高島野十郎の周辺
「没後30年 高島野十郎展」を見ての感激は、まだ言葉に出来ないでいる。
ここでは、例によって、表題にあるごとく「高島野十郎の周辺」を辿ってみたい。
多田茂治著『野十郎の炎』(葦書房)から、いかにも高島野十郎を髣髴とさせる記述を抜書きしてみる:
落魄した高島野十郎は昭和十年、郷里の久留米へ帰る。生家は次兄(野十郎の弟)健太のものとなっていた。 屋敷の庭の片隅に小さなアトリエを建てる許しを乞い、器用な彼はほとんど自力でバラックのアトリエを造り、「椿柑竹(ちんかんちく)工房」と名づけた。広い庭のあちこちに繁る椿、蜜柑、竹林をそのまま採り入れたものだが、トンチンカン(頓珍漢)にも似た呼称には、四十にして未だ立たずの己れへの、いささかの自嘲も込められていただろう。
この頃、朝倉郡出身で、中学の図画教師をしていた大内田茂志(しげし。のち芸術院会員)が、友人の姉が重松喜六の嫁という縁があって、椿柑竹工房を訪ねてきた。そのときに見た光景を、大内田はこう語っている。(昭和六十一年秋、福岡県立美術館で初の高島野十郎展カタログ)
→ 「魚の骨の観察図」(福岡県立美術館蔵)
細部に渡る緻密な観察と描写。学術名と和名とが付されている。優れた水産学者にも成れた…。
そのアトリエで変わった光景を目にしました。絵の具を伸ばし、キャンバスを二つ折りにして切りとった一方を、壁のところに何枚も張ってあったのです。これはなんだろうと思ってアトリエの内に入ってみると、同じ絵の具を塗られたもう片一方の切断されたキャンバスがありました。「これはどういうことなのでしょう」と尋ねてみました。すると「一枚は室内に、もう一枚は野外で天日にさらして、絵の具の変色の具合を調べているのだ」と言うんです。
……こうして油や絵具に対して随分と研究されたからでしょう。この人の絵は今でもちっともひび割れてないし、傷が少ない。先日、有名な修復所にクリーニングに出したところ、そお修復の人が「この人はとても絵具や油のことに精通している」と驚いていました。
東京帝大水産学科を主席で卒業して、すぐれた生物学者にも成り得た頭脳の持ち主である。それに、とことん物事を突きとめる緻密さもあり、ねばり強い持続力もあった。
(引用終わり)
野十郎は大正と改元された年から帝大生となった。絵に専念できず、恋の葛藤もあったようだが、勉学に励むことも忘れなかった。
卒業論文は「魚の感覚」。首席で卒業。学業優秀者に与えられる恩賜の銀時計を辞退している。その理由は本人は語っていないようだが、卒業しても絵への思いから、学業を続けないこともあって、自分に厳しい彼は受け取るわけにはいかなかったのかもしれない。
絵への覚悟。天才・青木繁は肺病を病み、明治四十四年、博多の松浦病院で無念の最期を遂げている。野十郎の父はその前の年に病没している。野十郎の兄は詩人として蹉跌している…。
卒業しても、それでも迷いは吹っ切れない。結婚はしないとしても、母に心配をかけてしまうかもしれない。実際、卒業して二、三年、大学の助手をしている。
その母が、帝大卒業の翌年病死。ここで彼は吹っ切れたとも言われている。
「没後30年 高島野十郎展」の図録に、修復家で東京藝術大学名誉教授・明治美術学会理事の歌田眞介氏の手になる「野十郎の衝撃」というコラムが載っている。
その歌田氏に野十郎の絵が衝撃を与えた。一見すると素人っぽい絵のように見えて、実は油絵の具を知悉していることが同氏を驚かせたのである。
ここでは詳しく同氏のコラムを紹介できない。抜粋で失礼する。
歌田氏によると、明治の前期の油絵は堅牢だという。伝統的な技法に忠実(油で練った絵具を亜麻布のカンバスに描く)だったから。
