我がガス中毒死未遂事件
「パロマ工業製のガス瞬間湯沸かし器による一酸化炭素中毒事故」が世情を賑わせている。夏場も風呂など給湯のために使うが、冬場となると一層、ガス器具のお世話になる。身近な器具だけに怖い。
但し、別にここでパロマ事件のことを云々するつもりはない。
小生自身の体験したガス事故の体験のことをメモしておくだけのことだ。
一つは、それこそ死に至らなかったのが不思議なくらいの事故で、もう一つも車の事故で言えばニヤミス事故(未遂)である。
まずは、ニヤミス風のガス事故未遂のことを。
石油ストーブ不完全燃焼事件
小生は仙台で学生生活を送っていた。最初の二年は下宿で、残りの卒業するまでの数年はアパート暮らし。
友人の少ない小生だが、アパートがまた山間の地にあって、気軽には訪れることの難しいようなロケーションだった。
多分、一人で自分の世界に沈潜したいという欲求があったものと思う。
冬場の或る日のこと、もう、日がすっかり落ちていた時間だったろうか、不意にドアを叩く音。
小生は驚いた。もう、卒業も間近な頃には、数少ない友人たちは卒業したか退学したか、中には結婚した人もいて、小生のアパートを訪れる人など、考えられなかったし、実際、何かの料金の徴収員でもない限り、誰も来ないのだった。
一体、誰が、こんな人里離れた孤独な部屋に。
無論、小生のこと、女性関係は皆無である。
ドアを開けるのも、ちょっと怖々だった。
ドアを開けると、そこには哲学科の先輩が。助手となっている人だった。当時、小生も加わっていたヘーゲルの小論理学のゼミ(輪講)の長を務めてくれていた人でもある。
大学の研究棟の一室で、夏場から細々と輪講を続けていた。
が、小生はそうした仲間と個人的に親しくなることはなかったように思う。まして、助手の方とは輪講の場で若干、議論モドキを交わしたことがあるだけだった。
そんな助手の方が何故に、我が陋屋へ?!
この辺りは記憶が曖昧なのだが、多分、冬場の頃には小生、輪講にもそもそも大学のキャンパスへも足が遠ざかっていたものと思う。
だから、助手の方が心配して、来てくださったのではなかったか。
驚いたのは、ドアを開き招き入れた瞬間、助手の方が開口一番、放った「ガス臭い!」の一言にだった。
寒さ厳しい仙台のこと、石油ストーブは不可欠。富山での冬は経験しているが、仙台は比較にならないほどに寒い。
その仙台にしても、最初の下宿で寒さは経験しているが、やや僻地で山間のアパートでの寒さは、段違いのものがあった。凍結に因る水道管の破裂はしばしばだったし。
その石油ストーブが不完全燃焼を起こしていたのだ。
当然、不快な匂いが部屋に篭っているはずだが、ずっと部屋の中にいる小生は、匂いに馴れてしまっていたからか、ストーブが燻りがちだったことに全く気づかないでいたのである。
そもそも小生は嗅覚が人に比べ格段に鈍いこともある。
慌ててストーブを付け直して、また、赤々とした熱が放たれた。
その後、どんな会話を交わしたかは覚えていない。煮え切らない小生に業を煮やして立ち去られた気もする。
ただ、そんなことより、もしもあの時、助手の方が来なかったら……。
小生は、部屋に充満する一酸化炭素に、自覚症状もないままにあの世へ直行していたのは間違いないような気がする。
誰も来るはずのない小生の孤独な部屋に、偶然とはいえ、来る筈のない人が助かる。
運がよかったのか悪かったのかは分からないが、ま、そんな<ガス中毒死未遂事故>があったのである。
二つ目については、以前、他のところでメモしたものがある。それを若干の手直しをして、ここに転記する。
(「匂いを体験する」でも、やや変則的なガス事件のことを書いている。)
ガス中毒死未遂事件
1980年だったか、小生は東京で2度目のアパートを借りた。最初のアパートは某不動産屋で見つけたもので、その名も「プリンス荘」といい、しかも近くに哲学堂公園があって、一人密かに哲学のプリンスと悦に入っていたものだ。そのアパートから最初のアルバイト先である東販(東京出版販売)に通っていた。
