« 馬橋パレード…オートバイとの別れ | トップページ | 06馬橋パレード(1) »

2006/08/20

靖国と歴史認識に関連して

 このところ、小泉首相の靖国神社参拝を契機に靖国問題、ひいては先の戦争など歴史認識の問題がクローズアップされつつある。
 靖国神社側は、どういう権能があってのことか分からないが、A級戦犯者たちを合祀した。
 そのことにより、天皇家の靖国神社への参拝を阻むことになった。ある意味、後戻りできない形で靖国神社側は戦前の体質を露呈させてしまったということなのだろう。

 でも、それもまた仕方がない。靖国神社はあくまで民間の一つの宗教的施設なのであり、どのような思想・信条で運営されようと国家も政治家も忖度はしても、介入はできないわけで、ご自分たちの考えで存続を計るしかないのだろう。

 いずれにしも、今更、A級戦犯者たちの分祀など出来ない相談なのだろうし(そもそも分祀ってどういうことなのか、分からない)、分祀が可能だとしても、それはあくまで靖国神社からの分祀という経緯が付き纏う。
 一度、やってしまった(合祀という)事実は消えないのである。

 要は、明確になったのは、靖国神社が果たした役割に取って代わるという意味ではなく、天皇家も、アジアの犠牲となった方々も、戦争に行かされ犠牲となった人々も、クリスチャンの方たちも、共に追悼し平和を祈念するには、新たに国立追悼施設を作るしか他に道はないということだろう。

 そうした追悼施設ができて、一定の役割を日本において、またアジアにおいて果たすようになった段階になれば、そのときには、国家の指導者も靖国神社に(何処かの誰かさんのように、こっそり)参拝しても、他国にも日本の心ある人にも顰蹙を買われることはあっても、殊更、問題にはしなくなるだろう。

 それには、今から少なくとも五十年以上の反省の時間を要すると思われる。気の短い日本人には戦後60年余りは長いと感じるかもしれないが、アジアレベル、世界レベルからしたら60年など、つい昨日のことなのだ。特に、経済復興に邁進し、倫理的道徳的問題という辛い問題から眼を背け逃げてきた日本の人々には、これからようやく戦争の現実と歴史に向き合うことになるのだと思う。
 ようやく!

 靖国神社問題は、先の戦争をどう評価・認識すべきかの問題のその一部なのだと思う。
 同時に、日本において神道がどうあったのかを歴史の観点から見直すことも肝要と思われる。
戦争体験の継承」(2006/08/11)にて、15年戦争に関する記事を集めておいた。
 以下、小生が書いた靖国神社や廃仏毀釈など、関連記事を示しておく。

 
廃仏毀釈補遺」(2005/07/10)

 関秀夫著『博物館の誕生―町田久成と東京帝室博物館』(岩波新書)の中で(本書の主題ではないのだが)扱われていた廃仏毀釈の記述を糸口に、明治維新政府による近代化の負の面に注目する。
 古来より日本は神仏習合的な風土の中に生きてきた。純粋な神社も純粋なお寺もあったろうが、庶民感覚からすると、寺社(神社と寺)を截然と分け、別個のものと認識していたとは言い切れない。
 むしろ、多くの家庭には仏壇もあれば神棚もあるのが普通だったりする。
 それを近代化の過程で国家の方針で、無理やり、廃仏毀釈され神道、無論、国家神道が強制された。天皇制も新たな装いで神格化された。
 あまりに急激な改革だったため、神道側は、仏教が担っていた宗教的救済も含め宗教理論や思想の構築が後回しになってしまった。霊をどう扱うか、そもそも霊とは何かも理論的に未だはっきりしていない。

910sinbutu13

← 「松岡正剛の千夜千冊『神仏習合』(六興出版)達日出典」参照。


出発は遂に訪れず…廃仏毀釈」(2005/07/01)

 この記事では、廃仏毀釈の動きに一層、焦点を合わせている。千年以上に渡る神仏習合的な風土を明治維新以降の近代化の波が上からの<改革>で一掃しようとした、その無理と悪夢とが今、グローバリズムの波の襲来もあって、再来・再現しているのかもしれない。
 宗教的な側面に無関心できたことのツケが回ってきたのかも。

荒れ野の40年」(2005/04/24)

 ドイツは先の世界大戦の戦争責任については、徹底した追求と反省が行われた。だからこそ、尊敬も世界において一定の理解もされている。
 その象徴が、リヒァルト・カール・フォン・ヴァイツゼッカー大統領(当時)の「荒れ野の40年」発言だと思われる。
荒れ野の40年」は是非、一読を願いたい。
400004995x011

 一方、日本は戦後、経済復興を優先させた。そう、食べることを優先したのだ。心を大事にする国民性のある国と思いたいけれど、実際は、エコノミックアニマル(衣食足りて礼節を知る)の道を選んだわけである。
 戦争責任の問題、先の15年戦争の反省と評価の問題を先延ばし(頬かむりとも言う)してきたツケが今、回ってきたのではなかろうか。靖国神社参拝問題(A級戦犯合祀問題)は、その一側面なのである。
 小泉首相の靖国神社参拝強行は、中国や韓国そのほかのアジアの国々の感情を刺激した以上に、日本は未だ戦争責任の問題を国民的な課題として担いきれていなかった現実を露呈させたという(意図せざる、あるいは負の意図的)功績を結果的に残したことになるのかも。

