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2006/05/10

「逆癒しの口紅」をへそ曲がり解釈する

 志治美世子氏著の『逆癒しの口紅(ルージュ)』(社会評論社)を車中で読んだ。連休前に(列車中ではなく)車中で読むために図書館から借り出していたが、ようやく連休明けの仕事と相成ったので、梅雨の走りを思わせる小ぬか雨の降る中、待機中の折などに読ませてもらった。
 内容については目次も含め、「社会評論社 逆癒しの口紅 志治美世子」が詳しい。
 出版社サイド(?)のレビューによると、「「セカチュー」「冬ソナ」でメソメソするな! オンナは鏡の中の自分に口紅を引くことで真に孤独から身を守る。自分の足でしっかりふんばって、自分の悲しみや傷の正体を見極める、たった一つの「逆癒しの口紅」のすすめ。 」とある。
 本書では、参考文献として片山恭一氏著の『世界の中心で愛を叫ぶ』(小学館)、酒井順子氏著の『負け犬の遠吠え』(講談社)、キム・ウニ/ユン・ウンギョン著の『冬のソナタ』(NHK出版)が上がっているが、参考文献というより各著(あるいはドラマ化されたものならそのドラマ)が俎板(まないた)の金魚状態になっているというべきかもしれない。
 批判の舌鋒鋭く、できれば各著者の反論があったら、面白いのにと思うが、残念ながらそういう事態には至っていないようだ。

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→ 9日の営業を負え、10日の朝、帰宅の途次、見つけたツツジ。小雨に濡れると一層、慕わしくなる…。

 最初に俎上に上っている片山恭一氏著の『世界の中心で愛を叫ぶ』については、志治氏の舌鋒をもっとちゃんとした作品に向けてほしいと、ちょっと惜しく思った。

『冬のソナタ』にしても、小生自身、評判のドラマだからと、好奇心で覗いてみたが、一分も見ていられなかった。中身が悲劇的で辛いから、ではなく、物語の悪い意味での虚構性、というか、要するに作り物めいた感じがあまりに濃すぎるのだ。
 二十年前の日本の青春ドラマよりパターン通りだし、画面を綺麗にすることで内容の貧しさと拙さを覆い隠している。

 紗や薄幕で、そして懸命な化粧と強烈なライトで、技術の粋を凝らして、雪を降らせ、そぼ降る雨に濡らし、都会のイルミネーションを明滅させ、素敵なファッションに身を包み、スタイルを絞り上げた肉体だけが唯一充実した<実体>として想像しうるのみの書割ドラマそのものという雰囲気が濃厚。

 これは小生の憶測であり邪推であり妄想に過ぎないのだが、つまり根拠はまるでないのだが、こうしたドラマが国営放送で放映されるのも、日本と韓国双方の国で進む文化の開放政策の一環なのだろう。
 何が何でもイメージアップにつながる綺麗で悲劇的なドラマである必要があったわけで、『冬ソナ』は、そうした(これは日本側の)思惑に沿ったものであり、意図はドツボに嵌ったというべきだと小生は勝手に思っているのである。
 小生などへそ曲がりなので、韓流の「純愛」シンドロームの背景には時に政治的な(プロパガンダとまでは言わないが)匂いを感じ取ってしまうのである。
 まあ、そうしたことで両国の長い齟齬や違和感、反目が多少なりとも和らぐなら、それはそれで良しということで、そうしたドラマに打ち興じる方々のことは、にこやかに放っておけばいいだけの話なのである。
 その傍観者性がが小生の愛情の薄さでもある。
 志治氏は小生とは違って愛情の念が深いから、どうぞ好きにやっていれば、と放置プレイはできないのだろう。
 やはり、お茶の間の話題を独占し、多くの女性(多くは熟年?)の人気を浚ったには、必ず訳がある。ドラマより夢中にさせたそのメカニズムの解明こそが大事なのかもしれない(とはいいながら、小生にはできない)。

 上でちゃんとした云々と書いている。
 ちゃんとした、とは、自分自身から見て力も能も上と感じる作家、評論家(の作品)という意味合いである。
 ある意味、『セカチュウ』は小説をあまり読んだことのない、あるいは本作品で初めて<本格的>な小説を読むような読者層に向けて書かれている本なのだから、力量のある人は、むしろ素通りしたほうがいいような気がする。
 小生などは、「自分の足でしっかりふんばって、自分の悲しみや傷の正体を見極める、たった一つの「逆癒しの口紅」のすすめ」という、その現実をリアルに見つめた上での、上滑りにならない、同氏らしい前向きな部分をこそ前面に出して論じて欲しかった、そういったメッセージをもっと読みたかったのだ。
 それだけの力量も経験も兼ね備えている方だと思うから。

