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2006/05/06

芝浦のこと、「城の崎にて」のこと

 小生は78年の春に陸奥(みちのく)の杜の都・仙台から上京してきた。三年ほど落合近辺でアパート暮らしをしたあと81年の三月末から高輪へ引っ越した。
 早々に哲学や文学への自分の能力に見切りを付け、港区は海岸にある会社に勤め始めたのである。それは当時としてはその辺りでは目立つ大きな倉庫の一角にあった。倉庫の屋上にはへリポートがあるから、尚のこと、目立ったものである。
 思えば、天気のいい日など、屋上で運河を眺めたりして日向ぼっこなどしたものだった。へリポートは屋上の更に上にあって立ち入ることはできなかったが。
 会社が港区海岸にあるから、住む場所も歩くかバスで通える範囲ということで物色しようと思ったら、ひょんなことから高輪のマンションの一室が紹介されたのである。狭い部屋だったが八階建ての八階にあったので、当時だと、それなりに高い建物で、眺めも良かった、と書きたいところだが、目の前に都営の巨大な団地が何個も並んでいるし、しかも、それらはやや高台になった地の上に建っているから、眺望を阻まれるような圧迫感があった。
 すぐに馴れたけれど。
 
 さて、地図を見ればすぐに分かるが、会社のある海岸に向かうには芝浦という地を経由する。会社の最寄り駅というと、山手線の田町駅か品川駅なのだが、小生の住む一角からはバスの運行ルートからしても田町駅が一番利便性があるということになる。
 入社した当初はバイクもなく、バスを利用しての通勤となった。
 バスは自宅からは田町駅まで行く。そこで高架ともなっている駅の改札口脇を渡り抜け、駅の裏に出る。そこが芝浦である。
 駅の裏。当時は、まさに駅の裏だった。うら寂れたような、場末の感が濃厚だった。屋形船の店があったり、ポツポツと建物があるのだが、目立つのは倉庫だった。田町駅から海岸にある倉庫へ歩いていくと、途中、運河の支流に渡された橋を幾つか越えることになる。
 溝(どぶ)臭くて、水は濁っているし、橋も古臭く、場末の雰囲気が濃厚だから、映画やドラマの撮影によく使われた。撮影の場に遭遇することもしばしばだった。主に刑事モノ、犯罪モノドラマで、人影の疎らな寂れたような、何処か荒んだかのような、この町に紛れ込んだなら、たまに見かける人はみんな訳ありなような、そんな雰囲気は、横浜の埠頭とか、芝浦や海岸の埠頭と並んで人気の撮影スポットだったのである。
 そんな芝浦を抜けて更に駅からは遠い、海辺(正確には運河縁)に近い海岸へ歩いていく。あるいは相乗りする乗客も疎らなバスに揺られていく。
 なんだか、ものを書くことを諦めた人間の遺棄場所のようでもあった。自分でそのように落ち込んでいた。

 なれど、人間は馴れる動物である。会社員としての生活は、会社の仲間に恵まれたこともあって、結構、楽しかった。日曜出勤も多く、しばしば残業だったりするが、肉体労働は精神的に落ち込んでいた自分にはリハビリになったような気がする。
 日曜が休みの時は、テニスに誘われることもあったし、やがてゴルフを覚えたりもした。スキーにも何度か。

 さて、芝浦の話題を持ち出したのは、思い出話をするためではない。
 ひょんなことから、ある小説家がさる名作を書く動機、あるいは契機となる事件が起きた場所が芝浦だったと知ったから(再認識させられたから)である。
 その小説家とは志賀直哉であり、その名作とは、「城の崎にて」である。
 別にこの小説の中に芝浦が登場するわけではない。上記したように、切っ掛けとなる衝撃的な事件というか事故の現場が芝浦であったのだ(正確には下記するが、芝浦から新橋の間の省線上)。

「城の崎にて」という小説は有名だし、しかも数分で読めそうな、随筆風な小説なので、読まれた方も多いだろう。
城崎にて 志賀直哉」という頁を覗くと、小説の雰囲気を髣髴とさせてくれる紹介が載っている:
「ある朝のこと、一疋の蜂が旅館玄関の屋根で死んでいるのを見つけた。他の蜂が巣にはいった日暮、冷たい瓦に一つ残った死骸に、淋しさと静けさを感じる。散歩のおり、川でみた大鼠は、首に魚串を刺され川岸の人たちの石に追われて逃げ惑っていた。死ぬに極まった運命を担いながら、全力を尽くして逃げ回る様子が妙に頭についた。
 そんなある日、驚かそうと投げた石が小川のイモリに当って死んだ。可愛そうと思うと同時に生き物の淋しさを一緒に感じている「自分」だった。」

