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2006/07/19

もうすぐセミの鳴く季節

 あるサイトを覗いたら、セミの話題が載っていた。もう、すぐそこまでセミの鳴く季節が来ているのだ。
 そのブログには、次のように書かれていた:

 もうすぐ蝉の声がきこえるでしょう。
 空蝉を見つけては・・
 その儚さに想いを重ねてみるでしょう。
 
 今年も全身全霊をかけて・・
 蝉はなくのだろうなぁ。

 精一杯はステキです。


 詩的である。夢がある。
 が、そこはそれ、小生は野暮天である。
 コメントに、つい書かずもがななことを書いてしまう:
 蝉さんは、地上での命は短いけど、地下での生活を含めると、昆虫の中では短命とは言えないとか。
 蝉さん、地中での幼虫としての生活が極楽だったのではないでしょうか。人間で言えば子宮の中で羊水に浸っているようなもの。
 地上に出て、あーん、いやだ、いやだ、地中に戻りたいよって、泣いているのかも。

 鬱陶しい梅雨の時期。今も雨がシトシトと降り続いている。雨の中、通勤するのも嫌なら、雨の中で仕事するのも結構、億劫である。
 家の中に篭っている限りは、部屋の中から窓外の雨模様を眺めるのは嫌いではないのだけれど。
 というより、雨の風景というのは実に心を落ち着かせるものがある。不思議だ。心までを潤すのだろうか。

 さて、野暮のついでなので、せっかくだし、少しだけセミのことをメモしておきたい。

 セミに付いての一般的な知識は、やはり、「セミ - Wikipedia」がネットでは頼りになる。
 しかし、今日は他のサイトを巡ってみる。
[野鳥コラム]-鳥と昆虫の世界-第9回 大鐘裕道」によると、「地中でのセミの幼虫の生活は至って単調で、木の根に口を差し込み、汁を吸っているだけです。これで種類にもよりますが、約3~7年で地上へ出て成虫になり、約10日ほどで死んでしまいます」という。
 やはり、地上での命の儚さという現実は隠しようもないが、セミの一生そのものまでが儚いわけではない。約3~7年の命というと、昆虫の中では短いほうとは言えないようだ。
地下にいるとき、天敵である鳥に狙われることはありませんが、地下では、モグラによく狙われます。また菌類にも犯され、有名なセミタケ(冬虫夏草)が見られることもあります。地上へ出てからは、鳥に食べられることが多くなります」となると、地下にあっても地上で日の目を見ても、セミは(セミに限らないけれど)安閑たる一生があるとは言い難いようだ(太字は小生の手になる)。

セミの旅立ち」という頁がクマゼミの羽化の素敵な画像などがあって、説明も分かりやすく、訪れるだけで楽しくなる。
 その画像を見ていると、そういえば、ガキの頃、夏場にはよくセミの抜け殻を見たなものだと思い出した。
 ただ、残念ながら、羽化の瞬間そのものを見た記憶がない。人に限らず天敵の目を掻い潜って羽化しているのだから、小生のような鈍感な目に捉えられるはずがなかったのだと、今更ながらに納得している。
地上に出て生きられる期間は、たったの2週間。その短い間にパートナーを見つけて交尾をし、数年後に旅立つ子孫を残さなければなりません。ああ、なんとはかない一生なんでしょうか...。」と書いてある。
 ハネムーンの時期が短い。でも、一生までが短いわけじゃないのだと、慰めておこうか。