東販を選んだのはアルバイト先で休憩の際に本が読めるだろう、という極めて安直な動機だった。後に友人に出版に興味があるから東販を選んだんじゃないかと言われたことがあるが、実は情けない限りの選択の結果だったのである。自分では本を読みたいし、あるいは自分で何かを書きたいとは思っていたが、出版に積極的に関わろうという意識は毛頭なかった。
出版ということで編集や校正や取材や、と色々意味しえるが、ほんの一時期、校正くらいはやろうと思ったが、やはり根気が続かず、本気になって校正に身を入れることもなかった。
仕事という面では、ひたすら呑気で無自覚な人間だったのだ。
さて、その東販でのバイトは、案に相違して軍隊調を思わせるような、キツイの一言で表現するしかないものだったが、それでも肉体的疲労の極にありながらも、短い決まった休憩時間にひたすら本を読みまくった。
そのバイト先で司法試験浪人のTN氏に出会った。休憩時間には気さくな人柄の彼とあれこれ語り合うようになる。
そのうち、彼にもっと体に楽な仕事があるということで、紹介される形で、某デパートの倉庫で商品管理を請け負う会社のアルバイトとして採用された。
最初の仕事の場所は調布にある集配センターだった。
新宿駅の京王口から京王線に乗って調布へ通った日々が何故か懐かしい。
後に、そう、それから十年もしてからだったろうか、中村雅俊のテレビデビュー番組のロケ先が実はその調布センターであったと聞いたことがある(それとも、同じデパートではあるが、吉祥寺にある別の集配センターだったかも)。
一ヶ月余りでやはり同デパートの別の倉庫に回してもらえた。それは新大久保にあった。歌舞伎町と背中合わせの場所にある大久保別館に向かう通勤途上で、よくラブホテルにしけ込んだり、あるいは出てくるカップルに遭遇したものだ。
その新大久保にある大久保別館で一年余り働いたある日、とても綺麗な女性が配属された。初心な小生は一目惚れしてしまった。
すぐにその女性に小生はバイトのAですと紹介されたのだが、その時、聞いた彼女の声には驚いた。一瞬、蛙が踏み潰されたようなしわがれ声に聞こえたのである。
でも、その声にはすぐに慣れた。慣れると現金なもので、彼女のだみ声に何処か愛嬌を覚えたりする。というか、チャームポイントにさえ思えるから不思議だ。
その女性は、しかし、すぐに他の倉庫に配置換えされてしまった。大久保別館での短い勤務の日々は、あるいは彼女にとって商品保管という仕事を覚えるための研修の期間だったのか。
小生は失望した。
が、話によると、彼女は落合にある同じデパートの商品保管センターに転属したというではないか。しかも、それは小生のアパートのすぐ近くにある!
近くどころか、歩いて一分も掛かるかどうかなのだ!
誰にサジェストされたのか忘れたが、「あなたのアパートの近くじゃない、希望したら。実現するかもよ」と言われて小生はすぐにその気になった。
で、小生は西落合にあるプリンス荘から、直近の商品保管センター(落合センターが正式名称だった)へ通うことになる。つまり、彼女の傍に毎日居られることになったのだ。
その彼女とのことはさておき(我が儚き青春時代よ! だが、彼女には全く相手にされなかった。風の便りに、彼女は小生がバイトを辞めてから、小生のバイト仲間と結婚してしたという驚愕の事実を知る!)、そのうち、小生は風呂のあるアパートに住みたくなった。
何故、そういう欲求が生じたのかは覚えていない。幸い(後には不幸の始まりとなったのだが)、不動産屋で風呂付きで、しかも家賃も安いアパートがすぐに見つかった。しかも、そのアパートも前のプリンス荘ほどではないが、落合センターにほど近いと来ている。
そのアパートが風呂付きなのに何故、大した収入もあるはずのない小生に借りられるほどに安いかはすぐに分かった。
「藤荘」という、前のプリンス荘同様、二階建ての古い木造モルタルのアパートの隣が警察犬の訓練所だったのである。
犬は小生は好きだから問題はないし、警察関係の人間が隣に居るというのも、多少のプレッシャーにはなるが、しかし、素行優良ではないとしても不良ではない小生には、問題ではない。
では、何が問題かというと、匂いなのである(吼え声も多少はあるが、さすがに訓練されていて、それほどではなかった)。
