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2006/05/08

真珠夫人…「妾」はどう読む?

 昨日の記事「タクシー規制緩和の見直し」でコラムというか、 社会派ぶった一文を書いたが、続けて、今度は地方衰退の問題を取り上げようと思っていた。
 朝日新聞で「しまなみ海道」が全線開通して、さて、地元は活性化したかというと、さにあらず、逆に地元の働き手も産業も流出してしまった、地方分権といいながら、実際は中堅的な地方都市は寂れる一方という記事が一面から二面に渡って大々的に載っていた。題名も「夢去り沈む中堅都市」とある。サブタイトルには、「今治 念願の橋 人は素通り」だ。
 この記事(キャンペーン記事だろうか)に触発されて、東京在住だが、心は今も故郷である富山にある小生としては、富山と東京という観点からも、能を越えていることは重々承知しつつも、自分なりに俎上に載せてみたいと思ったのだ。

 富山県については、新幹線が開通し富山市や高岡市には止まることを前提に街づくりが懸命に行われている。高速道路も縦横に走ってきている。 
 けれど、小生には重大な懸念がある。
 それは、新幹線が通ることも、高速道路が走ることも頭から反対ではないが、実際には逆効果に終わるのではないか、富山の衰退に繋がってしまうのではと心配でならないのだ。
 東京に居住する立場から、東京から富山を、あるいは北陸を眺めると、どう映っているか。
 飛騨高山は小説にもしばしば登場するしドラマの舞台にも結構、選ばれる。新潟はというと、ちりめん問屋の御老体の出身地という設定になっているし、なんといっても新潟市は大都市である。日本有数の米どころであり、雪国としても真っ先にニュースに登場する。
 隣県の石川県は必ずしも有名ではないが(すみません。テレビでの知名度ではそうでした)、しかし、加賀とか輪島とか金沢となると俄然、脚光を浴びる。作家も石川県は泉鏡花、桐野夏生、徳田秋声、室生犀星、深田久弥、唯川恵、加賀千代女と、輩出している
 越前(加賀)という名前はやはりドラマや小説の舞台に恰好だったし、これからもそのようである。
 だが、わが町・富山はどうか。頑張ってはいるが、今ひとつ、脚光を浴びるというには、越後の縮緬問屋と加賀や越前という名前の間にあって、やや苦戦を強いられている。

 で、そんな中、新幹線が通り、高速道路が充実するとどうなるかというと、要するに素通りされてしまいかねないのである。富山県への観光客は(小生の頑張りにも関わらず)新潟や石川(金沢・加賀)に比べ圧倒的に少ない。
 それが今までは急行や特急だったのが、新幹線や高速道路となると、目詰まりのする細いパイプだったものが、思いっきり吸い込みのいい太いパイプになり、一層、通過する観光客が増え、のみならず、富山から人材が流出してしまう。都心などへ吸い込まれていく一方となりそうで怖いのだ。
 若い人材の流出は今までもあったが、これからは中高年の方々さえも、ドンドン吸い出されていってしまうのではないか。一旦、外へ出たなら、戻ってこないのではないか。
 交通の便が良くなったから、いつでも帰れると言いながら、実際にはお盆や正月に帰れば御の字という状態に一層拍車が架かってしまうのではないか。
 そんな懸念が小生の小さな胸を悩ませている。杞憂で終わればいいのだけれど、新幹線の近々の開通を当て込んで街づくりをしても、大山鳴動して鼠一匹に終わるのではないか。当て込んだ観光客も素通りに終わるのではないか。
 新幹線も高速道路も、ただの公共工事に終わってしまうのではないか。
 小生は、前から主張しているが、とにかく魅力ある街づくりが先決だと思うのである。アルプスの山を歩いて越えてでも、やってきたい魅力ある町、福祉や介護や娯楽や町の景観や環境が充実した犯罪の少ない町にすることが何より先なのではないかと思うのだが、さて、どんなものだろう。
 今、県や市がやっている事業は順番が違うような気がしてならない。

 そんなことを書こうと思ったが、小生には任が重過ぎるので、話題を変える。
真珠夫人』の話題に移る。

 菊池寛著の『真珠夫人』(文春文庫)を読了した。
 帰省にいつもはオートバイを使うのだが、最近は事情があって列車を使う機会が多い。となると列車中で読む本が欲しい。
 田舎では、時間があるかどうかは分からないが、読むとしたらじっくり読める本を選びたいが、車中は文庫本か新書版のほうが上着のポケットに忍ばせやすいし、と思って図書館で物色していたら、以前から気になっていたが手にするのは今ひとつ気が進まないでいたかの本が目に飛び込んできたのである。

