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2006/07/02

ルソー…孤独な散歩者の夢想

 全くの偶然なのだが、小生は6月29日に「むすんで ひらいて…」なる雑文を書いている。この「むすんで ひらいて」という有名な曲は、ともするとかのフランスの哲学者ジャン・ジャック・ルソー(Jean-Jacques Rousseau)が作曲したとも言われたりしてきた。しかし話は簡単ではないことは、以下のサイトを覗けば分かる:
むすんでひらいて~歌詞と解説 ルソーとの関係 そのルーツに迫る~『ドナドナ研究室』」が音楽ファンなら特に読んで興味深いはず。
(拙稿「「むすんでひらいて」(作詞不詳・ルソー作曲/文部省唱歌)」は、まあ、お戯れ…)

 何が偶然かというと、ジャン・ジャック・ルソーは1712年6月28日生なのである。死去したのは、1778年の今日、つまり7月2日である。
 6月29日に「むすんで ひらいて…」を書いたのは、古来より(といっても、明治以来のものもあるが)連綿と読み継がれ歌い継がれてきた昔話・民話・童謡・唱歌の、特に歌詞の意味深な世界を探る一環でのことに過ぎなかったのだが。

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→ 高島野十郎の蝋燭の焔…じゃありません。夜の東京タワーです!

 ジャン=ジャック・ルソーのことは今更説明する必要もないだろう。少なくとも名前だけは多くの人が知っている。「ジャン=ジャック・ルソー - Wikipedia」が例によって参考になる。
 小生は高校の頃にルソーの本に出会い、学生時代、そしてその後のフリーター時代に渡って、彼の著作に親しんだ。小生が読んだ主な作品を名前だけ羅列しておくと、『学問芸術論』、『人間不平等起源論』、『言語起源論』、『ジュリ または新エロイーズ』、『社会契約論』、『エミール または教育について』、『告白』、『孤独な散歩者の夢想』だろうか。
 この中で、高校時代に出会ったのが『孤独な散歩者の夢想』だった。同時期にデカルト、ベルグソン、ショーペンハウエル、フロイト、パスカル、親鸞(倉田百三的な…)、三木清らの著作に親しみ始めた。
 旺文社文庫と中央公論社の『世界の名著』シリーズ(後に『日本の名著』シリーズも)が、思想や宗教関係の本を選ぶ対象だったような。岩波文庫は敷居が高いように感じていて、学生時代になって岩波新書と併せて物色・渉猟の対象となる。

 ルソーは、結構、食わず嫌いというか読まないで分かったつもりになって、もう、いいよという感じになっている人が多いように感じる。
 松岡正剛氏もその一人だったようだ。「松岡正剛の千夜千冊『孤独な散歩者の夢想』ジャン・ジャック・ルソー」だけでも、ざっと読んでみて欲しい。
 きっと、『孤独な散歩者の夢想』を読みたくなるはずだ。
 小生はというと、高校時代にかなりセンチな気分の中で読み、学生時代にはルソーのほかの著作を読む一環で、少しは哲学の香りを嗅ごうとし、最後に読んだのはフリーター時代だったか。
 何処か世間にはぐれてしまったという気分の時にルソーの本に手を出すような。
 同病相哀れむ?!

 今は丁寧に『孤独な散歩者の夢想』を紹介する余裕がない。
ホントはどんな人?―PICK UP」の中に、本書を簡潔に紹介する項があったので、そこを参照させてもらう(「桐原書店 Kirihara Online」がホームページ):
「ルソーが晩年に執筆した『孤独な散歩者の夢想』というエッセイがある。当時ルソーは,フランスの片田舎で,音楽の譜面をうつす写譜で生計をたてながら,植物採集をし,押し花の標本をつくっていた。第一の散歩より始まるこのエッセイで,ルソーは,自らの人生を回想しながら,それまで自分に向けられた中傷などに対して,次々に反駁していくのだが,ルソーは,自らについて誤認がある場合はあるが,包み隠さず書くので,彼のとった行動が,おそらく他人の感情を害しただろう,彼の弁明にもかかわらず,読者は,やはりルソーに非があるのではないかという印象をもつ箇所が随所にある。それらが,豊かな自然描写のなかで語られていくので,老いた,漂泊の旅人の削がれた人間性が浮き彫りとなり,不思議な読後感にひたることになる。」

 そう、ルソーは一筋縄ではいかない人物なのだ。ある意味、嫌味というか臭みがあったりする。
 けれど、弁明しつつも、ついつい己の非が漏れ出てしまうのがまた若い人には若い人なりに、馬齢を重ねるとまた違ったふうに読み込めて仕舞うわけである。
 高校時代の失恋の痛手の中で「孤独な散歩者の夢想」を読みつつ、甘い感傷と孤独感に浸っていた…。もう一端(いっぱし)の哲学者気取りで。

