わが名はヴィドック…液状化する社会
ジェイムズ・モートン著の『わが名はヴィドック』(栗山 節子訳、東洋書林)を読了。借り出した直後に若干、言及しているが、ここで簡単な感想と余談を。
まずは、扱われているフランソワ・ヴィドックについて説明すべきだろう。
といっても、ネットの世界ではひたすら便利なサイトでの情報源「フランソワ・ヴィドック - Wikipedia」で大凡のことは尽きている。
「脱獄と逮捕を繰り返し多数の重罪犯人と知り合い、暗黒社会の裏表の情報・犯罪の手口を詳細に知り、脱獄と変装のプロとなる。出獄するとパリ警察の手先として、徒刑場で得た情報を売る密偵となる」が眼目だろうか。
あるいは、「密告とスパイを常套手段とし、犯罪とすれすれの摘発方法を用いて成功したが、一方入手した犯罪者と犯罪手口を分類して膨大なカードを作り、各地の警察に配備するという科学的捜査方法を確立した。後に捜査局を辞して、世界最初の私立探偵事務所を開設したが、その利用者は3000人と記録されている」というのも、時代が違うと言えばそれまでだが、いかにも警察(機構)の草創期ならではの逸話なのだろう。
「著書に『ヴィドック回想録 Mémoires de Vidocq』(1827年)があ」るとか。
小生は未読だが、「脱獄王、密偵、私立探偵の元祖。ジャン・ヴァルジャンのモデルとも言われる男の描く、欲と狡智が渦巻くフランス大革命下の庶民・風俗・犯罪を記録した、まさに悪の百科全書。初の完訳!」となると、フランスでは知らぬものはいないという英雄(?)である以上、一読はしておいてもいいだろう。
とにかく、フランソワ・ヴィドック (Eugène François Vidocq)の生涯が「1775年7月23日」から「 1857年5月11日」だという点に留意しておいていいのではとも思う。
フランス革命(1789年~1799年)の時代に青春を生き(15歳のころ、ギロチン刑を目撃)、ナポレオンの時代を生き抜き、「ウィーン会議でフランス外相タレーラン・ペリゴールの主張した正統主義を基に、フランス革命以前の状態を復活させ、大国の勢力均衡を図った」という「国際的反動体制」である「ウィーン体制 - Wikipedia」のほぼ末期までを激しく浮き沈みを繰り返しつつも、したたかに第一線(つまりそれぞれの権力に取り入って…利用され利用し取り入り弱みを握られ…)で活躍(?)し抜いたのだ。
小生は勝手なイメージ(先入観)の中で、フランス革命は市民革命であって、日本の明治維新の上層部だけ(一般庶民の与り知らぬところで)の権力移譲とは全く違う代物だと思い込んでいた。
たしかに、市民革命の側面があるのだろうが、フランスにあっても(あるいは当時の日本以上に)底辺を生きる民衆は、日々を生き延びるのがやっとだったのだ。女性には安心も安寧もなく、男の為すがままという悲惨な状況は革命前だろうが後だろうが一向に変わらなかった。女性は酒場で家庭で路上で男性の勝手放題の仕儀に遭っていたのだ(当時のフランスの世相風俗も本書の性格上だろうが、結構詳しく、興味深い。実際、ミシェル・フーコー)著の『監獄の誕生』(田村 俶訳、新潮社)でも、ヴィドックのことが引き合いに出されているし、本書でも参照されている:下記注をどうぞ)。
映画通なら、数年前に封切られたSF映画(?)の『ヴィドック』を観た人も多いのでは。
主役であるヴィドックを演じたジェラール・ドパルデューもさることながら、監督の名前がピトフというのは、ヴィドックと音韻的に遠からざるものを感じるのは、小生だけか(だけですね)。
「フランソワ・ヴィドック - Wikipedia」の末尾に、「その数奇な半生と異常な犯罪記録が、探偵小説を創始したエドガー・アラン・ポー、エミール・ガボリオやコナン・ドイルに与えた影響は大きい」とある。
この点については、「東京創元社|ヴィドックの跡をたどる読書の旅」が詳しい。
冒頭に、「2002年の正月映画第2弾として予定されているピトフ監督「ヴィドック」は、フランスでは清水の次郎長や鼠小僧のように有名な怪人物を主人公に据えた話題のミステリ映画です」とあるのは読み飛ばしやすいところだが、この点は案外と重要なのかもしれない。現在もその謎めいたヒーロー像は姿を変えつつしぶとく生き残っているようだし。
また、「(前略)というまさに小説を地でいくような一生を送った伝説的な人物です。こういうことが可能だったのも、この時代、まだ警察組織が確立していなかったこともありますが、ヴィドックその人のキャラクターに拠るところも大だったと思います」とある。
