匂いの力…貴族のかほり
今週初めから車中で読み始めていた佐藤俊樹著の『桜が創った「日本」―ソメイヨシノ 起源への旅―』(岩波新書)を読了。
「桜」については、小生はこれまでも若干のことを書いてきたが、小生の理解については、特に「坂口安吾著『桜の森の満開の下』」にて示してある。
が、本書で改めて日本人にとっての「桜」のイメージの位置付け・意義・思い入れを再認識。後日、感想を書く(かも)。
とりあえず、出版社サイドの内容説明を載せておく:
桜のなかでも最も普及しているのが、ソメイヨシノです。日本の桜の7~8割がソメイヨシノといわれています。この桜は、近代の幕開けとともに人工的に生み出され、またたくまに日本の春を同じ色に塗り替えていきますが、その中で、この花にまつわる無数の「語り」が生み出され、いろいろな「歴史」を人々に読み込ませてきました。それを読み解いていくと、人々が「日本」や「自然」をどうとらえてきたのかということも、浮かび上がってきます。
八岩まどか著の『匂いの力』(青弓社)を読み始めた(小生が「匂い」「臭い」関係への関心を抱く理由については、既に書いたことがあるし、今回は改めて書くつもりもないので、気になる方は、「匂いを哲学する…序」や特に「「匂い」のこと…原始への渇望」を参照のこと)。
本書は出版社によると、「自然臭を排除し、香料や芳香剤に満たされた現代の生活空間──。しかし古来匂いは生きて匂い死して匂う、存在の証だった。悪霊を調伏する護摩の香りから死や病の匂い、悪臭公害までの「匂い史」をすくいあげ、ダイナミズムを検証する。」と謳われている。
まだ、読み始めたばかりなので(寝床に入っての睡眠導入剤代わりに楽しみつつ読ませてもらっている)、本書に付いての感想は後日にさせてもらうとして、今日は気になる記述に焦点を合わせる。
菅原道真の怨霊が如何に平安時代の貴族や宮中を怖れさせたかが書かれた上で(拙稿「梅の花、そして天神様信仰のこと」など参照):
『醍醐天皇御記』に、演技十年(九一〇年)正月四日のこととして「内裏において犬死の穢があったために祈年祭を延期した」という内容が書かれている。また『貞信公記』にも、「犬死の穢によって参内せず」「牛死の穢によって大原野祭を中止した」などの内容が散見される。こうした内容は他の日記類にもたびたび登場するもので、ことさら珍しいものではない。だからといって、日常よくあるつまらない話というわけではない。宮中での役職を持つ男たちにとって公式な記録としての性格を持っていた日記に、こと細かく書いておかなければいけないほどに重要なものだったのである。
ここでいう「犬」というのは、宮中や貴族の屋敷で雑役を担っていた一般民衆のことである。平安京の支配者たちにとって人間とは、天皇を中心とした国家のなかで公式な位や職を与えられた者たちのことであって、こうした人間に雇われている一般民衆は、人間に餌をもらって生きる「犬」とみなされていたのである。ちなみに「牛死」「牛馬死」の場合は、言葉どおりの動物の牛・馬の死体を意味していた。
この世に恨みや未練を残して死んだ御霊の祟りは当時にあっては想像を絶して怖いものだった:
『今昔物語集』には、ある貴族の家で雑役をしていた少女が疫病にかかって重体に陥った時の話が載っている。
もう助からないという状態と分かると、屋敷の主人である貴族は、少女を道に捨ててくるように命じる。死ぬと分かっている者は屋敷内にとどめないのが当時の常識であり、道端でひとりで死を迎えるのが「犬」の運命だったのである。主人の命令を知った少女は、「隣の家の犬がいつも私に咬みつこうとします。人気のないところに捨てられれば食い殺されてしまうでしょう。あの犬の来ないところに出してください」と必死で哀願する。それを聞いて主人は「毎日、必ず誰かを見に行かせる」と約束して、道に捨てさせた。だが人をやったのは、数日してからのこと。少女は、犬に食い違えて死んでいたのだった。
雇われ人である一般民衆は「犬」呼ばわりされていた。その死は、文字通り「犬死」だった!
ところで、少女の言う隣の犬とは本当の(獣の)犬なのか、それとも少女を食い物にする(嬲者にする)碌でもない奴(一応は人間。といっても、徒食の貴族)のことなのだろうか。
← 最近、都内を走っていると、気になってならない広告。「ayumi hamasaki Official Website」中の画像。霞がちな日々が続いていて、お月さんの姿も見えないし。あゆみちゃんが頼りだ!