それが、大正時代以降の油絵は傷み易いものが多いという。「描いても間もなく剥離したり、汚れを除去する溶剤に溶け易い。水に溶けるものもある。野獣派、立体派、未来派、超現実主義など新しい動きを摂取する間、材料や技法にこだわるのは職人でる。芸術家は表現のためには何をやっても許されるという誤った風潮が醸し出され、蔓延した時代だった。野十郎は只一人それに挑戦したのだ。」
「本来、油絵は堅牢である。絵具を練る油は亜麻仁油(リンシード)、罌粟油(ポピー)で乾性油という。描く時の溶き油としても用いる。乾性油の特長は粘りが強く、乾きが遅い。渇くと光沢のある堅牢な塗膜を形成する。残念なことに大正時代以降、多くの画家がこれを短所ととらえた。そのために乾きを早め、粘り気を取り去り、光沢を出さないために揮発性油を多用するようになった。石油精製のペトロール、松脂を乾溜して作るテレピンである。揮発性油は速やかに揮発するが絵具の固着力は喪失する。水に溶ける油絵の出現であり、油絵本来の緻密なマティエールも得られない。
(中略。岡鹿之助の絵が油を抜いた絵具を使った例として示される)
野十郎の油絵は岡のように柔ではない。本当の油絵のマティエールは野十郎にある。美術学校で学んだ訳でもない。にもかかわらずと云うべきか、だからと云うべきか言葉を失うが、彼は油絵具の材質としての美しさや特長を生かした上で表現を考えたのだ。技法、材料と表現を高い次元で統一させようとした情熱はどこから来たのだろう。東京大学首席卒業の教養がそうさせたのか今となっては分からない。
(引用終わり)
← 「雨 法隆寺塔」の絵は、「三鷹市美術ギャラリー カレンダー」にて小さな画像だが、見ることが出来る。この絵も、小生は間近で離れてを繰り返してじっくり眺めたものだ。
われわれは「魚の骨の観察図」などに見られるように、野十郎が緻密な頭脳とねばり強い観察力と探究心・研究心があることをしっている。彼はいい意味で職人気質の芸術家だったのだろう。
実は、歌田真介氏の手になる「野十郎の衝撃」というコラムは、ここからがもっと凄い。野十郎の絵に付いて、衝撃の事実を教えてくれているのだ:
「雨 法隆寺塔」が修復のため修復研究所21に搬入されたのは2003年だった。連絡を受けて見に行った。目に余る惨状だった。所蔵者宅に泥棒が入り盗難にあった。泥棒は持ち出したものの邪魔になったらしく縁の下に放り込んで逃走した。4年後に発見されたという。画面、裏面共厚く黴に覆われ図柄も解らない。木枠は完全に性8しょう)が抜けて、年輪の冬材部分のみが残っている状態だった。胸がつまった。それでも絵具層はしっかり固着しており、厳しい環境に耐え劣化はほとんど認められなかった(溶けなかった)。油絵具の性質を生かして描けば堅牢であることを再認識させられた。木枠が腐ったにもかかわらずカンバスの亜麻布が丈夫だったのは何故か。裏面全体に淡緑色の塗料(油性と考えれる)が塗られていた。これによって腐蝕が避けられたのだ。野十郎は裏面まで処理して耐久性の向上を計ったのだ。第二の衝撃だった。
(引用終わり)
高島野十郎は独学で絵の勉強をした。が、彼にも絵の勉強のため欧米を見て回ったことがないわけではない。なんと三十九歳になって洋行しているのだ。
レンブラント、ヤン・ファン・エイク、デューラー、ダ・ヴィンチ、ミケランジェロ、ミレー。あるいはゴッホなどの絵に学んだだけではなく、展覧会場にあったある画など、もろ、ゴッホに影響されている。空間そのモノがメラメラ揺れ燃えている。パリの街の絵も試みている。
洋行した衝撃はただならぬものがあった。俗な言い方をすると洋風カブレのようになった。圧倒されるものがあったのだろう。そんな時、彼の妹の満兎の<諌言>が彼の目を覚まさせた。
妹の満兎は日本共産党に入党し、特高警察に追われたりして、脊椎を複雑骨折、寝たきりの身になって洋行帰りの野十郎を迎える。彼女の舌鋒は鋭い。欧米の絵を見てぐらついていた野十郎の迷いを鋭く指摘した。その後、彼女は二十四歳で死去。枕頭には山百合が飾られていたとか。
→ 「すいれんの池」(福岡県立美術館蔵)
