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2006/06/18

ヴォルス…彷徨う線刻の美

 今、こうして今日のブログに何を書き綴ろうかと考えるけれど、頭の中は雲をつかむようで、漫然たるばかりである。ふと、脇に置いてある「詩人の眼 大岡信コレクション展」の図録をパラパラと捲る。
 コレクションされている作品の数々を眺めていると、その大半の作家の作品を展覧会で、あるいは少なくともその会場で買い求めた図録を通して馴染みになっていることに改めて意味もなく驚いてしまう。
 それは何も小生が知る作家の数が多いということではなく、逆に小生の関心を抱く程度の作家など、大岡氏の関心の領域のごく一部に留まることを意味しているに過ぎないと承知しつつも、ついつい勝手ながら、自分の好きな作家の作品を怠惰で腰の重い小生の代わりに集めてくれていると、思ってしまったり。
 まあ、ファン心理という奴なのだろう。
 で、当然ながら図録の中にあるはずだと思っていた、フォートリエ、そしてヴォルスの作品を探した。
 フォートリエはある。フォートリエが来日した際に、大岡氏に与えた女性のヌードを描いたというデッサン。
 が、ヴォルスはない。
 あれ? という感じ。
 考えてみたら、そうだった。基本的には大岡氏が交流の輪の中でコレクションしてきた作品で、大岡氏はヴォルスとは直接の関わりを持ったことはないのだろうし。

 小生が好きな画家の名を一人、挙げるとなると、オディロン・ルドンパウル・クレーハンス・ベルメールジャン=ミシェル・バスキア、それともジャン・デュビュッフェアントニ・タピエスかなと思いつつも、やはりヴォルスである。
 彼らに共通するのはある種の音楽性でありメロディだろう。ジャン・デュビュッフェはちと違うが。

 それにしても、ヴォルス…。その過激で野蛮なまでの繊細な詩情は鮮烈過ぎる。

 そのヴォルスのことを改めて確認しておこうと、「ヴォルス」という名称のみでGoogle検索してみた。
 筆頭に、「漂泊の天才ヴォルス 震える描線」という頁が浮上する。昨年の秋口から催されていた小生が行きそびれた展覧会である。貴重な機会だったけれど、動かざること弥一の如しの小生、一度は足を運びたいと思いつつも、念願の叶わないでいる川村記念美術館へとうとう行かず仕舞いに終わってしまった。
 美術館のある千葉県佐倉市が遠いわけではないのだが。
コレクション主要作品」が凄い。それ以上に小生の好みの作家が揃っている。

 ヴォルスという作家については、上掲のに簡潔に紹介されている:
 

 ヴォルス(1913-51)は、第2次世界大戦前夜の時代から50年代初めまでに、独特の感覚に満ちた絵画制作を展開し、戦後美術史にその名を不朽にした作家です。彼の油彩画は、絵の具をチューブから直接カンヴァス上にひねり出したり、一度塗った絵の具を引っ掻いて画面に傷跡をつけるなど、力強く素材感に満ちた画面作りを特徴とし、戦後ヨーロッパで花開いた「アンフォルメル(=不定形)」と呼ばれる絵画運動の先駆けとなりました。今回、展示される作品のなかには、一時期、パトロンとしてヴォルスを支えた哲学者サルトルによる著書『食糧』(『嘔吐』の抜粋版、1949年刊)の挿絵として制作されたものが3点含まれています。

『カラー版 20世紀の美術』(連載)「7 抽象表現主義からミニマル・アートへ」」で、ヴォルスを含む絵画の流れの大よそを摑んでおくのもいいだろう。
 小生自身は、「三人のジャン…コンクリート壁の擦り傷」という題名で関連の記事を書いている。

 ちょっと驚いたのは、「ヴォルス」という名称のみでGoogle検索してみたら、その二番目に「大岡信氏著の『抽象絵画への招待』あるいはヴォルスに捧げるオマージュ(1)」という小生の頁が掛かってしまったということ。
 小生の頁が人気ある、はずもなく、要は、ヴォルスという作家がその作品の素晴らしさに見合うほど、一般には知られていないということなのだろう。

 いずれにしても、ヴォルスについては、そのの中でも若干の説明(但し、ほとんどが各所からの引用で満ちている)を試みている。ただ、その頁内で示しているリンクアドレス(URL)の大半が既に削除など頁が見当たらないとなってしまっている。寂しいし、困ったことだ。
 まあ、我が頁の売りは、『ヴォルス』(滝口修造・ハフトマン・サルトル・ロッシェ著、滝口修造・粟津則雄訳、みすず書房刊)から、ジャン=ポール・サルトルによる「指と指ならざるもの」というヴォルスへ捧げたオマージュをほんの一部ではあるが、転記してある点だろう。是非、その辺りだけでも味読してもらいたい。
 上掲書の大半は、ジャン=ポール・サルトルによる「指と指ならざるもの」というオマージュである。改めて、再刊を待望している。

