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2006/05/20

葉桜の季節も過ぎ去って

 午前中は昨日の仕事(といっても終わって帰宅したのは朝の七時過ぎ)の疲れが残っていて、グロッキー状態で、午後、トーストと牛乳の朝食をとったら、少し体が戻ってきたような。
 机に向かうちょっと前までは晴れていて、野暮用があって外を出歩いたら汗ばむほどの陽気だった。久しぶりに上はポロシャツ一枚での外出。

 が、帰宅して一時間も経ったろうか、窓の外がざわめくような。
 まさか、雨?
 まさか、だった。雨だ。それもシトシトじゃなく、ザーという本格的なもの。
 慌てて洗濯物を取り込む。
 そういえば、晴れてはいたけど、風が強く、天気が変わりやすいのかなとは思っていたけれど。
 晴れと雨と五月の空。

 ホームページの掲示板に北海道はライラックの季節を迎えているという書き込みがあった。
 せっかくなので、ライラックをキーワードに季語随筆を綴ろうかと思ったが、あれ? これは前に扱ったことがあるぞ…。
 そうだった! 昨年の四月、「ライラック…リラ冷え」にて渡辺淳一氏が書いた『リラ冷えの街』という小説を糸口に、さらっとだが綴っている。
 渡辺淳一氏というと、小生が思い出すのは、彼の原作を映画化した同名のタイトルの『阿寒に果つ』(1975 東宝)である。
 ロマンポルノやピンク映画以外は、誘われでもしない限り、一人では映画館へ足を運ばない小生が、学生の頃、主演の女優さんを見たい一心で、ちょっとドキドキしながら映画館の入り口をくぐったものだった。
 小生のお目当ては主演の五十嵐じゅんさん。後に五十嵐淳子さんと改名され、或る日、俳優で歌手の中村雅俊さんと結婚されてしまった。

 中村雅俊さんというと、小生が上京してアルバイトした先(某デパートの商品保管倉庫)が当時、ヒットしたテレビドラマの舞台として使われていて、なんとなく他人とは思えない俳優さんである。
 その中村さんと我が憧れの五十嵐淳子さんが結婚した…ということがまた、胸をちょっと騒がせる小さな因縁(?)でもあった。
 当時の小生は、「彼女はもともと六本木族の流れをくんでいるそうで、テレビで見せる愛らしい顔と全く別の顔を持っていた。その二重生活に苦しんだ末に、この映画でけじめをつけたのだろう。このあと、五十嵐淳子に芸名を変えている」といった五十嵐じゅんさんの個人的事情など知る由もない。
 ただただ見かけの清楚さと、その人が当時としてはかなり大胆なヌードやベッドシーンを展開していることに、おいおいそこまでやっちゃっていいのか、なんて突っ込みを薄暗い映画館の席で入れていたとかどうだとか。

 とと、余談が過ぎた。とにかく、ライラックは、後日、改めて取り組むことにする。
 例によって『十七季』(東 明雅、丹下博之、佛渕健悟 編著、三省堂)をパラパラ捲ってみる。
 実は、アクセス解析で、「五月闇…回り道」へのアクセスが「青葉繁れる…目に青葉」ほどではないが、このところ増えている。
 やはり、東京に限らず梅雨を思わせる天気が続いていて、「梅雨時は暗雲が垂れ、夜の暗さはあやめもわかぬ闇である」といった意味合いを持つ、「五月闇」という季語を使ってみたくなる心境に多くの人がなっているということだろうか。
 いずれにしても、「五月闇」も詮索済みである。

 ではというわけじゃないが、桜の木々がすっかり葉桜となり、その葉っぱも手の平よりも大きいくらいで、昨晩など風が強い時は、葉っぱどころか茎まで諸共にと、潔く、それとも潔くないから茎まで道連れに引き千切れてしまったようで、路上の方々で葉桜の残骸が見受けられた。
 桜並木も、誰しも今更、見上げながら通り過ぎるわけではないが、陽光が射し込む時は、大きく育った葉っぱが連なり重なって樹下に立派な木下闇(このしたやみ こしたやみ)を我々に恵んでくれている。
 小生は都心をぼんやりうろついていて、今の時期の桜並木こそが好きである。こっそり、好きだよと呟いてみる…なんてことはしないけれど。
 で、それじゃと、「木下闇」という季語を糸口にあれこれ綴ってみようかと思ったが、これまた既に「青嵐と木下闇の間」において手に染めてしまっている。
 当然ながら、「木下闇」の類語の「下闇(したやみ) 青葉闇 木暗し 木暗(こぐれ)」もお預け。

