読書拾遺:装幀家・菊地信義氏
土曜日の朝、仕事が終わった後から明け集(会)があって、一気に体調が狂ってしまった。
拘束時間が前後の準備や片付け・報告の時間を合わせると21時間、通勤時間や出かける朝の準備、帰宅してから寝入るまでの時間を全て合わせると、23時間ほどになる。
つまり、ほぼ丸一日ということだ。
だから、仕事が終わったなら、とにかくまっすぐに帰宅し、牛乳を飲む程度ですきっ腹状態のお腹を誤魔化し、記事へのコメントがないかどうかを見て、あとはすぐに就寝。
就寝といっても、すぐに寝入ることができるわけじゃないけど、目を閉じて体を休める。仕事が明けた当日は、翌朝まで休みといえば休みなのだが、体力の無さもあり、磨り減った神経、昂ぶった神経を鎮めること、体に頑固に染み付いた疲れを抜くことを在宅の間の<仕事>にしている。
同僚の中には、明けの日には麻雀したり、パチンコに行ったり、競馬、ゴルフ、ボーリング、野球その他に興じる人も居るようだが、小生には信じられない(尤も、煙草や酒を含め、小生同様、仕事で苛立ったりしている気持ちをそうした遊びで慰撫しているのだと思う)。
小生は、自宅にいる間はひたすら寝る。ベッドで寝て、飽きるとロッキングチェアーに鞍替えして、本を片手に居眠りする。
在宅の間に、ほんのちょっと体力・気力が戻ったかなという時に(といっても、大概は誤解に過ぎず、気力の充実なんて、淡い期待・幻想に過ぎないと思い知らされるのだが)、パソコンに向かい、一気に記事を書き上げる。
こんなだから、何かのテーマなり題材があって机に向かうことは、まず、ない。
空白の画面、記事を作成する白い頁に向かってから、さて、どうしたもんか、である。
何も出てこん。
そりょそうだ。毎日、書くがモットーで、それはパソコン事情(ネット事情)が不具合で無い限りは厳守してきたわけで、とっくにネタなど尽きている(もともと、ネタがあったかどうかも怪しい)。
そこからどうやって記事のネタを探すか、ひねり出すかは、稿を改めていつか書くことにする(多分)。
そんな小生なのに、仕事が終わった朝に、会社の大事な用件なのだろうとしても、会社に残り、話を聞いたりして、帰宅が昼前となったりすると、もう、体調が変。
リズムが狂ってしまう。
もともと睡眠障害があるので、ぐっすり眠るという経験など十歳の時から、基本的に無い。
眠るといっても、断続的な眠りに留まる。細切れな眠りを日に何度か繰り返すわけである。ベッドやロッキングチェアーを離れられないのだ。
それでも、タクシー業を十年やってきて、仕事が終わったらまっすぐ帰宅、牛乳や番茶で神経の昂ぶりを多少は抑えてからベッドへ、という生活パターンを作り上げ来て、やっと何とか体を持たせている。
それが、会社の余儀ない事情とはいえ、午前の眠りの時が奪われ、数時間、生活の波があとへと皺寄せを喰らってしまう。
結局、土曜日はダウン。日曜日もダウンで、なんとなく体調が(小生の基準で)平常に戻ったのは日曜日も夜、遅くになってからだった。
土曜日のことは、「加齢臭だってさ」に若干、書いたが、日曜日に「「自己紹介バトン」だって」なんて、変てこな文章を書いたのも(つい小生の痔が…、じゃない、地が出てしまったのも)、生活パターンが崩され体が変になった怒りが背景にある(他にもここに書けない不快な事情があったが)。
せっかくの連休だったのに、休みが一日、消え去ってしまった気分だ。
さて、愚痴はこれだけにして、やや変則的ながら、読書拾遺を少々。
先週は車中に菊地信義氏著の『樹の花にて』(白水Uブックス―エッセイの小径)を持ち込んだが、雨の日が多く、となるとお客さんに利用していただく回数も増え(これはありがたいことだが)、当然ながら付け待ちしながらの読書の時間も減り、短い本なのに読みきれず、土日のベッドやロッキングチェアーでの仮眠のための友とさせてもらった。
活字を見ると、眠くなるという習性はガキの頃からの身に付いた陋習(?)なのである。
まあ、小生のような睡眠障害を抱える人間にとっては、格好の睡眠導入剤でもある。副作用も(多分)ないだろうし。
