「路上に風化する…」
別枠にて、「路上に風化する…」と題した小文を原文のまま、載せる。
これは2000年に某フォーラムへの投稿として書いたもの。
当時は未だホームページを持っておらず、何かを書き公表するとしたらフォーラムという場しか選択の余地がなかったのである。
翌年2001年2月初め、ホームページを開設、2月末から3月初めにかけてメルマガを配信していく。
思えば、パソコンを買いネットへの参入を果たしたのが、1999年11月だった。接続の遅さ、反応の悪さ、最悪の場合、書いたはずの原稿が消えるというトラブルに辟易しながらも、とりあえずは、書いたものを(可能性としては)世間に公表できることに楽しみを見出していた。
パソコンを導入(し、ネットに接続)するまでは、89年の1月から使い始めていたワープロに徒然なるままに雑多な小文を書き散らしていた。ほとんど日記みたいなもので、メモ書きであり、瞑想であり、愚痴でありと、日々、思いつくままに書いていった。
フォーラムへの投稿は、そうしたワープロ時代の文章の特長が色濃く残っている。呟き風であり、誰に向って書いているかという焦点が定かでなく、読んで欲しいような、でも、読まれる可能性が皆無で、舌足らずな表現や絞殺であっても、ほとんど読み返すこともなく、書き散らしたままに、フォーラムへ投稿していたのである。
確か、「路上・野外」がキーワードになった投稿を誰かがされていて、そこにちょっと横槍というか横レスを付けてみたもの。
例えば、下記の文中に「ゴッホのようなアーティストは今の美術館は受け入れるだろうか」という一文がある。
これだけでは意味不明で、前後の脈絡から浮いているような、それでいて、書き手としては、結構、緊密な繋がりがあって…と思い込んでいる、そういった反問風な結語。
要は、映像偏重の時代、見かけ重視の時代、服装も小奇麗で、生き方もそつがない、常識をわきまえていることが当然とされる時代にあって、徹底して自分の感性に忠実な人間は、世間に受け入れられる見込みがないのではないか。
美術館も、あるいはどんな場も瀟洒だったりチリ一つ落ちていない磨き抜かれた建物、壁。チリの中には、うさんくさい人間も含まれるのであって、だからこそ守衛さんが異物、異質な輩(やから)を排除せんと見張っている、監視され見透かされた時空間。
最近、特に話題になっている高島野十郎など、本名は弥寿といい、野で果てることを願って後に自ら野十郎と名乗ったというし、絵画も独学だった。
彼のような画家は今もいるのだろう…か。
「路上に風化する…」
ここ数年、美術館とはほとんど縁切り状態。徹夜仕事という事情もあって在宅する日も寝たきり中年という有り様。
それでも今年、久しぶりに好きな清宮質文展があったので重い腰と体を引きずって美術館へ。清宮の作品の数々は小生の贅肉の付いた体にも心にも峻烈そして透明な感覚を一時的にしろ蘇らせてくれた。
また今年は東京都の現代美術館へも足を運んだ。二度目の参観でも相変わらず閑散とした館内をゆっくり見て回った。一つのフロアーに大抵の場合小生一人という状況で、よく言えば独占状態なのだが、貧乏人の根性からいくと何処か居たたまれない感も否めない。
しかしそれでもやはり美術館は敷居が高い。美の館なのだから建物も瀟洒だったり豪華だったりするのかもしれないけれど(それより公共事業的色彩や事情が優先されている?)、いつも何か違和感めいたものを覚えてならない。
それは美の現場、それを制作する現場というのは闘いの場、修羅の精神が炸裂する場であり、更には作者の欲望や制作欲や端的には愛憎が渦巻く場であるだろうと思うし、それが一旦世間の評価を得、美術館に並ぶとなると、それら作品群がまるでよそ行きの表情を示し始める(ように)感じるからかもしれない。
磨きぬかれた大理石の壁や床、落ち着きの気分を醸し出す柔らかな照明。何処かの大企業の受け付け嬢のようなきれいな姉ちゃんたち。訪れる人々も身奇麗でないと白い目で見られる。間違っても薄汚れた格好では黒服ならぬ制服嬢か係員に入場そのものが制止されそうだ。
勿論、実際にそうされたというわけではない。勝手に萎縮しているだけである。
この頃の不況のせいで新しい服などない小生は美を綺麗な器で飾る館には鬱陶しくて(というか係員の鬱陶しそうな顔が辛くて)足が向かないのである。
美は人間の根源的な感覚、欲望、精神に深く結びついている。肉体としての精神、あるいは精神としての肉体の突端の表現に関わっている。
フランスの画家・版画家のロートレックは不具合になった肉体という負い目を、そうした人間であるからこそ抱く普通の男女の交わりの世界への渇望を芸術へと転化した。普通の人々が普通にしている男女の交流の世界、それはそれが許されない人間には唯の挨拶や目配せや仕草であっても宝石以上の輝きと眩しさを放つ。ありうべき普通の大人の恋の世界への心を焼き尽くすほどの渇望の念。
ゴッホのようなアーティストは今の美術館は受け入れるだろうか。
ところで仕事柄、一日中東京の街中を見て回ることが出来る。すると最近、テレビなどでも話題になっている無法・違法なスプレーアートが至るところに見られることに気づく。何処かの住宅街の一角で近所の人間しか目にすることはないだろう場所にもスプレーのアートが撒き散らされている。
そうした行為は違法であることは前提として、その作品(?)の中には非常に力強いタッチの傑作(?)を時折散見することがある。下手に美術学校などには通っていないだろう荒削りな、しかし野性的エネルギーを発散しているアート(?)が見受けられるのである。
もう少し洗練されればそれなりの作品として発表されてもおかしくない作品がなくもないのである。
けれど、洗練と言いながら何処かの専門学校で勉強したなら、上手ではあるけれど綺麗にカットされた頭髪と埃一つない新品の服のように無難で理解が容易な作品の作り手に成り果てるのも否定し切れない。初めから綺麗な美術館や洒落たレストランで飾られるのを予定したかのような真っ当な作品。
小生はヴォルスやフォートリエ、あるいはデュヴュッフェのような抽象表現的な、あるいは生の芸術と呼ばれる作家の作品が好きだ。人間の心の奥の暗い情動や悪意や純粋さの混沌の海が曝け出されたようで、それでいて何故あんなに美の極致に見えるのか不思議だ。
これから描かれたり刻まれたり示されたりする美は何か美術館や画廊などとは全く違う表現媒体・発表の場を待っているような気がする。
だからといって、それが路上・野外なのだと結論付けるのは早計というもの。
現代というのは物質の過剰なばかりの増長・肥大の時代だと小生は思っている。圧倒する物質(物質化した精神)の奔流の波間で心は翻弄されるばかり。そして肥大し加速度を増す情報の奔騰は我々の心をもとことん粉微塵に引き裂く。今日の私は昨日の私ではない。振り向いた瞬時の間に風景は大変貌を遂げていて、一体昨日の私は何処に去ったのかまるで見当もつかないのである。そして今、現に目にしている風景は日々に新たにされた見知らぬ相貌を示すばかり。取り付く島もない。明日の私が無数に分散していて、その何処に私があるかなんて問うのは時代錯誤なのだ。千々に引き裂かれた無数の私の欠片たちがそれぞれに私であることを主張している、固執している、悲鳴を上げている。
明日の私は千切れた紙屑より実体がない。
明日の私は路上・露天に蒸発して姿を見るすべもない。
[某フォーラムへの投稿(2000年12月19日付け)より。2001年、メルマガに掲載。]
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