人麻呂と長明の「泡」つながり
やや古い本になるが、池内 了(いけうち さとる)著の『天文学者の虫眼鏡―文学と科学のあいだ』(文春新書)を車中で読んでいる。といっても、日中は忙しいので、実際に手に取れるのは夜半を回って丑三つ時も過ぎた頃となる。
車中にはスペースの問題もあるので、ハードカバーの単行本などは持ち込めない。また、活字の細かいものも、車中は室内灯を使っても薄暗いので辛い。
というわけで、図書館で、車中に持ち込むに相応しい本を探すのは、なかなか難しい。
まず、関心を呼ぶような内容でないと困る。その上で、ほどほどの活字の大きさで、本も文庫本か新書などから物色する。
その意味で、やや古くはあっても、『天文学者の虫眼鏡―文学と科学のあいだ』は格好の本だった。
まだ読みかけなのだが、さすが天文学者だけあって、文学作品を読み解くに際し、文学プロパーの人とは違う視点を駆使してくれる。
夏目漱石と寺田寅彦。夏目漱石の小説(に限らない。俳句なども)には、当時の最新の科学の話題が頻繁に登場するが、寺田寅彦など漱石を取り巻くそれぞれに一家言を持つ人たちと分野を問わない、理系・文系という枠組みを超えた話題が飛び交ったのだろう。
文学をやるのに科学の勉強をする必要が断固、必要というわけではないが、科学に関わる話題が会話にしろ地の文にしろ出てくる際に、頓珍漢な記述だと辟易してしまう。
玄人(クロウト)はだしとはいかなくても、ペダンチックな小生くらいは感心させてくれないと困る。
それは精神科学の領域でも同じなのだが。
本書を読んでいて、『方丈記』が話題になっていたので、今日は教えられたことをメモしておく。文学プロパーの人ならば常識に類することかもしれないが、小生には目新しく感じられたし、そもそも小生、「無精庵方丈記」(他に「無精庵徒然草」や「無精庵万葉記」など)といったブログを持っている。
なのに、「方丈記」に限らず古典に関わる話題をあまり採り上げていない、そんな忸怩たる思いもある…。
著者の池内 了(いけうち さとる)氏については、ネットで相当程度、情報を得ることができる。「池内了 - Wikipedia」は経歴などは詳しいが人物紹介が手薄。でも、参考になるだろう。
ちなみに、ドイツ文学者でエッセイストの池内紀(いけうち おさむ)氏は同氏の兄である。
「業績」の項目に、「池内は専門の宇宙物理学においても「泡宇宙論」を提唱する等の業績をあげているが、近年は文系と理系という分断を超える「新しい博物学」を提唱していることで注目されている。文系と理系の枠を超え、普遍的に物を見られる人材を育成することを目的としている。文系でありながら科学好きだった夏目漱石や、漱石の弟子で理系でありながら文学に造詣が深かった寺田寅彦を再評価しているのもそのひとつであるといえる。「天体現象を通じてシェイクスピアを研究するなんて研究はあらへんわけです」という池内の発言は、今まで文系と理系の知識が分断されてきた日本のアカデミズムの実態を物語っているといえる」とある。
ある意味、この説明は、本書『天文学者の虫眼鏡―文学と科学のあいだ』の性格を言い表してくれていると言える気がする。
ちなみに、池内 了氏には、その題名がズバリ『泡宇宙論』(早川書房、ハヤカワ・ノンフィクション文庫)という著作がある。
「シャボン玉、ビールの泡など身近に溢れる泡と、太陽、星、銀河、宇宙の構造と進化には、実は密接な関係がある。泡は形を変え、スケールを変えて、宇宙のいたるところに現われる」云々といった内容(本書については、拙稿「蜃気楼・陽炎・泡(続)」でも紹介させてもらっている。また、「淡雪・春の雪」では、シドニー・パーコウィツ著「泡のサイエンス―シャボン玉から宇宙の泡へ」を採り上げている。宇宙の泡構造については、「宇宙のインフレーション - Wikipedia」が興味深い)。
本書の内容紹介(「Amazon.co.jp: 天文学者の虫眼鏡―文学と科学のあいだ 本 池内 了」)でも、「研究のかたわら、手当たり次第に本を読んできた“文系”天文学者が、古今東西の文学作品をひもときながら、ユーモアあふれた語り口で身近な科学の話題を紹介する。漱石の「猫」と慣性の法則、天文好きのシェークスピアが作品に込めた皮肉、予知夢と月の万有引力の関係、定家「明月記」の天変事象の記録、「木枯し紋次郎」と「もんじゅ」の事故との関連…などなど、楽しく役に立つ科学エッセイ」とあることからも察せられるだろう。
さて、ようやく本題である。上の転記の中に、「池内は専門の宇宙物理学においても「泡宇宙論」を提唱する等の業績をあげているが」とある点に注目された方は、さすがである。
鴨長明(かものちょうめい、かものながあきら)によって書かれた中世文学の代表的な随筆『方丈記』というと、その冒頭の一文は有名で、語調もいいので、暗唱できる方も多いのではないか:
ゆく河の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず。よどみに浮かぶうたかたは、かつ消え、かつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。
(老婆心ながら付記しておくと、「うたかた」とは「唄方」ではない! 「泡沫」あるいは「水の泡」である。「うたかた」を「唄方」と想定してしまったら、なるほど今は夏であり、水に親しむ時季であり、水に絡む事故が多いという意味でタイムリー? ではあるが、話の方向がまるで違ってしまう!)
