模写と独創
「展覧会カタログの愉しみ…」の中で、「Yahoo!ニュース - 産経新聞 - 芸術選奨画家、盗作か 洋画の和田氏 文化庁調査」なる話題を採り上げている。
これはいまや、「Yahoo!ニュース - 共同通信 - 和田氏の賞取り消しも 絵画酷似問題で文科相」といった段階にまでエスカレート(?)している。
このニュースは新聞も含めラジオやテレビで報じられているから、今更紹介するまでも無いだろう。
ちょっと変則的だけれど、ここでは、盗作ということではなく、広く模写ということで小生なりにあれこれメモしておきたい。
ピカソファンならずとも、ピカソが特に若い頃、徹底して模写(古典の勉強)をして絵画技術の土台を養ったことは知られている。
絵の教師だった父と喧嘩、王立サン・フェルナンド芸術協会を脱会したころ、「ピカソはプラド美術館にある絵を何枚も模写しています。特にエル・グレコに傾倒していたようです。しかしプラドでピカソが一番影響を受けたのはベラスケスのラス・メニーナスです。色々な技法と構図を使って何枚も何枚もこの絵を元に描いています」という。
あるいは、その後、バルセロナに戻り、「当時パリで活躍していたルノワール、ロートレック、ゴッホやセザンヌにピカソは大きく影響されます。全ての画家のタッチを模写していますが特にセザンヌへの思い入れが強かったようです」という。
その前に、ピカソは「俺は子供の頃、まるでラファエロのように絵を書いたもんだ」と嘯(うそぶ)いていたとか。
(これらの転記は、「えすぱにょれあんど SPAIN-JAPAN」の中の「PICASSO 1」より。)
「初聖体拝領 La Primera Comunion 1896年(14歳)」なる画像をどうぞ。
いつだったか、菱田春草や横山大観ら日本の有名画家の幼少年時代の作品を集めた展覧会が催されたことがあった。有名な画家・彫刻家らによる、「春季特別展「子供の情景」」という性格のものではない。
あくまで、高名な画家の、それも若い頃ではなく幼年から少年期の頃に描いた作品を集めた展覧会だった。残念ながら展覧会へは行けなかったが、後日、その図録を見る機会があった。
ひたすら溜め息だった。断り書きがなかったら、それなりの年代の画家の絵だと言われても違和感は覚えなかったはずだ。その見事さといったら。
ピカソもそうだったのだろう。
小生などは家には絵画作品に限らず芸術の気風は漂っていなくて、絵画より漫画に熱中していた。となると、自分で描きたくなる。少しは試みたが、一番、熱心にやったのはエイトマンや狼王ロボ(結構、リアルなタッチの漫画でお気に入りだった)、鉄人28号など、好きな漫画の主人公などを模写すること。
自分では得意になっていたっけ。中学になって日本地図をフリーハンドで書く課題が与えられて、勉強は(も)できの悪い小生だったが、地図はかなり上出来に仕上がり、先生に褒められたものだった(めったにないことだったから、覚えている)。
模写。真似。好きな題材や対象があったら、それを真似ること、モデルがあるなら模写すること、それは勉強のために必要ということもあるが、そもそもほとんど本能的にやってしまうことだと思われる。
「美術館の役割は,伊藤さんが言ったように,古いものを保存しておくだけではなくて,新しい創造主義が必要です.ルーヴルも最初はそれが非常に強かったんです.観客に見せるのと同じくらいの重みで,芸術家養成の機関でもあった.だからルーヴルでは模写もできる.芸術家に模写させるわけです.それは新しい芸術創造は古いものの模写から始まるという考えからきているわけですから,模写の伝統を受け継いでやっているわけです」という大袈裟な意味でなくても(太字は小生の手になる)。
帰省すると、姪っ子、甥っ子が田舎の我が家にやってくる。家の中でする遊びというと、ゲームもあるが、もっと好きなのは、鉛筆やクレヨンやカラーマーカー、マジックなどで絵を描くこと。
