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2006/05/22

詩人の眼 大岡信コレクション展

 久しぶりの晴れ。風もそよ吹くようで、土曜日のように午後、遅くになって急変する予感も漂っていない。気温は25度以上だったと思う。
 そんな陽気に誘われて、それとも誘い出されて、「三鷹市美術ギャラリー」へ行って来た。
 会期が残すところ一週間となった「詩人の眼 大岡信コレクション展」へ足を運んだのだ。
 家を出たのが遅くて三時半を回っていたか。バイクで一路、三鷹へ。駅の周辺で会場を探すのに手間取り、会場に入ったのは四時半過ぎだったろうか。
 この頃、外出というと、帰省も含め電車を使うので、バイクでのクルージングは快適だった。吹く風が心地いい。

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→ 壁の悪戯書き…じゃない!
 
大岡が活躍を始めた60年代とは文学、音楽、美術がそれぞれの狭い垣根を外して立体的に交錯した時代でした。そのような中にあって大岡は国や分野をはるかに超え出てあらゆるジャンルの芸術家と出会い、幅広く交流し、互いに触発し合い時代の空気を共有してきたのです。そして数多くの共同制作をも生みだし、大岡の手元には400点を超える作品が残されてゆきます」という。コレクションの数だけなら、もっと凄い人は日本に限っても少なからずいるに違いない。
 が、凄いのはその所蔵する数よりも、その作品の良質なこと、否、それよりも、どの作品も大岡氏が交流する過程で貰ったり買ったりしたものだという点である。大岡氏へ、と名指しで寄贈された作品もサム・フランシスを始め、何点もある。

 かかわりを持った作家の数もざっと数えても50人。展示されているどの作品、どの作家についても、作家の案内や作品名に留まらず、大岡氏による短いコメントが寄せられている。温かみがあって、相手を厳しく批評するのではなく、直感的に(無論、大岡氏の洞察が前提だが)これは見込みがある、可能性がある、将来伸びると思ったなら、取りあえずは相手を丸ごと受け入れる、そんな度量の大きさ、そして相手が何に苦しみ、何を意図して苦労しているかを理解する明晰な頭脳。
 他の人なら付き合わないような気難しい作家も彼・大岡氏には胸襟を開いた、そんな作家も菅井汲をはじめ、何人かいる。
 大岡氏の理解と励ましと、それ以上に暖かな眼差しに勇気付けられて大成した作家もいる。

「大岡信(おおおかまこと)(1931~) は1979年より朝日新聞に「折々のうた」を連載し、その名は詩に関わる人間のみならず一般に広く知られています」という。

 小生のような文学にも、まして詩にも疎い人間でさえ、朝日新聞の「折々のうた」は、必ず読んでいたし、新書に入れば手に入れたし、講演会があると聴くと、本来は講演会は嫌いなのだが、彼の話なら聴いてみたいと予約をしてまで聞きにいったことも(彼の不要になった、しかし未使用の原稿用紙の束も会場でもらったっけ)。
 詩については、小生はこの数年になってやっと少しだけ感じ取れるようになったが、特に今日、会場で絵画作品やその作家の写真、関係する品々を見、そうした作品に、あるいは作家に共感し、作品に同調し詩が生まれる場面、あるいはその逆に彼の詩にアーティストたちがインスピレーションを受けて絵画などを描く、その現場の、ほんの一端に際会したような気分に浸れたのは収穫だった。
 詩は、このようにして生まれる。
 葉書の遣り取りを詩ながら、その文面そのモノが詩だったりする。相手方からは画文が帰ってきたりする。
 あるいは、会場に多くの一般の人たち(あるいは名のある人たちも多数)が会する、その衆目の面前でぶっつけで筆で詩を書き付ける。詩は表現であり楽しみでもあるのだろうけど、同時に表現者として勝負の場でもある。

