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2006/06/09

世界を見る「めがね」

何日君再来…おおたか静流」の末尾に坪内 稔典著『季語集』(岩波新書 新赤版)からの知見として、「日本は嘗ては二季の国だった。それが中国文化の流入の中のひとつとして四季がやってきて、それ以来、四季を自覚するようになった」云々と書いてあったとメモっている。
 当該箇所は長くもないので(前後の脈絡が途切れるが)本書から転記しておく:

 ところで、日本には四季がある、という言い方がしばしばされる。それはその通りなのだが、でも、日本の自然に初めから四季があったわけではない。民俗学的な考え方では、四季の前に二季があったとされている。正月から盆、盆から正月までの二季であり、農業はこの二季を骨格としてきた。四季は大陸から入ってきた新しい区切りであり、『万葉集』などにその区切りが現れるが、広く普及するのは『古今和歌集』や『源氏物語』などを通してである。特に一〇世紀の当初に成立した『古今和歌集』は歌を四季に分けており、その四季観は現代に至るまで、もっとも基礎的なものとして存在する。俳句の歳時記を開くと、たとえば、時鳥(ほととぎす)が夏を告げる鳥になっているが、それはまさに『古今和歌集』以来の伝統なのだ。
 要するに、四季という区切りが登場したことで、日本列島に春夏秋冬という四季が現れたのだ。四季とは一つのめがねのようなものだ。このめがねをかけると自然界が四季に区切られるのである。

 本書『季語集』でも『枕草子』が参照されている。その冒頭に「春は曙。やうやう白くなりゆく。山際(やまぎわ)少しあかりて紫だちたる。雲の細く棚引きたる」とある。
 ネットでは、「たのしい万葉集」という小生が折々覗かせてもらっているサイトが、「万葉の四季 」というテーマを(も)設けてくれている。

 今回、ネット検索して気づいたのだが、このところ天候不順な日々が続いて、これじゃ、日本には四季がなくなり二季になってしまうという嘆きを書くブログが目に付いた。
 どうやら、天声人語でそうしたような記事が書かれていて、その影響があるようだ。
 昨年など夏が極端に暑く、且つ長かった(という印象)。冬は、気象庁は暖冬を予測していたのに、いざ蓋を開けてみたら寒く、しかも寒いだけじゃなく北陸地方を中心に大雪となった。その寒い冬の名残は北海道にはまだ続いていて過日も雪が降ったとか。
 上で「正月から盆、盆から正月までの二季であり、農業はこの二季を骨格としてきた」というくだりがある。
 思えば、縄文時代の日本列島はかなり温暖だった。ある意味、今の沖縄かそれより温暖な気候だったわけだ。寒くて農作業に適さない時期と、農作業や狩猟などに従事するのが相応しい時期の二つしかなかったということか。

 そこに弥生時代の到来である。縄文海進という現象(証拠)が示すように既に縄文時代の開始の時期というのは、最終氷期が終了し、「氷床の縮小とともに海面も上昇し」ていたのである。
 それがやがてまた、列島だけじゃなく、大陸を含めた世界的な規模で寒冷化の時期を迎えた。それが中国での政変を呼び、列島にも強く作用した。
 当然ながら、「占術」や「祈祷」など、祭祀的権威への需要も高まった。
 日本の弥生時代の開始は中国大陸の政変が影響しているといわれる(春秋戦国時代、あるいは殷から周への政変)。大陸での政治的混乱を避けたり、政争に負けた一団が次々に蓬莱の地だという伝説のある列島へ渡来したわけである。その大規模な渡来が数百年に渡って続いたらしい(大規模と言っても、年に千人単位のようだが、毎年の渡来が紀元前後千年に渡って続くと、自然増もあるからトータルでは軽く百万人を越えることになる)。

 この中国大陸の政変は地球の寒冷化が作用したといわれる。
 ここでは大雑把に書くが、「寒冷化 → 食料不作 → 食料確保の騒乱」で、争い負けたグループが大陸から弾き出されたというわけだ。
 一方、列島でも縄文時代はその末期での寒冷化でそれまでの狩猟・採集の文化が成り立たなくなってきた(栽培その他も既に始めていたけれど)。つまり、渡来人が来る前に縄文文化は衰退の一途を辿っていたという側面もあったわけだ。
 それが日本における弥生時代の開始の頃から、つまり渡来人の到来の時期と相関して、列島の気候も寒冷化がやや弱まってきた。だからこそ、住める地、暮らせる地という噂も大陸に伝わったとも考えられる。大陸での政変を避けるためだけに列島に逃げてきたというわけではないようだ。
弥生時代前夜の社会状況 - るいネット」参照。