 さて、韓流の「純愛」シンドロームの背景には政治的なニュアンスを感じると書いてしまったが、決してそれだけに留まるものではない。
 本書に、「そうなのだ。オンナたちはいつだってオトコに、「キミがいてくれて、嬉しい」と言ってほしいのである」という主張がある。
 が、日本のオトコは恋愛について(それとも人間として)未熟すぎて、オンナの切ない望みに気づかない。逆にオンナがオトコの気持ちを察し、弱気オンナ、オトコに頼るオンナを演じないと勝ち組のオンナにはなれない。「社会において対等なオンナを愛することに馴れていないオトコは、自分より弱い存在ではないオンナを、いつの間にか「オンナ」として認識しなくなっていることにも気がつかない」…。
 そうして「オトコより弱くて無力な自分でさえいれば、「愛されるオンナ」でいられると信じていた愚かさに気が付いたオンナたちは、暗に陰に猛然と声をあげ始める」…。「不倫、合コン、出会い系サイト……」。
「そしてときには定年離婚という最後通牒を突きつけるオンナたちの反乱の中で、離婚もできず、実際の浮気などしようもない「善良で気弱なオンナ」たちが、「冬ソナ」の「純愛」にはまったのである」…。
 
 心ある(?)男性なら耳が痛いところだろう。
「オトコどもよ。オンナを愛そう」!!
「現実に生ゴミを捨てながら、パンツを洗いながら、ときにはおたがいの背中を流しあい、アカを落とそう。相手のイビキに閉口しながらも、よしんば勃起しなくたって、オンナを愛することは十分にできる。だから現実の生活をいとおしみあおう」!!
 ひゃー、すみませんと、思わず土下座して謝りたくなっちゃう。
 
 それにしても、何故、日本の大方のオトコはオンナを、あるいは奥さんを気軽に日常的に愛するとは言えないのだろうか。恋愛の間は多少は言えても、一旦、結婚すると、手の平を返したように(釣った魚に餌はやらないとばかりに)愛情表現をしなくなるのだろうか。
 それとも、テレビや映画などで演出された純愛シンドロームは、恋愛の渦中だけじゃないく、結婚してからも愛情表現が豊かな、そんな新しい(若者)世代を生み出すのだろうか。
 純愛シンドロームやブームは若者世代ではなく、やはりオトコには日常的に愛情表現どころか、ありがとう、助かったよ、今日は素敵だねといった、感謝などちょっとした褒める営為さえもできない熟年以上の世代が中心の現実とは懸け離れた夢の中のお話に留まるのだろうか。


 以下、恋愛に(も)弱い小生らしく、男女の機微にわたる問題は、志治美世子氏に任せ、若干、政治的な方向、社会性を帯びた視点へ話を変える。これ以上、男女の問題を論じると、小生の人間の、オトコとしての未熟さ甘さが露呈するばかりだし。

 そもそも、日本の男性が女性に愛情表現をあまりしないというのは、一体、いつ頃からのことだろうか。太古の昔から? 戦国時代から? 江戸時代から? 明治以降? 戦争中から? 戦後から?
 封建制とも結びついている男尊女卑の傾向は少なくとも江戸時代からなのだろうか。
 そもそもホントなの?

 それとも、中央集権国家へ一気に舵を切った明治維新以降であって、案外と新しい価値観なのではなかろうか。江戸時代は、少なくとも江戸の町に関しては、案外と女性の発言権が強かったと、最近の研究では言われているようだ。まあ、女性の数が江戸では男性より圧倒的に少なかった面があるようだが。
 男性が女性と同等ではなく、男尊女卑が当然とされるようになったのは、軍国主義の台頭と平行している現象なのではなかろうか(今、ちゃんとした研究データが見つからない)。
 今、年金制度の崩壊や危機が喧伝されているが、年金制度というのは、決して国民のために創出された制度ではなく、軍事予算を捻出するため、将来、年金がもらえますよという甘言のもとに国民から血税を絞り、戦費に振り向けたのだった。
 戦争前や中は、オトコは仕事(戦争)何より本文であり第一の関心事だった。オンナのことは(表向き)度外視しなければならなかった。戦地へいつでも出陣する覚悟が必要だった。女性が財布の紐を握るようになったのも、女性を家庭内に閉じ込めるための餌だったとはよく言われることである。 
 オトコは外(戦地)、オンナは内(家庭と子育て、一切の雑事、近所づきあい…)という明確な役割分担が戦争が国家の一番の大事となる過程で厳然と作り上げられた。
 ところで、大事というか、悲劇は、そうした体制が日本では戦後も続いてしまったことである。
 戦後、ドイツなどは深刻な戦争の反省を行った。ナチズムへの批判は勿論だが、ナチズムを生み出した土壌への批判も深甚なるものがあった。
 が、日本は、戦争への批判はいかにも日本らしく中途半端なものに終わった。戦争や軍国主義への批判は、自分たちの手では行えなくて、東京裁判で欧米各国(戦勝国)側の手によって為された。 
 だから、未だにあれは戦勝国が勝手にやったもので不当なものだという批判がやまない。

