地球照より地球ショー
このところ、月の話題が多くなっている。お月さんばかりを贔屓にしては、いつも照ってくれている太陽さんが嫉妬して真っ赤に燃え上がってしまうかもしれないなんて、心配になるが、思えば、太陽はいつも燃えているのだった。
なので、ここは一つ、太陽に媚を売るわけではないが、一昨日だったか、車中でラジオから太陽発電の話題が聞こえてきたこともあるし、最新の太陽光発電の話題を採り上げようと思ったが、ネット検索したら、何処だったかに充実したサイトがあって、それを読んだら、めげてしまった。
何も小生ごときがでしゃばる必要などまるでないと思い知らされたのだった。
← 14日の夜半近く、都内某所にて。日中は晴れていたが、夜になって次第に雲が掛かってきた空。白っぽく光っているのが月。右側の薄明かりは街灯。遥かに間近な街灯より月の光の強さが勝っている! 画像は拡大可能。
ただ、それでも従来のパネル(板)状の太陽光発電装置ではなく、液状に近いものが研究段階では成功していて、それを用途に応じて、必要な場所に塗料を塗るようにして塗布するようになるとなったら、太陽光発電(ソーラー発電)の用途と可能性は一気に広がる。
車のボディやビルや家屋の屋根のみならず、外壁や窓ガラス、道路面、さらには砂漠や草原、海の上…と、何処でも発電、何処でも電池ということになる、なんてことなど、書こうかなと思っていた。
が、やはり、先日も「青い月 赤い月」と、月に関する記事を書いてしまって、太陽に関する話題は先延ばししてしまった。
そこへ、クレーン船が送電線を傷つけたことに起因する、首都圏の大規模停電で、ああ、小生が電池や発電の話題を採り上げなかったばっかりに、事故が発生してしまったと、反省しきりなのだった(…そんなわけないけど)。
こうなったら、開き直って、もう少し月の話題を。そう、地球照のことなど。
以前も触れたことがあるし、月に関係する現象に「地球照」がある。
「地球照」という名称は、あるいは人によっては、奇異か初耳に近いかもしれないが、誰しも知っている、あるいは見た事のある現象の一つなのである。
ここは、専門のサイトに的確に説明してもらう:
「地球照」(ホームは、「Let's watch the star! 星見にいこてば」)
そこには、「細い月をよく見ると,暗い部分がぼんやり淡く見えているのに気づくことがあります。月から見る地球は,月の16倍の大きさで,地球で見る満月の80倍の明るさで輝いており,その光が月の夜の部分を淡く照らしだしているためです。この現象を「地球照(ちきゅうしょう)」といい,西洋では,「新しい月に抱かれた古い月」とも呼ばれています。」と説明されている。
素敵な画像が載っているので、それを見たら、ああ、見たこと、あるある! といった声が上がるのではないか。
→ 青梗菜(ちんげんさい)さんに戴いた月の画像。見事だ! 是非、拡大して見て欲しい。
あるいは、「月世界への招待」というサイトの「地球照ギャラリー」なる頁を覗くと、夕方、明け方、青空の地球照画像を見ることが出来る。
無論、空気が澄んできたら、雲に遮られることさえなければ、肉眼でもじっくり堪能することができる。
それにしても思うのは、月世界に立って、月見ならぬ地球見をやったら、さぞかし見応えがあるだろうということ。それこそ、地球照ならぬ地球ショーだ!
でも、その前に、地球圏を出た段階で、格別な感懐を覚えるのだろうけど。
小生、月影を巡るエッセイは「真冬の月と物質的恍惚と」や「真冬の満月と霄壤(しょうじょう)の差と」などを始め、数知れず書いてきた。
が、書こうという気になるのは、大抵は冬か秋である。今頃、書くってのは珍しいような気がする。
あまりに数が多いので、これまであまり例に挙げなかった記事を二つだけメモしておく:
「夕月夜…秋の月をめぐって」(2005/09/09)
「月影を追って」(2005/02/25)
最後に、「真冬の満月と霄壤(しょうじょう)の差と」から少々、抜き書きする。できればリンク先に飛んで、全部を読んでもらいたいけど、そんな奇特な方はまずいないだろうから、なんて書くと、興ざめか:
が、天は、光は遍くその輝きを恵んでいる。己をも彼をも海をも山をも、あの人をも。空を舞い飛ぶ鳥をも、地を這う虫けらをも、そしてやがては地の底に眠る命のタネたちをも。
照らし出されているのは自分だけではない。だから、自分は主役ではないのだ …と思えばいいのか。思ってもいいのか。
きっと、今こそ、今度は自分が輝く番になっているのだろう。今の今までたっぷり光を浴びてきたのだ。光は体の中にさえ有り余るほどに浸透している。60兆もの細胞の全てが光の恩寵を受けている。光が形を変えて血肉となっている。形を変えて脳となり、あるいは脳や腸を突き動かしている。命の源となっている。命の源から溢れ出す光の泉となっている。瀑布の飛沫さえ光を浴びて煌いている。
きっと、地上の全てが光の塊なのだ。魂とは光の塊のことなのではないか。だとしたら、今度は己が己の力で輝きだす時に至っているということではないのか。体と心の肉襞深くに集積した光の塊に、迸るための出口を指し示す時に至っているということではないか。
この平凡とさえ思えない自分にも、月は、天の光は今も呆れることなく恩恵を与えている。
人は死ぬと塵と風になるだけなのだろうか。魂とか情念の類いも消え果るのだろうか。もしかしたら塵となって風に舞うだけ、というのもある種の信仰、ある種の思い込みに過ぎないのではないか。死んでも死に切れなかったら。最後の最後の時になって、その末期の時が永遠に続いたとしたら。時間とは、気の持ち方で長さがいかように変容する。死の苦しみの床では、死の時がもしかしたら永遠に続かないと、一体誰が保証できよう。アキレスとカメの話のように、死の一歩手前に至ったなら、残りの一歩の半分は這ってでも進めるとしても、その残りの半歩も、やはり進まないと死に至らない。で、また、半分の半分くらいは何とか進むとしても、結局は同じことの繰り返しとなる。
永遠とは、死に至る迷妄のことかもしれない。最後の届かない一歩のことかもしれない。だからこそ、天頂の月は自分には遥かに高く遠いのだろう。
既に日付は変わったけれど、終戦の日に思うのは、ひたすらこの世が平和であって欲しいということ。
そして同時に、平和というのは、そこにあるものではなく、意志しないと獲得することができないものだということも痛感する。
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コメント
地球の夜には月の光が、月の夜には地球の光が降りますね。地球に返ってくるほどの明るさの。
画像、使っていただきありがとうございます。また、いずれ。
投稿: 青梗菜 | 2006/08/16 04:17
青梗菜さん、この画像、以前はプロフィール欄で使っていたのですが、場所が変かなと思い、今はライトレールの画像に差し替えました。
でも、勿体無い! ということで、ようやく再度、使う機会が来たかなと。
サイトのURLは表示していいのかどうか、迷ったので、今の所、敢えて表示はしてありません。
画像、改めてありがとう!
投稿: やいっち | 2006/08/16 08:28