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2006/07/11

霧の都ロンドンと漱石と推理小説

 瀬戸川 猛資著の『夢想の研究―活字と映像の想像力』(創元ライブラリ)を読んでいたら、漱石と推理小説に付いての、興味深い記述があった。
 どうやらその関わりの淵源は漱石のロンドン留学の時期にありそう。
 なので、その周辺を探ってみることにした(時間がないので、かなり流し気味に書く)。

2006年の漱石」なる頁の冒頭に、「古いものを大事にするロンドンには、のちの漱石、夏目金之助が確実に投函しただろう郵便ポストが今も残っている。
 金之助は、 1900 年 9 月 8 日に横浜港を出発、パリを経て 10 月 28 日にロンドンに着き、 1902 年 12 月 5 日ロンドンを発って帰国の途についた。 1900 年代はじめの 2 年 1 ヶ月を、彼はイギリスで鬱々と過ごした。英文学者夏目金之助から、近代日本を代表する文豪夏目漱石に向かう契機となったのが、このイギリス留学だったことはよく知られている。」とある。
 漱石のロンドン留学のこの必ずしも長くはない時期は、ある意味、日本の文学(に限らないだろうが)に深甚なる影響を齎した時期であり、ロンドン体験は一つの文学的事件だったと言っても過言ではないだろう。
 こんなことを思い出したのは、今読んでいるサイモン・シン著の『ビッグバン宇宙論』で、ニュートンやアインシュタインの若き日の逸話、短期間の間で為した世界観・宇宙観の革命の時の心理状態の記述を読んでいたからだ。
 ニュートンもだろうが、アインシュタインも自分が極める思考実験の結果のあまりの非常識さに自分が異常な道に踏み込んでしまっているのではという苦しみが常に付き纏っていた。
 
 漱石が留学した時期は、「1901 年 1 月 22 日、イギリスのビクトリア女王は 81 歳で亡くなった。 1837 年 18 歳で即位したから、その統治は 64 年に及び、歴代のイギリス王のなかでもっとも長い。女王の時代は、産業革命で先行した大英帝国の繁栄の時代でもある

 この頁の記事を読むのは興味深い。同時に、ロンドン滞在の時の心境も含め、『私の個人主義』(講談社学術文庫版)などに漱石自身が書いている。

 幸い、同上のサイトに当該の節が掲げられている:
「私はこの世に生れた以上何かしなければならん、といって何をして好いか少しも見当が付かない。私はちょうど霧の中に閉じ込められた孤独の人間のように立ち竦(すく)んでしまったのです。(中略)あたかも嚢(ふくろ)の中に詰められて出る事の出来ない人のような気持がするのです。私は私の手にただ一本の錐(きり)さえあればどこか一ヵ所突き破って見せるのだがと、焦燥(あせ)り抜いたのですが、あいにくその錐は人から与えられる事もなく、また自分で発見するわけにも行かず、ただ腹の底ではこの先自分はどうなるだろうと思って、人知れず陰鬱な日を送ったのであります。」と(真剣な文章の中でさえも、「霧」と「錐」との言葉遊びをしているのが漱石らしい)。

 さらに、「私はこうした不安を抱いて大学を卒業し、同じ不安を連れて松山から熊本へ引越し、また同様の不安を胸の底に畳んでついに外国にまで渡ったのであります。 (中略)しかしどんな本を読んでも依然として自分は嚢の中から出るわけには参りません。この嚢を突き破る錐はロンドン中探して歩いても見付(みつ)かりそうになかったのです。」と続いている。
 
 漱石のロンドン留学のときのことに付いては、研究も深められているし、ネットでも相当程度に詳しい情報を得ることができる。
 例えば、「夏目漱石とロンドン:倫敦漱石記念館ホームページにようこそ!」の中の、「ロンドン留学」という頁を見てみる。
 ここでも、『私の個人主義』からの引用が示されている:
「私はそれから文芸に対する自己の立脚地を堅めるため、堅めるというより新らしく建設するために、文芸とはまったく縁のない書物を読み始めました。一口でいうと、自己本位という四字をしばらく考えて、その自己本位を立証するために、科学的な研究やら哲学的の思索に耽り出したのであります。・・・私はこの自己本位という言葉を自分の手に握ってから大変強くなりました。彼等何者ぞやと気概が出ました。今迄茫然と自失していた私に、この所に立って、この道からこう行かなければならないと指図してくれたものは実にこの自己本位の四字なのであります。・・・その時私の不安はまったく消えました。私は軽快な心をもって陰欝なロンドンを眺めたのです。比喩で申すと、私は多年の間懊悩した結果ようやく自分の鶴嘴をがちりと鉱脈に掘り当てたような気がしたのです。なお繰り返していうと、今迄霧の中に閉じ込まれたものが、ある角度の方向で、明らかに自分の進んで行くべき道を教へられたことになるのです」
 
