このところ、小泉首相の靖国神社参拝を契機に靖国問題、ひいては先の戦争など歴史認識の問題がクローズアップされつつある。
靖国神社側は、どういう権能があってのことか分からないが、A級戦犯者たちを合祀した。
そのことにより、天皇家の靖国神社への参拝を阻むことになった。ある意味、後戻りできない形で靖国神社側は戦前の体質を露呈させてしまったということなのだろう。
でも、それもまた仕方がない。靖国神社はあくまで民間の一つの宗教的施設なのであり、どのような思想・信条で運営されようと国家も政治家も忖度はしても、介入はできないわけで、ご自分たちの考えで存続を計るしかないのだろう。
いずれにしも、今更、A級戦犯者たちの分祀など出来ない相談なのだろうし(そもそも分祀ってどういうことなのか、分からない)、分祀が可能だとしても、それはあくまで靖国神社からの分祀という経緯が付き纏う。
一度、やってしまった(合祀という)事実は消えないのである。
要は、明確になったのは、靖国神社が果たした役割に取って代わるという意味ではなく、天皇家も、アジアの犠牲となった方々も、戦争に行かされ犠牲となった人々も、クリスチャンの方たちも、共に追悼し平和を祈念するには、新たに国立追悼施設を作るしか他に道はないということだろう。
そうした追悼施設ができて、一定の役割を日本において、またアジアにおいて果たすようになった段階になれば、そのときには、国家の指導者も靖国神社に(何処かの誰かさんのように、こっそり)参拝しても、他国にも日本の心ある人にも顰蹙を買われることはあっても、殊更、問題にはしなくなるだろう。
それには、今から少なくとも五十年以上の反省の時間を要すると思われる。気の短い日本人には戦後60年余りは長いと感じるかもしれないが、アジアレベル、世界レベルからしたら60年など、つい昨日のことなのだ。特に、経済復興に邁進し、倫理的道徳的問題という辛い問題から眼を背け逃げてきた日本の人々には、これからようやく戦争の現実と歴史に向き合うことになるのだと思う。
ようやく!
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