警察犬の訓練が坪数にすると十坪もない狭い土のグラウンドの上でされていて、恐らく厳しく尿などは躾がされているのだろうけれど、土に、あるいは犬(当然、シェパード)の小屋に敷かれた藁に染み込んだ匂いが強烈なのである。
それが風向きによっては小生のアパートを直撃する。直撃しなくてもいつも匂いが漂っている。小生のプロフィールを読まれた方はお気づきのように、小生は鼻が悪い。鼻では息が出来ない人間である。従って匂いを嗅ぐ能力は通常の人より遥かに劣る。その小生が臭くてたまらないのだから、いかにひどい状態にあったか想像できようというもの。
でも、鼻の悪い小生だから、犬の訓練所側に面している風呂場(これがために引っ越したのだ!)の擦りガラス窓さえ閉じておけば、我慢できないこともなかった。
しかし、さて、憧れの風呂付きのアパートだが、風呂はガス風呂なのだった。
これが悲劇の始まりでもあった。
ガス風呂だし、給湯器具は風呂場の中にあるから、入浴の際は、普段は締め切っている警察犬の訓練所側に面している窓を多少なりとも開けないとならない。開けると、しかし、強烈な分厚い匂いの攻撃である。
それでも小生はガス欠や中毒にならないよう、ちゃんと注意していた。
が、ある冬の日、小生はつい油断した。冬でもあり、寒かったのだけれど、うっかり窓を締め切って入浴してしまったのだ。
あるいは記憶が定かではないが、とにかく、少しだけ開けるという段取りを踏むのを忘れたのである。
当然ながら、風呂場にやむを得ず入り込む匂いが部屋にまで侵入することのないように、小生は風呂場と居間との間のドアは締め切っておくのが通例だった。
その日も、当然、その開き戸は閉めてあった。
しかも、外気を取り込む窓も締め切ってある!
その瞬間は間もなくやってきた。小生はバスタブに入っていたのか、それとも洗い場に腰掛けていたのか、覚えていない。多分、後者だったろう(バスタブだったら絶望的だった!)。
不意に視界が崩壊した。気が付く間もなく、視野に入る世界がテレビの砂嵐の状態になったのだ。小生は倒れた。
が、その倒れる瞬間、小生は「中毒!」と直感した。脳の中の意識が崩壊する、その何処かの片隅の神経の一隅が未だ死にきらずにいたのだろうか。
小生は開き戸に向かって倒れたのである。
そのドアは風呂場から居間に向かって開くようになっていた。あるいは、そうした作りにするのが当然なのかもしれないが。
だから、自分がドアに崩折れるように凭れるように倒れるだけでドアは開いてくれたのだ。あれが、風呂場に引く構造になっていたら、決してドアを開けることはできなかったと断言できる(バスタブの中で意識が失われる状況に見舞われたら、論外だった)。
小生は居間の畳の上に倒れこんだ。息も絶え絶えだった。喘ぐようにして懸命に息をした。息を体に取り込むということをあれほど必死にやったことはなかった。
とにもかくにも小生は生き延びた。自分は生き延びることを瞬間的に選んだのだ。
(後から振り返ってみると、あの憧れの彼女が小生の同僚と仲良くなっていた時期に符号するらしい。だ、勘の鈍い小生は、当時は彼らの関係には気づいていなかったはずなのだが…。)
悲観的なことを思い、結構、ペシミズムやニヒリズムの思想に惹かれるし、物心付いた頃から自分の世界に閉じ篭る人間だったはずなのに、考える暇もない瞬間には、小生は生きることを選択したのである。
そうして今も小生は生きているが、あの日に失ったものは相当に大きい。大きすぎて想像もつかないほどだ。あるいは自分には何を失ったかさえ分からないのかもしれない。
人間は自分を時には鏡に映してみることもあるし、人の評判を気にすることある。けれど、そうした一切の情報は、結局のところ自分という人間の心の内部で紐解くしかない。
自分は独我論に組する人間ではないつもりだが、しかし、独我の世界から脱することなど不可能に近い。
そうしてそのガス中毒死未遂事故の後も小生は生きている
。が、その自分の世界を内部より見るしかすべがない。従って、内部から見た自分の世界がいかに従前に比べて貧困なものになったのかは、実は分からないのだ。
事故の後だろうが前だろうが、私は私の内部より私を見、考える。