 詩よりも、小生が大岡氏に恩恵(?)を受けたのは、何度か触れたことがあるが、大岡信氏著『抽象絵画への招待』(岩波新書)を読むことを通じてだった。絵を描くことは、漫画も含め小学校を卒業する時点で諦めた、放棄してしまった小生だが、見る楽しみを捨てるわけにはいかない。
 それなりに絵画作品は観てきたり、関係する本は読んできたが、本格的に絵画作品、無論、実物に接するようになったのは、何と言っても上京してからのことである。上京したその年(1978年)にはフリードリッヒ展を西洋美術館で見ることができて、好きな絵画で状況を祝ってもらったような気になったものだ。絵の洗礼を受けたのだ。
 学生時代は主に美術書で絵画の世界への空想・妄想をめぐらしていた。めったに展覧会に足を運ぶことも無かった。むしろ、音楽会のほうが多かったほどだ。
 が、東京となると事情がまるで違う。美術館での展覧会は勿論だが、画廊にさえ足を運ぶようになったのだから。銀座の画廊に幾度か足を運んだのは上京して数年の間のことだった。アルバイトだった自分がレオノール・フィニ展などを観に行ったのである。
 今では逆に銀座は敷居が高くて、この数年、遠ざかったままである。
 それなりに絵画の世界に接してきたけれど、80年代の半ばはもう、自己完結したようなところがあった。それは絵画に限らず、文学や哲学への関心も含めてのこと(この辺りのことは、今回は省略する)。

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← 図書館へ行く途中で見つけた郵便受け? アート?!
 
 そこへ『抽象絵画への招待』である。一種のカルチャーショックのようなものだった。それまでまるで馴染めなかった抽象絵画やアンフォルメル、アール・ブリュの世界に一気に<開眼>させてくれたのである。
 本書が出版されたのは、85年で、経済で言うとプラザ合意で銘記される方もいるかもしれない。日本がバブル経済に突入する契機ともなった合意である。
 その後、バブルがはじけるまでの数年、あるいは失われた十年と呼称されるその期間は日本の経済構造のみならず、日本人の心性をも根底から変えてしまった。
 本で言うと、並みの本は売れず、ホーキングなどの宇宙論の本が流行ったりもした。飛んでるようなものでないと感受できないほどに感性が泡塗れになってしまったのだ。

 小生はというと、会社で窓際族の典型になっていた。孤立して、精神的にも追い詰められていた。行く場所はというと展覧会であり、天気が良かったら、まだ雑草と更地の台場だった。
 展覧会も、(ムンクやオディロン・ルドン、ゴッホ、エゴン・シーレなどは展覧会があると聴けば機会を逃さなかったが)狙いは若い頃のような古典や名品、館蔵品展の類いではなく、抽象絵画やアール・ブリュ関係の作家のものに絞っていた。
 ポロックやミロやヴォルスやフォートリエ、ジャン・デュヴュッフェ、ハンス・アルトゥング、ジャスパー・ジョーンズ、クリスト、パブロ・ピカソ(但し、版画作品)……。
 日本だと、今井俊満、宇佐美圭司、加納光於、菅井汲、瀧口修造、中西夏之、前田常作……。
 平面ではなく、陶芸では、ほとんど唯一、備前焼きの藤原雄の展示会へも足を運んだ(備前焼きをイメージして、『火襷(ひだすき)』という小説をでっちあげたりしたものだ)。

 彼らの絵を(印象の中で、あるいは展覧会へ行けば必ず購入してきた図録を開きながら)眺めつつ、少ない睡眠時間を削ってまで、夜毎、詩文を、文章の断片を書き連ねていた。書き殴っていたというべきか。
 その成果は本にもした。費用はというと、会社を首になった時に貰った退職金で賄ったのだった。
 こうした生の芸術などへの熱が数年を経過すると沈静化したものだが、同時に古典の絵画を改めて見直す契機ともなっていった…。

