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2006/09/08

カーニヴァルテーマ「太陽」(4)

 久しぶりに図書館へ足を運んだ。返却期限が来ていた本もあり余儀なくではあったけれど、散歩も兼ねてのんびり行った。
 返却したのは、アンドルー・H. ノール著の『生命 最初の30億年―地球に刻まれた進化の足跡』(斉藤 隆央訳、紀伊國屋書店)、金子 務著の『江戸人物科学史―「もう一つの文明開化」を訪ねて』(中公新書)、ミヒャエル・エンデ 著の『鏡のなかの鏡―迷宮』(丘沢 静也訳、岩波書店)の三冊。
 いろいろあって感想文が書けない。「読書拾遺(浅草の後で…)」の中でこれらに触れるのがせいぜい。

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→ 白洲 正子著『木―なまえ・かたち・たくみ』(平凡社)

 借りてきたのは、『世界の名著 59 マリノフスキー/レヴィ=ストロース』(中央公論新社)と小生の好きなエッセイストの白洲 正子著『木―なまえ・かたち・たくみ』(平凡社)の二冊、同時にCDだが、内田奈織さんのハープ演奏『 HARP TO HEART~Love&Favorite Songs~ 』も一緒に借りてきた。

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← 冨田勲のCD「ドーンコーラス

「音楽拾遺…ヴィラ・ローボス他」へのコメントでヴィラ・ローボスなら「冨田勲の「ドーンコーラス」というアルバム」をと推奨されたのだが、さすがにアルバムは(ヴィラ・ローボス関連の書籍も)図書館に設置してあるパソコンで検索しても見当たらなかった。
 けれど、そのパソコンの脇のCDラックをふと見たら、上掲の内田奈織さんのCDがあって…、目に飛び込んできたのである。
 これは借りるっきゃない!
(ちなみにこのブログ日記も彼女のハープ演奏を聴きながら書いている。実に優雅だ!)

世界の名著 59 マリノフスキー/レヴィ=ストロース』は1967年に初版が出ているが(当時は中央公論社)、小生が読んだのは大学生になってからだから、72年か73年の頃か。
 ということは、30年以上ぶりに読み返すことになる。
 というのも、本書にはレヴィ=ストロースの名著『悲しき熱帯』が含まれており、しかも、過日のブログでも触れたが、文化人類学の舞台はブラジルなのである。サンバの発祥の地ではないか。
 初めて読んだ当時とは違う気持ちで読めるような気がする。ま、マリノフスキーの書も併せ、大著なので、ゆっくりじっくり読んでいきたい。

 久しぶりに図書館へ足を運んだ…。
 久しぶりつながりで書くと、木曜日のお昼頃、部屋に掃除機を掛けていたら、壁際に黒っぽい染みが。
 よく見たら、それは蜘蛛だった。ああ、もしかして、あの蜘蛛か。本当にあの蜘蛛なのか。
 我が部屋の友は唯一、蜘蛛君だけ(他にダニなども無数にいるだろうけど、なかなか姿が見えない)。
 それにしても、初めて見た四年前よりは勿論、昨年の春、久しぶりに見かけたときよりも一段と大きくなって!

 さて、本稿「カーニヴァルテーマ「太陽」(4)」は、「カーニヴァルテーマ「太陽」(1)」や「カーニヴァルテーマ「太陽」(2)」「カーニヴァルテーマ「太陽」(3)」に続くものである。
 本稿を綴るにあたっての方針その他については上掲記事の冒頭部分を参照願いたい。
 言うまでもないが、我がサンバチーム・リベルダージ(G.R.E.S.LIBERDADE)の今年の浅草サンバカーニヴァルテーマ「太陽」を巡っての雑記であり、画像はいずれも、画像の使用を快諾してくれている「Charlie K's Photo & Text」(あるいは、「Charlie Kaw, Photos and Texts」)からのものである。

パシスタ

 ふつうブラジル人なら誰でもサンバのステップを踏めるが、こみ入った特別なステップを踏める人はなかなかいない。それができる人はパシスタと呼ばれる。エスコーラの最も重要なパシスタはポルタ・バンデイラ(団旗を持って踊る女性)とメストリ・サラ(祭りの引き立て役の男性)だ。この二つのキャラクターは19世紀のソシエダージの時代に遡るきわめて古いものだ。ポルタ・バンデイラはエスコーラの旗を振りながら優雅に踊り、メストリ・サラは彼女のまわりをエスコートしながら力強く踊る。(p.62)
(クリス・マッガワン/ヒカルド・ペサーニャ著『ブラジリアン・サウンド―サンバ、ボサノヴァ、MPB ブラジル音楽のすべて』(武者小路 実昭/雨海 弘美訳、シンコーミュージック)より転記。既に「06志村銀座パレードへ(2)」にて引用している。)