「泡宇宙論」を提唱し、紆余曲折はあっても世界的に注目を浴びた池内 了だからこそ、方丈記の冒頭の泡にも、文系の人間には思いも寄らないこだわりを示される。
残念ながら、ここでは、肝心の科学的な説明は略させてもらう(おっとー! でも、能を遥かに超えているから仕方ないのよ)。ただ、一点。「水に浮かぶ泡は、いかにもはかない存在」に感じられ、「逞しさや激しさとは無縁なように見える」が、実は:
川の泡がどこで生まれるかを思い出してみよう。崖から水が流れ落ちる滝壺、岩に遮られた激流の下、ナガレが激しくぶつかり合う合流点、棹で水が強く抉られた船尾。このように、泡がつぎつぎと発生するのは、いずれも水の流れが強く揺り動かされている場所である。水が激しくぶつかったり、空気が強く吹き込まれたときにこそ、泡が生まれていると気付かれるだろう。実は、予期に反して、泡は水に逞しい作用があってこそ生まれるのだ。
ちなみに、池内氏は、「漢和辞典によれば、泡の旁(つくり)である「包」は、子どもをお腹の中に抱えている母親の姿から採られている」ともわざわざ指摘してくれている。「内部に、逞しいもの、豊かなものをつつみ持っていることを示しているのだ」とも。
したがって、「泡という漢字は、逞しさを「さんずいへん、水」でくるんでいるもの、という意味になる、というわけだ。「古代の中国人は、泡が内部に逞しさを秘めている存在であることをよく知っていたに違いない」。
またやや余談に走ったが、全く以下の話に無縁というわけではないと思う。
池内氏は、柿本人麻呂(人麿)の歌(万葉集巻七)に、以下のものがあることを教えてくれる:
巻向(まきむく)の 山辺とよみて 行く水の 水沫(みなあわ)のごとし 世の人我は(一二六九)
巻向の 痛足(あなし)の川ゆ 行く水の 絶ゆることなく またかへり見む(一一〇〇)
(痛足(あなし)は、「穴師」とも表記される。→「巻向」)
人麻呂は、小生も勝手ながら不遜ながらも勝手に詩聖と思っている存在で、これらの歌も知らないわけではなかった。
読めば方丈記の冒頭の一文に無縁ではないと気付かされる。
そう、池内氏曰く、鴨長明は、名文・方丈記を綴るにあたっては、人麻呂の「とよみて行く水」「水沫のごとし」「行く水の絶ゆることなく」といった「歌をずっと繰り返し口にしていたに違いない」のである。
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コメント
ご案内。
1995年から絶版となっていた連句入門の名著「連句入門」東明雅(ひがし・めいが)著が中公新書から再刊されました。798円です。
一般書店の店頭には並びませんが、書店注文で取り寄せられるとのこと。
ここは連句ハンドブックとして、図書館ではなくぜひお手元に一冊おかれることをお奨めします。
投稿: 志治美世子 | 2006/08/11 00:05
分かりました。一昨年の四月以来、一冊しか本を買っていない小生、年内の二冊目の購入を目ざして頑張ります。
投稿: やいっち | 2006/08/11 01:29