4101164037092


出発は遂に訪れず…」(2005/06/30)

 島尾敏雄著『死の棘』『出発は遂に訪れず』を糸口に戦争や特攻、靖国問題を考える。
「天皇、皇后両陛下が27日、慰霊を目的にサイパン島(米自治領)を訪問されたの」を契機に書いた小文である。

「靖国で会おう」という言葉がある。合言葉と言うべきか。
 その本音は何処にあるかを考えるべきではないか。靖国神社なのだろうか。そう思って死んだ人もいるのかもしれないが、むしろ:

 小生は、「靖国で会おう」とは、つまりは、故郷(ふるさと)で会おう、生まれ育った地で会おう、生まれ育った家で家族と会おう、友と会おう、恋人や両親、家族、子ども等、恩師らと会おうという意味だと思う。
 つまり、「靖国」というのは、本音においては、郷里の鎮守の森であり、地元の神社であり、お寺であり、家の茶の間であり、裏の庭であり、田圃であり、森や谷であり、峠であり、池や川、浜辺などを意味するのだと思う。

 この記事では、「天皇、皇后両陛下が27日、慰霊を目的にサイパン島(米自治領)を訪問された」こと、その際、「韓国人犠牲者慰霊の「韓国平和記念塔」をも訪れられた」ことなどをメモしている。

4750309842094

●「西野 瑠美子著『なぜ「従軍慰安婦」を記憶にきざむのか』」(May 09, 2005)

 節目。やはり犠牲者の方々が高齢化し、敢えて証言しようと思われた方々も次々と亡くなられているか、証言できなくなりつつある、そんなギリギリの時が迫ってきたからなのだろう。従軍慰安婦問題に限らず、先の太平洋戦争を含む十五年戦争の証言も、その五十年目の節目からさえも十年が過ぎ去り、徐々に途絶えつつある印象を受ける。
 靖国問題は、国内の問題であると同時に迷惑を掛けてしまったアジアの問題でもある、つまり戦争の犠牲者を祀るというが、悲しいかな一部の方たちは中国や朝鮮、あるいは日本国内で(日本軍として企業人として、あるいは軍などの統制を乱した形で)強制連行や従軍慰安婦問題を引き起こしてしまったのである。  戦争の犠牲者であると同時に、一部の方とはいえ、加害者でもあるということ。しかも、多くは他国の領土を侵略し、あるいは併合して悲惨な目に合わせてしまった。  靖国神社に参拝される方には、まさに犠牲となられた方たちの冥福を祈るなど、純粋な気持ちでおられる方も多いのだろう。

|

« 馬橋パレード…オートバイとの別れ | トップページ | 06馬橋パレード(1) »

書評エッセイ」カテゴリの記事

近代・現代史」カテゴリの記事

目次・索引」カテゴリの記事

コメント

靖国に祭られている人は「天皇陛下万歳」と叫んで死んでいったのですよね、「日本国万歳」とは叫んでいない。
英霊を弔うならばやはり総理大臣より天皇陛下が参拝すべきなのですが、昭和天皇は「私の心だ」といっていかない。
現在の天皇陛下はむしろアジア各国の戦没者の弔いに精をだしておられますね。
ところで靖国の本殿の左奥に「鎮霊社」がありますね、このことの意味をマスコミはもっと考える必要がありはしないかと。

投稿: oki | 2006/08/20 11:51

okiさん、口にした言葉を問題にしているのではありません。気持ちを、本音を問題にしているのです。
当然、靖国とか天皇のためと叫び、また思った人も多いと思います。
小生、そのような方たちの気持ちも大切にします。
ただ、同時に、心の中で、「かあちゃーん」とか子どもとか、妻とか故郷の風景を最後の瞬間に思い浮かべただろう方たちも、想像以上に多いのではと思うわけです。
天皇は、首相のように、日本の犠牲者のことしか考えないのではなく、日本とアジアの犠牲者のことを広く追悼しているのだと思います。
(アメリカの犠牲者のことだけは―憶測ですが―思わないと推定しています。原爆の被害に遭った人、捕虜になり日本軍に殺された人は別でしょうが。)

遊就館で示される戦争観がある限り、靖国神社の過去と向き合わない体質はそこで示されていると思われます。追悼と言いつつ、顕彰の施設になっているわけです。

鎮霊社は、なんだかその位置からして、エクスキューズに思えます。天皇のために死んだ人以外は、鎮霊社へ、というわけです。
遊就館に、中国や韓国、東南アジア、オーストラリアなど広く15年戦争で犠牲になった人の姿や惨状を示す展示物(無論、南京虐殺の資料も含め)も置くことを考えたらと思います。
遊就館の展示や展示物の発想の在り方を根底から変えること。これだけでも、相当に靖国神社の印象が変わると思います。

