加藤楸邨と隠岐と
「詩人の眼 大岡信コレクション展」では、個々の作家に深入りはしなかった。
せっかくなので、折々、このコレクション展で展示されていた作家たちのうちの誰彼に触れていきたい。
今日は、表題にあるように、加藤楸邨である。
なんといっても、このブログサイトは、「国見弥一の季語随筆読書創作日記」と銘打っていて、筆頭には季語随筆となっている。当初は、俳句に関係する記事を綴るつもりだったが、だんだん、欲が出たというか話題が広がって、今では「季語随筆読書創作愚痴日記」と相成っているのである。
一昨日も「三鷹市美術ギャラリー カレンダー」なる頁を参照したが、小生はどのような方々との交流があるのかは知らないで会場に行ったので、まさか俳人の加藤楸邨とも交流があり、同氏の作品とのコラボレーション作品が展示されているとは思わなかった(小生の想像力の貧困を物語っているに過ぎないけれど)。
加藤楸邨との交流を示す作品群の脇には大岡信氏によるコメントが寄せられている(文中の「花神社」とは出版社名):
前から、藤原俊成の和歌や加藤楸邨の句に付け句をしていたので、そのうち五編くらいを持って大田区の楸邨さんを訪ねました。花神社の大久保憲一君が連れて行ってくれました。楸邨さんは友人の安東次男の俳句の師匠でしたし、その句風からも、親しい気持ちを持っていました。楸邨さんは、すばらしい筆や硯をお持ちで、いつもそれを使わせてくれて、いくつか僕もいただきました。竹をささらにした筆などもあって、それを使って、宇佐美爽子さんの絵に僕が字を書くという試みをしたこともあります。
さて、どんな連句の試みが展示されていたのか、その全てを紹介はできない。以下、二つだけ。
前者(のんのんと)は、「三鷹市美術ギャラリー カレンダー」に画像が載っているので、雰囲気を感じてもらいたい。
のんのんと馬が魔羅振る霧の中 楸邨
差す手引く手も魔羅もまぼろし 信
牡蠣乃口も開かば月さし入らむ 楸邨
りんりんと鳴れ舌も潮も 信
「本との関係記 - 読んだり書いたり・・・」の中の、「加藤楸邨集」には、加藤楸邨の句が多数、紹介されている。
同サイトの「俳句本9冊」には、「わが戦後俳句史」(金子兜太 岩波新書 1985年)からとして、「戦後、加藤楸邨宅に出向き、草田男につくか楸邨につくかという時の兜太の言葉」だという「草田男さんの句は好きですが、師となれば先生です」が紹介されている。
同頁には、「加藤楸邨」(中嶋鬼谷 編・著 蝸牛俳句文庫 1999年)からとして、以下の句が紹介されている:
蝉時雨中に鳴きやむひとつかな
火の奥に牡丹崩るるさまを見つ
雪夜子は泣く父母よりはるかなものを呼び
糞塊のかぎろへり声うたとなり
のんのんと馬が魔羅振る霧の中
海底に何か目ざめて雪降り来
上掲の句のうち、「雪夜子は泣く父母よりはるかなものを呼び」については、加藤楸邨は、当初は「雪夜子は…」だったものを(句集「起伏」)を、後に、「霜夜子は泣く父母よりはるかなるものを呼び」と改めたという(「「からふね」第七十八回 一九九八年十二月二〇日(日) 筆記者・三島広志」より)。
「加藤楸邨(かとう しゅうそん)」でプロフィールを読むと、「東京に生まれ、父が国鉄勤務の為、小学校から中学にかけて、東京、東北、北陸の各地を転々とします」とあって、小生も父が生涯一国鉄職員だったこともあって、勝手に親近感を抱いてしまう。
