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2006/07/06

水たまり

 朝から雨が降っていた。
 雨が降っていることは音で分かる。庇を叩く雨音が寝入っている耳元にも響いてくる。
 一人きりの小さな部屋だから、窓の外のちょっとした音も呆気なく忍び込んでくる。
 まるで壁に目に見えない透き間があるようだ。

 それにしても、雨音が激しすぎるような。
 ベッドに寝そべったまま、無理にも首を捻って窓のほうを見遣ってみた。
 うん? カーテンがやんわり揺れている…。
 窓の隅っこが雨天にしては妙に明るい。
 なんだ、昨夜は窓を閉め切らないままに寝入ってしまったのだ。

 湿っぽい部屋。湿気が篭って鬱陶しい。
 久しぶりに舐めたワインのせいで、余計に暑苦しくなって、つい窓を開けた。
 そして、軽く酔った時の癖で、心地よさに任せて、後のことは知ったことじゃないと、ベッドに潜り込んでしまった。
 見ると、二の腕の長さほど開け放たれた窓の合間から風と共に雨までが吹き込んでいるのだった。
 やばい! 急いで閉めなくっちゃ。
 うん? 考えてみたら、今更、急いだって無駄か。
 もう、窓枠も窓際の書棚も、そうして窓辺のフローリングの床も、濡れそぼっている。

 雨は止みそうにない。
 ふんわり揺れているカーテンの透き間から漏れ入る外の光は眩しいけれど、それは部屋の中が薄暗いからだ。目が闇に馴染んだままだ。
 外は明るそうに見えて、恐らくは分厚い雲に覆われているに違いない。
 そう、カーテンといっても、ほとんどガーゼのような薄手の生地で、紗の幕さと気取ってみたりもする。

 紗…。更紗…。あいつの部屋の片隅にあったジャワ更紗の花瓶敷…。
 忘れたはずの昔へと想像が向いそうになったので、慌てて起き上がった。
 
 人は生きなければならない。
 生活の中に入らなくっちゃいけない。
 ベッドを壁に立てかけて、眠りの時を忘れる。
 カーテンを勢いよく開ける。カーテンレールを擦る音が何故だか好きだ。
 外は案の定、曇天だった。梅雨の空そのものだ。
 しばらく桟に体を預けて立ち尽くしていると、眼下を人が行き過ぎていった。一瞬、目が合った。怪訝そうな小母ちゃんの顔。
 そっか、トランクス一丁のままだったからな。でも、小母ちゃんからは裸の上半身しか見えなかったはずだ…。

 足元や腕が冷たい。
 ぼんやりしている場合じゃなかった。その前にすることがあるのだ。

 着古して捨てるつもりでいたポロシャツを玄関脇の靴箱から引っ張り出し、窓辺を拭き掃除する。
 体の動きが心も目覚めさせてくれる。
 でも、ほんの少し。

 濡れて汚れたポロシャツを玄関のほうへ投げやった。うまくいかなくて靴の上にべシャッと乗っかってしまった。
 後で始末しておかないと。

 後で…。
 路上の水溜りが気になってならなくなっていたのだ。
 水溜り。
 そこに雨粒が落ちて弾けて、無数の飛沫が飛び散る。
 さすがに牛乳のような王冠はできないけれど、それでも、幾重かの波紋が生まれ、ほんの一瞬、小さな小さな噴水が生まれ、そして呆気なく消えていく。
 ささやかな噴水が水面に沈み込み、消える瞬間の不思議な緊張感。
 が、波紋の中心はすぐにも落ち窪んで、窪みの突端は路面に達するかのようだ。
 そうしてまた、最初よりもっと小さな噴水を白鳥の歌とばかりに上げて、今度は本当に消えていく。

 ミルククラウン
 いつだったか、あいつがやってきて、二人で朝の珈琲を飲んだことがあった。奴はブラックだが、こっちのほうはミルクがないと飲めない。
 あいつは気を利かして、冷蔵庫からパックの牛乳を取り出し、湯気の上がる珈琲に注ごうとした。
 すると、牛乳は思いがけないところから零れてしまい、小さなテーブルをミルクで汚したっけ。
 そうだ、前夜、慌てて力任せにパックを開いたものだから、口の部分が妙な破れ具合になっていたのだった。
 あいつのびっくりした顔。