書き手は、前にも紹介したが、装幀家の方。本をただの情報源として手に取るのではなく、書物全体を一つの作品として所蔵し蔵書としたい方には、馴染みの装幀家だろう。
但し、前稿では、「ある銀座界隈に仕事場を持つ男の銀座日記といった趣(おもむき)なのである。銀座風物詩とでも言うべきか」と書いている。まだ、冒頭の数十頁を読んでいただけだったので、この印象は仕方がないが、本書は三部構成になっていて、小生が読んでいたのは一部(の途中まで)だけだったのだ。
二部は、銀座から外に出て、彼の幼少のころのこと、人との関わりが書かれ(彼は連句の経験もある! 相手は粟津則雄氏を宗匠に、古井由吉、吉増剛造の両氏ら! 但し、残念ながら連句の旅でどんな成果が生まれたのか、その内容は一切、示されていない! 惜しい!)、三部は本や装幀などが話の題材になっている。
二部も面白いが三部こそが菊地信義氏の本領発揮の場面だろう。小生としては三部的な内容をもっと読みたかった。
装丁。造本。装幀。表紙。背表紙。裏表紙。帯。目次…。
小生は購入した本であろうと、借りた本であろうと、必ず即席のカバーを付けて読む。他人の垢で汚れた本を読みたくないということもあるが、自分の手垢が汚したくないという思いもある。そうでなくたって、本は経年変化で劣化していくのだし。
読む前、そして読んだ後は、書棚に納めたり、脇の棚に置いといて、その風情や雰囲気を愉しむ。特に読後感の良かった本は、そこにあるだけで存在感が際立つ。
すばらしい人の傍に居ると、それだけでこちらまで心が洗われたり、晴れやかな気分になったり、励まされるような気分になるように(実際には、こちらに応じるだけの素質も人間性もなくて、今の体たらくなのだけれど。でも、現状で留まっている、という考え方もあるし)。
「ソウテイファン -装丁語録」が面白いかも(ブログも発見!:「ソウテイファン(装丁に関するあれこれブログ)」)。
本書『樹の花にて』から、本や装幀に関わる文章の収められた、その三部から少しだけ転記させてもらう(前後の脈絡なしに、で、(特に「外なる物の、礼として」がいきなり文章に登場して)分かりづらい面があるかもしれないが、ま、装幀家としての著者の意気込みや姿勢は感じ取れるものと思う):
自らの思いの溢れを生きることも、人の思いの溢れを生きることも出来ず、関係の迫間(はざま)に立ち竦んでいた。そんな閉塞感が内に装幀という表現への憧れを育んでいったのだと思う。
良い装幀とは、その書物へ向うさまざまな思いのすべてを生きられるものだ。
作品の内から、本となすために必要な文字の姿や素材、色調や図像を見定めて、構成すれば出来あがるのではない。見定めのうちに来るべき読者の眼差しをも繰込まねばならないのだ。装幀者は作品の内から外なる姿を紡いでいくのに対して、読者は外としての装幀から内へと旅立つものだ。
人が書物に出会う瞬時でいい、書名も装幀も、まして著者名も消えて、ただいい本だなというようにある姿を生みたい。真の読書が人を導く先は、一片の知識や一時の感情ではなく深く鎮まった心へなのだから、外なる物の、礼として。
装幀という表現を杖に歩いてきたが、手段なのではない。ありうべき装幀のように自らを生きたいのだ。
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コメント
弥一さんも睡眠障害ですか、僕は薬飲んでいても眠りが浅く夢ばかりみます、必然的に眠りは長くなりますね。
今の仕事が教材会社のテキスト作成という家でもできるので助かっていますが普通に通勤するとなるとさぞ困りますよ。
ところで睡眠改善薬のドリエルとかは試して見られましたか。
投稿: oki | 2006/05/31 12:51
小生の場合、リンク先にやや詳しく書いてあるように、睡眠障害の原因は肉体的なもの。
だから、有名なドリエルも小生には意味がない。
取りあえずは少しでも痩せるほうが症状緩和に効果があるのかも(でも、まるで痩せない!)。
投稿: やいっち | 2006/05/31 20:07