とにかく、チラシでも何でもいいから、何かしら片面は白い紙を用意しておかないといけない(大概は父の役目?)。で、好き放題に描いていく。人物もあれば家や木々もある(ようだ)。その中には、当然ながら漫画のキャラクターの模写(のつもりだろう)も多い。
本を読むとは、他人の頭で考えることだと、かの哲人は喝破したけれど、思えば、最近は本など読まれなくなったから、他人の頭であれ、読んで考えるつもりになっていたことは、それなりに意味はあったということか。
近年(既に一時期そうだったということになっているのかも)、独創性が喧伝されるようになり、先人の画業や作品を勉強はしても、若いうちから独創性が求められ、中途半端な勉強で切り上げて、奇異な画風に走りがちである。
文学に付いても、音楽に付いても、絵画に付いても、あるいは他の方面でも。
(音楽シーンが非常に分かりやすい。実に中途半端な詩、メロディ、歌唱力、演奏力、プロとしての姿勢、考え方…。周囲のスタッフによる厚化粧が際立つばかりだ。そんなに凄いアーティストが次から次へと誕生するはずがないじゃないか…。)
新規な題材を扱い、目新しい技術を駆使し、とにかく作品の出来より何より、まずは他人の作品との違いに重きを置いてしまう。差異がまずは示されるべきなのだ。この人らしいとは、この人の作品が他人とは違うということ。
当然と言えば当然のようでいて、疑問もないわけではない。
そもそも独創性など、そんなに簡単に得られるはずもない。何十年も研鑽を積んでようやくオリジナリティが発揮できるかどうかのはず。
しかも、万が一、本当に独創的な世界が生み出されたなら、そもそも同時代の人たちに理解されたり、まして受け入れられる可能性が極めて少ないのではないか(乃至は、誤解され不遇のままに一生を終える…)。
若い頃、怖いもの知らずの頃は、周囲の中で自分の技量の際立っていることに周りも驚き、本人も得意になる。鼻高々。だが、そんな器用な才能、周囲が上手いと絶賛するような価値観に則った画風(作風)を示す人は日本にも、まして世界には数知れず存在する。
いざ、そうした日本や世界の舞台に立つと、自分のちゃちな技量も才能もちっぽけな、小ざかしいものに過ぎなかったことに気づかされる。
立ちはだかるのは、似たり寄ったりの才能の持ち主たちの如何に多いことかということ、その中でたまたま才能を早く発揮した人に圧倒されたりする。
さらに、世間の常識という壁が屹立する。大人への関門だ。
この大人の常識というのは、想像以上に高い壁なのである。→ 「アウトサイダー・アートのその先に」参照(特に、以下の記述の辺り):
もしかしたら、幼児達は案外と彼等が現に見たり感じたりする、まさに彼等が生きている世界をリアルに描いているのかもしれない。
ただ、あまりにリアルなことと、その突飛もない表現に、既成の価値観や視点や教養や常識の虜になってしまっている大人には、その真の価値が分からないだけなのかもしれない。
あるいは、その想像を絶する現実世界の豊穣さと奥の深さにまともに立ち向かったりしたら、大人として常識を以って生きていけなくなるという懸念を結構、真剣に予感するが故に、臭いものに蓋(ふた)というわけではないだろうが、少なくとも危険なものを大慌てで覆い隠すのではないかと思われてくる。
が、もっと大きな壁は、なんといっても古典だ。
文学でも絵画でも音楽でも古典がある。西欧の文学で聖書やシェイクスピアやダンテの描き示した世界からほんの少しでも食み出しえた作家がいたのか、いなかったのか。
日本で源氏物語の高みと深みと繊細に一体、誰が比肩しえるのか。時代ごとのテーマはあっても、時代の風景は違うようでも、人間のドラマを突き詰めていくと、古典作品が示しえた高峰、そして美の極みに行き着いてい仕舞う。
その峻厳な高みと圧倒する存在感に打ちのめされる。