  上に上げた名前を「詩人の眼 大岡信コレクション展」に示されている作家群像と対比してみると、相当程度に重なっていることが分かるだろう。

 ところでさて、小生は一昨年の四月以来、手元不如意のゆえに本も雑誌も一冊も買っていない。が、会場を後にする際、すんなり去ることができなかった。やはり売店に並ぶカタログ類が気になる。
 で、買った。それも今日の展覧会の分だけじゃなく、合わせて4冊も購入してしまった。
 なので、本・雑誌は買っていないという習いを破ったようでもあるが、ま、カタログは本じゃないということにして、依然、その習いは厳守されているのであり、これからも当分、買わないつもりである。
 どんな図録を買ったか、などは後日。
 オディロン・ルドンの銅版画作品を所有されていることに羨ましく思いつつ、会場を後にしたのだった。
 尚、個々の作家たちについては、追々、個別に触れていくつもりである。

 この当時、受けた感銘は忘れ難いものがあって、後年、あれこれの雑文に綴った:
大岡信氏著の『抽象絵画への招待』 あるいはヴォルスに捧げるオマージュ(1)
アウトサイダー・アートのその先に(付:続編)
菅原教夫著『現代アートとは何か』
三人のジャン…コンクリート壁の擦り傷
 などなど……。

 虚構作品(掌編)も幾つか:
ディープスペース:バスキア!
ディープスペース:ポロック!
ディープスペース:フォートリエ!
ディープスペース:デルヴォー!
ディープスペース:ベルメール!

 ところで、抽象絵画とかアンフォルメル、アール・ブリュの世界というが、それらの世界は実は小生の中では備前焼と何処かで繋がっている(これは上掲の『火襷(ひだすき)』に小説の形で暗示してある)のだが、どのように関わり合っているか、あるいは、もっと端的には何を求めて絵画の世界に踏み惑ったのか、などについては(まさか教養のため勉強のためなんかじゃない!)、以前、何処かで触れたはずだが、いつか、機会があったら改めて書く(かもしれない)。

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コメント

おお、やはりいかれたのですね。
僕は感想がまとまらずブログには書かなかった。
新聞の評によると、相沢常樹の幾何学的抽象画と大築勇史仁の文人画的油彩、この二点は「展覧会場でも異彩を放っていた」、僕はもう忘れてしまった/苦笑。
レポート楽しみにしています。
僕は横浜のイサムノグチに行ってきます。

投稿: oki | 2006/05/22 11:43

大岡信氏は朝日新聞の「折々のうた」を長いこと読ませていただいています。
確か途中で少しお休みがあったような気もしますが・・・。

そのコレクションが話題になっていますね。
幅広い知識に憧憬を感じます。

投稿: 勿忘草 | 2006/05/22 21:59

okiさん、日曜日はあまりに天気が良すぎたですね。土曜日は明けの日だったので、土曜日から日曜日に掛けてひたすら一週間の疲れを取ることに専念し、日曜日も寝たり起きたりを繰り返して、昼下がりの頃になってちょっとだけ動けるかなという気がしたのです。来週は(もう今週ですね)会社の行事で忙しくて今週以上に週末は身動きならないと思われるし。
okiさんは、ノグチイサムですか。十数年前に竹橋でのものを観たことがあります。迫力がありますね。
行動的なokiさんが眩しい。
個々の作家については、折を見て採り上げるつもりです(あくまでつもり)。

投稿: やいっち | 2006/05/23 13:07

勿忘草さん、大岡信氏は幅広い素養も尋常じゃないけど、そんな人は評論家に限らず世の中にはたくさんいる。
大岡信氏は自家薬籠中のものにすると同時に、自ら表現せんとする意思を感じる。他者の表現する意欲に感応する精神がある。
つまり、幅広い素養以上に、幅広く温かみのある人間性が広い交流関係を齎せているのですね。
改めて、つくづく、人間の違いを感じたものでした。

投稿: やいっち | 2006/05/23 13:11

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