カーニヴァルテーマ「太陽」(8)
自転車通勤も、来週早々には一ヶ月となる。早いものだ。バイク(8/19)の日にバイクを手放し、自転車に切り替えたのだった。
一ヶ月を経て、自転車通勤に慣れたかというと、まだまだなのが実際のところ。やはり、二ヶ月から三ヶ月は経ないと、スイスイと坂道を越えて会社へ、というわけにはいかないようだ。
水泳だって、通い始めて三ヶ月ほどして、或る日、気がついたら、ウエストが随分、絞られているのに気がついたっけ(もう、十年以上も以前の話で、今じゃ、すっかり、リバウンドしてしまっているが)。
ベルトの穴が一つでも減ったら、喜んでこのブログに書くつもりだが、さて、その日はいつ来るのやら。
→ 太陽のアレゴリア
本稿は、「カーニヴァルテーマ「太陽」(7)」に続くもの。
また本稿は、我がサンバチーム(エスコーラ)・リベルダージ(G.R.E.S.LIBERDADE)の今年の浅草サンバカーニヴァルテーマ「太陽」を巡っての雑記であり、画像はいずれも、画像の使用を快諾してくれている「Charlie K's Photo & Text」(あるいは、「Charlie Kaw, Photos and Texts」)からのものである。
← アンドリュー・パーカー著『眼の誕生――カンブリア紀大進化の謎を解く』(渡辺政隆/今西康子訳、草思社)
用語については、「サンバ(ブラジル)関連用語解説」を参照。この頁は徐々に充実(訂正・加筆)していくつもり(本日も追記した!)。時間があったら画像も添付したいもの。
我がチームのテーマ「太陽」を巡っての散策は、今回を以て終わりとなる。
次は、いよいよ浅草テーマについて、一般的な形で考えてみたい。どうなることやら。
アレゴリア
ブラジルのカーニヴァルは、ニューオーリンズの「マルディグラ」やスペイン語圏の他の国々で行われるものと同様、四旬節の前に行われる祭りで、そもそも古代ギリシャやローマ人たちの行っていた前キリスト教的な祭りを起源とするものだ。紀元前6世紀ころ、ギリシャ人たちは、酒や自然の力の神様であるディオニソスを祝う春祭りを行っていた。この祭りでは人々が町を練り歩いて浮かれ騒ぎ、山車などが出ることもあった。この季節の祭りをローマ人たちは、奴隷と主人が服を着替えて立場を逆転し大騒ぎするサチュルナリアや、ディオニソス神のローマ版であるバッカスを祝う酒の祭りなどに発展させた。こうした祭りは、たいてい酒に酔って乱痴気騒ぎとなり、あらゆる権威は面目を失ない、社会秩序が逆転し、すべてが無礼講となった。(p.54)(クリス・マッガワン/ヒカルド・ペサーニャ著『ブラジリアン・サウンド―サンバ、ボサノヴァ、MPB ブラジル音楽のすべて』(武者小路 実昭/雨海 弘美訳、シンコーミュージック)より)
→ 一際目立つのは、モレーナちゃん!
