読書拾遺…素数の音楽など
ハーマン・メルヴィル作の『白鯨』を二ヶ月以上を費やして読んで、なるほど凄い作品だと感じ入ったので、勢い余って、同じくメルヴィルの『ピエール』(坂下 昇訳、国書刊行会)を借り出し、昨日から読み始めた。
ピエールにメルヴィルと来ると、映画好きな方なら「リスボン特急 (1972) 」や「恐るべき子供たち (1950)」などを撮った、あるいはフィルム・ノワールで有名なジャン=ピエール・メルヴィル監督をつい連想するかもしれない。
この監督、本名は違っていて(Jean-Pierre Grumbach)、小説家のハーマン・メルヴィルから名前を取ったのである。
ちなみに、ハーマン・メルヴィル(Herman Melville, 1819-1891)その人の出自についてはまだ調べていないが、小説『ピエール』では、主人公のピエールの先祖はフランスだとか(これもあやふや)。
小説『ピエール』は、「1846年2月(26歳)、タイピー族部落で暮らした体験を元に第一作『タイピー』を出版」し、一定の成功を収めていたのが、本書で彼の評判は地に落ちたといういわくつきのもの。
訳の文章に手こずりながらも(読者レビューを読むと、「まず驚くのは、翻訳とは思えない文体の美しさである」とあるけれど、小生には少々古臭くて読むのが辛い。馴れたら違ってくるのだろうか。それでも読むのは『白鯨』の余韻が残っているからということもあるが、図書館で拾い読みした時、地の文に力を感じたからに他ならない)、本書でもメルヴィルの魔性ぶりが面目躍如する予感がタップリで、『白鯨』と相俟ってこれでは、ありふれた海洋モノ、冒険モノ、異境モノを求める一般読者のニーズに応えられないどころか、そもそも理解不能あったのも頷ける。
ちょっとしたジャングルでの冒険を求めていたのに、居間で寛ぐ格好のまま、いきなりヒマラヤかエベレスト登頂に強引に連れ出されたようなものだ。
本書の感想は別の機会にする(かもしれない)が、参考のため、「EXPLORE MONOGAMY BLOG 20051123 [読書]『ピエール』ハーマン・メルヴィル(国書刊行会)」なるサイトを示しておく。
さて、今日は、まだ本書を読み始めたばかりなので、感想ではなく、例によって余談・散歩・脇道である。
本書『ピエール』を読んでいたら、『サリカ法典』なる言葉が出てきた。本の中を探しても、注釈は全く施されていない。
ということは、あるいは世間の人にとっては常識に過ぎない言葉なのか。
小説の中で、ピエール(語り手)は、ヨーロッパ(主にイギリスやフランス、つまりは独立戦争の相手国、母国)の国々に比してアメリカの歴史が浅いことを擁護するため、懸命にレトリックと歴史的事実を列挙して、アメリカだって浅からぬものがある、探ればあれこれあるのだ(インディアンとの戦いでピエールの先祖も傷ついたのだし)、という長い長い弁明の一環としてこの言葉(用語、法律)が出てくる。
フランスを礼譲の国というのは、語るもおこがましい話だ。『サリカ法典』などという、女の王位継承権を否認する法律を制定するとは、フランス人も異端邪宗の徒になり下がったものだ。この国の、世にも蠱惑(こわく)的な女三人――ヴァロア王朝の血統に花咲く、不朽の名花三輪!――をフランス王位から排除したのも、この悪法のせいだった。フランス(自由)だなんて、同音異議も甚だしい。
懸命に他国(母国)をこき下ろし、アメリカを擁護している(ところで、アメリカに女性の大統領っていたっけ…)。
「サリカ法典 - Wikipedia」によると、「フランク人サリー支族が建てたフランク王国の法典」で、「金額が固定された金銭賠償(贖罪金)に関する規定が主であり、自力救済を原則としていたことにも特色がある」とか、いろいろあるが、「第59章で女性の土地相続を否定している。この条項がしばしばヨーロッパの王位継承に関して持ち出され、女性王位継承候補につけこもうとする陣営に都合良く解釈された」という点が小説との関係では注目すべきかも。
