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2006/07/05

ホーソーンとアメリカの闇

 昨日というか、今朝、未明になるか、さすがに暇になったので車中で瀬戸川 猛資著の『夢想の研究―活字と映像の想像力』(創元ライブラリ)を読んでいたら、表題のナサニエル・ホーソーンのことが話題に採り上げられていた。
 小生は、ホーソーンの『緋文字』は二度ほど読んだことがある。最後に読んだのは、N. ホーソーン (著)『完訳 緋文字』八木 敏雄訳、岩波文庫)だった。
 宗教的なテーマが扱われていて、感銘深く読んだという印象が残っている。

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 が、上掲書は夢想の研究と銘打っている。映画(映像)と活字とのコラボ的な評論を目ざしたもので、出版社の説明によると、「本書は、本と映画を題材に、具体例に即して二つのメディアの想像力をクロスオーバーさせ、あくまで現実との関わりにおいて、だが大胆に想像力をめぐらせて夢想を論ずるという、まさに類を見ない試みの成果である。そこから生まれる説のなんとパワフルで魅力的なことか。文芸評論に新しい地平を切り拓いた著者の真骨頂! 解説・丸谷才一」と銘打たれている。
 題材は文学に限るわけではないのだが、焦点はあくまで<夢想>のはず。
 なのに、何故にホーソーンなのか。

 例によって「ナサニエル・ホーソーン - Wikipedia」の力を借りさせていただく。
 冒頭の、「ナサニエル・ホーソーン(ナザニエル・ホーソーン、Nathaniel Hawthorne 1804年7月4日 – 1864年3月19日)は、アメリカ合衆国の英語で書く小説家・短編小説作家。日本語では「ホーソン」と表記されることもある。」はともかく(でも、ホーソンだと、疱瘡ン?って感じで日本語的には語感が良くない? ほー、そーん?って感じ)、続く記述が興味深い。
「父方の祖先である初代ウィリアム・ホーソーンはクエーカー教徒迫害に関与し、二代ジョン・ホーソーンはセイラム魔女裁判の判事を務めており、また、母方の祖先であるニコラス・マニングが近親相姦の嫌疑をかけられ迫害されると言う過去を持つため、宗教的な内容の作品が多い」というのだ。

 これじゃ、やっぱり、ホーソーンを『緋文字』で以て代表させるのも、宗教的なテーマを扱う作家と認識するのも無理はないし、実際、そういった課題(ちょっと綺麗な表現か。日本人なら<業>と呼ぶのか)を担い続けたという理解も安易と思いつつも無理はないような気がする。

 先に進む前に、「ナサニエル・ホーソーン(Nathaniel Hawthorne)」のプロフィールや生家などを画像で見ていただいてもいい:
Nathaniel Hawthorne - Wikimedia Commons

 また、小生の記述は心もとないと思われる正直な方(心外な方)は、下記のサイトへどうぞ:
日本ナサニエル・ホーソーン協会

 例えば、「ホーソーンとは - はてな」を覗かせていただくと、
文学マーケットがまだ未成熟であったこの時代の作家の常として、ホーソーンも自らの筆だけで生活を作り上げることは出来なかったが、彼の場合、それでも比較的幸福な人生を送ったということが出来る。同時期の作家と比べてみても、晩年はニューヨークのアパートで世間から忘れられてひっそりと死んだハーマン・メルヴィルや、ボルティモアの路上で客死したエドガー・アラン・ポーなどと比べ、アメリカ大統領が友人であったホーソーンは、1853年から四年間リヴァプール領事として公務を勤め上げるなど、それなりに恵まれた人生を送っている」とあったりする。
 少なくとも傍目には不幸な人生だとか、宗教的煩悶に苦しみ続けたとは想像しようのない、破綻の少ない人生に見える。

 しかし、本書『夢想の研究―活字と映像の想像力』にても、瀬戸川 猛資氏が力説されていたが、実は、続く記述が重要なのだ:
ホーソーンの作品は、長編よりも短編においてその資質を十全に発揮している。代表的な短編である「若きヤング・グッドマン・ブラウン」などは、盟友メルヴィルに激賞され、またカフカを先取りしていると言われる「ウェイクフィールド」などは、20世紀のアルゼンチンの作家ボルヘスに、「文学における最高傑作の一つ」と言わしめる。また、現代アメリカの作家ポール・オースターなども、この「ウェイクフィールド」にインスパイアされて、『幽霊たち』を書き上げるなど、同世代は勿論のこと、後世にも多大な影響を与え続けている」。

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 実は、この春、小生はハーマン・メルヴィルの『白鯨』を時間をかけて、じっくり読んできたことは、このブログでもメモっている。今回は、『白鯨―モービィ・ディック (上・下)』(千石 英世訳、講談社文芸文庫)で親しんだ。
 若い頃、読み飛ばして、この作品がどうして世界的な文学なのか、まるで分からなかったけれど、今回、ゆっくり時間をかけて読んでみて、その凄さを堪能することができた。
 シェークスピアとまではいかなくとも、世界に佇立する文学世界だと実感させられたのだ。
 学生時代は退屈で読み流し、あるいは読み飛ばしていた、クジラについての薀蓄の記述も、その記述は大海に浮ぶ小船を叙しているようなもので、むしろ、小船を浮かべている海を、海の底を、海の謎を、あるいはメルヴィルが抱えて続けていた闇の深さを感じられるかどうかが肝心なのである。
 生意気かもしれないが、四半世紀ぶりに読み直してみて、少しは小生にも読解力、それとも何か重苦しいものを担ってきていて、ほんの少し共感できる面があったのかな、とも思う。
(実は同じことが、ホーソーンにも言えるということなのだ。)

