連句って和歌らない
立花隆氏著の『天皇と東大 下 日本帝国の生と死』(文芸春秋)がすこぶる面白く、先週末、一気に読了した。
本書を返却したら所定の書架に『天皇と東大 上 大日本帝国の生と死』があったので、迷うことなく借り出してきた。
読了し返却した『天皇と東大 下』については、「今年も…ハッピーバースデー・ツーユー!」の中で若干、感想を書いているが、あまりに大部すぎて(上下巻合計で1450頁以上)、まとまった形での感想は書けないだろう。
とにかく今は、『天皇と東大 上』だ。
実は、『天皇と東大 下』を読了したあとは、これまた大部(900頁)の小熊 英二著『〈民主〉と〈愛国〉―戦後日本のナショナリズムと公共性』(新曜社)を読み始めていたのだが、150頁ほど読んで中断し、『天皇と東大 上』に取り掛かってしまったのだ。
(『〈民主〉と〈愛国〉』については大部なので、是非、読んで欲しいとは勧めきれないが、せめて図書館などで冒頭の第一部 第一章「モラルの焦土」だけは目を通してもらいたい。30頁あまりなのだ。恐らく、その30頁ほどを読むと、本書が手放せなくなるに違いない…。)
ドラマが多く興味深い史実もたっぷり書き込まれ、小説を読む楽しさで読み進められる。小生は、戦前の日本の異常なナショナリズムとアジア各国で日本軍が犯した蛮行の愚かしさを高校から大学の頃の読書体験などで思い知らされた。
図書館などで数知れない戦争当時の回想や記録の本を読んで、ひたすら泥沼のような空漠たる思いに陥っていった。
そこにいる人の良さそうな小父さんであっても、いざ戦争となると人間の弱さというものなのか、卑屈さと野蛮さを剥きだしにして信じられない素行に走ってしまう。人間不信というわけではないが、その弱さが自分の中にも断固巣食っていることを感じ、哲学するにしても、その暗部に向き合わない皮相な言辞だけは避けたいと思った。
軍国主義に狂奔してしまった日本。その元凶は何処にあるのか、何処で道を間違えたのか。再び愚を繰り返す恐れはないのか。教育基本法や憲法改正論議を仄聞すると、あるいは既に戻れない坂道を転がり始めているのではないかと懸念されてならない。
さて、寝床では大岡 信著の『おもひ草』(世界文化社)をちびりちびりと読み進めている。小生は彼の著作のファンなのである。
実は、ある人に連句の誘いを受けている。
が、連句なる物が分からなくて、その入り口で既に頓挫している。まあ、知悉している人につきしたがって実践的・体験的に勉強していけばいいのだろうけれど、そこはそれ腰の重い小生なのである。
俳句とも川柳とも警句とも標語とも付かない、とにかく5・7・5の形式の句をひねるのが好きな小生だが、基本的に即興であり、何処かの絵や花の画像や詩を読み眺めての感想・述懐の表現として、思いつき的にひねり出しているに過ぎない。
「花の常座」と言われると、頭の中がパニックしてしまう。
連歌の句は、漢語は不可で和語でないとダメとなると、途端に思考停止状態に陥ってしまう。
そもそも和語とか漢語って、何。明確に分けられるものなの。外来語はどう扱う。カタカナ語は? 擬音は論外なの?
漢語でも、読みが、あるいは表記が和風だったらいいの?
大体、芭蕉にしてからが、漢籍で勉強したんじゃなかったっけ。四書五経を習得し、漢詩の世界に浸ったことがあったはずでは? そうした素養に裏打ちされた句ではなかったのか…。
まあ、伝統や規則は大切なのだろうし、基本から学ぶしかないのだろうけど、生来、勉強の嫌いな、我流でしか物事に対処できない小生は、途方に暮れるばかりなのである。
面倒くさいことの嫌いな小生は、そもそも俳句って、庶民の詩なんだから、もっと自由であっていいんじゃないの? なんて、生意気なことを嘯いてしまいたくなる。
ま、愚痴(?)はともかくとして、話を戻す。
本書『おもひ草』については改めて感想を書くというより、ただ味読あるのみだろうとは思うが、今日、読んでいたら、ちょっと連句に関係ありそうな記述があったので、メモだけしておきたい。
なんたって、「こうした戦前の業績をうけて、現代の作家、詩人たちによる連句の試みが、1960年代後半からはじまった。その中心になったのが、大岡信、丸谷才一、安東次男、石川淳たちによる歌仙の興行であった」というくらいで、連句や歌仙のことは、大岡信氏らに聞くのが筋なのである?!