 ところで、今、ふと、気がついたのだが、思えば小生、「葉桜」という言葉の意味を殊更に調べたことはなかった。
葉桜 - Wikipedia」によると、「葉桜(はざくら)とは、桜の花が散り若葉が出始めた頃から新緑で覆われた時期までの桜の木、またはその様を言う」のだとか。
 さらに、「一般に観桜・花見において、葉桜と呼ぶ時期は、満開の頃淡い薄紅色一色であった桜が、花びらが散り始め、同時に若葉が芽吹き始めて新緑の葉の色が混ざり、遠目にくすんで見える頃から、桜の花びらが全て落花し、めしべ・おしべが残って樹木全体に赤みが残っている頃まで、あるいは、樹木全体が新緑の葉で瑞々しく艶を帯びた状態で覆われる頃までである」という。
 つまり、「それ以降の時期で単に葉が茂っている状態の桜を葉桜と呼ぶことはない」のだとか。
 ってことは、小生が勝手に葉桜と呼称しているものは、ホントは違う形容か呼称があるはずなのだ。
 でも、じゃ、なんて呼べばいいのか、小生には分からない。
 ただ、「桜の花と葉の割合による主な呼称」という表は、面白い。桜の花びらがゼロになったギリギリの時点が葉桜と呼べる限界でもあるのだね。
 ちなみに、『十七季』によると、「春に遅れて青葉若葉の中に咲き残る桜の花」を指す「余花(よか)」という季語(初夏・植物)があるとか。同類に「若葉の花 青葉の花 夏桜」がある。
 ついでにメモしておくと、晩春の季語に「桜」や「残花(ざんか)」もあったりする。
 肝心の「葉桜」は、初夏・植物の季語である。

 但し、やはり葉桜という呼称が通用する時期が過ぎた、瑞々しいとは言い難くなりつつある葉っぱの生い茂った桜(の状態)をどう呼ぶかは分からない。
 姥桜(うばざくら)?! まさか、葉っぱがイチジクの葉っぱのように張り切っているのに。
 熟桜(じゅくざくら)もわざとらしい。
「桜の花びらが全て落花し、めしべ・おしべが残って樹木全体に赤みが残っている」といった、いかにも頬っぺたが赤い、そんな初々しい時期は過ぎて、今を盛りの時期だから(盛りが付いた時期と勘違いしてはいけない)盛桜(さかりざくら)がいいのか。
 うーん、分からん! 誰か詳しい人、教えてください。

 せめてもの慰めと耳直しに、「葉桜 - Wikipedia」には以下の句が掲げられてあった。ネット検索して見つけた句と併せて示す:

葉ざくらや奈良に二日の泊り客   与謝蕪村
葉ざくらや人に知られぬ昼あそび   永井荷風
葉桜に全くひまな茶店かな   近藤いぬゐ
葉桜やいつか川辺に人憩ふ   稲畑汀子

「葉ざくらや人に知られぬ昼あそび   永井荷風」については、「恋歌 恋句 24.永井荷風」を参照。


君の名は盛り桜じゃダメでしょか
葉桜もいいものだよと強がって
葉桜の木の下闇の清々(すがすが)し
雨の日の葉桜の葉の艶なるや
花散らす若気の至り消すように
葉桜を揺らす風には夏の香も
葉桜の雨に濡れての洗い髪

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コメント

 はじめまして。
 TBいただきましたようで、ありがとうございます。
 ネタがおおっ。と思ったのでこちらからもTB使用かと思ったのですが・・・・・何故でしょう?うまくいかない・・・・・<(_ _)>

 桜の状態を表す言葉は数多くありますが、確かに、今の状態の桜の状態を示す言葉は、聞いたことがありません。

 なんだろう?なんていうのかなぁ?
 誰か知っている人がいたら、私にも教えて欲しいです。

投稿: RKROOM | 2006/05/20 23:31

RKROOMさん、はじめまして。勝手にTBだけして失礼しました。葉桜をテーマのブログをネットで見つけて思わずTBしました。
毎日、見事な写真を載せてますね。ファンが多いのも納得です。
そうですね。気になりますね。「葉桜」の後の桜の木をどう呼称するのか。桜の花が散りきってしまったら、もう、桜の木には用はないという日本人の勝手な心性なのでしょうか。
この数年、葉桜になるたびにこの話題を持ち出すのですが、これからもしつこく拘って、葉っぱのみの桜こそ、落ち着ける世界があることを、その生い茂った葉っぱの下には素敵な木陰が用意されていることを伝えていきたいと思ってます。

貴サイトからのTBされてました。小生の経験からすると、夜の十時過ぎからアクセスがやたらと時間がかかり、自分でも自分のサイトを開けなくなる、少なくとも開くまでに結構、手間取ることもしばしば。夜半はアクセスが集中するからなのでしょうか。

投稿: やいっち | 2006/05/21 05:43

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