平安時代などの文芸は世界に類を見ないほどに高度な表現技術で繊細極まる世界が描かれていたという。
古代ギリシャの哲学は、貴族である哲学者たちの営為であり、奴隷制度の上に成り立っていた民主制度だったことは知られている。
平安文学の繊細緻密な世界、人情の機微を描きつくした世界、花鳥風月の世界も、あくまで貴族の世界という閉ざされた空間からは一切人間的な関心が及ばなかったこと、つまり貴族と庶民とは隔絶しており、貴族の光の世界を支える深く暗い闇の海である庶民の世界が日の光も及ばざる領域として伸び広がっていたことは銘記すべきだろう。
一般民衆は人間ではなく犬畜生。が、本能の何処かでは彼らも感情を持つ人間だと気づいていた…。だからこそ、祟りや怨霊をつねに怖れるしかなかったのだろう。
この一般民衆を軽蔑し睥睨する見方や価値観は、近代になって復活し、戦前・戦中、特に軍部官僚に典型的に露になってしまった。兵士や民間人を死地に追いやり、置き去りにし、酷くも自殺行為に駆り立て、その実、けしかけた当事者たちは、真っ先に情報を得て生き延びる…。
あるいは薬害などに見られるように、間違った政策、あるいは手を拱いている間に、多くの人が悲惨な目に遭ってしまっても、責任を取らない姿勢。
一部(だと願いたい)の役人の姿勢というのは、平安貴族以来の伝統なのだろうか。
→ 上掲の広告の前は、こうだった!「浜崎あゆみ オフィシャルファンクラブ Team Ayu」からの画像。随分、大人っぽくなったね…。
但し、「犬死」なる言葉の意味は、「その死が何の役にも立たない無駄な死に方」ということで、今も死語とはなっていない(?)ようだが、語源については、ネット検索しても定かにならなかった。
ネットで見つかった説明では、以下が一番、まともなような気がするが、小生には判断が付きかねる:
俳句の中で、「似ているが本物ではない」という場合に名詞の頭に冠りする接続語として「犬」という字が使用されたのが最初だと言われています。(「犬莵玖波集」と言う、俳諧歌(はいかいか)の連歌集「莵玖波集」をもじって命名された俳諧連歌集に、犬は役に立たないことの喩えで使われました。)
さらに、へりくだって呼称していたこの「犬」が、逆にいやしめ軽んじて「くだらないもの、無駄なもの」の意として、用いた表現が「犬医者=薮医者」、「犬侍=腰抜け侍」そして「犬死=徒死」と例えられるようになったということです。
(「重箱の隅 ☆雑学メルマガ☆|教えて重箱」中の「[1839] 犬死」項より。)
しかし、そうはいっても、貴族の世界、宮中などにあって、光に満ちた華麗なる日常が展開されていたかというと、さにあらず。当然ながら美と雅とを支え育むには膨大な土壌を必要とする。土壌とは、数知れない生き物たちが跳梁跋扈する闇の世界。貴族だって、美を気取り位を維持するのに懸命で、蹴落とされないよう必死だったとは容易に推察できようというもの。
ネットで探してみたら、興味深い本が見つかった。
繁田 信一著『殴り合う貴族たち 平安朝裏源氏物語』(柏書房)である。
出版社による内容説明によると、「従者の生首を持ち去り、受領たちを袋叩きにし、平安京を破壊。殴られる天皇、犬に喰われた皇女…。藤原実資の日記「小右記」に記された暴力と凌辱の平安朝。源氏物語には描かれない、雅びな都の知られざる暴力事件を読み解く。」というもの。
ブルース氏による「平安時代盛期の驚くべき貴族たちの実態」といった書評が参考になるし、面白い。
「平安時代の貴族と言えば、伊勢物語・源氏物語・枕草子・古今和歌集などの優れた文学や詩歌などを生み出したことから、雅な人々というイメージがある。本書は、このような見方に疑問を呈し、藤原道長と同時代の貴族、藤原実資が著した『小右記』という日記を詳細に辿ることで、平安時代盛期(十一世紀初頭)の貴族たちの思いも寄らない荒々しい姿を次々と明らかにしている。
その実態を本書に沿って紹介すると・・・。」以下は、どうぞ、本文を。
驚いたのは、「最新の研究は、貴族は様々な家職を担っており、その中で軍事貴族という暴力を家職とする存在も明らかにしている。貴族といえども、暴力とは無縁ではなかったことが解明されており、本書はこのような研究動向とも合致している」というくだり。
「軍事貴族 - Wikipedia」を覗くと、冒頭に、「軍事貴族(ぐんじきぞく)とは、日本の古代後期から中世最初期にかけて出現した軍事専門の貴族をいう。成立期の武士の母体となった。桓武平氏、清和源氏、秀郷流藤原氏などが代表的な軍事貴族である。」とある。
なるほど。
が、そうした軍事専門の貴族もさることながら、一般の貴族の中にこそ、貴族の衣を被ったヤクザ者が無数にいたのだろう。そちらのほうが日常的に怖いような気がする。
[億劫で書く気になれなかったが、日本のブラジル戦の敗退により、一次リーグ進出が叶わなくなり、やはり、落胆の念は隠せない。昨日の営業中も何人となく、がっかりという声を聞いた。