例によって文脈を飛ばしての転記なので、なんのこっちゃという感もあるかもしれないが、ま、一読するだけの値打ちはあるだろう。人によっては常識に類する記述に過ぎない、今更、敢えて抜書きする意味があるのかと不審に思われたりする方もいるかもしれないが、ま、常識であっても、再認識してみるのもいいのじゃなかろうか。
和歌には、「恋」や「春」などの主題の範疇に入るものが多いが、「述懐の歌」などのように分類に当てはまらない「雑歌(ぞうか)」と言われるものがあるとして……:
この、述懐の歌を一番得意にしたのが、時代が前後しますが、西行でした。
西行は、平安朝末期から鎌倉時代にかけて生きた人ですが、出家して、単なる季節でも恋でもない、もう少し深みのある、人生をどう認識するか、といった意味の歌を歌ったのです。彼が出てきて、「雑」の歌は非常に深まりました。一人の詩人が出現することによってある主題が深まることがあるものですが、その典型といえましょう。
この西行の述懐を継いだのが、芭蕉です。芭蕉は西行の述懐、「雑」の系列を引き継いで、さらに深め、同時に広めたのです。どうやって広めたかというと、西行は独りぼっちで歌いましたが、芭蕉は一人でやるだけでなく、門人たちを集め、いわばグループでやって広めていきました。その成果が、「芭蕉七部集」その他の選集です。
『冬の日』から始まって『続猿蓑』で終わるその「七部集」は、芭蕉の没後しばらくして、後人が編んだものですが、私が、芭蕉がやった仕事の中で最も大切だと思うのは、西行の述懐を深め、かつ大勢でその境地をいっせいに追求したことだと思っています。
王朝の全盛期には恋とか季節の歌の陰に隠れていた、人生観を吐露する詩歌が、江戸時代になって、はっきりとした大きな流れになった、といってもいいでしょう。
芭蕉を中心とする集団制作はまた、詩を大きく変えました。三十六行の連句を生んだのです。これは、元々は室町時代の連歌から受け継いだ形式ですが、従来は百行というのが一般的で、和歌の伝統に直結したものでした。ですから、芭蕉たちがやった連句も、本来の正式な呼び名は「俳諧の連歌」といい、一種の綽名として「歌仙」ともいわれたのです。
芭蕉は、この俳諧の連歌に、滑稽味やその他、人生の諸事百般、特に庶民の生活レベルから生じたさまざまな新しい材料を積極的に取り入れ、しかも、行数が百行から三十六行に縮められたにも拘らず、内容的にはかえって波瀾万丈なものに仕立てていったのです。
さらには、この「歌仙」形式が芭蕉のライフスタイルにぴったりだった、という点も見逃せません。芭蕉はしばしば、歌仙の心について、
「ゆきゆきてゆくのみ」
といっています。どこまででも進んで行くんだ、後ろを振り返って後悔なんかしている暇があったら、もっと先へ行ってしまえ、後悔すべきことは先のほうへ行ってから取り戻せ、というわけです。
これは、人生を送るに当っての芭蕉の覚悟だった、といっていいでしょう。一つのことにくよくよと拘泥していては駄目だ、人間というものは先へ先へ進むものであって、その場合に捨てていくものがたくさんあってもよろしい、捨てても最後に何か摑むものがあればよい。――そういう考え方だったと思います。
よく旅に出たこともその証しでしょうし、生涯、自らの句集を編まなかったのも(当時はそれがふつうのことでしたが)、その表れといっていいでしょう。
芭蕉という人が日本人の心の中に今でも生き続けている理由は、単に優れた作品を作ったからだけではなくて、やはり、こうした彼の生き方全体が、我々の胸を打つからだと思うのです。
こうした西行や芭蕉の生と営みを思うと、規則など、どうでもいいじゃんって、一瞬は思うけど、やっぱりダメなものはダメなのでしょうね。
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