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2006/06/25

鏡と皮膚と化粧と…白雪姫の謎

 ある事情があって、「鏡 化粧」をキーワードにネット検索してみた(by Google)。
 すると、驚いたことに、「検索結果 約 1,100,000 件中」の3番目に拙稿「初化粧」が浮上するではないか。
「化粧」も「鏡」も、有り触れた言葉だし、その組み合わせも突拍子もないものとは言えない。化粧と鏡はほとんどセットのようなものだし。
 現に110万件の検索結果が如実にその自然な組み合わせを物語っている。
 けれど、何ゆえ、小生の雑文が上位に登場してしまったのか。挿入されている画像群のお蔭か。文章が優れているとか面白いのか。
 
 ある事情が…と書いているけれど、実のところ、「匂いの力…貴族のかほり」の中に、つい浜崎あゆみの広告画像を使わせてもらったので、彼女について、ちょっぴり大人っぽくなった雰囲気を演出していることだし、何かしら小生も本能において思うことがあったのかもしれない。
 演出もさることながら、化粧の力も大きいのだろう。
 別に化粧が濃いということではなく、化粧で以て少女っぽい面を強調したり、最近のように大人の雰囲気を醸し出したりしているのだろうということだ。

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初化粧」から若干、転記する:

 女性が初めて化粧する時、どんな気持ちを抱くのだろうか。自分が女であることを、化粧することを通じて自覚するのだろうか。ただの好奇心で、母親など家族のいない間に化粧台に向かって密かに化粧してみたり、祭りや七五三などの儀式の際に、親など保護者の手によって化粧が施されることもあるのだろう。
 薄紅を引き、頬紅を差し、鼻筋を通らせ、眉毛の形や濃さ・長さそして曲線を按配する。項(うなじ)にもおしろいを塗ることで、後ろから眺められる自分を意識する。髪型や衣服、靴、アクセサリー、さらには化粧品などで多彩な可能性を探る。

 見る自分が見られる自分になる。見られる自分は多少なりとも演出が可能なのだということを知る。多くの男には場合によっては一生、観客であるしかない神秘の領域を探っていく。仮面を被る自分、仮面の裏の自分、仮面が自分である自分、引き剥がしえない仮面。自分が演出可能だといことは、つまりは、他人も演出している可能性が大だということの自覚。
 化粧と鏡。鏡の中の自分は自分である他にない。なのに、化粧を施していく過程で、時に見知らぬ自分に遭遇することさえあったりするのだろう。が、その他人の自分さえも自分の可能性のうちに含まれるのだとしたら、一体、自分とは何なのか。

 仮面の現象学

 仮面は一枚とは限らない。無数の仮面。幾重にも塗り重ねられた自分。スッピンを演じる自分。素の自分を知るものは一体、誰なのか。鏡の中の不思議の神様だけが知っているのだろうか。
 男の子が化粧を意識するのは、物心付いてすぐよりも、やはり女性を意識し始める十歳過ぎの頃だろうか。家では化粧っ気のないお袋が、外出の際に化粧をする。着る物も、有り合わせではなく、明らかに他人を意識している。女を演出している。
 他人とは誰なのか。男…父親以外の誰かなのか。それとも、世間という抽象的な、しかし、時にえげつないほどに確かな現実なのか。
 あるいは、他の女を意識しているだけ?

 ある年齢を越えても化粧をしない女は不気味だ。なぜだろう。
 町で男に唇を与えても、化粧の乱れを気にせずにいられるとは、つまりは、無数の男と関わっても、支障がないという可能性を示唆するからだろうか。それとも、素の顔を見せるのは、関わりを持ち、プライベートの時空を共有する自分だけに対してのはずなのに、そのプライベート空間が、開けっ放しになり、他の男に対し放縦なる魔性を予感してしまうからなのか。
 化粧。衣装へのこだわり。演出。演技。自分が仮面の現象学の虜になり、あるいは支配者であると思い込む。鏡張りの時空という呪縛は決して解けることはない。
 きっと、この呪縛の魔術があるからこそ、女性というのは、男性に比して踊ることが好きな人が多いのだろう。呪縛を解くのは、自らの生の肉体の内側からの何かの奔騰以外にないと直感し実感しているからなのか。いずれにしても、踊る女性は素敵だ。化粧する女性が素敵なように。全ては男性の誤解に過ぎないのだとしても、踊る女性に食い入るように魅入る。魅入られ、女性の内部から噴出する大地に男は平伏したいのかもしれない。