← グルグル回って、愛嬌を振りまいていた。
テーマはいくつかの章にわかれて表現されますが、それぞれの章のクライマックスを飾るのがアレゴリアです。
アレゴリアとは、日本語だと"山車"が一番近いでしょう。装飾を施した山車を、車で引いたり人力で押したりします。
ブラジルでは、パレードの最初に登場する、一番派手なアレゴリアのことをアブリ・アーラといい、各エスコーラとも一番ちからを入れ、たくさんお金をかけ、装飾や仕掛けに凝ります。
また、アレゴリアに乗っている人のうち、メインの人を"ジスタキ(=目立つこと)"、その他の人を"コンポジソン"といいます。
(「G.R.E.S. LIBERDADE---ブラジルのカーニバル:サンバカーニバル--- 構成要素」より。)
アーラとアーラの間にはエンヘードの重要なシーンを描いた装飾の施された巨大な山車、カーホ・アレゴーリアが出る。この山車は、彫刻、建築、それに機械工学が合わさった真の芸術作品といえるものだ。この山車の上にはデスターキ――豪華な衣装を着た、もしくはほとんど何も身につけていない男女――が立っている。この山車を作るには何百という人々の手が必要とされ、期間も半年におよぶ。お針子、彫刻家、大工、鍛冶屋、画家たちが、パレードの最後の最後まで蟻のように忙しく働いてやっと出来上がるものなのだ。(p.62)
(クリス・マッガワン/ヒカルド・ペサーニャ著『ブラジリアン・サウンド―サンバ、ボサノヴァ、MPB ブラジル音楽のすべて』(武者小路 実昭/雨海 弘美訳、シンコーミュージック)より)
← アブリ・アーラ:望遠鏡と天球儀
→ アブリ・アーラ:ギリシャ神殿
5,6月頃からサンビスタ(サンバをやる人)たちの生活からプライベートな週末は消える。パレードなどのイベント出演・練習,そして「制作作業」に,すべての土日祝日は費やされるのである。
制作作業の中でもとりわけ労力を要するのが,装飾山車「アレゴリア」作りだ。トップリーグに所属する要件にアレゴリアを出すということがあり,大型チームはどこも,凝りに凝ったアレゴリアを競い合う。名古屋から参加するチームですら,懸命にアレゴリアを運んでくるのである。
(「サンバでガンバ VOL.5|ネピア」より)
虹のアーラ(ベリーダンサー)
「アーラ(ala)」とは、「カーニヴァルのパレードの時、エスコーラ・ヂ・サンバを分ける小グループのこと。「班」や「連」のようなもの」(用語解説の頁参照)。
また、「アーラ(ala)」とは、「衣装と動きでその年のテーマを表現します。集団美です。一糸乱れぬ動きで観客を魅了する高度な振りが付けられたアーラがあれば、振付のない(観光客でも衣装を買えば参加できる)アーラもあ」るというもの。
サンバ関連では、「ファンタジア(Fantasia)」という用語がある。あるサイト(「G.R.E.S. LIBERDADE---ブラジルのカーニバル:サンバカーニバル--- 構成要素」)では、「衣装。綺麗で豪華でありさえすれば良いなどというものではありません。衣装のひとつひとつも、テーマを表現するための手段です。よって、そのテーマによって、コミカルな衣装、恐ろしげな衣装、など様々なものが出てきます」と説明されている。
エンヘード(enredo:テーマのこと)に、アレゴリアに、バテリアにと知恵と工夫の限りが尽くされるが、パレードでは、人数が多いこともあり、デザインと創意工夫に溢れた各アーラこそが、その印象を決定付ける面があるのかもしれない。
ファンタジア(Fantasia)とは言い得て妙という気がする。イリュージョン(illusion)と混同しては拙いのだろうが、幻想であり幻覚なのかと思うほどにある種のヴァーチャルな時空間がパレードのコース上に現出する。
その意味で、誰が考え出したアイデアなのか、「虹」のアーラというのは、「太陽」というテーマの究極のイリュージョンでありファンタジアだったような気がする。
「虹」の画像を見るなら、「虹 rainbow」がいいかも。しばし、うっとり。
小生などは、虹について情けない思い出がある。小学生になっていたかどうかという頃、近所のガキ連中が集まっていた。雨上がり。晴れ間。ふと見ると、空に見事な虹!
誰が言い出したのか、
「虹の根元へ行ってみようよ」
誰にも異存はなかった。一斉に駆け出した。
虹の彼方へ…、ではなく、虹の根元目指して。
その時、その場にいた誰かに吹き込まれたのか、あるいは絵本か漫画の本で入れ知恵されていたのか、小生、虹の根っこには宝物が埋まっていると思い込んでいた。
宝物。夢の宝物じゃなく、大判小判に宝石に…。
虹を目指して駆けながら、もう、金目のものに目が眩んでいたのだった。夢も何もあったものではない!
