「口ぶえ」と折口信夫の性愛
帰郷していた間に、折口 信夫(おりくち しのぶ)著『初稿・死者の書』(安藤 礼二編集、国書刊行会)を読了した。
日中は慣れない家事に追われ、読めるのは両親が寝室に向ったあとの夜半前からとなる。
ある意味、本書を読むには夜中のほうが相応しいのかなと思ったり。
ただ、期待しすぎていたからだろうか、正直なところ、『死者の書』は、期待はずれに終わった。凄く生意気な表現をすると、この程度の世界なら自分にも描けるのではないかという感覚が終始付き纏って離れなかったのである。
創作の上での技術が物足りない。歌人として学者として名を成しているが、虚構作品としての何かが足りない。
あるいは、小説に仕立てるには邪道な何かが濃厚すぎるような。
そんな違和感を抱かされたのは、『死者の書』の冒頭に、いきなり誤植が見つかってしまって、ガッカリさせられたからかもしれない。
冒頭四行目に、「まともに、寺を圧してつき立ってゐるのが、二山上(ふたかみやま)である。」と。
当然、二上山(ふたかみやま)のはずだ。実際、心ならずも本文を読んでいても、ずっとこの地名の表記がどうなっているか気になってしまった。
でも、他はちゃんと二上山と表記してある。
最初、「二山上」とあるのを見て、これは折口 信夫的な世界特有の言葉遣い、表記なのかと思った(その前に目を疑ったが)。
あるいは、「初稿・死者の書」と銘打っているから、初稿の表記の間違いがそのままにされているのか(でも、全く、注記がない)。
どうでもいいことなのか。初版ではあるし、よくある校正ミスの類いに過ぎないのか。でも、あんまりな見逃し?!
この作品については、ネットでは、「松岡正剛の千夜千冊『死者の書』折口信夫」にて、相当に思い入れのされた論考が読める。
小生の感想など、当てにしないで、この書評を読んだほうがいい。
確かに、さすが、釈迢空 (しゃくちょうくう)という歌人の名を持つ折口信夫だけあって、自然界の事象についての、ある感覚的な捉え方、擬音的表現など、感性において独特な世界が厳としてある。それは認めざるを得ない。
しかし、それを虚構作品として物語化する技術が足りない。彼の古代と現代を往還する異形な世界が描かれているから、その特殊さに目が眩んでしまうからなのか、そんなことを指摘する人などいないのだろう。
古代史関連の本は、『古事記』を初め、さんざん読んできたので、頻出する独特な地名や人名も、何処か懐かしい感覚があって、今更、古代と現代が輻輳する世界に驚かされることもない。
小生には、折口信夫の描出にも関わらず、彼が古代人の心をたまさかにも現出させることに成功しているとは、全く思わなかった。
そう、折口信夫ワールドに通暁している方からしたら、小生のような感じ方は読みが浅いということになるのだろう。
恐らく、小生の本書「死者の書」への違和感など、所詮、折口ワールドに入れなかったものの、門外漢の愚痴に過ぎないと、黙殺されるものだろう。
そんな批判は甘んじて受けるしかない。
小生の読みに不満な方は、例えば:
「折口信夫論|★プラトン叡知精神科学へ向けて★PROTOMODERN SINGULAR COSMOSYNERGY★NEW PLATONIC SYNERGY THEORY★」などを参照。
しかし、本書・折口 信夫著『初稿・死者の書』(安藤 礼二編集、国書刊行会)を読んで収穫があった。
それは、本書に所収となっている、自伝的小説『口ぶえ』である。
この小説には、折口が書かなくては済まなかったのだろうという必然性を感じられる。
下で紹介するサイトにもあるように、『口ぶえ』には、ボーイズラブの世界が描かれているのだ。
この小説に付いては、「女の子ではないかもしれないけど女の子。女の子だけどそうじゃないかもしれない。でも、そんな鳩子の日常生活や普段感じてることを、詩や作文やアルバムのかたちにお料理してみました」という、「Hatopia 鳩子のホームページ」の中の、「小説『口ぶえ』とわたしの高校時代のこと」なる頁の感想文がユニークで、面白い。
同じ資質を持つ方ならではの共感を感じる。
この頁には、女装した折口 信夫の画像が載っている。
本筋の話からはずれるが、「手塚治虫のアンドロギュノスたち1」以下の頁は、読んでいるうち瞑想・妄想に誘われて、しばし、折口世界から離れてしまった。
「ぼくらは少年演出家」の中の、「2006 7/3 折口信夫『初稿・死者の書』」以下の日記がとても参考になった。
このサイトの方は、『初稿・死者の書』のうち、「口ぶえ」という短編を先に読まれたようである。
この小説「口ぶえ」の世界をうまく評しておられる。
その上で…。
現代ならば、ボーイズラブと、やや明るめな表現で示すことが可能かもしれない。
が、明治20年生れの折口なのである。彼が自身が<ボーイズラブ>という資質を自覚した思春期を過ごした明治の後半は、日本がいよいよ軍国主義に一気に傾斜していく時代でもあった(明治天皇の権威が高まり、明治天皇のカラーが出始めた時代でもあった)。