 この記述の下に、注目すべき一文がある:
「大正二年、志賀は初めて城崎を訪れた。山手線の電車にはねられて重傷を負いその後養生のために三週間滞在した。温泉につかり、ぶらりと町を歩く。玉突き屋に寄り、義大夫も聴く。父との不仲が続き、生後間もない長女を亡くしたばかりの落ち込んだ心境、小さな生き物に自分を重ね合わせ、生と死を考える。」

 ここには「山手線の電車にはねられて重傷を負い」としか書かれていない。

城の崎にて」という頁を覗くと(ちなみに次の頁には、「理想の良識の文章  吉田精一」という一文が載っていて、この小説の理解に資するかもしれない)、志賀直哉自身の文章を読ませてくれる(『改造』中の「創作余談」からの抜粋)。
 その中から一部だけ抜粋すると:
「此小説を書き上げ、其晩里見弴と芝浦へ涼みに行き、素人相撲を見て帰途、鉄道線路の側を歩いてゐて、どうした事か私は省線電車に後からはね飛ばされ、甚い怪我をした。東京病院に暫く入院し、危い所を助かつた。電車で助かる事を書き上げた日に自分も電車で怪我をし、しかも幸に一生を得た。此偶然を面白く感じた。此怪我の後の気持を書いたのが、『城の崎にて』である。」

電車で助かる事を書き上げた日に自分も電車で怪我をし、しかも幸に一生を得た」というのが面白い。
 その上で、「此偶然を面白く感じた。此怪我の後の気持を書いたのが、『城の崎にて』」だというだ。
 志賀直哉自身、「事実ありのままの小説」であり、「所謂心境小説といふものでも余裕からうまれた心境ではなかった」という。
 この「ありのまま」がミソである。
 多くの評者もこのありのままを俎上に乗せてあれこれ忖度している。
 上掲の「理想の良識の文章  吉田精一」のほか、「日本ペンクラブ:電子文藝館 「城の崎にて」試論   ―〈事実〉と〈表現〉の果てに―  三谷 憲正」といった細密な分析の施された文章もネットで読める。
 本多秋五氏曰く、「一五日に大阪についてから三日間の不眠不休の遊びぶりを見ると、これが大怪我をして後養生のために温泉へ行く人とは思えない。」など、事実と小説との齟齬が縷々語られていて、興味深い。

 ここで小生が改めて小説の中の記述と実際の出来事との事実関係の異同を忖度する必要もあるまい。多くの評者らにより分析されていることだし、そんなことより、「文庫本にして八頁たらずの小編だが、芥川龍之介をうならせ、谷崎潤一郎は「文章読本」に「華を去り実に就く」名文として取り上げている」、そんな小説の持ち味を堪能すればいい。

 ただ、敢えて小生が一言するなら、「ありのまま」という時の話の焦点は、事実関係と小説との事実の異同の事柄なのではなく、むしろ、その以前にあるのではないかということだ。
 つまり、実は志賀直哉自身が「ありのまま」について明確に言明しているのではないか、と考えられるのだ。
 もう一度、上掲の『改造』中の「創作余談」からの抜粋文が載っている「城の崎にて」を覗いてみる。
 すると、「「『出来事』これは自身で目撃した事実を殆どそのまま書いた。『正義派』は正義の支持者といふ誇りを自ら段々誇張さして行つて、しかもそれが報いられない所から来る淋しさを主題としたが、『出来事』の方はもつと直接な感情-子供が電車に轢かれかけて助かつたといふ喜び-或時は一時の驚きと、興奮から喧嘩もするが、結局、皆子供が死を免れた事を喜んでゐる、その善良さに好意を感じ、此小説を書く気になつた」のだが、「余談になるが、此小説を書き上げ、其晩里見弴と芝浦へ涼みに行き、素人相撲を見て帰途、鉄道線路の側を歩いてゐて、どうした事か私は省線電車に後からはね飛ばされ、甚い怪我をした」のであり、その後、いろいろあって養生のため城崎へ向かい、数年後に「城の崎にて」を書く事になる。
 
