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2006/06/07

バシュラール…物質的想像力の魔

 このところ、高島野十郎について、それもその周辺についてあれこれ書く機会を持ってきた。その切っ掛けに付いては「土屋輝雄・久世光彦・高島野十郎…」に書いている。
 要は、上掲の記事を書いた何日か前に久世光彦氏逝去されたこともあり、同氏の『怖い絵』(文藝春秋刊。文春文庫所収)を借り出してきたのが最初の契機だった。その本の中の一章で高島野十郎の蝋燭画を巡る形で久世氏の思い出が綴られており、さらに『怖い絵』の表紙にも当該の高島野十郎の蝋燭画が使われていたのだった。

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 ついで、「もうすぐ「没後30年 高島野十郎展」」の中で若干のことを書いた。この記事は、同名のタイトルの展覧会が六月に開催されるという記事が朝日新聞に載っていたことが引き金になって書いたもの。
 そうはいっても、図録はともかく、また、実物も見ていないのは仕方がないとして、高島野十郎の伝記本である多田茂治著の『野十郎の炎』(葦書房)さえ、読んでいなかった。
 幸い、図書館で借り出すことができ、既に読み終えた。いろいろな発見があった(例えば、当然ながら他にも傑作があるとか、多くの交友関係の事実など。蝋燭画の野十郎というのは、ある面からはその決め付けてきなキャッチコピーも妥当じゃないとは言えないとしても、野十郎の多彩な世界を狭くしてしまっているという感想を抱いたことが最大の収穫)。
 本書『野十郎の炎』については、後日、新ためて触れる機会を設ける。
 ここでは、ちょっとだけ、バシュラールの周辺を巡っておく。高島野十郎の蝋燭画ということで、小生、自身が書き綴ってきた、「蝋燭の焔」を着想と想像の発火点とした、一連の「蝋燭の焔」文シリーズ(?)を書いてきた。そしてそれらの文からの断片集である「蝋燭の焔に浮かぶもの」を季語随筆でも書いている。

 言うまでもなく、これらの「蝋燭の焔」文シリーズ(?)の遠い原点には、学生時代に読んだガストン・バシュラール著の『蝋燭の焔』(渋沢 孝輔訳、現代思潮新社)がある。
 ただし、脳裏の中に印象として残ったバシュラール(の蝋燭の焔)であり、一方において、昨年、ジョルジュ・ド・ラトゥール展も催されたラトゥール「ふたつの炎のあるマグダラのマリア」や「蚤をとる女」、あるいは「書物のあるマグダラのマリア」や「聖ヨセフの夢(聖ヨセフの前に現われる天使)」などの画が想像力の源泉でもあった。
 但し、後者のラトゥールの一連の蝋燭画も、あくまで小生の脳裏に反響してやまないイメージと印象としての源泉なのだが。

 ジョルジュ・ド・ラトゥールを巡る瞑想へは後日、改めて浸ってみるつもりだが、ここではガストン・バシュラール著の『蝋燭の焔』を読む機会を得たので、バシュラールの周辺を少し。

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 バシュラールについては、数年前、「バシュラール『空間の詩学』 あるいは物質的想像力の魔」なる小稿を書いたことがある。
 ガストン・バシュラール(1884-1962)の『空間の詩学』(岩村行雄訳、ちくま学芸文庫刊)がまた、絶品だったのである。
 ここでは、以下のようなことを書いている:
 

 バシュラールには何か、形そのままに残したい守りたい至福の時空間=真理があるように感じられる。その至福の次元を実現させるものは詩に他ならないと彼は考えている。
 その詩とは、単なるイメージ(我々が思う、ただのイメージに過ぎないという時のイメージ)ではなく、物質としての詩的イメージの世界なのだ。バシュラールの言葉を借りれば、詩的想像力、さらには物質的想像力によって実現される現実の時空なのである。
 そう、バシュラールは、詩的空間を単なる言葉の上の蜃気楼とは思っていない。机や椅子や家や木々や石や焔と同じく、極めて人間的な想像空間に現出した物質の一つの様相なのである。
 言葉は単に言葉に終わるものではないのだ。人間にとって言葉はナイフが心臓を抉りえるように、心を抉りえる可能性に満ちた手段であり、まさに武器であり、こころの現実に実際に存在する物質なのである。
 しかし、その物質は、手に触れないで遠くから見守る限りはそこに厳然としてある。にもかかわらず言葉で、その浮遊する時空間から抽出しようとすると、本来持っている命も形さえも崩れ去り失われてしまう。
 …… ……
 何とか顔に、魂の上に圧し掛かる岩を跳ね除けようとする試みのエネルギーが物質的想像力と小生は勝手に思っている。魂は心有るものには、間違いなく現実にあるものと映る。木や石や机のように、人間にとって魂は、心は現実にある。物質(と称されるもの)以上に切なく、しみじみと(目にはさやかに見えねども)そこに厳然としてあるものなのだ。
 そうした時空間は、ひたすらに心を密やかにひめやかに息を潜めて見つめないと見えないし、まして実現するのは難しい。バシュラールも強調しているように、いわゆる科学的方法では、いかにしても見出せないし検証も不可能な世界でもあるのだ。