小説にしても、目新しい作品に目を奪われ続ける時期は若い頃を中心にあるが、次第に奥の院があることに気づかされる。自分が考え感じ想像し悩み苦しんだ程度のことは、先人が既に渉猟し尽くしているし、しかも、この先、自分がどんなに頑張っても、釈迦の手から孫悟空が食み出しえなかったように、自分も古典の矩を越えられないのではと痛感させられる。
それでも、自分なりの画業や文筆や創造の営みは止められるものではないが。
ベラスケスでも狩野派でも、師のもとにあって何人(何十人)という弟子が師の技術を学ぶ。文字通り真似る。芸術に模倣が可能なのか、天才の才能を真似ることなど出来るのか、師の命令の元に指示された仕事をこなすだけで一生が終わってしまうのではないか、そんな疑問など意味を成さないほどに徒弟制度や流派の存在は括弧たるものがあった。身分制度が背景にあったのかもしれない。
しかし、思うに、最後の最後に独創的なものが生み出されるとしても、それは先人の偉業を徹底して学び真似、模写し、そうして先人の道をひたすらにナゾルという地道で単調極まる作業の果てに、それでも、土壇場になって本物の才能のある奴は、衣の下から鎧が出てくる。頭ごなしに踏みつけにされても、それでも凍りついた大地に顔を出す。
とにかく真似なら真似でいい、模写なら模写でいい、古典を(つまりは定まった価値観の結晶を)模写した挙句の、ほんの一滴のその人らしい汗の滴りがあれば、もう、それで十分なような気がする。
というか、それだけのことができただけでも、凄いことなのだ。
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コメント
問題になっているのを知って書こうと思っていましたが、多くのことをここに見つけましたのでこれで十分と思いました。付け加えたい点だけ少し。
一つは職人芸的な部分。これはどんな芸術でも文学でも必要で、習わなければ到底身につかない、もしくは時間が足りない。その過程で、伝統的に伝えられて来たものに慣れて、はじめて偉大な古典が解る。土台を乗り越える事が出来る。
もう一つは独創性という部分。私の考えでは、これも文化の地盤から切り離す事は出来ませんし、そもそもそのような考え方が非合理。モーツァルト爾。
すると、偉大な先人から学ぶより慣れろしかない。先人に慣れろは真似ろですよね。本歌採り。
アルベルト・スギ氏も、そんな事は分かっていても、話題作りをしているだけですね。大抵、盗作を訴える方が最終的に信用を無くしている。
和田氏は口が裂けても、盗作と云わないのは当然。問題は、「独創性を認めた社会の審美眼」です。それで権威を付けて高く売り払う業界。金が伴わなかったら、悪人は存在しない。もし独創性を強調するならば、恥じ入るのは嫌疑がかかる和田氏でなくて賞を授与した方でしょう。責任を採るべき。勿論評論家も。
文化庁と云うような教育行政に近いところが、独創性を云々して権威をつけるのが的外れ。私が文化庁ならば賞の権威を守るために、盗作騒動は門前払い。
投稿: pfaelzerwein | 2006/06/02 17:19
名のある芸術家となったら、そこには政治家や文化人が我も我もと集まってくる:
http://www.morimuraseiichi.com/shashinkan/b/b_35.html
仕事の内容が分かっているかどうかなど、関係ない(中には分かっている人もいるんだろうけど)。
一旦、名を持ったら、権威となり、権威ある賞を与えることで与える側も権威を高め箔を付ける。
折々採り上げている高島野十郎は、そんな俗世間に嫌気をさして当時としては田舎へ引っ込んで画業三昧に。
思えば、日本の古代文化も技術も芸術も、朝鮮の文化人を経由した中国からのものが殆どだった。
その中国の文化はというと、インド(ダンダーラなど)からであり、さらに遠くはギリシャからでもあった。
模倣から始まったのだし、本家があるいは滅んでも文化を模倣した僻遠の地で(正倉院など)その片鱗が残るという僥倖と皮肉。