さて、虹を目指して何処までも駆けて…、一体、どうなったのか。
気が付いたら、小生は一人ぼっちになっていた。宝物どころか、迷子になった自分がいるだけだった。欲得に駆られた惨めな結果だった。
虹という夢と幻想を目ざして、ひたすら駆けていく、そんな自分なんかじゃないことに、つくづく落胆したっけ。
虹。後年、高校生になった小生は、デカルトを読み、「屈折光学を始めとする光学現象をはじめて機械論的に取り扱おうとしたのは,デカルト(1596-1650)である」ことを知った。
また、ニュートンの光の理論を学んだ。ニュートンは、レンズとプリズムを使って、「白色光は均一な光ではなくて多くの異なった色の光線から成っており,各光線の屈折率がみな違うために,プリズムを通った白色光は細長い色帯になる」ことを示した。
(「科学の歩みところどころ 第19回 スペクトルの謎 森 一夫 児島昌雄」参照。)
虹が解析されて幻滅? そんなことはないと思う。むしろ、光の世界という不思議の空間の扉が開かれたのだ。未だに、その奥へは辿り着けていない。
そういえば、「虹の七色」というイメージ(固定観念?)をもたらしたのも、かのニュートンなのだとか。→「虹 - Wikipedia」
(ニュートンが虹の七色に拘ったのには、プラトニズムとの関連もある。それはまた、ターレス以来の音楽(音階)の理論、音的諧調の世界という伝統との関わりもあった。この点は、後日、時間があったら、メモってみたい。)
「望遠鏡と天球儀」というアプリアーラ(山車)が今年、太陽というテーマとの絡みで出されていた。望遠鏡、顕微鏡、天体望遠鏡。近代はレンズが齎したといって過言ではない。望遠鏡で空を観て天と地のありようを知り、地が丸いことに確信を持ち、望遠鏡で遠くを見ることが可能になったことで、どんな異界の地も予め探りを入れて、そうして探検していった。
極微の世界へも人の目と知とは分け入っていった。
[ 極微の世界というと、「カーニヴァルテーマ「太陽」(3)」では、「望遠鏡のアーラ」の項で、レンズに着目し、「天体現象という極大(マクロ)ロバート・フックに代表される細胞の発見と観察という極小(ミクロ)の世界がレンズ(の組み合わせ)によって一挙に人間の手に、認識の世界に怒涛のように到来したのである」と書いている。
その極微の世界だが、細胞のみならず、もう一つ、巨大な極小(ミクロ)の世界が探求され始めていることを忘れてはならない。
それは、人体の内部、つまり肉体という最も身近な自然のことである。
「『謎の解剖学者 ヴェサリウス』」なる頁など覗かれると興味深い話を読むことが出来る。
「ルネサンス - Wikipedia」によると、「ルネサンス (仏:Renaissance直訳すると「再生」になる。) とは、一義的には、14世紀-16世紀にイタリアを中心に西欧で興った古典古代の文化を復興しようとする歴史的・文化的諸運動を指す」という。
そのシンボルの一つは、「レオナルド・ダ・ヴィンチによるウィトルウィウス的人間像、科学と芸術の統合」なのである。 (06/09/18 追記)]
近代とはレンズの賜物なのかもしれない。太陽への渇望。光の不可思議。
カンブリア紀に生命の爆発が起きた。多種多様な動植物の類が生まれた。その際、光が大きな役割を果たしたという研究が出ている。それは、動物が「目」を持ったのだ(アンドリュー・パーカー著『眼の誕生――カンブリア紀大進化の謎を解く』(渡辺政隆/今西康子訳、草思社)参照 )。
それまでは、動物は触覚と嗅覚などで敵を、あるいは餌を探っていた。要するに手探りだったわけだ。
が、動物は或る日、「眼」を持ったのである。
光あれ!
世界に光があり、たまたま触れ合った餌を食するという偶然性に頼るのではなく、眼で敵を(餌を)確認し、餌に襲い掛かった。
ここに戦争で言う、軍拡競争が起きた。素手。足。手足より石やこん棒。棒切れより矢や槍。槍や矢より投石装置。やがて鉄砲、大砲、ミサイル…。キリがない。
生物の体も、甲羅を獲得したり、保護色を獲得したり、毒を体に持ったり、逃げ足(逆に言うと追う足)を早めたり、俊敏さを競ったり、とにかく遠くの敵に狙われない、狙われても逃げ切れる能力を持つようになって、一気に動物の多様性が生まれたというのだ。
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