 ガストン・バシュラールの蝋燭の焔も物質的想像力の結晶であるし、それ以上に「机や椅子や家や木々や石や焔と同じく、極めて人間的な想像空間に現出した物質の一つの様相なのである」……。
 恐らくはジョルジュ・ド・ラトゥールの蝋燭やランプも……。あるいは浮かび上がる光と影の対比そのものが神秘である以上に物質的なのである。

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 ネット検索したら、同好の士は少なからずいることを知る。例えば、小生も引用したくなるバシュラール著『蝋燭の焔』からの以下の一文は、誰しも示しておきたくなる:
 

 こうして、焔の凝視は原初の夢想を永続させる。それはわれわれを世界から引き離し、夢想家の世界を拡大する。焔はそれだけでも大いなる現存であるが、しかし、焔のそばで、ひとは遠く、あまりにも遠く夢見ようとする。『ひとは夢想のうちにおのれを失う』のだ。

 物質的想像力…。夢想…。となると、その究極は、「物質的恍惚」に止めを差すのだろうか。
 最後に拙稿「真冬の月と物質的恍惚と」から少しだけ:
 
 月の光が、胸の奥底をも照らし出す。体一杯に光のシャワーを浴びる。青く透明な光の洪水が地上世界を満たす。決して溺れることはない。光は溢れ返ることなどないのだ、瞳の奥の湖以外では。月の光は、世界の万物の姿形を露わにしたなら、あとは深く静かに時が流れるだけである。光と時との不思議な饗宴。
 こんな時、物質的恍惚という言葉を思い出す。この世にあるのは、物質だけであり、そしてそれだけで十分過ぎるほど、豊かなのだという感覚。この世に人がいる。動物もいる。植物も、人間の目には見えない微生物も。その全てが生まれ育ち戦い繁茂し形を変えていく。地上世界には生命が溢れている。それこそ溢れかえっているのだ。
 …… ……
 自分が消え去った後には、きっと自分などには想像も付かない豊かな世界が生まれるのだろう。いや、もしかしたら既にこの世界があるということそのことの中に可能性の限りが胚胎している、ただ、自分の想像力では追いつけないだけのことなのだ。
 そんな瞬間、虚構でもいいから世界の可能性のほんの一端でもいいから我が手で実現させてみたいと思ってしまう。虚構とは物質的恍惚世界に至る一つの道なのだろうと感じるから。音のない音楽、色のない絵画、紙面のない詩文、肉体のないダンス、形のない彫刻、酒のない酒宴、ドラッグに依らない夢、その全てが虚構の世界では可能のはずなのだ。

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コメント

国見さん初めまして☆この度はTBをして頂いて本当にありがとうございます。何かと更新もままならない情況の中・・凹んでいる時でもあったので、すごい励みになりました。こちらの記事を読ませていただくと・・私の感想文は赤ちゃんが書いたみたいな幼稚さで恥ずかしくなりますが、これからも下手でも丁寧に書いていきたいです。
私もTBをさせて頂いた・・つもり。。なんですが、ちゃんとできているのでしょうか。。
パソに不慣れなものでゴメンナイ。
これからはこちらのブログも楽しみに読ませて頂きます。ありがとうございました☆

投稿: ヘルミーネ☆ | 2006/06/09 15:01

ヘルミーネ☆ さん、こんにちは。いろいろあるようですね。ブログは逃げないし、楽しみつつ続けるのがいい。無理はせずに、自分のペースで。
かなりの読書家のようですね。幅広い分野の本を読まれていることに驚きです。
『荒野のおおかみ』さんからのお勧め本が多い…。ヘッセの『荒野のおおかみ』は小生の愛読書で三回、読んでいます。
TBは、されていないようです。

投稿: やいっち | 2006/06/09 20:45

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今年23冊目に読んだ本です たまにぶち当たっていた読書にたいする疑問。 「何を伝えたいのかなぁ・・この作品」とか 「難解すぎてよくわからない・・」とか。 [続きを読む]

受信: 2006/06/10 00:38

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