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2006/05/31

訃報二題

 米原万里さん(56歳=エッセイスト)が亡くなられたね。一度だけ、小生のタクシーに乗ってもらったことがある。多分、自宅へ。
 そのころはテレビでのコメンテーターは辞めていたけど、サイン、貰っておけばよかった。
「駄洒落と下ネタが得意」ってことだったから、車中で駄洒落合戦でもすればよかったなー。
 合掌!

 今村昌平監督が亡くなられた。映画はあまり観ない小生も監督の映画は幾つか観た。「復讐するは我にあり」は、上京した年か、翌年に見たので今も印象的。
 緒形拳さんに痺れたね。小川真由美さんや倍賞美津子さんの肉体(と演技)にも圧倒された(倍賞美津子さん……というと、映画を観つつ、そのころ、バイト先でお世話になった女性とイメージをダブらせていたっけ)。
黒い雨」「うなぎ」「楢山節考」」「にっぽん昆虫記」「神々の深き欲望」……。タイトルを並べるだけでも壮観だ。
 合掌!

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展覧会カタログの愉しみ…

 今橋 映子編著の『展覧会カタログの愉しみ』(東京大学出版会)を読了した。
詩人の眼 大岡信コレクション展」を見に行った際、つい本や雑誌は当分買わないという禁を犯して(?)カタログを買ってしまった。帰り際、売店に並ぶカタログ類を見てしまっては、入手したいという誘惑には勝てなかったのである。
 そのわだかまりがあったのだろうか、図書館でカタログについての本が目に付いてしまった。それが本書である。

Imahasizuroku

 が、「読書拾遺…樹の花にて」でも書いているが、カタログは本(や雑誌)の扱いをされていない、本来は、「一般書店で購入することも図書館で閲覧することもできない」類いの冊子なのだということを遅まきながら知ったのだった。

Anan1513

 余談続きだが、「恒例! 年に一度のSEX特集! 女の子のためのエッチDVD付き。倖田來未も登場!」というキャッチコピーに負け、初めて「anan 1513号」を衝動買いしてしまった。カタログを買ったことで、財布の紐が緩んだのか、もともと箍が緩んでいるだけなのか…(このananの感想も時間があったら、掻いてみたい…、じゃない、書いてみたい。さて、ここで問題です。小生は上記のコピーのどの言葉に誘惑されたのでしょう?!)。

 本書(本冊子『展覧会カタログの愉しみ』)を読んでの収穫はいろいろあったが、その前に、今、話題になっている盗作騒ぎに触れざるを得ない。

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2006/05/30

わが名はヴィドック…液状化する社会

 ジェイムズ・モートン著の『わが名はヴィドック』(栗山 節子訳、東洋書林)を読了。借り出した直後に若干、言及しているが、ここで簡単な感想と余談を。

 まずは、扱われているフランソワ・ヴィドックについて説明すべきだろう。
 といっても、ネットの世界ではひたすら便利なサイトでの情報源「フランソワ・ヴィドック - Wikipedia」で大凡のことは尽きている。
「脱獄と逮捕を繰り返し多数の重罪犯人と知り合い、暗黒社会の裏表の情報・犯罪の手口を詳細に知り、脱獄と変装のプロとなる。出獄するとパリ警察の手先として、徒刑場で得た情報を売る密偵となる」が眼目だろうか。
 あるいは、「密告とスパイを常套手段とし、犯罪とすれすれの摘発方法を用いて成功したが、一方入手した犯罪者と犯罪手口を分類して膨大なカードを作り、各地の警察に配備するという科学的捜査方法を確立した。後に捜査局を辞して、世界最初の私立探偵事務所を開設したが、その利用者は3000人と記録されている」というのも、時代が違うと言えばそれまでだが、いかにも警察(機構)の草創期ならではの逸話なのだろう。

「著書に『ヴィドック回想録 Mémoires de Vidocq』(1827年)があ」るとか。
 小生は未読だが、「脱獄王、密偵、私立探偵の元祖。ジャン・ヴァルジャンのモデルとも言われる男の描く、欲と狡智が渦巻くフランス大革命下の庶民・風俗・犯罪を記録した、まさに悪の百科全書。初の完訳!」となると、フランスでは知らぬものはいないという英雄(?)である以上、一読はしておいてもいいだろう。

 とにかく、フランソワ・ヴィドック (Eugène François Vidocq)の生涯が「1775年7月23日」から「 1857年5月11日」だという点に留意しておいていいのではとも思う。

