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2006/07/09

宇宙論の旅に終わりなし

時と空綾なす宇宙終わりなき

 七夕、天の川、天界のロマンというわけではないが、過日、予約していたサイモン・シン著の『ビッグバン宇宙論 (上)』『ビッグバン宇宙論 (下)』(青木 薫訳、新潮社)が上下巻揃って届いたという連絡が来た。
 予約した時には新刊本ということもあってか(6月下旬刊)、先約が何人か入っていて、しかも、当然ながら上巻のほうが多めの人数である。
 司書の方には下巻のほうが先に来るかもしれないとも言われていたっけ。
 小生は小説ではないのだし、それでも構わないと答えておいた。

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→ サイモン・シン著『ビッグバン宇宙論 (上)

 予約したのは先週の半ば頃だから、予想外の早さだし、まして上下巻が共に揃ってなので、びっくりしたやら、嬉しいやら。
 七夕に織姫には出会えなかったけれど、七夕の嬉しいプレゼントだと思ったりして。
 これから読むのが楽しみである(他にも嬉しいことがあった。後日、書くかもしれない)。

 訳者は青木 薫氏である。小生は同氏の手になる訳本を何冊、読んできたことやら。
 また、著者のサイモン・シン氏は、世界最高のサイエンスライターとの定評を得ているインド系のイギリス人(インド人の世界への進出は近年、凄まじいものがある)。
 そのサイモン・シン氏の本は、『フェルマーの最終定理』や『暗号解読  ロゼッタストーンから量子暗号まで』共に同じく青木 薫氏の訳で既に楽しく読ませてもらったことがある。

 本書『ビッグバン宇宙論』は、出版社側の内容説明によると、「宇宙はどうやって生まれたのか? 人類最大の謎に迫る有名無名の天才たちの苦闘を描く科学ノンフィクション。上巻は創世神話からプトレマイオス、コペルニクスにケプラー、ガリレオらを経て、アインシュタインなどを収録。」ということで、恐らくはビッグバン理論も含め宇宙論関係の本を読み漁ってきた小生には、格別、話題的には目新しいものはそれほどにないのではないかと僭越ながら勝手に思っている。
 それでも本書を読むのは、宇宙論好き、科学好きということもあるが、サイモン・シン氏の料理の腕前を楽しみたい一心なのかもしれない。

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← サイモン・シン著『ビッグバン宇宙論 (下)

 小生は、宇宙論関係では、既に、黒星瑩一著『宇宙論がわかる』」や、「『エレガントな宇宙』雑感(付:「『宇宙は自ら進化した』の周辺」)」の中などで大よそのことを書いている。

 特に、ブライアン・グリーン著の『エレガントな宇宙―超ひも理論がすべてを解明する』については、ブライアン・グリーン自身の言葉として、下記の引用を試みている:

 宇宙に目を据え、これから出会うあらゆる不思議を予期するとき、私たちはまた、振り返って、これまでにたどってきた旅に驚嘆せざるをえない。宇宙の根本法則の探求は人間特有のドラマであり、人間の頭をめいっぱい働かせ、精神を豊かにしてきた。重力を理解しようとする自分自身の営みを生き生きと描いたアインシュタインの言葉――「切実な望みを抱き、自信と疲労を交互に感じつつ、最後に光のなかに出る、不安を抱きながら暗闇のなかを探った歳月」――は、間違いなく、人間の奮闘全体を表現している。私たちはすべて、おのおのの仕方で真理を旅し、おのおの、なぜ私たちはここにいるのかという問いに答えを望む。人類が説明の山をよじ登るとき、おのおのの世代は、前の世代の肩の上にしっかり立って、勇敢に頂上を目指す。いつか私たちの子孫が頂上から眺めを楽しみ、広大でエレガントな宇宙を無限の明晰さで見渡すことがあるのかどうか、私たちには予測できない。ただ、おのおのの世代が少しずつ高く登るなかで、ジェイコブ・ブロノフスキーが述べたことを実感する。「どの世代にも、転換点がある。世界の一貫性を見る、そして、表現する新たな仕方がある」。そして、私たちの世代が新たな宇宙観――世界の一貫性を表現する新たな仕方――に驚嘆するとき、私たちは星々に向かって延びる人間の梯子に梯子を付け加えて、自分の役割を果たしているのだ。