『真珠夫人』は菊池寛の小説だ、というより、多くの、特に若い方にはフジテレビで数年前にドラマ化され、人気を博したあの話題のドラマの題名として記憶の片隅に残っているケースのほうが多いだろうか。
 調べてみたら、「2002年6月28日 放送終了」とある。「オフィシャルサイトは終了しました」と明記されているので、この頁が削除されるのも時間の問題かもしれない。あるいは削除するのも忘れられてしまっているのか。

 番組紹介には、「このドラマは、苛酷な運命に翻弄されていくひとりの女性、瑠璃子の人生の変遷と真実の愛、そして魂の救済を描く大河ロマンです。原作は、文豪・菊池寛が、大正時代に発表した新聞小説『真珠夫人』。『真珠夫人』は、当時、新しい女性の生き方を描いたものとして、大変に評判を呼んだ作品です。」とある。
 瑠璃子という名前は新しい女性の生き方像に見合う発表当時にあっては、ハイカラな名前だったのだろうか。
「主人公・瑠璃子は、元華族の娘で、幸せな人生が約束されているかに思われていました。しかし、時代や社会の波は汚れを知らない彼女を呑み込んでいきます。父の名誉を守るため、没落しかけた家を救うため、彼女は新興成金の荘田勝平の妻となります。将来を誓った恋人・直也との間を引き裂かれて。やがて、未亡人になった瑠璃子は、女の人生を歪めた社会に、そして、男のエゴに復讐するがごとく、自分の周囲に寄って来る男たちを虜にしては、破滅させていく妖婦と化してい」くといったストーリー。
「原作にある大正時代を、戦後の昭和20年代から30年代に翻案し、よりダイナミックに描きます。 」というが、「大河ロマン」だけに思いっきりデフォルメするしかなかったのだろうか。
 一読して感じたのは、そもそも時代錯誤的な小説なのだから、原作通り大正時代に設定しておいたほうがいいのではなかったろうか。大正ロマンの香り溢れる、その実、愛憎の錯綜する上流社会の実像ドラマとか。

 テレビドラマについては、記憶する限り、小生は一度も見ていない(はずである)。見たかどうかさえも覚えていない。基本的にドラマは再放送以外には見ない主義(?)だし。
 評判を呼んだドラマのようで、真珠夫人の原作本は、ドラマが放映されていた頃は、「「菊池寛文学全集」(文芸春秋新社・現文芸春秋)におさめられていたが、現在は絶版となってい」たとのことで、「皆さんの御要望にお応えして、 ノベライズ本が発行されることになりました。」という。
 小生が読んだ文春文庫版の『真珠夫人』はノベライズ本だったのだ?!

 読んで面白い本だったかどうか。はっきり言って分からない。とにかく最後まで読んだのだし、解説も含めると600頁に及ぼうという本を主に行きかえりの列車(電車・バス)中で読了したのだから、つまらなかったとは決して言えないはずである。
 けれど、頁を捲る手ももどかしく…読んだのだろうか。確かにそうでもある。だが、読みつつ一級の文学作品だとは到底思えなかった。通俗に堕しているとまでは思えなかったが。
 そもそも図書館で本書を手にしたときも、ペラペラ捲って、その文章の叙述の甘さ(ど素人が生意気言って、すみません、正直な直感だったのです)に辟易した。止めとこうと思った…が、解説が川端康成というところで、踏みとどまった。
 普通は解説は最後に読む主義(小生は偏屈なのか、形式主義者なのか、新聞も雑誌も本も頭から順番に読むのだ。週刊誌などでHな記事や写真が載っている場合は、別)なのだ。
 が、借りるのを躊躇っている時は、解説に読むかどうかの判断の材料を求める。情けないことだが。
 で、川端康成の解説を読むと、結構、苦労している。
 本書を通俗小説と決め付け、文学史(というより通俗文学史か、あるいはベストセラー史)の中に題名が残るのみの小説と看做す向きもあるかもしれない。一読して小生もその一人に加わったのも事実だ。
 川端康成は、文学史というより菊池寛にとって画期をなす小説だと説明している。若き日の菊池寛のパワーが漲っているというのだ。そもそも新聞に載せる連続小説だったのだから、大衆を意識して書いているし、多くの人に受け入れられる親しみやすい作品、同時に話題を呼ぶテーマや特にストーリー展開に腐心していることを痛感させられるし、感心させられた。