 なんだか、もっともらしい。けれど、裁判の結果を受けいれ、サンフランシスコ講和(平和)条約に署名したのは日本の独自の意思によってではなかったのか。
 ここから日本は独立を果たし、戦後の復興へ向けてスタートしたのではなかったのか。
 東京裁判が不当だというのなら、サンフランシスコ条約を破棄するというのか。だったら、もう一度、自分たちの手で戦争犯罪や過去の反省を徹底して行おうというのか。しない!
 単に嫌なものは受け入れたくないというわがままな主張に留まっているのみである。

 この点の議論はともかく、悲劇が続いているというのは、戦後、戦争や戦争体制への反省や批判を自らの手で行うことを回避した日本は、戦争の反省というと、国力の貧しさにあったとばかりに、アメリカの庇護の下(アメリカによる戦犯の免責や不問のもと)、高度経済成長に走った。
 貧しさからの脱却というと聞こえがいいが、要は、一番苦しい倫理や道徳や政治体制やマスコミや戦争を賛美し称揚した自分たちの責任には目を瞑ってしまって、とにかく経済の復興、つまり喰うものとカネに突っ走ったのである。
 その結果、平和を享受したのはいいが、戦時体制は戦前からも戦中からも継続してしまったのである。経済成長という、安逸なる絹の衣を被った、実質的には鎧(よろい)作りに猛進したのである。
 汗水垂らして働いた…。美しいし、先輩たちの努力を多としなければならないが、ただ一つ、代償も払う必要があった。
 それは、繰り返しになるが戦時体制の完璧な継続である。男尊女卑。オトコは外、オンナは内、という体制である。オトコは戦争(仕事)が第一なのだから、オンナ相手に恋愛ゲームに(決してゲームなんかじゃないのに)興じるなんて論外、オンナに、まして女房に愛情ある言葉をかけるなんて、そんな甘っちょろいことは戦時下にあっては決してゆるされない。
 性的なものは、戦争中なら従軍慰安婦などのいる施設で、戦後なら歓楽街で処理すればいい。家庭にセックスは持ち込むな。何故なら、今は(21世紀であろうと)戦争中なのだから。

 誰が大人の恋愛、夫婦の慈しみを許さないかというと、戦時下という風潮であり、同僚(戦友)の目であり、戦争遂行中という体制が齎し、あるいは体制を醸成する倫理と道徳なのである。
 何処かの首相が「改革なくして成長なし」というスローガンのもとに高支持率を維持してきた。耳に聞こえのいいスローガンである。
 が、ここには重大な疑義があってしかるべきはずである。
 何ゆえに成長なのか、という深甚な問いが、少なくとも激烈な論議があってしかるべきはずだったのである。
 が、「成長」は絶対的な是なのである。
 日本は今も、経済至上主義という戦争の遂行中なのだ。
 
 日本のオトコがオンナを人間としてオンナとして愛することは、戦時下経済体制が継続中である以上、プレイボーイとして(他人に、同僚に侮蔑され)社会の規範から食み出す覚悟がないと、不可能なのではなかろうか。
 が、言うは易く行うは難し、である。自分の営為に根底から疑いを持って生きるのは辛い。成長が、経済的成功が本当に素晴らしいことなのか、などと問い始めたら、生きること自体が困難になる。下手すると生命力そのモノが枯渇することだってありえる。
 日本の仕事に邁進するオトコに、オンナに目を向けてよ、奥さんに癒しの言葉をかけてよということは、明治以降の倫理観や価値観そのものに疑義を呈するほどの問題なのかもしれない。
(教育基本法に愛国心の文言や理念を入れるとは、戦前の軍国主義への回帰の試みだと小生は理解している。戦争の時、多くの男性は確固たる目標や倫理の梃子を得るので、元気になれるし、若者に渇を入れられるわけだね。女性は籠の中の鳥に戻せるし。)

 …っていうふうにすぐにむきになり(「むき」って、「向き」なのか、「剥き」なのか、「ムキ」がいいのか、表記が分からない)理屈っぽくなる(一般論に逃げ込む)のは、小生のオトコとしての性(さが)なのか、それとも、小生自身も戦後の戦時政治経済体制下で育った、その有り触れた典型の一人だからなのか。

 以下、関連する記事を:
早生まれの意味、生きることのなつかしさ
できちゃった婚増加だって
愛国心だってさ
『知られざる日本 山村の語る歴史世界』感想
「原子力文化」2002年10月号巻頭インタビュー 大林 宣彦

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