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 一読されて分かるように、文中において、化粧は勿論だが、鏡がキーワードになっている。
 小生だけなのかどうか、「化粧」「女」「鏡」と並ぶと、ふと、「白雪姫」のことを思い起こしてしまう。
 何も、小生が光栄にも白雪姫と知り合いだというわけではない。
 多分、彼女(?)と馴染みだという人はこの世にいないのではないか。

 小生のこと、この先、何を書き出すか知れたものではないので、この話を知らない人はいないと思うが、念のため、「白雪姫」を巡っての頁を示しておく:
白雪姫 - Wikipedia
白雪姫
グリム 菊池寛訳 白雪姫
 最後の訳文に目を通しておくのがいいかも。
 
 ガキの頃、あれこれ童話や民話は読んだし、漫画化されたものも読んだ。けれど、一番、印象に残ったのは(刻まれてしまったのは)、グリム兄弟作の『グリム童話』の原文(勿論、訳されたもの)ではなく、ディズニー映画の白雪姫によってだったことは間違いない。
 幼い頃、小生がどんな思いで見ていたのか、恐らくは今と同じように漫然と、あんな綺麗な人と仲良くなれたらいいなー、だったかどうか。
 ただ、ある時期、『完訳グリム童話集(全五巻)』(J.グリム+W.グリム著、金田鬼一 訳 岩波文庫 1979)を読み返した際に、殺す役目を担って白雪姫を山へ連れて行く猟師や、山の奥の小屋に辿りついた白雪姫を助けたという7人の小人たちのことを疑わずには居られなかったのは確かだ。
 レイプ、輪姦…。まあ、男ならごく自然な疑念に過ぎないのだろう。

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← 「ウィキペディア英語版の白雪姫の映画の項」より。

 今、改めてこの童話を読み返してみると、一番、注目すべきというか、何よりも驚くべきなのは、白雪姫に嫉妬し、殺してしまおうとする継母(初版では実母という設定だった。その方が信憑性が高まる)の美への執念よりも、恐らくは鏡への絶対的な信頼にあるというべきではなかろうか:

 この女王さまは、まえから一つのふしぎな鏡を持っておいでになりました。その鏡をごらんになるときは、いつでも、こうおっしゃるのでした。
「鏡や、鏡、壁にかかっている鏡よ。
 国じゅうで、だれがいちばんうつくしいか、いっておくれ。」
 すると、鏡はいつもこう答えていました。
「女王さま、あなたこそ、お国でいちばんうつくしい。」
 それをきいて、女王さまはご安心なさるのでした。というのは、この鏡は、うそをいわないということを、女王さまは、よく知っていられたからです。

 物語では、「ふしぎな鏡」であり、うそをいわない」という設定になっているのだから、鏡を疑わないのは当然といえば当然なのだけれど。
 継母は、白雪姫を何度も殺してしまおうとする。この世の誰をも信じられない信じられない彼女は自らの手で殺害を試みる。狩人も紐での絞殺も、毒のついている櫛での毒殺も、毒をぬったリンゴも。

 さらにこの物語での裏読み的な眼目は、女王は鏡を使って化粧をするが(必要に応じて変装もする)、白雪姫は恐らくは素っぴんだということだ。
 但し、どう読み込んでも、化粧する人と素っぴんの人との対比が何らかの形での教訓話に結びついているというわけではなさそう。
 それでも、鏡に向かう女という構図は最後の最後まで焦点であり続けている。鏡に向かいながら化粧する女は鏡の中に素顔を見ているのか、他人の顔を見ようとしているのか。
 一体、至上の美の所在や価値基準を何処に探そうとしているのか。

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 最後に、もう少しだけ拙文「鏡と皮膚…思弁」から転記しておく:

 美の海に窒息してしまうのだ。
 窒息による絶命をほんの束の間でも先延ばしするには、どうするか。そう、中には性懲りもなく皮膚の底に潜り込もうとする奴がいる。ドアの向こうに何かが隠れているに違いない。皮膚を引き剥がしたなら、腹を引き裂いたなら、裂いた腹の中に手を突っ込んだなら、腸(はらわた)の捩れた肺腑に塗れたなら、そこに得も言えぬ至悦の園があるかのように、ドアをどこまでも開きつづける。決して終わることのない不毛な営為。
 何ゆえ、決して終わることのない不毛な営為なのか。なぜなら、ドアを開けた其処に目にするのは、鏡張りの部屋なのだ。何故、鏡張りなのか。壁ではないのか。
 それは、どんなに見ることを欲し、得ることに執心し、美と一体になる恍惚感を渇望しても、最後の最後に現れるのは、われわれの行く手を遮るものがあるからだ。何が遮るのか。言うまでもなく、自分である。観る事(上記したような意味合いで)に執したとしても、結局は、自分という人間の精神それとも肉体のちっぽけさという現実を決して逃れ得ないことに気づかされてしまう。
 焦がれる思いで眺め触り一体化を計っても、そこには自分が居る。自分の顔がある。自分の感性が立ち憚る。観るとは、自分の限界を思い知らされることなのだ。
 つまりは、観るとは、鏡を覗き込んでいることに他ならない、そのことに気づかされてしまうのである。
 だからこそ、美を見るものは石に成り果てる。魂の喉がカラカラになるほどに美に餓える。やがてオアシスとてない砂漠に倒れ付す。血も心も、情も肉も、涸れ果て、渇き切り、ミイラになり、砂か埃となってしまう。
 辛うじて石の像に止まっていられるのは、美への渇望という執念の名残が砂や埃となって風に散じてしまうことをギリギリのところで踏み止まっているからに他ならないのである。

 男は化粧する女の後姿しか垣間見ることはできないだけに(覗き込んだときは他人向けの顔)、そこは永遠の謎の領域なのだろう。
 だから、愉しい?!

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コメント

仮面の現象学ってなんですか?
坂部さんの本は仮面の解釈学ですね。
僕は坂部さんの本の中では「ふれることの哲学」が卓越していると思う。
晩年の思索からカントの中のディオニュソス的なものを取り上げたものなどなかなかの論考です。
カントの遺稿、オプス・ポストヌムは「道徳法則が存在する、神は存在する」と直接的ですがカントの批判期には用心して直接触れなかった思索を垣間見せてくれる気がします。

投稿: oki | 2006/06/26 14:56

okiさん、坂部氏の本の題名が「仮面の解釈学」なのは知っています。学生時代の愛読書でしたし(以来、彼には関心を抱いてきた)。
「仮面の現象学」は、あくまでリンク元の文章の中の言葉。遠くで坂部氏を意識しつつ、直接にはその理論を応用しているわけではないので、ほのめかす形を採っているわけです。

okiさん、さすが坂部氏の最近の仕事にも明るいのですね。
とにかく、学生時代、本書を読んで、日本にもこういう書き手がいると感激したものでした。

投稿: やいっち | 2006/06/26 16:04

というか僕はこの本の内容を忘れてしまったので定かではないのですが、坂部さんは「解釈学」の手法をとっておられるのですか、「現象学」的なアプローチをされているのでしょうか?
はっきり行って坂部さんは無論ある程度の理解はあるにせよ、現象学の研究とは遠いような気がします。
大学院の演習もバウムガルテンでしたし。
あと坂部さんは日本精神史にも造詣深いですね、岡倉天心研究会でも発言されてますね。

投稿: oki | 2006/06/27 22:10

坂部氏については、小生よりokiさんが詳しいよね。
小生は学生時代に読んだ、でも、もう中身は忘れてしまった「仮面の解釈学」の読後感(印象)を勝手にイメージしているだけです。蝋燭の焔の一連の瞑想文と同じ流儀。我流の文をつづり始めた段階で、既に繋がりより自分の中の想像力の流れをなぞっているわけです。ちょっとだけ(これも遠くで)キルケゴールの不安の概念を読んだ時の印象も余韻として漂わせているつもり。

投稿: やいっち | 2006/06/28 07:35

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