投稿: やいっち | 2006/08/20 12:37

「靖国神社はあくまで民間の一つの宗教的施設なのであり、どのような思想・信条で運営されようと国家も政治家も忖度はしても、介入はできない」-

これはどうでしょう。宗教法人と言えども、遊就館では無いですが原理主義的な行動を推奨するとなると、これはテログループと同じで監視して行かなければいけない。イスラム過激派と代わり映えしません。

「宗教理論や思想の構築が後回し」が問題ならば、むしろ大東亜共栄圏の思想や東京裁判の是非を今の時点で洗い直していかなければいけないでしょう。その時点でアジアの 友 邦 当事者の認知が得られるかどうか?米国も黙ってはいません。ある程度修正出来ても正当化出来ないものを議論しても仕方が無い。オピニオン作りにジャーナリズムが全く機能していないどころか、戦後イデオロギーを演じ続けて未だにタブーを作り上げているのか。

投稿: pfaelzerwein | 2006/08/20 18:45

pfaelzerwein さん、犯罪傾向にある団体や個人となると、予防的に警戒し処置するのは当然だと思います。特に右翼(の一部?)とかは例の加藤紘一氏の母の家などの放火など、無謀で独善的な行動に走りがちですからね。
原理主義的性向のある団体や個人などは徹底してマークしておくべきです。もう、日本共産党を警戒するより、他に対象がいろいろとありそうに思えるのですが。

ただ、思想・信条については警戒はできても介入はできないのでは(団体の性格によっては、国家による内密な形で監視の対象に選ぶことがあるかもしれない)。

国家や政治化が関与・干渉してはいけないとは、小生の舌足らずなのかもしれませんが、分祀とか法人格の与奪とか国家管理とかの問題を念頭においていたつもりだったのです。

>「宗教理論や思想の構築が後回し」が問題ならば、むしろ大東亜共栄圏の思想や東京裁判の是非を今の時点で洗い直していかなければいけないでしょう。

 というのは、小生としても当然だと思います。
後回しにして後ろ向きなのは靖国や靖国参拝を支持する人々の話です。
小生なりに戦争責任や歴史の見直しの作業を細々とやりますし、靖国が後ろ向きの姿勢に固執するのなら、靖国は一部の心ある方の尊崇する施設として静かに脇において(放っておいて)、最近、少し盛り上がりつつある先の戦争の責任問題や歴史認識問題への関心を今の一時的な熱に終わらせることなく、国民的な関心と熱が冷めないうちに、広く議論し検討していくのがいいと思っています。
そのために、先の戦争の反省のあり方を示す、ある種の模範の一つとしてリヒァルト・カール・フォン・ヴァイツゼッカー大統領(当時)の「荒れ野の40年」発言を俎上に載せたのですし、廃仏毀釈問題を例に挙げたのでした。

投稿: やいっち | 2006/08/20 23:12

パソコン故障によりネットカフェからです。
さて、吉本隆明氏が「統帥権だけは内閣の承認を得ずに天皇が直接持っていた。だから本当を言えば天皇は最大の超A級戦犯なのです。その天皇がA級戦犯が合祀されたから参拝をやめたというのは通らない」と述べていますね、なかなかおもしろい。
鎮霊社はA級戦犯を昭和41年から53年の間まで合祀していたところですね、無名の戦没者の墓などというのはあいまいすぎです。

投稿: oki | 2006/08/25 21:01

靖国は、既に後ろ向きの歴史観を体現する歴史上のものなのだと思っています。
日本が前向きに世界の中で堂々と生きるには、靖国に拘っているのは変。小泉首相が総裁選で8月15日に靖国参拝すると公約したことで政治の荒波の渦中に靖国を放り込んでしまったのだね。
ナショナリズムを特に若い人などを中心に煽ることで、自分への支持を高めようとした、姑息で危ない手法。彼・小泉としては成功したと、ほくそえんでいるのかもしれないけれど、国家にとっても国民にとっても靖国神社にとっても不幸だった。政治のオモチャにしてはいけなかったのに。

鎮霊社は前にも書いたようにエクスキューズです。南京虐殺や旧日本軍の愚かで無計画な戦争指揮や、多くは病気や飢えでなくたった現実を、そして加害の歴史、原爆のこと、731部隊などのことをリアルに展示するくらいのことしてほしいね。


投稿: やいっち | 2006/08/25 23:18

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 靖国と歴史認識に関連して:

» 「蟻の兵隊」 [天にいたる波も一滴の露より成れリ]
渋谷イメージフォーラムにて、映画「蟻と兵隊」を見る。 奥村和一という一人の老人が、日本敗戦後も軍の司令官の命令により中国に残留、共産軍との戦闘に突入した国民軍に参加し、その後捕虜となって1949年に日本に帰国してみれば、自分たちは「個人の意思で中国に残留し、戦闘に参加した脱走兵」として軍籍は剥奪、軍人恩給の支給対象にすらなっていなかったことを知る。 奥村氏は「日本の敗戦を知らなかったこと」「自分たち2600名の兵士が、当... [続きを読む]

受信: 2006/08/20 08:13

« 馬橋パレード…オートバイとの別れ | トップページ | 06馬橋パレード(1) »