その内省が与える成果というものが、以前に比して貧弱なものであっても、今の私には、それしかない。それが全てである。そうしてその貧弱かもしれない自己の世界が狭苦しくなったとしても、それ以外に自分の世界がない以上、私は、私の世界の人間であるより他になく、私の見る世界を一つの天蓋に覆われた世界だと仮にすると、その天蓋が従前より高さや美しさが劣っていても、その優劣を自分では比べようがないのだ。
とはいっても、後に友人に指摘されることだが、脳細胞はガス事故の際、相当に死滅したはずである。
客観的な事実で自らを反省してみると、まず、自分は友人といるとどんな真剣な話をしている際にも駄洒落を飛ばす人間だった。自分にとって、駄洒落というものは浮かんでくるもので、考えるものではない。それが全くと言っていい程、浮かばなくなったのである。
更に気が付くことは歌がなくなった。歌心と言っていいかもしれない。自分は物心付いた頃から、人前ではともかく、心に歌があった。そのほとんどが流行歌の類いだったが、とにかく、ミーハーな人間としてアイドルらの歌や演歌やポップスを常に歌っていた。
その歌がなくなった。歌が浮かばなくなったのである。
そうした徴候は他にも沢山ある。まず、その1980年の冬から極端に気が弱くなった。元々気が強いほうではなかったが、しかし、それでも哲学する挑戦的意欲だけはあったと思う。
けれど、その冬からアルバイト生活が不安でたまらなくなった。アルバイト先の社員に仕事先の相談をするようにさえなった。挙句、女子社員に紹介される形で、やはりお世話になっていたデパートの取引先だった某輸出代行業を営む会社に入ることになったのである。
そんなことはその年の冬まで考えたこともなかったのに。
そして1981年の4月からは晴れて正式に会社員になったのだが、モラルも崩れ、何といっても本を読む気力が萎えてしまった。それから十年ほどは年間にして数十冊も読めたかどうか。しかもそのかなりの部分をオートバイ関係の本や紀行、随筆が占めるようになっていたのだ。
哲学の本には手が出なくなったのである。
15歳から付け始めていた日記も、日付と天気と家計簿だけのメモ書きになってしまった。
1981年の秋だったか、大学を卒業して以来、音沙汰のなかった友人連が不意に小生が当時居住していた高輪の団地に訪問してきた。
そのうちの一人、某氏は既に某優良会社を辞めて出版業に乗り出していた。小生も幾度となく誘われた。自分としても、出版業はともかく、書物への関心は強かったし、あるいは自分のアイデンティティは書物にしかなかったはずだからと彼に付き従おうとしたが、それは空回りに終わった。
少なくとも80年代の十年前後は小生は、よく言えば回復期にあったといえるかもしれない。
それとも、緩やかな下降期だったか。
1980年代の末頃には窓際族になっていて、会社でも仲間が一人もいなくて孤立していたが、その80年代後半に失恋したこともあり、精神的に相当に追い詰められていたようだ。87年には失恋を記念して(?)青梅マラソンに参加したりして、足掻いていたのである。
結局のところ、ガス事故の余波から抜けきることなど出来ないのかもしれない。失ったものは帰ってはこない。自分の世界は依然としてある。けれど、それは変色した、劣化した自分に過ぎない。天が低く垂れ込めた窮屈な世界に感じる。
が、そうであっても、それが自分の世界なのである。
80年代の終わりごろ、小生は抽象表現主義や生の藝術と呼ばれる絵画世界に開眼した。フォートリエの土の中に埋められ歪んだ顔の絵。デュビュッフェの世界、フランシス・ベーコンの世界。そうした世界に親和する自分がいることに気づいた。
そうして小生は89年の1月24日の夜より、夜毎、ワープロに向かい、自らの壁を掻き削る作業に取り組むことになる。
それは小説とは到底呼べない代物である。友人の某氏には散々、そんなものは文章ではないと呆れられた。しかし、自分には、当時、夜毎に描いた断片の数々は自分に圧し掛かる壁を素手で、生爪を剥がす覚悟で刻んでいたものなのである。
(01/05/13アップ済み)
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コメント
こんにちは、やいっちさん!