 日本に大陸渡来の集団が根付くと、今度はそうした集団が大陸から仲間を呼ぶ、あるいは噂を聞きつけて大陸から新たな勢力(政治集団)が進出を図ったりするわけである。
 彼らが齎すものは武器もあるが、農業の技術も伴う、ということは、政治思想・宗教・文化・風俗をも輸出(輸入)することになるわけだ。

 温暖で大らかな縄文的風土。二季の文化が四季の文化へ移行していく。『万葉集』が編まれる頃には四季が少なくとも奈良(大和)に定着した人々を中心に強く意識され表現されるようになっている。
 恐らくは四季が渡来人を中心に、やがて広範な人々の間で当然のように意識され表現されるに至るには長い歴史の積み重ねがあったものと思われる。二季で一年を捉える縄文人、あるいは縄文文化は北海道や沖縄、離島、僻地に追いやられていったのだろう。
 万葉の四季から、既にもう、日本は四季の国に生まれ変わったわけである。

 しかし、それにしても何故、四季なのだろうか。冬と夏の間に春あるいは秋を設けるにしても、今日、関東も梅雨入り宣言があったように、何処にも入れようのない時期があるではないか。梅雨は季節ではないのか。五季では拙いのか。それとも梅雨は春の終わりを告げる特別な時期なのか、あるいは夏の到来を予感させる、仲夏の時期、夏の始まりの時期なのか。
 あるいは温暖化の傾向が顕著になれば、遠い昔のように、あるいは沖縄などのように、それとも東南アジアのように雨季と乾季ではないにしても、そう、天声人語でも懸念されていたように、寒季と暖季の二季になっていくのか。

 いずれにしても、四季に分けるというのは、中国の思想が背景にあるのは間違いないのだろう。
 調べてみると、陰陽五行思想(おんみょうごぎょうしそう)に関係しているようだ。
五行思想(ごぎょうしそう)は、古代中国に端を発する自然哲学の思想で、万物は木・火・土・金・水の 5 種類の元素から成るという説」で、五行を示すと、以下のとおり:
 

 木(木行)
 木の花や葉が幹の上を覆っている立木が元となっていて、樹木の成長・発育する様子を表す。「春」の象徴。
 火(火行)
 光り煇く炎が元となっていて、火のような灼熱の性質を表す。「夏」の象徴。
 土(土行)
 植物の芽が地中から発芽する様子が元となっていて、万物を育成・保護する性質を表す。「季節の変わり目」の象徴。
 金(金行)
 土中に光り煇く鉱物・金属が元となっていて、金属のように冷徹・堅固・確実な性質を表す。収獲の季節「秋」の象徴。
 水(水行)
 泉から涌き出て流れる水が元となっていて、これを命の泉と考え、胎内と霊性を兼ね備える性質を表す。「冬」の象徴。

 一読して分かるように、「土(土行)」に相関する季節がない。「季節の変わり目」で体調を壊しやすい、だからこそ「土用」という考え方が生まれたわけだ。

 五行思想は、「春秋戦国時代の末頃に陰陽思想と一体で扱われるようになり、陰陽五行説」となったわけだが、その時期が春秋戦国時代の末頃というのは、寒冷化と四季のとの関係を思わせて示唆的な気がする。

 ところで、冒頭で示した文の中に、「四季とは一つのめがねのようなものだ。このめがねをかけると自然界が四季に区切られるのである」というくだりがある。人は歴史の中に生きている。文化の蓄積を土壌に生きている。しかも、その土壌は積み重ねられる一方なのだ。より厚い歴史、より細かな区別、より繊細な分類と意識。
 自覚は先鋭化の一途を辿るしかない。世界を見る目は、その眼鏡の度数は高まる。
 誰もが自分の目と感性で世界を見ている…ように思っていて、その実、数知れない先人の肩の上に乗っかって遠望するしかない。
 めがねをかけずに世界を見るのは、きっと不可能なのだろう。

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