でも…、「原型が成立したのはフランク王国メロヴィング朝の初代王、クローヴィスの晩年に当たる6世紀の初頭と考えられ」るのだから、そんな古い時代の法律に文句付けたって、なんて思うけど、そこは長期にわたる視点を持つことは至難の日本人的感覚かもしれない。
実際、「フランス王国では、他家(特にプランタジネット朝)の干渉を恐れて、サリカ法を根拠として女系を含む女性の王位継承権を廃止したため、女王が選出される事が無かった」など、中世どころか近世・近代まで影響が及んでいたのだから、それなりに根拠がないとも言えないことはない。
「14世紀にフランス王朝のカペー朝が断絶すると、イングランドが女系の継承権を主張したために百年戦争が勃発した」と、この法典を巡って歴史を綴っても面白い叙述が期待出来そう(多分、そうした類いの本は既に沢山あるのだろう)。
本書『ピエール』では、ピエールの、あるいは人間の精神の奥に潜む幾世代、あるいはさらにずっと古い歴史の堆積の故の、自分ではどうしようもない、一個の人間の幸せや望みなど吹き飛ばしてしまう闇の力が描かれているようで(今の所、推測にとどめておくが)、英仏との歴史の深浅を忖度しているのも、単に歴史の話ではなく、国が背負う業の話に繋がっているわけである。
アメリカはインディアンなどの先住民を除くと歴史は浅いが、ヨーロッパから渡ってきたその出自を思うと、あるいはもっと大局的に歴史を鑑みると、そもそも人間の歴史、民族の歴史はどれもこれも似たより寄ったりの源流にたどり着くわけである。
つまり、歴史の長さや独自性以上に、担ってきた歴史や人の思いの重さを感じ取る力があるかどうか、否、小説という観点からすると、感じ取りたくはない、それより個人の幸せをこそ望んでいるのに、にも拘らず、いざ、恋人との幸せの時を迎えようとするその瞬間、何か闇の力が彼と彼女を引き裂き、彼の魂をも引き裂いて、天をも恨むほどの魂の漂白の世界へ飛び込まざるを得なくなるわけだ。
綺麗(そう)な言葉を使うと形而上的な感覚、一切の日常的しがらみや愛憎をも圧倒する垂直的な感覚の有無が常人とメルヴィルやキルケゴールやニーチェやヴィトゲンシュタインやドストエフスキーやショーペンハウエルなどとを截然と分け隔てていく。
会社では『円の歴史』を読み始めている。図書館が一週間ほどの連休に入るというので、その間に車中で読めるような本(文庫本か新書、選書)を物色していたが時間が切迫していて適当な本が見つからず、この本、確か読んだことがあったような…という一抹の不安を抱きつつ、時間ですよーの館内放送に急かされ、つい借りてしまったのだ。
が、自宅に帰って冷静になって本書を拾い読みすると(目次など)、ああ、やっぱり読んだことがある。
それも、昨年のことだ!
ちゃんとしたタイトルを記すと、アーネスト・ゼブロウスキー著『円の歴史―数と自然の不思議な関係 Kawade new science』(松浦 俊輔訳、河出書房新社)である。
小生は、十ヶ月前に読んでいたのだった。 → 「数のこと」
でも、いいんだ。
誰だったか、記憶力の悪いことは、残念に思うことばかりじゃない、だって、一冊の本があれば、いつ読んでも新鮮な気持ちで読めるから…。
ああ、これは我輩のことを慰める言葉なのか。
実際、今週末から新鮮な気分で読んでいるのである。
ところで、『円の歴史』に手を出したのには、本の大きさが車内のドアポケットにちょうどいいから、という実際的な理由もあるが、今週までずっと読んできたマーカス・デュ・ソートイ著の『素数の音楽』(冨永 星訳、新潮クレスト・ブックス)を読んで愉しめたからである。
ついつい、数の世界の話をもう少し、というわけだったのだ。
本書『素数の音楽』のブックレヴューによると、「2,3,5,7,11,13…規則性があるようで、気まぐれな振る舞いで数学者を惑わせる素数。「数の原子」と呼ばれるこの素数に取り憑かれた数学者は数多い。大数学者ヒルベルト、「数学界の貴族」ボンビエリ、「魔法使い」エルデシュ…。「フェルマーの最終定理」以上の、世紀をまたぐ超難問「リーマン予想」を軸に、変人から天才に到る数学者たちの横顔と挑戦を描くノンフィクション。 」とある。