 違う違う。過ぎたことは忘れることだ。何もなかったのだ。雨に流れる路上の埃のようなものだ。
 今更、捜し求めたって、埃が何処へ流れ果ててしまったかなど、誰に知れよう。

 路面の汚れは夜来の雨のせいだろう、すっかり拭われていて、溜まった水を透かしてアスファルト舗装面が浮き上がるように見える。
 綺麗だ。こんなにじっくり路面を眺めるなんて、あったろうか。
 それも水溜りを透かしての路面だ。
 水溜りには、曇天が映っている。途切れることなく降り注ぐ雨の粒が無数の波紋と噴水とを生じさせては消えていってしまうけれど、それでも、明るいような薄暗いような微妙な空の色は揺るぎもしない。

 耳元では庇を叩く雨音が絶えない。煩いはずなのに、どうして雨粒が弾け飛ぶ音は耳に心地いいのだろう。
 窓の外の手すりにも雨は間断なくぶつかって飛散する。
 水の爆ぜる音。弾ける音。それとも、はしゃぐ音なのだろうか。
 喜び勇んで一粒の水滴が手すりで庇でアスファルトの舗装面で裂けてしまって、それで楽しいのだろうか。

 手すりの桟を伝い落ちる水滴が気になった。表面張力という言葉が意味もなく浮んできた。
 丸っこい水滴の形を眺めると、バカの一つ覚えみたいに口を突いて出てくる。
 何ゆえに表面張力なんて水にあるのだろうか。水は、水の粒子たちは微細な粒子に別れ別れとなるのが嫌なのだろうか。肩を寄せ合って、寂しさを紛らわせているのだろうか。
 水滴は水の粒たちのおしくらまんじゅうなのだろうか。
 ベッドの中で二人、丸まって絡み合って、そうして熱くなって…。

 まずいまずい、また通り過ぎた夢が脳裏を過(よ)ぎっていった。

 ふと見ると、水溜りにいつの間にか葉っぱが一枚浮んでいた。さっきまでなかったはずだ。風に飛ばされたのか、それとも、雨粒の重さに耐えかねたのか。
 うん? もしかして、あの葉っぱの奴、気まぐれな奴で、つい、水浴びしたくなっただけなのかもしれない。
 眼下に見える水溜りで思いっきり水遊びしたら、さぞかし楽しいだろうな、なんて、つい思ってしまって、そうして自分から我が身を枝から捥ぎ、引き千切って、そうして、他の葉っぱたちが、よせよ、やめなさいよ、という制止の声をも振り切って、自分が一人の勇者でもあるかのような気分になって、そうして誘惑に負けて、風にうまく身を乗せて、あの水溜りに飛び込んでしまったのだろうか。
 
 一瞬の気まぐれ。思いつき。水の海に全身を浸した瞬間は歓喜の念に燃え上がったろうけど、すぐに後悔したに違いない。
 だって、全てを諦めきったように水面でクルクル回っている。
 自分で戯れに回っているんじゃない。風と水の虐めに悶絶してしまったんだ。

 思わず知らず遠い夢に吸い込まれそうになっていた。
 が、その夢は一瞬にして破られた。
 
 何処かの子供がやってきた。
 その子は、水溜りが気に入ったのか、しばらく眺めていた。
 遠い日、家の周辺の道は舗装などされていなくて、ちょっとでも雨が降ると、庭にも畑にも、そして道路にも水溜りは簡単にできた。
 そうすると、長靴を履いた足でそのまま水溜り、というより泥水の泥濘(ぬかるみ)と言ったほうがいいような小さな即席の池で、水撥ね遊び。
 雨が降っていようが、撥ねた泥水で足どころかズボンまで汚れようがお構いなし、茶褐色の水を撥ねて散らして、池が影も形もなくなってしまうまで、撥ね転げて遊び続ける。
 冬の朝の薄氷割りのようなもの。粉微塵になるまで割り尽くす。

 今の自分にはそんな元気は欠片もない。ただ、こうして眺めているだけ。

 すると、突然、あの子ったら、差していた傘を閉じて、水撥ねを始めだしたではないか。
 やめろよ! 思わず、そう叫びそうになった。
 でも、止める理由など、何もない。
 ただの水溜りに過ぎないのだ。
 撥ね散った水で濡れちゃうよ、とでも言う?
 傘を差さないと雨に濡れて風邪、引いちゃうよとでも?