 この作品の感想というと、「『真珠夫人』は時代劇として見よう」が妥当なのかもしれない。

 ドラマを過激なものにし、ドロドロの愛憎ドラマはお約束、下卑た興味を惹くためにカネの亡者たちを登場させ、新しい自分の主義主張を持った美しい女性を登場させ、しかも、最後まで彼女は<処女>を守ったとさせている。主人公の女性が<汚されない>ことは当時にあって大事な点なのだろう。
 読者(なんといっても新聞の連載小説なのだ!)の多くは男性だと想定されている。となると、美しく毅然として生きる悲劇の女性に救済の手を差し伸べるのは(読者たる)自分(つまり男)であり、凛として生きる、しかし悲劇の坂を転げ落ちる女性の前に白馬の王子様として登場するのは自分(つまり読者たる鼻の下を思いっきり伸ばした男)なのだという心理を徹底して前提にしている。
 女性がこの本を読んで、あるいは現代の若い男性がこの本を読んで新味を感じ、現代にあっても汲むべきテーマのある小説と読むとは、ちょっと考えられない。
 女性は、特に美しい女性は汚されては(女性が自らの意思であれ、カネなどの暴力によって蹂躙される形であれ)大衆小説は持たないのだろう。興味がヒロインが汚された(女性が主体的に求めた形であっても、性的関係を持つことは旧弊な男尊女卑の観念に囚われた男どもには、主人公=ヒロインとしては失格なのである)段階で一気に萎んでしまう。
 最後まで処女(なんという懐かしい言葉、イメージ、観念)でなければならないのである。当時にあっての新聞ということであからさまな性的描写は不可だったのだろう(これは推測)し、けれど、思いっきり匂わす事は決して作者として欠かすわけにはいかず、ギリギリのところで操(みさお!)を守らせておかないと、読者の興味を連載の最後まで引っ張り続けることはできない相談なのである。

 で、小生、川端康成の苦しげな解説を読んで本書を最終的に読むと決めたのか、というと、さにあらず、である。
 実は、小説の登場人物の名前が小生の実人生で関わりのある(あった)人たちの名前そのものだったりしたので、ほとんどその人物の名前が我が人生の一齣とダブらせることもできなくはないという、小生としても苦しい、人が聞いたらバッカみたいと思われそうな理由で本書を手に取ったのだ。
 どの登場人物の名前が小生に関わりのある名前かは言えない。
 が、上掲のリンク先にキャストが紹介されているが、その中にはない、と書いたら、もう、答えは出たようなものだ(そういった恐らくは邪道なる理由で読んだ小説は他にもある)。

 ネット検索していて驚いたのは、「『真珠夫人』はどう読まれたのか。そして、どう読むことができるのか、舞台・映画・テレビ―マスメディアに波及してゆく、菊池寛の〈通俗小説〉の軌跡を俯瞰する」という、二分冊の『真珠夫人 本文・注解・考説』(菊地寛研究会、翰林書房)といった立派な研究書が出ていること。
 なるほど、今となっては時代錯誤もはなはだしい記述も散見されるし、執筆当時にあって最先端・最新流行を目指しただけに風俗も当時の流行も可能な限り取り入れられていて、恰好の研究材料になる。
 
 面白かったのは、本書の中でも、あるいは川端康成の解説でも尾崎紅葉の『金色夜叉』が登場し、その評価を巡って論議が戦わされていること。これは作家の菊池寛が通俗小説を意図しているから、明治において成功した通俗小説の鑑(かがみ)とも言うべき作品をライバル視していたということかもしれない。
 出来はともかく、カネの亡者を描く姿勢においても、通俗小説として琴線を掻き鳴らす工夫においても、圧倒的に『金色夜叉』の徹底振りが勝っている。あるいは主人公の貫一の軟弱ぶりが際立っていると言うべきか。
 ここは稿を改めて対比しつつ研究するに値するテーマかもしれない。
 念のために断っておくと、本小説の中での登場人物たちの論議では、明治の第一級の作品は、夏目漱石や森鴎外を差し置いて、「たけくらべ」「にごりえ」「十三夜」などで有名な樋口一葉に軍配を上げている(樋口一葉については、ネットでは「杉山武子の文学夢街道」なるサイトがいい)。

 さて、最後に敢えて『真珠夫人』の隠れたテーマ、あるいは菊池寛の主張を示すなら、主人公の瑠璃子の以下の言葉にあるかもしれない:
 

 男性を玩ぶ! 貴君(あなた)は、女性が男性を弄ぶことを、そんなに恐ろしい罪悪のように考えていらっしゃるのですか。だから、妾(わたし)が男性の我儘(わがまま)だと云うのですわ。もし、男性を弄ぶ女性を、純真な男性の怒りが、粉微塵に砕くとしたなら、今の世間の大抵の男性は、純真な女性の怒りによって、粉微塵に砕かれる資格があるでしょう。貴君だって、貴君の純真な奥さんのお心の前に、少しも、恥ずかしいと思うことはありませんか、貴君が妾の良心にお訴えになったように、妾も貴君の良心に、それを伺いたいと思いますの。