何と言っても、題名の『素数の音楽』が魅惑的である。
芸術の頂点に君臨するのはどの分野の芸術なのか。絵画などの二次元アートか(書道はアートに含めていいものか、漫画はアートか娯楽か)、彫刻か、音楽か。
比べること自体がナンセンスなのは言うも愚かだけれど、それでも、小生の中では音楽か数学のどちらかだと思っている。というより、もっと率直に言うと、数学に極まり、と勝手に思い込んでいるのだ。
小生の手には(感性にも知性にも)全く届かない世界であって、その沈黙の音を想像するしかないのだが、まして「素数の音楽」となると、垂涎の世界が描かれているわけである。
数学は実用的でも応用を目ざしているわけでもないが(そうはいっても、実用や応用を全く度外視して研究していた素数に関する理論が、インターネット自体のセキュリティに密接に関わっていて、素数の神秘や未だに極めつくせない素数、さらには数論の世界の手ごわさがネット世界において厳然と、そして断固として実用的たる存在になっている。その意外性も面白い)、素数の、特にリーマン予想という一世紀以上に渡って行く手を阻んできた課題を解こうとして編み出された理論が量子力学で捜し求められていた理論(数式)において有効に使われるなど、純然たる数学の世界が物理の世界と高度に抽象的な場で出会う話は心躍らせるものがある。
今、東京には雨がシトシト降っている。梅雨の雨を思わせる憂鬱な降り方。でも、その雨が屋根を叩き、欄干を叩いて濡らし、裏庭の雑草を潤している。その水の一滴一滴に宇宙を感じる人は、きっと、どんな音楽や数学より繊細の宇宙を予感しているに違いないと思う。
音の世界も、絵などの美の形も、風の戯れも、その淵源を聞き分けていくと、そこには音なき音、形なき美、触れ得ざる肌合などの世界に行き着き、さらに悦楽と愉悦を欲し至上の美をオデュッセウスをも溺れさせんとするセイレーンの誘惑のままに追い求めていくと、音と美と数とが融合した、それとも未分化のXなるものの揺蕩(たゆた)う抽象と具体との区別など論外となる豊穣なる世界に迷い込む。
数学者ならそのセンスと論理という武器で手を差し伸べようとする、画家ならメビウスの輪の一面を辿った挙句に絹の生地の先を被せかけようとする、音楽家なら地上のどんな楽器も声でも掻き鳴らすことの叶わない琴線に耳を甚振られる。
きっと才能と勇気がないとたどり着けない世界。
自宅では、ダニエル・C・デネット著の『自由は進化する』(山形 浩生訳、NTT出版)を読み始めている。
『解明される意識 』(山口 泰司訳)や『ダーウィンの危険な思想―生命の意味と進化』(山口 泰司ほか訳)に引き続いてのデネットの本(ともに青土社)。
軽薄さの極みを晒すような題名で、デネットの本でなかったら手に取ることすら論外だったろう。原書の題名自体、「Freedom Evolves (自由は進化する)」で直訳に近いわけで、咎めるわけにも行かない。
デネットはリチャード・ドーキンスらと並ぶ進化論の擁護者で、特に進化論を毛嫌いする人の多いアメリカなどでは槍玉に上がっている一人でもある。精神の自由はどうなる。魂を認めないのか。人間がそこらの毛虫やウイルスと同類とはなんということか。遺伝子で何でも決定されるのか…。
進化論で人間が地上のあらゆる生命体と遠い先祖を共有していることが我慢ならない、プライドを傷つけられたように感じる、肉体までならともかく精神くらいは神が創った崇高なもののはずで進化の果てに生まれたなど、ありえるはずがない。
云々かんぬん。
が、数論に限らず、音の世界、数の世界、美の世界、雨の音、一滴の雫、人の声、肌の温もり、そうした触れ得るか想像できるか探求できるかする世界の数々を思っただけでも、いずれの世界も決して極められたことなどないことを思い知らされるはずだ。
自然が物質とイコールのはずはないのだろうが、研究の俎上に上るあれこれも、そのメカニズムも不可思議も無尽蔵に感じるのは、決して専門家だけではないだろう。
物質的恍惚の世界こそが不可思議なのだ。
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