ここには、「いわゆる人間探求派として中村草田男らと共に、人間の内面の表現追求を生涯つづけました」とある。「加藤楸邨集」などから、「蟇誰かものいへ声かぎり」「皎々たるこの夜の冬木誰か死ぬ」「焼夷弾爆ぜて枯木の形立つ」「爆痕に鳩があそべり冬日さす」「梅雨の月一骨片に負荷多し」「蟷螂の尋常に死ぬ枯野哉」などの句を詠むと、戦争体験が大きいのか、生と死に向き合う覚悟と気迫が感じられる。生きている人間は、常に生き残りなのだという自覚。
ネットで「加藤楸邨の俳句」は存分に見つけ出すことが出来る。存分に味わえるかは詠み手次第だが。
詠むと、小生のような鈍感なものにも、虚子系の句とは持ち味がまるで違うことが歴然。
「加藤楸邨 - Wikipedia」でもう少し、加藤楸邨の横顔を辿ってみる。
「東京市北千束(現・東京都大田区北千束)に生まれる」という。大田区北千束というと、二十年ほどの昔、知人が居住していた地ではないか。土地勘が僅かながらもある。
「戦地俳句を詠んだことで大本営への協力を疑われ批判された」というが、どんな句を詠んだのか。その句次第で批判が妥当かどうか決まるはずだ。戦地の画を描いても、リアルなものはリアルだろうし。
ネット検索をさらに続けていたら、興味深いサイトに遭遇した。
「歴史ー加藤楸邨(俳人)」(ホームページのURLが分からない!「隠岐海士町 歴史」かも)で、「楸邨が隠岐へ渡ったのは、昭和16年、36歳の時でした。当時は、太平洋戦争の始まる直前であり、俳人たちにも思想的な弾圧の手が伸びはじめた暗く重苦しい時代でした。俳句界から孤立し、孤独と混沌を抱えた楸邨の胸に、隠岐の荒々しい自然と、流された後鳥羽上皇の孤独が押し寄せ、一気に178句の連作が生まれたのです。隠岐は、俳人楸邨を語る上で欠かせない土地となりました。」とある。
他のサイトのプロフィールでは隠岐のことは全く触れられていない。
「埼玉の文学 ― 現代篇 ― 加藤楸邨」に飛んでみる。
ここにも、「戦争の足音が次第に高くなってきた頃の作」だという「鰯雲人に告ぐべきことならず」など、楸邨の句が幾つか載っているが、中でも、「隠岐やいま木の芽をかこむ怒濤かな」を引き合いに、「後鳥羽院をモチーフに詠んだ200句近い連作「隠岐紀行」の1句。この連作は楸邨の句の世界を画した」とあるのが興味深い。
ついでながら、「20年の空襲の実景を詠んだもの」だという、「火の奥に牡丹崩るるさまを見つ」は、断固、転記するしかない句だと感じた。
この頁は、加藤楸邨と埼玉との関わり、村上鬼城とのこと、水原秋櫻子とのこと、「楸邨と秋櫻子が幾度も並んで眺めたであろう古利根川」の画像が載っていたりして、加藤楸邨ファンならずとも覗いてみたくなる頁だろう。
それにしても、繰り返しの転記になるが、「楸邨が隠岐へ渡ったのは、昭和16年、36歳の時でした。当時は、太平洋戦争の始まる直前であり、俳人たちにも思想的な弾圧の手が伸びはじめた暗く重苦しい時代でした。俳句界から孤立し、孤独と混沌を抱えた楸邨の胸に、隠岐の荒々しい自然と、流された後鳥羽上皇の孤独が押し寄せ、一気に178句の連作が生まれたのです」というのは、冬の寒風の吹き荒ぶような実に凄まじいものを感じざるを得ない。
(楸邨と隠岐に関しては、関連の記事として「浮遊的物語世界的日記下北沢X物語(489)~加藤楸邨句集「雪後の天」~」がネットでは見つかった。)
火の奥に牡丹崩るるさまを見つ 楸邨
余燼をも手に盛る母もいる 弥一
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