擬人観」といった事柄をまず一般的に見ておきたい。
またまた「擬人観 - Wikipedia」を参照する(凄いねー。どんな話題でもネットの世界では対処してくれる。この話題でも、既に先人が道先案内をしてくれている!)。
冒頭に、「擬人観(ぎじんかん)とは人間以外の動植物、無生物、事物、自然、概念、神仏などに対し、人間と同様の姿形、性質を見いだすことである」とある。
「日本では伝統的・宗教的に偶像崇拝がタブー視されにくかった為、擬人観に対する抵抗が低い。このため日本人は無生物であるロボットに対しても擬人視して扱うことが多い。日本においては「森羅万象全ての物に魂が宿っている」という多神教の考えもあるため、擬人視は神道に通ずるものもある」などと、われわれの関心事に事寄せたような説明さえ散見される!
(下手すると、小生などは、少なくとも日本人の多くは、擬人視せずにロボットのことも、あるいは人間に関わることも考えることはできないのではないかと、つい早計にも断言したくなる! 俳句などに親しまれると、実感されるかも。)
さて、上掲の頁(項目)によると、「擬人化(ぎじんか)とは擬人観を元に、対象を人間のように見る(表現する)ことである」として、「擬人化の具体例をあげると、まず自動車や鉄道車両の絵を描く際に車体前面を人間の顔に模して描いたり、ペットの動物や観葉植物に対し、人間相手のように話しかけたりする行為などが挙げられる」と説明されている。
pfaelzerwein 氏が、拙稿「ヌイグルミ夢一杯のロボットさ」に寄せてくれたコメントの中で、「「擬人化された自然としてしか見ることができないのだ」は、なかなか重要な一節と思いますが、もともとここでロゴスとパトスとしての列記への本質的な問いかけです。例えば、乗り物などの人工物の擬人化はかなり一般的です。しかしそれに比べて、例えば岩石とか風、水を人形を取らずに擬人化することは殆ど無い。鉄はどうか?」と、鋭い指摘をされている。
けれど、形見などの事例を小生が出したように、擬人化するのに、日本人などは少なからずの人は、人形(「人の形を模したもの、という一般的な意味も含めて)を採らなくとも、可能のようだと思える。車に愛称を付けて大切にしている(可愛がっている)人は珍しくないのではないか。
擬人化の問題の裾野の広さはただならぬものがあると思ってもいいわけだ。
この擬人化の方向にアニメ文化が合体したら、一層、事柄が複雑になるが、また、一層、日本的な様相を呈すると想像しても無理はないだろう。
もう、「アニメ - Wikipedia」を参照する余地はなくなったが、アニメ(anime)はもともとはアニメーション(animation)の略のはずだったが、現在では既に「アニメ(anime)」で日本のみならず世界に普及している。世界に冠たる日本オリジナルの文化なのだ。実際には、19世紀の浮世絵以上に日本を印象付けていると思っていいだろう。
そのアニメだが、「アニメの語源というのは、ラテン語ではanima/animusに相当するもので、もともと気、電気という意味だそう」な(「アニメ論考」より。「私がパペットアニメに魅了される1番の理由というのはたぶんそれで、コマ撮りっていうのはセル画や実写と比べてまさに背景にオートマティックな、機械的なものをより感じることが出来るものだと思います」といた話に深入りするのも面白そうだが、これも今は諦めておく。ましてフロイトの『無気味なもの』や、ユングの世界のことは脳裏に浮かべることすらやめておく。ああ、「アートアニメーション」ってのもあったな……)。
「アニマ(Anima)」とは、「ギリシア語のanemous(風)に由来する」とか。
風というと、土を連想し、ふと、ゴーレムのことを思い起こしてしまった。
「ゴーレム - Wikipedia」によると、「ゴーレムは、ユダヤ教の伝承に登場する自分で動く泥人形。「ゴーレム」とはヘブライ語で「胎児」の意味。作った主人の命令だけを忠実に実行する召し使いかロボットのような存在。運用上の厳格な制約が数多くあり、それを守らないと狂暴化する」とか。
「土(ヘブライ語アダマー)に鼻からルーアハを吹き込まれた事から、アダムもまたゴーレムであったのではないかといわれている」のは、知る人は知っている。
話が紆余曲折しているが、要は、擬人化なんてのは、少なくとも日本の場合、人の形などに拘る必要はなく、森羅万象が擬人観の目で見てしまうもの、擬人化の対象になりえるのだということだ。
ロボットの問題で擬人化がテーマになりやすいが、その前途は遼遠どころの騒ぎではない。
前稿(「ヌイグルミ夢一杯のロボットさ」)で書いたように、そして、ロボットの話題に限らず、「いずれにしても、ロボットの技術、特に日本が得意とする人間型ロボットの研究は加速度を増して進展していくのだろう」としても、「その際でも、究極のところ、人間とは何か、この世界とは何か、世界を何かと考える人間とは何かが問われてくることは間違いないと小生には思われる」という、元の木阿弥のような結語に至ってしまうというお粗末の一席なのである。
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コメント
申し訳ないです。私のような素人は簡単に話を広げてしまいとんでもない所に迷い込んでしまいます。
しかし、それにしてもゴーレムとはまたえらい所に来てしまいましたね。NETをみると驚くことばかり。中欧での語りつがりは宗教改革のボヘミヤやヴォルムスなど地域的にぴったり適合しています。やはりユダヤ教の伝統とプロテスタントとは相反発するような確りした関係がある。小説化しているマイリンクやETAホフマンだけでなく、カフカなんかも思い出してしまいます。
「擬人視せずにロボットのことも、あるいは人間に関わることも考えることはできないのではないか」-これはまた芝居の仮面劇とかにも通じるような抽象化・一般化が存在しているような気がしますね。全く正反対方向の行為でしょうか。
「日本が得意とする人間型ロボットの研究」も本当は擬人化せずに一神教的な創造物と信じていると行き着く場所が異なるでしょう。ユダヤ系の学者が到達する世界はやはり違う。
投稿: pfaelzerwein | 2006/09/30 21:02
pfaelzerweinさん、すみません。ネタに困ると、つい人様に頼ってしまう。
日々、書くのは楽しいけれど、ネタ探しって難しい。
ロボットの話は裾野が果てしなく広いと、改めて直感しました。
ゴーレムの話は、これは単独で採り上げるに値する興味深い話題です。
そのうち、ざっとでも調べてみたい。ユダヤ系の思想・世界観と日本的湿潤な万物に神を見る発想との違いとも絡めて。
投稿: やいっち | 2006/10/01 02:55