 思えば、失業時代に、『人間不平等起源論』や『言語起源論』を再読したし、『エミール』を初めて読んだのは大学を卒業して上京はしたものの途方に暮れていたフリーター時代だった。

 ところで、「その『エミール』は、云うまでもなく教育論の書であり、近代の教育学の古典とも呼ばれる書である。長いが、じっくり読むに値する本だと思う。
 その大作を書いたルソーは、彼が32歳の頃に知り合った女性(テレーズ)との間に出来た子ども5人を、生れたそばから孤児院に預けている。時代背景が違うとはいえ、我々には理解を超える処置だ。
 尤も、ルソー自身、赦されざる暴挙だったと、『告白』の中で述べている。その「告白」によると、彼は、実は、『エミール』という教育論の書を書いている一方で子どもを作り、次々に子どもを孤児院に預けていたのだと分かる。これでは、真剣に書かざるを得ないわけだ。彼自身、生後9日頃に母親を失っている。父の妹に育てられたという。

(拙稿では、「そう、そんなルソーだからこそ、罪と悔恨の意識で子どもへの罪滅ぼしの意味合いもあって、こんな曲を作ったのか、と勝手に思い込んだりしたのだ。」と「むすんで ひらいて」の曲想の周辺の話題などに続いていく。)

 小生は、このやや大部な『エミール』をアルバイト先の倉庫の隅っこに隠れ潜んで読み通した。
 その頃は、「孤独な散歩者の夢想」を初めて読んだ頃の失恋とはまた違った形での失恋の真っ最中だった。
 アルバイト先に好きな人がいたけれど、小生が『エミール』の読み浸りに専心(?)している傍らで、その人は同じアルバイト先の同僚だった人物との恋の真っ最中でもあったのだ(小生は、後に彼らが結婚したことで、二人の関係を知る。ドジだし、鈍感だったのだ。あるいは、現在進行形の現実を直視する勇気がなかったのか)。

 ルソーは幼い頃からの複雑な家庭環境、後年の酷薄とも思える彼自身の仕儀もあってか、始原への探求が彼の性分となっている。『人間不平等起源論』や『言語起源論』に限らず著作の題名を見るだけでもその傾向が歴然としている。
 また、始原へ根源へと迫るのは哲学者の宿命だし、またそうした性向がないと哲学に関心を持つはずもないのだが。
 始原、根源、起源、淵源…。こうした言葉が並ぶだけで心が昂ぶってしまう。人間にとっての始原とは何処にあるのだろう。大きくは宇宙の創出に始まって生命の誕生、自分の誕生、言語の起源etc.となるが、揺れて止まない、他者や社会との違和感を徹底して覚えてしまう、度し難い孤独の淵源へのこだわりこそ、ルソーの真骨頂があるような気がする。
 人間の不平等も社会的・政治的な問題もあるが、つまるところ人間の本性に関わるところまで探求が行き着いてしまう。一般論としての人間とは何かを問いつつ、己とはいかなる人間なのかを問わざるを得ない。

 若い時期に失恋や諍いがあって、一時的にそうした問いと煩悶に苦しむ人は少なからずいるのだろう。
 が、本書『孤独な散歩者の夢想』はルソーの白鳥の歌なのだ。しかも、「白鳥(しらとり)の歌」の雰囲気も漂っていると勝手に読む込むこともできてしまう。
 それにしても、晩年になっても、こんな苦い念を相変わらずトコトン探り続けるしかないなんて、哲学者とは因果な連中だ!

 でも、だからこそ、ルソーの世界に惹かれて彼の著作を読み浸ってしまったのだろう。

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コメント

食わず嫌い・・なんかじゃないのですが笑
ルソーなんて絶対にムリ、と決め付けていました。
やいっちさんの記事を読んで
読みたくなってきました。
難しいかなぁ。。私にはムリでしょうか?
やいっちさんの恋ばな・・。
切なくなりました。
みんな同じですよ。
現実を直視できない自分がいたりします☆
いっつもです。。笑

投稿: ヘルミーネ☆ | 2006/07/03 02:41

ヘルミーネ☆さん、ルソーはいいですよ。
『孤独な散歩者の夢想』は推奨します。若いときに、あるいは年輩になって、その都度の感懐がえら得る。読みやすいし。

アッシの恋ばなは惨めなものばかり。ダメ男なのです。

投稿: やいっち | 2006/07/03 12:20

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