軍国主義は(建前上は)男尊女卑である(現実は分からない。もっと錯綜していたのではないかと思われる。体育会系って、倒錯した同性愛的世界と何処か雰囲気が酷似している)。
同性しか愛せない、同性から愛される世界に自分が生きるしかないと自覚した瞬間、世界は他の<普通の>人たちとは違う世界だと痛切に感じさせられる。
この自伝的小説『口ぶえ』は、二人の少年がともに死ぬことを決意し、高い崖のうえで「今、二人は、一歩岩角をのり出した」というところで終わっている。最後の節だけ示しておく:
ぶる/\と総身のをのゝきが二人のからだにこも/″\伝わつた。氷の如き渦巻火(ウヅマキヒ)のやうな流(ナガレ)が、二人の身うちを唸(ウナリ)をあげてどよめきはしつた。今、二人は、一歩岩角をのり出した。(前篇終)
しかし、人は生きる。愛される少年の時も過去となる。自分を全否定するか。それとも、肯定する道はあるのか。そこに古代史の世界がまざまざと立ち現れてくるのだ。どのような愛の形も赤裸々に表現されている世界として。しかも、現代の狭い了見の性道徳からは倒錯しているという言い方でしか捉えられない世界に<美>の極が示されている。現世の窮屈な道徳など、古代より連綿として続いてきた宮中を中心とする愛欲と手練手管の世界からしたら笑止に過ぎない…。
ところで、折口信夫が生涯愛した相手とは。折口 信夫(おりくち しのぶ)著『初稿・死者の書』(安藤 礼二編集、国書刊行会)に付せられた、安藤 礼二氏の論考が参考になる。
同じく、「ぼくらは少年演出家」の中の、「2006 7/3 折口信夫『初稿・死者の書』」の末尾に、的確にその内容が示されている。
「最後に、この『初稿・死者の書』の編者による「光の曼荼羅」についてもひとこと。恋人だったとおぼしき藤無染(ふじむぜん)をキーに、折口の残した各種論文や特異なホモセクシュアル感、キリスト教化を経た仏教と、景教、エジプト神話などなど、言ってしまえば折口信夫の人生をもとに、アクロバティックに『死者の書』を解釈していて、なかなかスリリングな論文でした」というもの。
自伝的小説「口ぶえ」との絡みで、あるいは折口ワールドへの道程として、それ以前に折口信夫にとって藤無染(ふじむぜん)の存在は大きかったことを知る。
尚、「発表主旨」しか知ることができないのだが、「平成十八年度 熊本近代文学研究会例会の記録 3月例会」なる記事は、この「口ぶえ」に付いて、別の読みの可能性があることを教えてくれる。
つまり、【発表主旨】によると、「折口信夫の大正期の創作に自伝的小説「口ぶえ」がある。従来折口自身の来歴、殊にセクシャリティと重ね合わされた読解や、大和という地理的・歴史的空間に注意を払った読解が提出されてきた。しかし近年では同時代に於ける性科学の隆盛というコンテクストが注目を集めて来ている。そこで、「口ぶえ」の掲載された『不二新聞』(継続前紙日刊『不二』)及び姉妹誌の月刊『不二』を民俗学や性科学をも含めた様々な知が未分化な状態で混在した言説空間として措定し、それを構築する諸要素、宮武外骨・南方熊楠らの言説に代表されるそれらを検討することを通じて「口ぶえ」のコンテクストの一端を明らかにしたい」というのである。
詳しい内容を知りたいものだ。
また、これもまた小生は目にすることが出来ないで居るのだが、「三重県名張市は、人外の巨人、江戸川乱歩の生まれ故郷でございます。名張人外境は、名張に生まれ育ち住まいします人外境主人が、乱歩に関するデータベースの作成と提供とを主たる目的として開設いたしました」という「名張人外境」サイトの中の、「人外境主人伝言録」の「2月24日(土)」に「口ぶえ」に付いて興味深い記述があった。
高原英理さんの「憧憬の成立──日本的プラトニズム」という論考を紹介する形で、「プラトニズムを媒介として乱歩」と「折口信夫」とが対比されていると書いてある。
「少年時代のラブ・アフェアを綴った乱歩の随筆「乱歩打明け話」と、前篇だけが書かれて未完に終わった折口の短篇小説「口ぶえ」とが、あたかも双子のようによく似ていることが示されます」というのだ。
詳しくは当該の頁を覗いてみて欲しい。
いずれにしても、折口 信夫著『初稿・死者の書』(安藤 礼二編集、国書刊行会)を読んで、「口ぶえ」という小説の存在を知ったことは、収穫だったのである。
折口の作品としては読みやすいし、彼の世界への最初の一里塚は、としていいかもしれない。但し、その先にどんな深い森が待っていて、踏み惑うことになるやもしれないことは、小生のあずかり知らぬところである。
参考になるかどうか、拙稿に「岡野 弘彦著『折口信夫伝』」がある。
これはなかなかの好著だった。本稿の中では触れられなかった国文学などの面から、折口に触れている。
[ 「折口信夫」を覗くと、いろんな方の折口信夫についての回想文を読めて、結構、面白い! (06/08/19 追記)]
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