呼び合える独舞  (「田中泯 独舞」をみて) 2002.9.19   鳥井素行」の中に瞑想を誘う節があった。通して読んでも長くはないので、一読を願いたい(ホームページへのリンクが貼ってないが、どうやら「樂土の森へようこそ」のようだ)。
 ここでは興味を惹いた、関連する部分だけ転記させてもらう。なかなかいい鑑賞文だと思うし:
あの時の僕は、時間をかけて甲冑を脱ぎ、柔らかい乳白の身体を露にした蝉の変態の過程に、とても無防備な、危険な時の流れを感じていた。僕がもし、蝉を食するものとして生まれたのであったなら、地上に出たばかりの蝉の命は、やがて訪れる陽の光を体験することもなくたちまち終わっていたに違いない。しかし、どうだろう。蝉は地下にいる時は蝉自身の孤独な理想と現実の間に何ら矛盾はないであろうに、地上に出た瞬間から余命の宣告を言い渡され、種の保存の使命を告げられ、たとえ危険な羽化の時間を何事もなく過ごせたとしても、最後まで決してうまくならない飛び方しかできない不器用な成虫として一生を終える、全く矛盾ばかりの生き物となってしまうのだ」(太字は小生の手になる。)

蝉は地下にいる時は蝉自身の孤独な理想と現実の間に何ら矛盾はないであろうに」というくだりだけに拘る。本来は文章の全体の流れの中に転記した節があるのだから、別に異論を呈するといった意味合いで書くわけではない。
 上記した転記文にあるように、「地下では、モグラによく狙われます。また菌類にも犯され、有名なセミタケ(冬虫夏草)が見られることもあ」るのだ。決して、「人間で言えば子宮の中で羊水に浸っているようなもの」であったり、「地中に戻りたいよって、泣」いて懐かしがるような安穏と過ごせる場所でも時期でもなかったわけである。
 むしろ、セミの鳴き声を聴いたときは、番(つがい)の相手が欲しいよって(やりたいよって)思いっきり叫んでいると、少々気恥ずかしく思ったほうがいいのか。

2006samba_052

→ 第26回あさくさサンバカーニバル

 セミというと、「蜩…夢と現実をつないで鳴く」という雑文を綴ったことがある。
 昨年の八月の終わり、恒例の浅草サンバカーニバルにスタッフとして我がチームの応援に行った時、集合の時間に間があったので、浅草寺の境内を歩いていた時のこと、「鬱蒼と生い茂った木々の緑が目に嬉しい。台風一過の炎天が金曜日から続いていて、小生は日陰を探し求めながらの散歩。歩いていると、蝉の鳴き声が喧(かまびす)しい。」といった光景に遭遇したのが記事を書く切っ掛けだった。
 このエッセイは、以下の一文で締めくくられている:

 蝉の鳴き叫ぶ木々が随所にある浅草寺の境内の脇ではパレードが始まっている。サンバという命を燃やすような、命の賛歌ともいうべき祭り。
 蜩なのか、あるいは他の種類の蝉なのか、無粋な小生には分からない。でも、頭上の蝉と本堂の向うのパレードでの演奏などが、妙にシンクロして、祭りの近くにいる、ほんのしばらく後にはパレードの真っ只中にあるはずなのに、その全てが現実であり夢であるかのような、不思議な、悲しい感覚に囚われていたのだった。

 最後に、そのブログ日記で捻っておいた句をここに再掲しておく:

 かなかなとものかなしげに鳴くのかな
 かなかなと誰はばからず鳴くがいい
 かなかなと命の限りを尽くしてる
 ヒグラシの鳴くに紛らせ我も泣く


 一昨日は、寄贈を受けた高間大介/田近伸和著『進化の「謎」を探れ! 徹底対談「生命40億年史」』 (アスコム)を読了。
 昨日からは、『ホーソーン短篇小説集』(坂下 昇 編訳、岩波文庫)を車中で読み始めた(冒頭の短編は「僕の親戚、メイジャ・モリヌー」なのだが、これがいかにもカフカ風で、それでいて一層幻想味があって、またカフカより俗塵に塗れた猥雑さがあるだけ、混沌とした面白みがあって、チョイスがよかったと納得している)。
 今日、火曜日には、『香月泰男の絵手紙』(小池邦夫編、二玄社)を読み終えてしまった。といっても、ほとんどが絵手紙の画像(当然、手書きの手紙文と絵が載っている)なので、返却するまでは寝床で眺めて過ごすだろう。
 今週中には、サイモン・シン著の『ビッグバン宇宙論 (上)』『ビッグバン宇宙論 (下)』(青木 薫訳、新潮社)も読了してしまいそう。
 さすがにサイモン・シンで、小生がこれまで読み漁ってきた宇宙論関係の本では扱われていない、多くの科学者たちの興味深い逸話を多く書いてくれていて、七夕からの十日間、即席の宇宙(論)の旅へ導いてくれたのだった。