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2006/05/29

読書拾遺:装幀家・菊地信義氏

 土曜日の朝、仕事が終わった後から明け集(会)があって、一気に体調が狂ってしまった。
 拘束時間が前後の準備や片付け・報告の時間を合わせると21時間、通勤時間や出かける朝の準備、帰宅してから寝入るまでの時間を全て合わせると、23時間ほどになる。
 つまり、ほぼ丸一日ということだ。
 だから、仕事が終わったなら、とにかくまっすぐに帰宅し、牛乳を飲む程度ですきっ腹状態のお腹を誤魔化し、記事へのコメントがないかどうかを見て、あとはすぐに就寝。
 就寝といっても、すぐに寝入ることができるわけじゃないけど、目を閉じて体を休める。仕事が明けた当日は、翌朝まで休みといえば休みなのだが、体力の無さもあり、磨り減った神経、昂ぶった神経を鎮めること、体に頑固に染み付いた疲れを抜くことを在宅の間の<仕事>にしている。
 同僚の中には、明けの日には麻雀したり、パチンコに行ったり、競馬、ゴルフ、ボーリング、野球その他に興じる人も居るようだが、小生には信じられない(尤も、煙草や酒を含め、小生同様、仕事で苛立ったりしている気持ちをそうした遊びで慰撫しているのだと思う)。
 小生は、自宅にいる間はひたすら寝る。ベッドで寝て、飽きるとロッキングチェアーに鞍替えして、本を片手に居眠りする。
 在宅の間に、ほんのちょっと体力・気力が戻ったかなという時に(といっても、大概は誤解に過ぎず、気力の充実なんて、淡い期待・幻想に過ぎないと思い知らされるのだが)、パソコンに向かい、一気に記事を書き上げる。
 こんなだから、何かのテーマなり題材があって机に向かうことは、まず、ない。
 空白の画面、記事を作成する白い頁に向かってから、さて、どうしたもんか、である。
 何も出てこん。
 そりょそうだ。毎日、書くがモットーで、それはパソコン事情(ネット事情)が不具合で無い限りは厳守してきたわけで、とっくにネタなど尽きている(もともと、ネタがあったかどうかも怪しい)。
 そこからどうやって記事のネタを探すか、ひねり出すかは、稿を改めていつか書くことにする(多分)。

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2006/05/28

サポー…サッフォー…シャボン…チャポン

 中沢 弘基著の『生命の起源 地球が書いたシナリオ』(新日本出版社)を過日、読了した(その感想文は既に書いている)。
 ところで、この本を読んでいたら、話の本筋に直接は関係ないのだが、「サポー(sapo)が、ソープ(soap)の語源になった」(「石けんの起源 ビバ ☆ eco生活 ☆」から転記)といった記述があって、何故か興味が湧いた。
 小生は、今もって、花王の牛乳石鹸を愛用している!
 我が餅肌は(体型が餅だから、色白だから、その肌は餅肌と呼称されるのだが)花王の牛乳石鹸をガキの頃から一貫して愛用した賜物なのである。
 但し、肌のことを考えて、体を洗うのには石鹸は使わない。髪を洗うのにもシャンプーは使わない。専ら、お湯でのシャワーに頼っている。石鹸を使うのは必要最小限(要所)にと心がけている。
 なんたって、皮膚の不要な部分だけじゃなく、新鮮な(なけなしの)皮膚も傷める可能性があるし、ばい菌だけならともかく、常在菌までやっつけてしまう恐れがあるからだ。

Sionbouquet

→ お馴染み、紫苑さんに戴いた花束の画像です。いつも明るく活動的で前向きの紫苑さんです。過日も、「2006年5月25日木曜会・ユネスコ懇親会」にて「環境問題について1時間半」お話されたとか。

元祖発見!」なるサイトの「68.石けんの元祖は臭かった?! 植物由来の原料に変えることでニオイを克服~「石けん」 」が詳しい説明を与えてくれる。
「今回は4(よい)月26(ふろ)日「よい風呂の日」にちなみ、入浴の友「石けん」について、その歴史を尋ねてみましょう。」とのことだが、小生も、もう一月早く本書『生命の起源 地球が書いたシナリオ』を読んでいたら、この話題に飛びついていたはずだが、でも、上掲のサイトをネット検索で発見したら、付け足すことなど何も無い、ということになっていただろうから、遅きに失していてもメモだけしておく。

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「自己紹介バトン」だって

自己紹介バトン」ってのが、一部で行われているみたい。
 基本的にはバトンのリレーだけど、次に渡す相手の名前(候補)を文面に書いておくだけで、相手のサイトへ書き込むわけじゃないので、覗きに来た人が受け取るかどうかを決めるシステムになっているみたい。
 でも、バトンのリレーには違いない。
 それと渡す相手の人数は5人だって!
 常連というか、それなりに覗きに来てくれる人が5人も浮ばない。
 お気に入りには何人もリストに載せているけれど、これは、小生が気に入って覗きに行っているサイトであって、先方がたまにでも来てくれるというサイトではない。
 一言で言うと、一連の小生の片思いの相手のリストといったところ。あまりに多くなるので、最近はリストに新規の方を載せるのも止めている。
 アクセス解析の機能がこのブログには付いている。詳しくは分からないが、小生のサイトもお気に入りに入れてくれているサイトも結構あるようだが、日に400から550ほどあるアクセス数の大半は、ネット検索の網に小生の記事(の中の言葉)が掛かってのことで、では、実際に記事を覗いてくれているかどうかは、分からない(来週、前半には「無精庵徒然草」は累計アクセス数が15万となるはず)。

 そんなこんなで、Pfaelzerweinさんのところで見かけた「自己紹介バトン」は、小生のルートに関しては途絶えることになる。

 ちなみに、バトンの内容を書いておくと、以下のとおり:

回す人を最初に書いておく(5人)。
お名前は?
おいくつですか?
ご職業は?
ご趣味は?
好きな異性のタイプは?
特技は?
資格、何か持っていますか?
悩みが何かありますか?
お好きな食べ物とお嫌いな食べ物は?
貴方が愛する人へ一言。
回す人5人を指名するとともに、その人の他者紹介を簡単にお願いします。

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「落句拾遺 5-1」アップ!