 漱石ファンならずとも、本書『私の個人主義』は読まれたことがあるだろうし、これからも読まれていくだろう。

 さて、文学的煩悶となると小生の手には到底、扱いかねる。
 なんといっても、「土井晩翠 漱石さんのロンドンにおけるエピソード 夏目夫人にまゐらす」を一読すれば分かるように、神経衰弱(あるいはそれ以上)の危険性さえあったというのだし。

 漱石がいた頃のロンドンは、19世紀から20世紀にかけてという長い長い長すぎる産業革命の世紀の終わりごろに当っていた。
 ロンドンと言えば、霧の都(サンフランシスコなどもそうだが)と呼称された時代があったが、これはまさに、産業革命で先行した大英帝国の繁栄の時代の象徴であると同時に、負の遺産として産業革命で長期間にわたって工場などから猛烈な煙が吐き出され続けた結果であり、今日で言うスモッグなのである。

 霧の都といった呼称から想像できるようなロマンティシズムとは遥かに懸け離れている。

 ロンドンがヨーロッパのほかの諸国に先駆けて産業革命の途に付けたのは、様々な条件があったからだが、人的・資源的には世界に冠たる大英帝国であり、膨大な植民地があったからだ。
 つまり、資源と労働者があったからである。人も物も無尽蔵なほどに消費し消耗し蕩尽したのである。
 産業革命は急激な都市化をも齎した。ここでは詳しくは触れないが、都市の不衛生さは想像を遥かに超えている。やや遅れて産業革命を経験したドイツも悲惨な都市環境で、モーツァルトのウンコネタ好きも、周囲にウンコが溢れていたからでもあったことは有名だろう。
 庭にも街路にも、ウンコが山となっていて、油断をするとベランダや窓からもウンコが散ってくる。
 創作のための<土壌>は豊穣過ぎるものがあった!

 霧の都。産業廃棄物。汚れきった空気に土壌に川に空に町に……、そして人も汚れ荒みきっていた。
「英国のいや世界の犯罪史に残るこの有名な猟奇殺人事件」である「切り裂きジャック(Jack The Ripper)の事件」が発生したのは、「1888年8月31日から同年11月9日までの約2ヶ月」、場所は無論、英国はロンドンである。
切り裂きジャック(Jack The Ripper)の事件とは」や「切り裂きジャック - Wikipedia」などを参照。
「切り裂きジャックはまた、現在まで正体の知れない神秘性などから、多くのフィクション作家の創作意欲を刺激してきた。特に、同時代・同じロンドンという設定の名探偵シャーロック・ホームズとの対決はそれ自体ひとつのジャンルともなっている(原作者コナン・ドイル自身は何もふれていない)。」
 コナン・ドイルというと、シャーロック=ホームズのデビュー作である「緋色の研究」を挙げておく必要があるだろう。
 深い霧に覆われたロンドンは探偵小説・推理小説の発祥の舞台だったのだ。

 ロンドンにあって、漱石は文学において学ぶ師にも学業の場にも恵まれず、一人、読書と思索(と妄想)に耽ったが、その中に、こうした犯罪関係の雑誌か書籍もあったに違いない。
 切り裂きジャックが捕まっていたのか、あるいは自殺その他で既になくなっていたのかどうか知らないが、ロンドンの霧の中で、数知れない犯罪者やその予備軍と擦れ違っていたと想像しても、妄想に過ぎないとは言えないだろう。
 大英帝国の繁栄の絶頂期、その実、粉塵に塗れたロンドンのその深い霧の中で、無数の名も無い労働者たちが呻き蠢いていた。
 推理小説と言いつつ、実際には犯罪小説が「モルグ街の殺人」のE.A.ポーを別格として、ロンドンに生まれ育ったのも、そうした深い霧が土壌だったのだろう。
 その霧を、やがて漱石は振り払って、固い文学の鉱脈を掘り当てた。
 ニュートンの万有引力の法則の発見、アインシュタインの相対性理論の誕生と並べるのは、まあ、ご愛嬌としても、その意義においては、決して軽からざる転回を漱石は霧深いロンドンの一隅で為したのだった。

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