 ヴォルスの本名は、アルフレッド・オットー・ヴォルフガング・シュルツェ(Alfred  Otto Wolfgang  Schulze)という。その頭文字をとってWoIsヴォルス(1913 ―1951)としたわけである。

 ヴォルスの絵の魅力に付いては、上掲の頁にて以下のように説明されている:
 

 ヴォルスの銅版画と水彩を愛して止まない人が多いのは、その運動感に満ちた描線の魅力によるところが大きいでしょう。線はあるときはひっかき傷とも似た強い調子で引かれ、あるときは風にそよぐ繊毛のように頼りない印象を備え、一本一本表情が異なります。それらは船や街並み、生長する植物など、ヴォルスが偏愛した事物をはっきりと描きだす具象的な作品もあれば、震える線そのものや、画家の手の動きのリズムなどが興味を惹く抽象性の高い作品もあります。

 上で示した「ジャン=ポール・サルトルによる「指と指ならざるもの」というオマージュ」の眼目は恐らくは以下にあるのだろう:
 
 ヴォルスにおいては、嫌悪こそ美であり、それは悪の花であってけっして裏切りではない。つまりそれは、逃げ出しもしなければ、何ひとつ和らげもしない。それどころか、逆に、苦悩を深めるのだ、なぜなら、美とは物の実体そのものであり、その種子役であり、存在の凝集力だからだ。すなわち、諸形態の厳密な統合と、それらの甘美にして不可思議な色彩とは、われわれの堕地獄の強化を、そのつとめとしているのだ。

 専門家らの説明と引き比べられると辛いものがあるが、小生自身は次のように思い入れぶりをデッサンしている:
 
 自分が融けていく。というより、固い殻に自分が守られているはずだったのが、気が付いたら殻が裂けてしまっており、その中の身たる己が、ドロドロの粘液以外の何ものでもなく、その液体が外界へと漏れ出し始め、逆に外界の浮遊塵が殻の中の肺腑に浸透し、世界は輪郭を失ってしまったのだった。ちょうど砂嵐状態のテレビ画像の人影のように。
 私は、その頃から、他者と区別する形も、他者と境界を画する敷居も見失い、私は道端にだらしなく転がる古びた自転車か、それともブロック塀の脇に投げ捨てられた空き瓶になった。否、空き瓶から剥がれ落ちそうな薄汚れたラベルなのだと気付いたのかもしれない。
 世界の中のあらゆるものがとんがり始めた。この私だけが私を確証してくれるはずだったのに、突然、世界という大海にやっとのことで浮いている私は、海の水と掻き混ぜられて形を失う一方の透明な海月に成り果てているのだった。
 私だけが丸くなり、やがて形を失ったのだ。
 ならば、一体、この私の存在を確かなものとしてくれるのは、何なのか。そもそも何かあるのだろうか。私は裏返しになってしまい、途端に消えてしまったのである。
 残ったのは、影でさえない。
 あるのは吹きすぎる風。湖面の細波。車に噴き上げられる塵埃。落ちることを忘れた黄砂。消しきることの出来ない半導体のバグ。磨きたてられた壁面の微細な傷。白いペンキで消し去られたトイレの落書き。どこに私がいるのだろう。それとも、そのいずれにも私がいるのだろうか。
 ヴォルスの抽象的で、それでいて生々しい線刻の乱舞。それは生への嫌悪であると同時に生への恐怖。確かにサルトルの言う通りなのかもしれない。
 けれど、嫌悪とは、依然として一種の自己主張の名残なのではなかったのか。嫌悪の裏側には、ある種の望みなき救いへの祈り、悲鳴という名の肉声の形に凝縮された祈りが隠れ潜んでいるのではないのか。
 私はヴォルスの多次元なまでに舞い狂う線描の突端へと駆け寄りたいのである。いつの日か寄り添いえた暁には、パウル・クレーとは違った意味での、心と体の慰撫という幻視がありえるかもしれないのだ。

漂泊の天才ヴォルス 震える描線」を昨年、見逃しただけではなく、他にも不忍画廊での「「池田満寿夫×WOLS」展(2005.3.7~26開催)」なる貴重な機会をも逸していたことに今、ネット検索の結果で気づいた。
(池田満寿夫氏は、はじめて銅版画の個展を不忍画廊で開催したのだ。「池田満寿夫プロフィール」参照。)
「ヴォルス」という名称のみでのGoogle検索結果の三番目に「池田満寿夫×WOLS」展が掛かったのである。
 小生はヴェネツイア・ビエンナーレ展の国際版画大賞を受賞とか、年には『エーゲ海に捧ぐ』で芥川賞を受賞という華々しい活躍を見せた池田満寿夫氏については、ある瑣末な因縁もあって少しは関心を持ってその活動を眩しく眺めていた(ことがある)。
 ある瑣末な因縁と、思わせぶりなことを書いたが、小生の曖昧でかなりいい加減な記憶だと、池田満寿夫氏か内縁の妻である佐藤陽子氏のどちらかが、彼らが一番活躍していた当時か、それとも売れ出す前か、小生が居住していた落合近辺(新井薬師?)に暮らしていたことがあるという、ただそれだけのことである。