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→ ブライアン・グリーン著『エレガントな宇宙

 あるいは、リー・スモーリン著の『宇宙は自ら進化した ― ダーウィンから量子重力理論へ』(野本陽代訳、NHK出版刊)から、やはり著者のリー・スモーリン自身の言葉を引用している:

 …最終的に私が残したいイメージは、生命は軽やかだということである。私たちは生物圏のなかを通り抜ける光子からエネルギーを受けており、生命に欠かすことのできないものは重みでないく、パターン、構造、情報だけだからである。生命の論理はつねに変化し、つねに移動し、つねに進化している。
 …宇宙の新しい見方はあらゆる意味で軽やかである。ダーウィンが私たちに与えてくれたもの、そして私たちが宇宙全体に一般化したいものは、宇宙について考える方法であり、それは科学的で方法的であるが、永続的に新しいものが出現してくるということが理解できる方法である。
 …したがって神が存在したことはなかった。カオスに秩序を押しつけることで宇宙を作り、外部にいたままで監視し禁止する案内人はいなかった。ニーチェもまた死んだ。永遠の回帰、永遠の熱的死はもはや恐怖ではない。そのようなことは起こらないし、天国もない。宇宙はつねにここに存在し、つねに異なり、さらに変化し、さらにおもしろく、さらに生き生きするが、つねに複雑で不完全のままである。その背後は何もない。それをしのぐ、絶対的、プラトン哲学の宇宙は存在しない。自然のなかにあるすべては、私たちの身のまわりにあるものである。存在するすべては、知覚できる現実のもののあいだの関係である。すべての自然の法則は宇宙そのものが作ったものである。人間の法則として期待できるすべては、私たちのあいだで話し合い、義務として受け入れるものである。私たちが得られるすべての知識は、私たち自身の目で見ることができ、ほかの人が自分の目で見たことから引き出されなければならない。私たちが正義と考えるすべては思いやりである。裁判官として私たちが尊敬するすべてはお互い同士である。ユートピアとして可能なすべては、私たち自身の手で作るものである。それで十分であることを祈ろう。

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← リー・スモーリン著『宇宙は自ら進化した

 ブライアン・グリーンの言葉は、宇宙論の突端にいる科学者が「いつか私たちの子孫が頂上から眺めを楽しみ、広大でエレガントな宇宙を無限の明晰さで見渡すことがあるのかどうか、私たちには予測できない」と言いつつも、これからも際限のない探求の道が続いていることを予感していることを思わせる。
 リー・スモーリンの言葉は、人も自然も地球もそお一切が一回的なものであるように、宇宙もその認識可能な法則も含め一回限りの<生>を生きていることを感じていると共に、われわれにはその認識可能な宇宙しかないのだということを強調している。
 これはある種の科学者の信仰告白なのだろうか。

 リー・スモーリン著の『宇宙は自ら進化した』の訳者によるあとがきがなかなか素敵だ。ここにも転記しておきたい:

 …(本書は)一味ちがう視点に立っているといっていいだろう。これまでの宇宙論の本の多くが、物理学の法則やそこに現れるパラメーターを既成のものとして考え、それを土台にしてビッグバン宇宙論を説明していくのに対し、本書はパラメーターがなぜその値なのかも議論の対象としており、それが明らかにならなければ、宇宙のなかで私たち人間がいまここにいることを説明できない、としているからである。宇宙も生物のように進化しており、あちこちで自然選択が行われているので、自然の法則もまたその進化とは無縁ではありえない。異なるパラメーターをもつ宇宙が自己複製をくり返し、自然選択を受ける、というようなダーウィンの進化論的視点を、宇宙論に導入する必要があるのではないか、と彼はいう。
 リー・スモーリンの世界観(宇宙観)に共鳴するかどうかは別として、宇宙も人間も、つまりはこの世界というものが、つねに進化という表現が適切かどうかは分からないが、生成を繰り返してきたのであり、今も、これからも生成しつづけるというのは、小生は素直に受け止める。
 生命とは何かと問われて小生には、答える術はない。ただ、生命が何処かの時点で生じたのだとしても、それはこの大地の上であり、この地球の上であり、この銀河の中で生まれたのであるとは思っていい。その大地も宇宙も、われわれが狭い意味で思う<命>ではないとして、宇宙そのものだって変幻を繰り返していると考えたっていいはずなのである。生命と自然(宇宙)をそんなに截然と分ける必要もないと思う。
 悠久の宇宙、でも、その宇宙も巨大な闇の世界を流れる大河であり、どこから来てどこへ流れていくのか宇宙自身にも分からない。しかも流れるに連れて蛇行し変貌し、そのあるローカルな鄙びた局所に我々が生きているのだし、また違う荒野には生命どころか素粒子さえも形成できない宇宙が延び広がり、その茫漠たる宇宙の彼方には、あるいは別の緑野の地に生きる別の我々が生きており、此方のわれわれとの交信を夢みているのかもしれない。
 生命体の形がこの世界に生じてさまざまに変幻してきたように、われわれの心も身体の変貌に連れて変容する。それまでは感じられなかった世界が心の世界に飛び込んでくるようになる、そんな経験を幾度となく年を経るごとに誰だって多少は経験したのではなかったか。それを成長と呼ぶのかどうかは分からないが、その心の感じる世界の変容は、時に喪失の悲しみをも伴うのだが、それでも、年を重ねるということはそれはそれで祝福すべきものに思えるのである。だからこそ、成熟という表現もあるのだろうし。