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(以下は拙文なので、引用元は示す必要はないだろう。)
 ただ、感じるのは、ある種の夢幻の感覚である。汗まみれになり、時には炎天下で熱中症に脅かされながらも踊るダンサーたち。
 日頃、体調の維持や管理に神経を払い、ただでさえ忙しい家庭のこと、家族のこと、仕事のこと、あれこれを乗り越え、遣り繰りして、数十分という短い、しかし当人達にとっては濃すぎるほどに濃密な時間を生き、そして、踊りまくった、自分がやりたいことをやり通した、観客と悦楽の時を共に過ごした、サンバチームのメンバーが息を合わせて、一つのステージをやり遂げたという満足感に、浸る。
 その当人たちにしても、当日は興奮醒めやらないままに過ごすとして、一夜明けた朝には、前日の興奮は夢だったのか、という感覚を持つことがあるという。
 燃えた時は、夢だったのか、まさか幻ではなかったのか。そんな感覚にしばし襲われることがあると言うのだ。だからこそ、みんなの前で踊る喜び、楽器を鳴らす喜び、最高の音楽に目一杯浸る快感を、もう一度味わいたいと思うのだろう。
 そのもう一度楽しみたいという欲求は、観たいというギャラリーの欲求などの比ではないはずだろう。

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 その上で、写真などを、改めて見ると、一体、写真に何が残っているのかと思う。何かが残っている。過去に実際にあった何かが残っている。当事者としてか、ギャラリーとして、カメラ小僧として立ち会ったに過ぎないかはともかく、その写された瞬間の何かが残っている。
 何が残っているかは、写真を見る人が何を感じるかで大きく左右されるのだろう。だから、誰が見ても同じ一定の何かが残っているわけではない。写真を観る人の過去の現実との関わりの深さ、思い入れの深さによって感じるものは多様でありえるような、そんな何かが残っていることは、確かなのだろう。
 でも、小生などが感じることは、ちょっと大袈裟に言えば、ある種の無常の感覚のようなものだ。その確かに現実にあったことなのだが、しかし、手の中にあるわけもなく、映像や画像や音声を除けば、実際には現物の欠片さえも、そこにあるわけもない、その現実の影、幻、夢だけが虚構の空間にあるに過ぎない。

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 虚構の空間とは、言い換えると、脳裏の一番奥の心の髄にこそ可能な舞台である。虚構とは、現実からその骨も皮も血さえも抜き去ったエキスのみが漉し残された夢幻の真実しか登場することを許されない空間のことである。
 虚構とは、あまりに真実であり、心に突き刺さった棘であるが故に、時に忘れ去られ、遺棄された心の真実の仮初の現在の場、夢の舞台のことなのだ。

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 全ては過ぎ去る。だからこそ、人は、生きて、新たな手応えを求める。過去の充実は、熱い。その熱さに感懐深く浸るのも時には構わないのだろう。しかし、自分に多少でも新たな舞台への挑戦の意欲があるのならば、一層、痛切な過ぎ去り行く時間の残酷を予感しながらも、現実のステージで新たに何かを成し遂げたいという欲求を呼び覚ます。
 恐らくは、ダンサーに限らず、何かを成し遂げたいと思う人は、誰よりも栄光の時の充実の素晴らしさと共に、ある種の空しさを覚えるのではなかろうか。過去は過去。求めるのは、今であり、今に続く近い将来の感激と興奮なのだ。
 生きることを欲し、今以上に生きることに渇望する人は、写真を見れば見るほどに、次へ先へという欲求に駆られるのではないか。
 その意味で、写真とは、生きることに堕したくないと思う人ほどに、残酷なほどに生きることの無常を人に突きつける匕首のようなものなのだろう。そしてその無常感は、一層、深く熱く生きることを渇望させる。
 無常の観念は、焼けたトタン屋根のように、人を躍らせる。そして、踊る阿呆を選んだ人は、誰よりも無常感に焼け焦がれている人でもあるのだ。