それにしても、くだんの和田氏は今度のことで名を上げるか、それとも汚名に沈むか(少なくとも同氏の名前は全国的なものになった)、今が正念場ですね。
俺は真似したけど、どうだ、俺のほうが出来がいいだろうって、開き直ったほうが格好いいような気もする。
投稿: やいっち | 2006/06/02 22:04
スギという人をまったく知らないのですが、何でも東京でわたしの展覧会を開くのが一番いいといっているとか。
こうなると売名行為になってきますね。
さてさて模写ですが僕は向井潤吉を思い浮かべました。
ルーブルで模写したんですね、しかし彼は日本の風土を写す路を選んだ。
若い時期の模写なら自己探求の道ですね、しかし和田さんはもう還暦を越えており模写云々の段階ではない。
スギ氏、和田氏、どっちもどっちです。
投稿: oki | 2006/06/03 12:57
リンク拝見しました。なにやら危ない悪相の面々のお写真でした。いかに怪しげな世界か分かりますね。
以下のスギ氏のHPの反応も面白いです。今頃、デパートの美術部の買い付け人が奔走していることでしょう。
http://www.albertosughi.com/f_archive_testi_online/2006_may_31.htm
投稿: pfaelzerwein | 2006/06/03 14:14
okiさん
結果的には売名行為になってますね。これがスギ氏と和田氏の共同での戦略だったら呆気に取られるね。
とにかく一部の関係者を除けば、和田氏の知名度は低かった。それが今度のことで全国区に。
本文にあるように森村誠一氏の本の装丁や挿絵も手がけていることを今回、思い出させてくれたものでした。冴えない絵だったので、印象には残らなかったもの。
とにかく模写であれなんであれ、仮に模写の上での独創性があるのだとしても(小生には独創性は全く感じられないけど)、画そのものに力が感じられなければ、意味なんてない。
まあ、もう、話題の主にする時間が勿体無い気がします。
pfaelzerweinさん
凄い面々が並んでいますね:
http://www.morimuraseiichi.com/shashinkan/b/b_35.html
絵の才能より、人脈を作る才覚に富んでいるわけですね。
名のある人たちは、持ちつ持たれつの関係にある、その典型のような。
スギ氏のHP、小生もアクセス数を増やした一人です:
http://www.albertosughi.com/f_archive_testi_online/2006_may_31.htm
正直なところ、スギ氏の絵も、小生は必ずしも絶賛はしない。こういう画風を持つ人は少なからずいると思うし。
でも、商売人は今がチャンスと虎視眈々なのでしょうね。
投稿: やいっち | 2006/06/04 11:47
週刊朝日がこの人のセクハラ疑惑を取り上げていますね。
「盗作でもオリジナリティがあればいいけど今回は次元が低すぎて論評する価値もない。
問題はこういう人を選ぶ芸術選奨。実力より政治力が必要といわれ国際的な信用もない」
「和田画伯は都合が悪くなると口癖のように「僕は絵描きバカですから」とのたまうがバカにもほどがー」
朝日にまでこんないわれかたされて、この人ちょっとダメですねもうー。
投稿: oki | 2006/06/09 22:12
oki さん、もう、和田氏については関心が薄れてしまった。なぜといって、絵に魅力が乏しいから。彼は政治的(人脈作りという意味も含めて)動きが巧みで芸術選奨を受賞したのだと思えてならない。
和田氏とスギ氏を並べる展覧会もどうでもいいし。
小生は、そもそも絵を「号」幾らで売る日本画の世界がおぞましくてならない。絵の値段を大きさで決めるなんて、論外。オークションで決めたら、今の絵画界の勢力地図も大変貌を遂げるでしょうね。
東山魁夷はいいけどね。
ところで、「東大と天皇」が面白い。okiさんは関心が深いのじゃないかな。
投稿: やいっち | 2006/06/10 00:27