[ 後で気がついたのだが、小生は、池田満寿夫氏とシュルレアリスムの詩人、美術批評家である滝口修造とを勘違いしているやもしれない…(汗)。滝口修造の終の棲家は西落合にあった。「この小さな家の書斎には、多くの美術家たちが瀧口を慕って次々と訪れ、いつしか「夢の漂流物」と呼ばれることになった物たち――デュシャン、ミロ、赤瀬川原平、加納光於といったさまざまな作家の作品や、貝殻や石ころ、オブジェの贈物など――が漂着していきました」という。
 小生が西落合近辺(上高田も含め新井薬師など)に住んでいたのは、78年4月から81年3月まで。小生は当時、自分のアパートの近くに晩年とは云え、富山出身の作家・滝口修造が居住していたことに気づいていたかどうか。
 世田谷美術館での「滝口修造:夢の漂流物」展を見ておけばよかった。まあ、「詩人の眼 大岡信コレクション展」で、久しぶりに滝口修造作品に出会えただけでも有り難かったと思うべきか。 (06/06/25 追記)]

 池田満寿夫氏と佐藤陽子氏との関係他については、「極東ブログ 岡本行夫・佐藤陽子・池田満寿夫」が(小和田雅子さんのことも含め)とても興味深い(コメント欄を覗くのを忘れないこと)。

 池田満寿夫氏の絵画関係の作品は、惹かれる点がなくはなかったけれども、ピカソの呪縛から最後まで逃れることができなかったという感がしてならない。見ていて傷ましかった。
「池田満寿夫×WOLS」展(2005.3.7~26開催)」を覗いてみて、彼はヴォルスの呪縛の引力圏にも居たのかと一瞬、思ったが、「池田満寿夫には極貧期と愛の苦悩があったものの、作品も生活もヴォルスより健康的だった」とあり、確かに池田満寿夫氏の作品はいい意味で通俗性があって、(本当に分かるかどうかは別にして)分かりやすい(という印象を抱かせる)。
開廊45周年企画part3 池田満寿夫×WOLS 」なる頁を覗いてみる。
 どちらがどうというわけではないが、悲しいかな、池田満寿夫氏の線刻は、やはりヴォルスの重力圏をも脱することはできなかったようだ。
 というより、描こうとする世界がもともと全く違っていたのだと思う。
 ヴォルス…。ざらざらな大地そのものか、それとも剥き出しのコンクリート壁面としか思えない架空の画布に、指先をペン先にして線描画を刻み込む。滲み浸み込む血と脂と肉片の形。溶けて爛れた自己。嫌悪と愛惜とが背中合わせに傷つけあう美。フォートリエではないけれど、破砕され廃墟となったビルのコンクリート片、そして土嚢の下に埋もれて歪み歪んだ肉塊。美は重力に圧し拉がれている。誰もいない森よりもっと渇いた化石の森の中のギリギリの、声にならない呻き。地上世界に居場所を見出せなかった美は宇宙へ食み出していった。美は真空の中で凍てついている。
 ヴォルスは窒息した美という悲しみを描いているのだ。


[「artshore 芸術海岸」にて、「ヴォルス:奇妙な才能  1/5」以下、関連記事が載っています。 (06/08/17 追記)]

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コメント

ヴォルスについての凄い頁を見つけた!:

「テロリストに花束を Wols 「指と指ならざるもの」」
http://inranskey.blog3.fc2.com/blog-entry-1.html

投稿: やいっち | 2006/06/25 13:47

こんにちは。
artshoreさんのブログから参りました。
ぽかりと申します。
芸術のことは不勉強であまりよく知らないんですけど、ヴォルスという方の写真にとても強く惹かれました。じっくり拝見させてください。

投稿: ぽかり | 2006/08/17 23:44

ぽかりさん、はじめまして!
今、貴ブログへ飛んで見てきました。
とりあえず、画像を見てみたのですが、ちょっと不思議な世界。
後日、ゆっくりお邪魔させてもらいます。

ヴォルスという方の写真、artshoreさんの記事が楽しみです。

投稿: やいっち | 2006/08/18 01:14

再度のコメント、失礼致します。
TB有難う御座いました。

実はつい最近に瀧口修造の古書を見つけ、購入したばかりで鳥渡驚いております。

やいっちさまの記事と合わせて読み理解を深めようかと…。まずは取り急ぎお礼まで。

投稿: Usher | 2008/07/07 00:20

Usher さん

TBだけして失礼しました。

瀧口修造の古書を見つけられたとか。
同氏は我が富山生まれの方で、且つ小生の母校(但し旧制の中学)の先輩でもあります。
そんなことに関係なく(でもついつい思い入れを持って)瀧口修造さんの業容に関心を持ってしまいます。

投稿: やいっち | 2008/07/07 10:26

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