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 他の音楽ジャンルの世界だって土俗性に満ちていたりとか、大地と接する感覚、土を裸足で踏み締め、ありあわせの、まさに間に合わせの楽器とも呼べない木の棒や杖などで木の幹や鍋やバケツや空き缶を叩く、擦る、撫でる、道端の砂利をギュッギュッと鳴らすような、そんな原始的な要素がプンプンしている音楽もあるのだろう。
 が、音楽性や演奏の技術の洗練度は、これは上限がないのは、他のジャンルもサンバも同じで、演奏や歌や踊りに携わる方の努力や才能に依るのだろうが、どこまで高い技術を獲得したとしても、土の感覚を忘れないのがサンバなのではないかと、小生は勝手に思い入れしているのである。
 大地を踏む、大地と戯れる、大地に寝そべる、大地に抱かれる、大地の上で目一杯の演技をする、大地の上で飛び跳ねる、男女が交歓する、音と踊りの交響を演じる、人と人との、日常においては余儀なくされている分け隔てを、束の間の一時(ひととき)であっても、取っ払ってしまう。誰もが一つの時間と空間と歓喜を共有し享受し合う。

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 生きているとは、肉体が生きていること、脳味噌の出来とか、社会の中での役割に見合った程度の断片化された身体などに制約されるのではなく、そんな逆立ちした後ろ向きの人間性に縛られるのではなく、まさに丸ごとの人間。頭も胸も腰も腕も脚も、とにかくあるがままの肉体の全てをそのままに、今、生きている地上において神や天や愛する人や知り合った全ての人に曝け出すこと、それがサンバなのではないか。

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 全ては過ぎ去る。だからこそ、人は、生きて、新たな手応えを求める。過去の充実は、熱い。その熱さに感懐深く浸るのも時には構わないのだろう。しかし、自分に多少でも新たな舞台への挑戦の意欲があるのならば、一層、痛切な過ぎ去り行く時間の残酷を予感しながらも、現実のステージで新たに何かを成し遂げたいという欲求を呼び覚ます。

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 為政者の思惑、カーニバルやパレードをイベントとして、何かの呼び物として利用しようというマスコミや商店街の思惑、観客として女性の裸体に近い体を眺めて楽しみたいという観客の欲望、踊る男性の弾む肉体を堪能したいという欲望、そうした一切の思惑をはるかに超えて、ひたすら生きる喜び、共に今を共有する歓びを確かめ合いたい、そういう肉体の根源からの歓喜の念こそが、何ものにも優るという発想、それがサンバなのだと感じる。
 踊れる者も、踊れない者も、観る者も、観られる者も、支配したいと思うものも、支配の桎梏を脱したいと思うものも、すべてが肉体の歓喜に蕩け去ってしまう。

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 でも、肉体は、肉体なのだ。肉体は、我が大地なのである。未開のジャングルより遥かに深いジャングルであり、遥かに見晴るかす草原なのであり、どんなに歩き回り駆け回っても、そのほんの一部を掠めることしか出来ないだろう宇宙なのである。
 肉体は闇なのだと思う。その闇に恐怖するから人は言葉を発しつづけるのかもしれない。闇から逃れようと、光明を求め、灯りが見出せないなら我が身を抉っても、脳髄を宇宙と摩擦させても一瞬の閃光を放とうとする。
 踊るとは、そんな悪足掻きをする小生のような人間への、ある種の救いのメッセージのようにも思える。肉体は闇でもなければ、ただの枷でもなく、生ける宇宙の喜びの表現が、まさに我が身において、我が肉体において、我が肉体そのもので以って可能なのだということの、無言の、しかし雄弁で且つ美しくエロチックでもあるメッセージなのだ。

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コメント

こんにちは。
冨田さんの「ドーン・コーラス」のジャケットが目に入り、何の話かしら~と興味を持ったのですが、ヴィラ・ローボス氏については名前も知らず検索してみました。
ホイッスル・トレインの作曲者さんだったのですね!

「ドーン・コーラス」は発売とほぼ同時に買って聞きました。
レコードに針を落とした時の、頭をしたたかに殴られたような衝撃をよく覚えています。
懐かしい・・・

投稿: 縷紅 | 2006/09/08 12:30

縷紅さん、冨田さんの「ドーン・コーラス」を「発売とほぼ同時に買って聞きました」とか。なるほど、知っている人は知っているのですね。
富田さんは知っていたけど、「ドーン・コーラス」は初耳でした。

今は、借りてきた内田奈織さんのCDを聞いているけど、今度は冨田さんの「ドーン・コーラス」かヴィラ・ローボス氏の曲を聴いてみたい。

投稿: やいっち | 2006/09/09 07:43

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