小生は、木曜日は夜半前から季語随筆「藤原作弥…香月泰男…蜘蛛の糸」を書き始め、書き上げたのは二時ごろ。
それから普通なら軽くネット巡りをしてから寝入るところだが、その日はロッキングチェアーに腰を埋め、仮眠。うつらうつら。狙いの4時には目覚めることができず、起き上がれたのは4時半過ぎだったか。テレビのスイッチをオン。
やはり我が家のモニターだと画像が荒く、サッカーのボールが見えない。が、見始めて数分、前半34分にFW玉田圭司選手のシュートで先制というシーンに遭遇。
が、あとが続かなかった。逆にブラジルの選手たちにちょっと火をつけてしまったようだ。後半はブラジルの猛攻。見るに耐えない内容。
あっという間に加点されていく。
日本の敗戦は何処に原因があるか。誰が戦犯なのか。
そういった問いを無意味にさせるような圧倒的な力の差を見せ付けられた。あの韓国もスイスに歯が立たなかった。アジアと欧米やアフリカ勢との力の差も歴然。
もっと選手個々やJリーグを含めて底上げしていかないとダメだ。次のワールドカップまでに、世界の舞台で活躍する日本の選手が住人以上となり、海外組だけでイレブンが揃うくらいでないと同じような惨めな結果に終わるだけだろう。
寝不足での金曜日の営業。が、そこは時間の自由になる仕事。幾度か仮眠を取って無事、仕事はやり遂げることができた。自分もだが、お客さんも町も元気がないように感じたのは、気のせいじゃない。(当日、追記)]
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コメント
さる事情から「平安時代」とか「平安貴族」と聞くと、反応が顕著になってしまう私ですが、意外でした。
あの時代って雅やかで、貴族=軟弱かと思っていたら、暴力沙汰も普通にあったのですね。
ん・・・・・?いや、軟弱貴族は命じる専門で、自分の手下(表現がアレですが・・・・・)にやらせていた可能性も・・・・・。
でもショックですね。
あのころ、普通の市民にはお墓はないということは知っていましたが、内裏で穢れがあると放り出されていたなんて。
ある意味、ものすごい差別社会だったのでは・・・・・?
投稿: RKROOM | 2006/06/24 23:52
RKROOMさん、「さる事情から「平安時代」とか「平安貴族」と聞くと、反応が顕著になってしまう私ですが」ってのが気になりますね。
貴族社会ってのは、まさに階級社会であり、地位・役職・血筋・家柄が全ての世界。だからこそ、言動や文章表現において徹底して鍛え抜かれたのでしょう。また、互いに嫉妬と出世競争の戦いに終始していた…。
また、貴族も結構、野蛮な行為を日常茶飯で行っていた:
http://nopperi.hp.infoseek.co.jp/repo-/r-2004-702.htm
そこまでは小生も大雑把には知っていたけれど、その貴族と一般平民との差が想像を絶して凄まじいものだったというのは、認識が足りなかった。
「源氏物語」などの雅な作品を読むに際しても銘記すべき<常識>なのでしょう。
それらの高級な文学作品の中にそもそも庶民など存在自体、認められないような印象さえ抱く。
仕方がない…。だって、犬なのだから。
そうした家来(犬)の前での貴族らの恋愛(性愛)沙汰も平気だったという話も聞いたことがあります。犬(壁)にHを見られても恥ずかしくないからって。
貴族は表向きは肉食はしない(魚も食べない)ものとされていて、そんな穢れたものを食べたり扱ったりする民衆や地方の人を侮蔑していた。
むしろ、そうしたカースト制度にも似た差別感や価値観で貴族たちは自らを高尚な人間と思いたかったのではないでしょうか。
http://www.nagano-cci.or.jp/tayori/661/ibukuro.html
もっと、一般化すると、縄文人と弥生人、古来より土着していた被支配者の人々(蝦夷(えみし))と新しく渡来した支配者層の人々(朝鮮からの渡来人)との間の確執の延長の面もあったのではないでしょうか。
江戸時代ですら、武士や特に貴族の顔(うりざね顔。高く細い鼻)と町民など庶民(丸顔で平べったい鼻)との顔の違いは歴然としていたとか。
投稿: やいっち | 2006/06/25 01:48
『桜が創った…』という本、面白そうですね。
私は桜の散り際がスキなんです。
坂口安吾『桜の森の満開の下』を
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投稿: ヘルミーネ☆ | 2006/06/25 21:40
ヘルミーネ☆ さん、桜に限らず草木などを愛でるのは人間です。そうした花々や植物、生き物への思い入れや意味づけも極めて人間的なもの。
自分の感じ方、思い入れを大切にすることは素晴らしいことだと思います。
同時に、感じ方も天与のものではなく、あるいは歴史的に醸成された側面もあると時に思ってみることも大切かなと思うだけです。
投稿: やいっち | 2006/06/25 23:58