 ということで、読書拾遺を綴ろうかと思ったが、今日は、セミの話で終えておく。
(実は、「虫眼鏡」の話を書こうとも思っていたのだが、これも、後日の楽しみに取って置く。)

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コメント

雨が心安らぐのって、出かけなきゃならない用事がなんにもなくて、お洗濯物も溜まっていなくって、お掃除も済んでいるとき、限定!かもしれない。
こんな日に一日読書にどっぷり沈没していられるなら、シアワセ!

サンバは、ウエスト周りのお肉がなくって、ヒップがきゅん!と持ち上がっていて、スラリスレンダーあんよの女性限定!なの?
本場でのおばはんたちは、いったいどうしているんだろう?浅草もエイジリミットがあるの?サンバカーニバルおシトネ辞退とか。
OB会があったりして・・・。

投稿: 志治美世子 | 2006/07/19 08:39

志治美世子さん、雨の日に仕事や用件で外出となると(買い物だけでも)憂鬱ですね。小生もこれから仕事だ。
サンバ、浅草でも年齢制限はないですよ。パシスタ(ダンサーの中でもメインに踊る人)となると、体力的にもなかなか厳しいかもしれないけど、OBとか、とにかく参加したいという人のためのキャラクターが我がチームに限らず、必ずあります。
以前、その募集の件、このブログでも告知したことがあります。でも、もう募集は締め切っているようです。
たとえば、こんな……:
 http://blog.drecom.jp/ecchu/archive/69

投稿: やいっち | 2006/07/19 09:17

こんばんは、やいっちさん!
コメントをいただきありがとうございました。

影絵の森美術館は、けっこう楽しめましたよ。
ただ、常設の展示物は、絵が泣いていたように思います。余白がない展示の仕方でした。あるもの全部展示してしまう感じです。もったいない!

セミが短い命を生きるのも、人間が何才かまで生きるのも、凝縮して生きれればいいのかな~と思う今日この頃です。

投稿: elma | 2006/07/19 20:11

elmaさん、こちらこそ、既に一昨年の記事となった「影絵の世界」を紹介していただいて恐縮しています:
http://atky.cocolog-nifty.com/bushou/2004/12/post_11.html
久しぶりにこの小文を読み返すことが出来ました。
影絵、そして走馬灯、共に懐かしい世界ですね。
影絵の森(藤城清治)美術館へ行ってこられたこと、羨ましく思ってます。

セミさんはきっと凝縮した生を燃焼させているのでしょうけど、人間の場合、生きている間はついつい無精と惰性に流されるのが習い。
まあ、ボチボチ、やっていきます。
これからもお互い、刺激しあって楽しんでブログしましょう。

投稿: やいっち | 2006/07/20 07:12

やいっちさんこんにちは☆
なんだか照れくさいです。。
載せて頂いて・・恐縮しています。
TBもありがとうございます。
夏になると必ず思い出す人がいるんです。
夏は私にとってセツナイ季節なんです。
今年の夏は・・
ある知人が夢をあきらめて東京で就職活動。
大阪を離れるので・・またまたセツナイ。
鳴き始めたばかりの蝉の声も
この雨で・・遠くなりました。


投稿: ヘルミーネ☆ | 2006/07/20 09:27

ヘルミーネ☆さん、いきなりTBして失礼しました。
火曜日の夜中になって、いざ記事を書こうかなというとき、ヘルミーネ☆さんのところでのセミの話題が脳裏をよぎって、つい続き(蛇足とも言う?)を書きたくなって。

そっかー、ヘルミーネ☆さんにとって、夏は「夏が来れば思い出す♪」の季節なのですね。
うーん、切ない!

投稿: やいっち | 2006/07/20 12:13

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