 小生は、例えば下記のような、「白鯨の周辺」を巡る雑文を綴っている:
「白鯨」…酷薄なる自然、それとも人間という悲劇
白鯨と蝋とspermと
私の耳は貝のから 海の響きをなつかしむ
白鯨とイカと竜涎香と

 当然ながら、肝心の『白鯨』という作品の冒頭には、かのホーソーンへの献辞が書かれていることにも気づかなかったわけではない。
 が、ホーソーンというと『緋文字』しか思い浮かばない小生、へえー、メルヴィルがホーソーンに畏敬の念を抱いている…。まあ、確かに『緋文字』はなかなかの作品だけど、でも、ピンと来ないな…、ま、いっか、なのだった。

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→ 『ホーソーン短篇小説集』(岩波文庫)

 重ね重ね転記するのは僭越の極みだが、以下の記述は自戒の念も篭めて、読み味わいたい:
彼の文学の本質は、メルヴィルがすでに同時代に喝破したように、表面上はたとえ「小春日和の陽光」が指しているような穏やかさがあったとしても、その「魂の裏側」には、何十倍もの「暗い闇」が存在しているという、その秘められた虚無の強さであったといえる*2。勿論、このメルヴィルの評は、多分にメルヴィル自身の資質を自らがコメントしている文章だとは言えなくもないが、同時にホーソーンの内側にも、深い闇があったことは否定できない。自らの家系への愛憎半ばする不安から始まり、ピューリタニズムの根源を歴史の中で問い直そうとしたホーソーンの物語には、確かに人間の心性の裏にある不可知な衝動への、冷静な視線が存在していたといえる

 ネットで調べたら、格好の短編集が見つかった。『ホーソーン短篇小説集』(坂下 昇訳、岩波文庫)だ。
「僕の親戚、メイジャ・モリヌー」「ヒギンボザム氏の意外な破局」「ヤング・グッドマン・ブラウン」「ウェークフィールド」「白の老嬢」「牧師の黒のベール―ある寓話」「石の心の男―ある寓話」「デーヴィッド・スワン―あるファンタジー」「ドゥラウンの木像」「雪少女―こどもじみた奇跡」「大いなる岩の顔」「フェザートップ―訓話になった伝承」「アリス・ドーンの訴え」などが所収のようだ。

 本当の宗教心というのは、何かの教典(経典)の文章を表面的に墨守することでもなければ、その文句を振りかざすことでもない。
 海、それとも川の表面が穏やかで凪いでいるように見えて、その実、際限のない闇と光と、時に嵐とを湛え、あるいは耐えているようなものだ。
 きっと、文学も同じだろう。

 アメリカ文学。
 アメリカのこと。
 アメリカの功罪。先住民族を徹底して排除し虐殺し殲滅してしまった上での建国。そう、昨日はアメリカの独立記念日でもある。
 先住民に対しては、フランス系の移民よりイギリスからの清教徒が遥かに過酷な仕打ちを為したという。西部開拓史などにおいては(「開拓」とは何たること! 何がフロンティアスピリットだ!)、宗教的原理主義の容赦ない過酷さがこれ以上にないほど示されたのだった。

 しかも、その書かれざる、記憶されざる、口に上らない、よって<歴史>には上らない過去は、僅か二百数十年の昔のことなのだ。
 が、だからこそ、アメリカが抱えた闇も、未だ傷跡が生々しい。傷口が癒えていない。パックリ、口を開いている。うっかり、宗教的な憐憫の情など抱こうものなら、開いた傷口から果てしなく深い真っ赤な闇へ(敢えて地獄とは言わないが)真っ逆様なのである。 
 だから、決して過去に向き合うことなど、特に自らを<敬虔で>聖書の記述を文字通り信じていると思っている白人系の人たちはしないのだろう。

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← 『鳥―デュ・モーリア傑作集

 しかし、禍々しいもの、己の良心に痛く問いかけてくること、己の先祖たちの為した仕儀のおぞましさに対し、目を背け、背を向け、宗教的原理に寄り縋り縋ろうとすればするほど、過去はなけなしの良心の首根っこを引っつかみ、地獄の業火の世界へ一層、強く深く引きずり込もうとする。
 妥協を知らない点では、人間よりも<業>のほうが遥かに苛烈で容赦ない。
 アメリカにおける真の文学者というのは、あるいみ、アメリカが目を背け、遠ざかってきた過去の亡霊の犠牲者のようなものかもしれない。誰かが過去に向き合わねばならない。
 それは誰か。それは、良心を持ち、共感する心を持ってしまったものだ。そして、彼の宿命でもあるのだろう。
 凄まじきは、文学という営為だと、つくづく思ってしまう。
 愛憎半ばするアメリカ。小生、これからも、アメリカ文学と付き合っていくんだろうな……。
 何故なら、アメリカの闇であると同時に、そうした特殊事情を突き抜けて、人間の闇という岩盤に間違いなく突き当たった少数の文学者がいるのだから。

 まあ、ここに書いたようなことは、文学好きなら常識に類することなのだろうが、ま、いつも遅れてきた、肝心な時に間に合わない小生のこと、世間の流れとは懸け離れたところで、じっくり愉しんでみたい。
 そう、ダフネ デュ・モーリア著の『鳥―デュ・モーリア傑作集』(務台 夏子訳、創元推理文庫)を十数年前の失業時代に、みんなが忘れかけている頃に<発見>して一人感激したような、そんな体験をまた味わえるかもしれない。

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