 ああ、葉っぱが息の根を止められてしまった。
 小さな池の水たちが、よじれ曲がった水の筋を描いてアスファルトの路面を方々に散らされていく。
 段々、水溜りは小さくなっていく。片寄せあっていた水たちが、バラバラの世界へ分かれていく。
 葉っぱは踏みつけられて、見るも無残だ。

 覆水、盆に返らず。
 いやだ、そんなの、いやだ!
 叫びたかった。あの日に帰りたい?
 いや、違う。
 とにかく、ただ、丸っこい一滴の水滴の姿が慕わしかった。
 
 やがて、あの子は、傘を差し、しかも傘をくるくる回しながら、意気揚々と立ち去っていった。
 昔のことは忘れろよ、とでも。
 これは、天の声なのか。
 分からなかった。

 気が付くと、雨合羽を羽織りサンダルを履いて、階下へ降りていった。
 何をしようというのか、自分でも分からなかった。

 放っておけば、降り続く雨がもう一度、水溜りを作ってくれるかもしれない。
 でも、雨が止みそうな予感もある。
 止まない雨はないというし。
 それより何より、自分の足で水溜りを作り直したかった。
 一刻でも早く、元の姿に戻したかった。
 失われたもの消え果たもの捨て去ったものは還らない。
 でも、あの丸っこい水滴たちに片寄せあう温みを与えられたらと思う。
 ただ、それだけなのだ。

 俺はサンダルで水を掻き集めようとしているのだった。

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コメント

せっかく沈めたはずの思い出が浮かび上がってきたのだから、私だったらそのまんま浮き上がってきた思い出に思いっきりブル下がって、存分に空飛んじゃうな。
自分がしみじみ「老いたな~!」と実感したのは、「水に触れたい、飛び込みたい」という自分を失っていることに気がついたとき。
池、川、海、湖、プール、水溜り・・・。
水さえ見れば手とか足とか体とか突っ込んでみたくてたまらなかった自分が、もうどこにもいないことに気がついた日、私はもう老いていたんだ、と思った。
39歳から40歳の3ヶ月を入院して過ごし、退院したらそうなっていた。
「ああ、私はババァだ」
あの、水を見るだけで心躍った日々は、二度と帰ってこない。

投稿: 志治美世子 | 2006/07/06 13:10

こんにちは、やいっちさん!

しんみりしたストーリーなのに、思わずクスクスでした。だっておもしろいんですもの・・・。

わたしはサザンの♪思い出はいつ~も雨♪を思い出します。

香月泰男の「おもちゃ」をアップしました。
お立ち寄りください。

投稿: elma | 2006/07/06 17:59

雨の日って・・
流れが溜まって
大きくなって
心の中にも水溜り。
心の中にも潦。
パシャパシャしたいです♪

投稿: ヘルミーネ☆ | 2006/07/06 19:14

志治美世子さん、そう、とっくにガキのころのように水溜りではしゃぐような元気さなんてなくなっている。
湧き上がるものを無理やり押さえつけているのは、振り向くのが怖いからかな。
それとも勇気がない?
小生の場合、35歳から40歳までの窓際族の時期でたたきのめされた感じ。
今も、消耗戦の真っ最中じゃ。
うーん、海は無理でもプールで泳ぎたいな。

elma さん、そうそう、本人は深刻ぶっているけど、案外と傍から見ると滑稽なんですねー。
その突き抜けた感じが表現できたら、もっと良かったかも。
ま、ほかの事を書くつもりだったのに、つい衝動的に書き始めてしまったので(リンクさせている水溜りの写真を見たのが切っ掛け)、ま、こんなものかな。
先ほど、覗きに行きました。面白く楽しい玩具でしたね。
今から就寝ですので、一眠りしてから、ゆっくりお邪魔します。

ヘルミーネ☆ さん、パシャパシャしてみたいですね。でも、すぐ、靴や靴下、ズボンの裾が濡れる汚れるなんて、しょーもないことばかり考えてしまう。
そっか! せめて、物語の中では弾けなくっちゃね。


投稿: やいっち | 2006/07/07 07:27

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