実際、ヴィドックは女性に持てたようで、いつも誰かしら女性が窮地を救ってくれている(女性を助けた場合もある)。また、少なくとも若い頃は体型が華奢だったようで、女装が(も)得意だったようだ。最後まで女性と思われて、尼さんと同衾するに至ったこともある。とにかく変装の名人でもあったし、探偵の以前に追跡の名人でもあった。
が、何より、実際に何度も捕まったり、捕まりそうになったが、その場を糊塗する話術が巧みであり、機知に富んでおり、あるいは人を警戒させない演技力(人柄?)もあったようで、しかも、務所にあっても、脱走がまた得意というから、胆力にも余人の及ばざるものがあるとなると、どうしようもないわけである。
本書『わが名はヴィドック』の末尾辺りにも詳しく書いてあるが、敢えて転記はしないが、「これだけの人物だっただけに、様々な小説のモデルとして持て囃されました」以下の記述は、探偵小説のみならず文学好きな人も興味津々なのではないか。
念のため、「東京創元社|ヴィドックの跡をたどる読書の旅」で挙げられている小説や作家名に本書から追加しておく。
「ヴィクトル・ユゴーの『レ・ミゼラブル』の主人公ジャン・バルジャン」のモデルとなったとあるが、本書によると、「雄々しい囚人ジャン・ヴァルジャンと強敵ジャヴェール警部両者のもとになっている」とか。
数年前に『レ・ミゼラブル』を全巻、読み通したが、改めて読み直したくなってしまう。
あるいはヴィクトル・ユゴーの『ノートル=ダム・ド・パリ』については、本書によると、少なくともヴィドックは(ヴィクトルじゃなく!)、共著者とされるべきであると信じていたという。
バルザックとヴィドックは、本書によると、「ふたりで猟師と猟犬を演じながら」四つん這いになり、裸のロールを追い回して楽しんだらしい(とか。ロール、というのは、ある人物の奥方である)。
バルザックの『ゴリオ爺さん』については、興味深い(ヴィドックからバルザックへの)影響がある。ヴィドックは、「断頭台への途中で唾を吐く男は見たことがなかった」ことを教えたのだろう。
逮捕された犯罪者は、喉がカラカラになり、再び唾液が出るようになるまで、一週間から四週間かかった」とヴィドックはバルザックに語っているとか。
そうした現実に基づいた観察があるからこそ、以下の『ゴリオ爺さん』の描写がリアリティを持つ:
……ときどき、ペッと唾を飛ばしたが、その唾の吐き方ひとつをとっても、彼がことに及んで動じぬ沈着冷静な性格の持ち主であり、苦境から脱するためとあらば、あえて犯罪さえも辞さない男であることを示していた。
ヴィドックは、バルザックの「『姉妹ベット』ではサンテステーヴ夫人として現れる」とか。
驚いたのは、「メルヴィルの『白鯨』にもヴィドックが取り入れられた」というのだが、一体、どの辺り(どの人物・場面)なのか、分からないのが残念。それだったら、そのつもりで注意して読んでいたのに、悔しい!
本書にはユゴーとヴィドックが知り合った経緯(経緯)なども書いてあって面白かったが、疲れたので書くのは略す。とにかく、ヴィドックに影響され、あるいは題材にした小説・ドラマはフランスでは数多いのだ。
実は、ヴィドックのことから、話を密偵の話に持っていくつもりだったが、すでに長くなりすぎたので稿を改めることにする。
まあ、密偵というと、テレビの見すぎかもしれないが、「鬼平犯科帳 - Wikipedia」の「愛すべき密偵たち」を連想してしまう。毒をもって毒を制する世界。実際にあることは決して表には出ないのだろう。
恐らくは現代にあっても、スパイの類いは多く暗躍している。露見したスパイだけが騒がれるか、静かに消えていく。
この辺りのことは、誰しも知りたいことなのではないだろうか。
(注):
……ヴィドックは、他の違法行為と分離された非行性が権力によって攻囲され、裏返しにされる、そうした契機を明示している。こうして警察と非行性との直接的で制度的な結合がおこなわれる。犯罪行為が権力機構の歯車のひとつに化す。憂慮すべき契機である。
ああ、思えば、このフーコーの底意地の悪いような辛らつな観察と分析も、今となっては牧歌的に思えてしまう。それほどに現代は荒んでしまっている。「警察と非行性との直接的で制度的な結合」どころか溶け合ってしまって、分離できなくなっているのではなかろうか。
社会も制度も、土台から液状化しているように思えてならない。
合掌!
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