なんという奇遇でしょうか。
私も西落合に住んでいたことがありますよ。
(1979年~82年頃)散歩は、哲学堂公園でした。
不思議な感じがします。
投稿: elma | 2006/07/22 12:36
まずは、無事の生還、おめでとうございます。
私はやいっちさまのような体験をしたことはありませんが、それでも、転換期といえるものがありました。
私も物書きを目指していたことがあったのですが、ある時期を境に急に言葉が浮かばなくなったんですよ。
あの当時は本当に怖かったですね。
心にぽっかりと穴が開いた感じで、今までうるさいほどに浮かんでいた言葉がまったく浮かばなくなってしまったのですから。
それまで幾度かぶつかったスランプとはまた違いましたしね。
まぁ最近は言葉が浮かばない日常にも慣れ、別の趣味に没頭しておりますので、不便は感じませんけれどね。
投稿: RKROOM | 2006/07/22 22:03
elmaさん、びっくりですね。
小生は、78年の4月から81年の3月まで西落合やその間近の上高田に居住していて、哲学堂公園は勿論、新井薬師さんなどをうろついておりました。
http://atky.cocolog-nifty.com/bushou/2005/10/post_d26f.html
懐かしい! そして奇遇ですね。
投稿: やいっち | 2006/07/22 22:12
RKROOM さん、誰にも辛い時期、怖い思いをしてしまうことがあるのですね。
小生、今もまた同じような時期の最中にあるような。
RKROOM さんは、そうした時期を乗り越えて、穏やかな雰囲気を漂わせていますね。
没頭できる趣味があるってのは羨ましいし、素晴らしいです。
投稿: やいっち | 2006/07/22 22:16
おはようございます。5時です。(笑)
「西落合日記」全部、読ませていただきました。
いいですね。物語・・・。生活に潤いがありますね。そして、何よりも自分を大切にしていらっしゃるような気がいたしました。
西落合以前は、駒込林町に住んだことがあります。また、瀬戸内寂聴や坪井重治の住んだ町、野方にもいたことがあります。今は、全然・・・そういう著名な方とは縁がありません。
いいですね。自分のことを書けるなんて・・・。
私も真似をしてみようかしら?
投稿: elma | 2006/07/23 04:59
elmaさん、小生は西落合のあとは高輪、今は大森界隈。今も一人、のんびり暮らしています。
自分のことを書くのはネタがないからかも、なんて。それと、他人のことを書くのは神経を使いますから、難しいですし。
許せる範囲で自分のこと、時効になったこと、思い出すことなど、折々に書くのも一興かも。
投稿: やいっち | 2006/07/23 12:14
夫と知り合ったのが上高田二丁目に住んでいたとき。その後結婚して住んだのが大和町。それから現在の住まいまで、ずっとそのあたりに馴染んでおります。
片足を練馬区に、もう片方を杉並区に突っ込んで、はるかかなたに埼玉県和光市を望みながら、一生ここを離れないんだろうなぁ。
投稿: 志治美世子 | 2006/07/23 23:11
志治美世子さん、ネットでの攻撃、凄かったね。あれがファン心理なのでしょうか。贔屓の引き倒しになって、かえって、嫌われてしまいそう。
車(バイク)で言えば練馬ナンバーだったのは上京した最初の三年だけ。あとはずっと品川ナンバー(城南地区)。その小生が浅草サンバのファン。
それにしても、何故、そちらから埼玉県和光市を望むのか。そういう地理なのかな。
どこに住むようになるのか、先のことは分からないかもよ。
投稿: やいっち | 2006/07/24 01:30
はるかに見える光が丘団地(チャリでいける)の向こう側が、埼玉県って感じなんですね~。
ネット上のことは、多分本当のファンじゃなくても、検索できることなのでしょう。ああいうの、よくあることだから心配要らないって、友人から言われていましたから。
攻撃のための攻撃って、頭では理解しててもすごいよね~!ほとんど24時間体制だったもん。
現在の住まいは家族運の無かった私の「生まれて初めての自分の家」なので、できればこのまま住んでいたいな。
私のお友達で妹分のなっちんも、10代で甲状腺がん、25歳で悪性リンパ腫にかかり、放射線治療の後遺症で嗅覚が無いの。牛乳腐ってても、ガス漏れしてても分からないから、一人暮らししたいけど不安があって、と言っていました。
だからやいっちゃんの体験は、すっごくリアリティがある。こういうことなんだなって。
彼女のブログ「なつこのクンクン日記」が私のページにブックマークしてありますので、よかったら読んでみて!闘病記は新潮社から「へこんでも」として出版されています。こちらもよかったら読んでみてね。
投稿: 志治美世子 | 2006/07/24 09:20
小生の場合、人よりは鈍いだろうけど、嗅覚そのものはあるし、嗅げば匂いも分かる。
ただ、鼻呼吸ができないので、普段は鼻から息が出入りすることはない。
結果として匂いに疎くなってしまうわけ。
花の香りだって、トイレの匂いだって、料理の香りだって、女性の香水だって感じようと思えば感じられるんだけど、ね。
でも、一人で居るときにわざわざ鼻は使わないから、不自然なガスが発生して匂いが漂ってきても、すぐには気づかないだろうな。
10歳からのことだけど。
投稿: やいっち | 2006/07/24 13:13