 要するに、志賀直哉の言う「ありのまま」とは、「ある朝のこと、一疋の蜂が旅館玄関の屋根で死んでいるのを見つけた。他の蜂が巣にはいった日暮、冷たい瓦に一つ残った死骸に、淋しさと静けさを感じる。散歩のおり、川でみた大鼠は、首に魚串を刺され川岸の人たちの石に追われて逃げ惑っていた。死ぬに極まった運命を担いながら、全力を尽くして逃げ回る様子が妙に頭についた。 そんなある日、驚かそうと投げた石が小川のイモリに当って死んだ」といった逐一の事実を「ありのまま」に書いたという点に眼目があるわけではなく、『正義派』や、特に『出来事』において「はもつと直接な感情-子供が電車に轢かれかけて助かつたといふ喜び-或時は一時の驚きと、興奮から喧嘩もするが、結局、皆子供が死を免れた事を喜んでゐる、その善良さに好意を感じ、此小説を書く気になつた」のだが、その後、自分が実際に「省線電車に後からはね飛ばされ、甚い怪我をした」そんな事故を自ら経験して、その衝撃や、にもかかわらず自分がたまたま生き延びていることの運命の不可思議を覚え、「ありのまま」と言い条、自分(志賀)が実際にはありのままを何処まで痛切に実感していたか、我ながら反省を迫られるところがあったのではなかろうか。
 つまり、事故は天の痛棒だったと志賀自身感じたのではないか。
 自ら死に瀕し、且つ何故かたまたま生き延びたものの目で城崎の風物…自然や動植物の、普段なら見過ごす何気ない出来事…を観て、ああ、これがありのままなのかという清新な、というより、死線上を彷徨った者のみの持つ生と死の不可思議感こそがありのままだと感じたそのことが志賀にとっては肝要なのではなかったのか、そんな気がするのである。

「小僧の神様・城の崎にて」  志賀直哉 新潮文庫」なる頁を覗くと、『改造』中の「創作余談」からの抜粋文をもっと多く読むことが出来る。
 さらに、「大正2年5月に尾道から帰京した直哉が、山手線の電車事故に遭ったのは8月15日の夜のことである。東京・芝浦海岸での納涼祭の帰り、里見?ク(さとみ・とん)と連れ立って線路沿いを新橋駅に向っていた時に、山手線に跳ね飛ばされた。新橋駅近くの慈恵医大病院に入院し、同月27日には退院している。翌月には『范の犯罪』を書き上げるという驚異的な回復を見せ、10月に城崎温泉に怪我の養生に出向く。」といった事実関係が分かる。
 そう、城崎温泉に養生に向かう前、既に『范の犯罪』を書き上げているのだ。
 以下の志賀直哉自身の一文がしみじみと味わい深い:
 

 冷え冷えとした夕方、寂しい秋の山峡を小さい流れについていくとき考えることはやはり沈んだことが多かった。寂しい考えだった。しかしそれには静かないい気持ちがある。自分はよく怪我のことを考えた。一つ間違えば、今ごろは青山の土の下にあお向けになって寝ているところだったなど思う。青い冷たい堅い顔をして、顔の傷も背中の傷もそのままで。祖父や母の死骸がわきにある。それももうお互いに何の干渉もなく、-こんなことが思い浮かぶ。それは寂しいが、それほど自分を恐怖させない考えだった。

 ここまであれこれ忖度してみると、もしかして『出来事』や『正義派』を書いていた頃の志賀は創作に悩んでいたのではなかったか、書き上げてみたものの、自分で「ありのまま」っぽくはとても感じられないと自分で自覚していたのではないか。
 きっと里見との散歩で酒もしたたかに飲んだのだろうが、あるいは事故とは言いながら、その実、自殺に限り無く近い事故だったのではないか、そんな憶測の念さえ湧いてくる。

元々作家となること反対していた父との対立が、結婚問題などによりさらに深まったため家を出る。1917年には和解した」というが、事故の頃は、そうした確執の真っ最中でもあったようだ。
 いずれにしても、この点は、もう少し、志賀直哉の事故当時の文学的状況を洗いなおさないと、憶測の域から抜け出ることは出来ない。

 さて、芝浦から省線伝いに新橋へ向かう途上の志賀の事故。芝浦なのか、海岸なのか、浜松町なのか、それとも新橋に近かったのか、事故の正確な場所も調べ切れていない。
 でも、まあ、芝浦へ納涼というか素人相撲見物に来ての帰りなのは間違いないようだ。
 ということで、もう少し、芝浦を紹介する。
 といっても、田町駅から言うと、芝浦の先の海岸にあった会社とも94年の春に縁が切れている。
 それに、この十年前後で芝浦も海岸も品川も大変貌を遂げたし、さらに遂げつつある。小生がうろついていた頃の面影など、急激に失われつつある。
 だからもう、ここでは、「芝浦 - Wikipedia」や「芝浦 あなたの街、わたしの街 ホームガイド YOMIURI ONLINE(読売新聞)」、「芝浦の歴史」といった頁を紹介するに留めておく。
 高輪のこともそうだが、芝浦のことも、当地を離れて初めて知る事実が多い。「東京は坂の町でもある」などでも嘆いているが、住んでいた頃は、ぼんやりしているばかりだった。小生のこと、これからも、こうなのだろう…。

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