 古代ギリシャにおいて既に地球が丸いことも、地球の大きさも、月の大きさも、太陽の大きさも、地球から月や太陽への距離も、多少の誤差はあっても、計算されていた。少なくとも、計算する原理は見出されていた。
 常識に惑わされず、事実の観察と推理の積み重ねで人類はとてつもない認識を達成してしまう。
 分かったようでいて、暗黒物質のことなど、まるで分からないことの多い宇宙、自然、生命のこと。

 でも、分からないから、それでいいというものでもない。深淵と無限の前で佇んでいればそれでいいというものでもない。
 過去の積み重ねの上に立って(先人の肩の上に立って)一歩でも先を見通そうとする。高く立てば立つほど勇気が必要となる。積み重ねた石積みが高いだけに、万が一、それまでの積み重ねを根底から崩さないと前進できないとなると、過去の議論をなぞるという安易な道に戻るか、それとも、狂気と背中合わせでありつつも、凄まじい飛躍の道なき道を選ぶかの二者択一の時を迎えてしまう。
 そんな人たちもいることを、たまには凡人の極みの小生が思ってみるのもいいのではないか。

 さて、サイモン・シン著の『ビッグバン宇宙論』だが、同氏はどのように宇宙論を紹介するのだろう。これから読み始めるので、今は、お手並み拝見としか言えない。
 せっかくの機会なので、ゆっくり宇宙を想像の中で旅してみたいと思っている。

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コメント

なんかホーキングが出てきて宇宙のことはすべて片付いたといった風潮もありましたがまだまだ宇宙は謎だらけなのですね。
カントを引くまでもなく宇宙の果てというが、ではその果ての先にあるのは宇宙ではないか、カントの二律背反論の第一ですね。
さいきんも太陽系に十番目の惑星?という報道がありましたね。
トンデモ本の飛鳥ナントカという人は昔から太陽系十番目の惑星は「ヤハウェ」というと主張していましたが彼の予言?は当たったのかー。

投稿: oki | 2006/07/09 22:39

okiさん、宇宙論での謎は数々あるようですが、一番、素人にも分かる大きな謎は「暗黒物質」の問題です。科学者が知りえてきた物質以外のものがあるはず。ニュートリノなのかどうか。

十番目の惑星。そういえば、九番目の惑星である冥王星は、実質的に惑星ではない(何故なら、時に他の惑星の軌道の内側に入ることもあるので)ようです。発見が二十世紀の後半以降だったら、惑星にはカウントされなかったと言われています。
でも、長年、1930年頃に発見され、惑星として慣れ親しんできたので、冥王星は今も惑星のうちの一つの座が安泰(?)なのです。
(博物館によっては、冥王星を惑星としてカウントしていないところも):
http://www5.ocn.ne.jp/~report/news/plutoplanet.htm
↑ここを読むと、冥王星(プルートー)と名づけられた際の興味深い逸話が載ってます。必読?!

十番目の惑星は「ヤハウェ」……。安易な名前の付け方は、ヤーネ!

投稿: やいっち | 2006/07/09 23:33

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