やがて野十郎は、一人、居を構えて、徹底して独学の道を進む。誰彼に学ぶのではなく、画法も技法も全て我流を通すようなるのだ。背後には父の死、母の死、妹の死、青木繁の非業の最期、兄の禅への傾倒があるのだろうが、他にも孤独な営為に徹するに至る、窺い知れない事情があるのかもしれない。
「月」の絵や「蝋燭の焔」の絵を繰り返し描くとき、どんな心境があったのか。
最後に蛇足を一つ。
旧制高校時代、野十郎のいた学校には、動物・植物担当の教授として、まだ二十六歳の大賀一郎氏がいたという。「のちの千葉県検見川遺蹟から古代ハスの種を発見して再生させ、「ハス博士」と謳われた人物である」。
「よく睡蓮の絵を描くことになる野十郎は、やがて「ハス博士」となる若き大賀教授を指導教官と仰いでいたのかもしれない」(多田茂治著『野十郎の炎』よりの情報)。
← mokoさんに戴いた古代ハス(大賀ハス)の画像。季語随筆にての拙稿「「蓮と睡蓮」の周辺」や「川柳とは」を参照のこと。下記の句は、この画像を見てひねったもの。
古代ハス二千年の夢と咲く
睡蓮や泥水啜って誇らしく
尚、小生が書いた高島野十郎関連の記事は、「「没後30年 高島野十郎展」始まった!」などを参照願いたい。
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コメント
こんにちは。Okiさんのところからとんできました。高島野十郎のファンです。TBさせていただいてもよろしいでしょうか。よろしくお願いします。
(ストラディバリの本がありますね。私ヴァイオリンも大好きです。)
投稿: jenny | 2006/06/22 16:02
jenny さん、ここでは初めてですね。
okiさんのところでお名前はかねがね。
TB、大歓迎です。
ストラディバリの本というと、トマス・レヴェンソン著『錬金術とストラディヴァリ』(白揚社)かな。
好著でしたよ。そのうち再読したいと思っているほど。
メンデルスゾーン、そしてバッハの協奏曲でのヴァイオリンは小生にクラシックを開眼させてくれた楽器でした。
投稿: やいっち | 2006/06/22 16:07
やいっちさん、こんばんは。どうもありがとうございます。ところで高島野十郎は自分で言った言葉が少ないですね。というわけで、気の利いた文章を書こうと思いましたが、結局かけませんでした。それに五重の塔の話なども、かわいそうで。かなしい文章になりそうで、かけませんでした。
油絵の技術はすごかったでしょうと推測できます。
野十郎の家系は画家を輩出していたのですよね。狩野派とかそういう時代に生まれていて国家的なプロジェクトをまかされていたりしたらもっと幸せだったんじゃないかなと思ったりしました。
投稿: jenny | 2006/06/24 23:32
jenny さん、そうですね。小生も、野十郎の絵を見ての感想は書けないままでいます。とても言葉にならない。ただ、見ての感動を大切にしておきたいと思うだけです。
技術について研究熱心だった野十郎などと書くのも、所詮は野十郎の周辺しか書けないと感じてるからです。
野十郎の家族もそれぞれに気性が激しく妥協を許さない気質の持ち主たちだったようです。
まあ、野十郎の脱俗的な気質からしたら、国家的なプロジェクトという発想からは遠かったのでは。
凄いのは、郷里の久留米市や母校である明善高校です。関係者・出身者を列挙すると、画家では古賀春江、青木繁、坂本繁二郎、音楽家では、中村八大、ギタリストの鮎川誠、ブリヂストン社長の石橋氏、美術評論家の河北倫明、文学関係だと広津柳浪とか。
日本第一の力士である小野川才助も久留米出身だとか:
http://www.culcatch.jp/furusato/furusato1.htm
小生の母校とか郷里はどうだったっけ。
投稿: やいっち | 2006/06/25 01:09