 
 人が虎を殺すと狩猟と云い、紳士的な高尚な娯楽としながら、虎がたまたま人を殺すと、凶暴とか残酷とかあらゆる悪名を負わせるのは、人間の得手勝手です。我儘です。ちょうどそれと同じように、男性が女性を弄ぶことを、当然な普通なことにしながら、社会的にも妾(めかけ)だとか、芸妓(げいしゃ)だとか、女優だとか娼婦だとか、弄ぶための特殊な女性を作りながら、反対にたまたま一人か二人の女性が男性を弄ぶと妖婦だとか毒婦だとか、あらゆる悪名を負わせようとする。それは男性の得手勝手です。我儘です。妾(わたし)は、そうした男性の我儘に、一身を賭して反抗してやろうと思っていますの。

 文中、「妾」という漢字表記を当時の読みに従って、「妾(わたし)」としたり、「妾(めかけ)」としたりするところに、菊池寛の細かな工夫が見られる。
(惜しくも、こうした主張がテーマとして真正面から俎上に載せられるのではなく、あくまで現象的に風俗的に、つまりは通俗的な叙述に終わっている。ここが徹底された、イプセン並みの世界文学になったのだろうが、そんな大仰な意図も意思も菊池寛には無縁だったようだ。)

 そういえば、樋口一葉も小説の中では「妾」と書いて「わたし」と読ませていたっけ。学生時代だったか、「妾(めかけ)」という感じが彼女の作品の中では「わたし」と読ませていることに、ずっと違和感を覚えていたものだった。
 小生の乏しい素養と思い込みの中では、「妾」は、あくまで「おんな、をんな」である以前に「めかけ。そばめ。おみなめ」といった意味合いだったし。
 ちなみに、樋口一葉も困窮し果てて、足元を見透かされ妾(めかけ)になることを要求されたのだった。

 調べてみると、「妾」と書いて「しょう、せふ」という読み方があり、「めかけ。そばめ。てかけ」あるいは、「一人称。女性が自分をへりくだっていう語。わたくし」なのだとか。
 明治の少なくとも初期においては、女性が自分を指す代名詞にも難儀しており、試行錯誤があったことが分かる。この辺り、つまり明治などの女性の一人称の変遷も、関心ある人には更に調べてみる余地があるのでは。

[「magnoria」さんが、「真珠夫人」をテーマに記事を書かれました。小生は本記事を書いた際、怠慢にも見つけ出していなかった「真珠夫人」の公式HPも紹介されています。
 magnoriaさんも引用されていますが、公式HPの「あらすじ」には以下の詩文風な一文が載っています:

女は瑠璃……
光届かぬ海に沈み、救済の時を待つ
無垢な魂が流す涙は
やがて身を覆い隠すベールとなり
冷たい輝きを放ち始める
真珠のように……

 その上でのmagnoriaさんの記事が興味深く、教えられることが多かったのですが、詳細は当該の頁を覗いてみてください。(06/05/10 追記)]

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コメント

以下はミラーサイトで貰ったコメントへの小生のレスです:

Tさんは、菊池寛を読み込まれたのですね。小生とは大違いです。
その点、小生の読みは浅いものに留まっているのでしょう。

菊池寛は同性愛だったとかで、男が女を欲するその欲望の強烈さを描ききれない。綺麗ごとに終始してしまう。女性を極端に称揚するか蔑視するかで、その中間がない。紋切り型の女性ばかり。文学は、特に男女の仲はその中間の陰翳を描いてこそ文学足りうるはずなのに。
ないものねだりしても仕方ないけどね。
むしろ菊池寛は父と子の関係などに才能を発揮したような。というか、実業家的センスが作家的センスより勝っていたということかな。
『真珠夫人』も、営業的センスでこうやったら読まれるという観点からの工夫に満ちているような気がする。
自分を指して「妾」と呼ぶ言い方は明治という時代を感じさせますね。ガキの頃、父の書棚にあった樋口一葉の小説を初めて読んだ時(ほんのい齧り読みでした)のショック(妾(めかけ)の話なのか! と誤解しそうになった)が思い出されます。

投稿: やいっち | 2006/05/08 20:00

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国見弥一さんが「真珠夫人」についてブログで書かれていた。 http://atky.cocolog-nifty.com/bushou/2006/05/post_7c9f.html 菊池寛の「真珠夫人」はまだ未読なのだが、以前知人と話していた時にふと「真珠夫人」を連想し、この作品に興味を持ったことを思い出した。「真珠夫人」のHPのあらすじの箇所には、次のような文章が書かれている。 http://www.tokai-tv.com/drama/shinjufujin/... [続きを読む]

受信: 2006/05/09 15:55

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