 昨日の朝だったか、会社の用事があって帰宅がいつもより遅くなり、昼前となった。
 その帰り道、雨の中をバイクで走らせながら、何故か不意に「目玉焼きが食べたい!」と思ってしまった。
 小生、料理はできないが目玉焼きは何故か得意。
 で、夕方になって図書館などの帰り、スーパーへ。
 そこで、はたと気づいた。
 どうして、目玉焼きのことが思い浮かんだのか。
「紫と言えば醤油!」のコメント欄に書いたが、この日のブログに、醤油の話題を採り上げながらも、「皮肉にも醤油もポン酢も昨日で切らしてしまって、今日、夕方の買い物で買い揃えるはずが、店内の綺麗な女性に見惚れて、すっかり忘れてしまって、帰宅して、しまった!」だった。
 そして、今日こそは醤油を、ポン酢を買わないとって、思い続けていたようだ。
 で、どうやら…、醤油 → 目玉焼き というあまりに素直で短絡的な連想が働いたようなのである。
 分かりやすい人間だ!
 
 さて、本題である。

落句拾遺 5-1」アップしました!

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2006/05/27

加齢臭だってさ

 サイト巡りをしていたら(在宅の日は、最低でも数十個はサイトを巡る)、あるサイトの記事の中に「nlog(n) 加齢なる日々の始まり」という題名があった。思わず、クリックして覗き込んでしまった。なかなか興味深い、というか、同病相哀れむというか、読むほどにしみじみしてしまった。
 記事のテーマのキーワードは「加齢臭」である。

 小生、別に反論ということではなく、「加齢臭」なる言葉を生み出した当該の対象、同時にこうした言葉が堂々とまかり通ってしまう世の中に義憤を感じて(?)、以下のようなコメントを書いた:
 加齢臭という名称には違和感があります。いかにも化粧品会社の化粧品を売り込むための戦略が見え見え。
 年を取ることに対する偏見を助長しそうな気がする。
 皺が増え、肌が荒れ、髪が白くなり、体が弱くなる。そういった自然の加齢現象をもっと尊重していいのでは。
 って、こんなこと言っても、負け惜しみですかね。女性陣は聞く耳を持ってないんだろうな

Rengemomiji

→ 話題が話題なので、せめてもの一服の清涼剤というわけじゃないが、蓮華草さんに戴いた「椛の種が、色づいて…」という画像を。恥ずかしながら、「椛」は「もみじ」と読むらしいことを初めて知った。但し、「紅葉(もみじ)」との異同が分からない。多分、漢字表記の違いだけだと思うのだけど。

芽吹く葉に浴びる日さえも目を細め

 まあ、反論にもならない、加齢臭の元と名指されるやもしれないことに危惧する男の、ただの愚痴に過ぎない。
 さて、こんな記事に敏感になるというのも、今朝、仕事の明けに会社で集会があったからかもしれない。
 昨日の午前から始まった仕事が終わったのが今朝の6時半頃。少々、仮眠を取って、8時半前から組合主宰の話が少々、直後に会社側主宰の集会が始まった。
 タクシードライバーの休憩所となっている広い部屋に集まる面々…。
 小生は今年、誕生日を迎えて52歳となっているのだが、この小生が若手に入るのだから、恐れ入ったか、である。

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2006/05/26

タンブル・ウィード…風転草

 小生は、失業時代の94年に「スパニッシュ・モス」と題した900枚ほどの小説を書いたことがある。書き上げた分については300枚のまとまりで3部構成になっていて、あと1部300枚書いて4部で完成というところで、失業保険の給付も途絶え、時間切れに終わった幻の作品。
 手元には900枚の原稿が空しく残っている。

 この作品の題名の「スパニッシュ・モス」は、知らない人には珍しい名前かもしれないが、観葉植物に興味のある人だと、あるいは、ああ、あれか、ということになるかもしれない。

Salsola_tragus5_1

→ これは、「タンブル・ウィード (ロシアアザミ、回転草)

 念のために画像を示しておくと、「Spanish moss スパニッシュ・モス」がいいかも。
 冒頭に、「スパニッシュ・モスは木に着生する植物です。木の枝の至るところから白いボロ切れみたいにぶら下がるので、木全体をお化けみたいに見せます。昼なお暗い湿地などで、こういう木々に取り囲まれると恐い思いをするでしょう。」という説明がある。
 ホント、広い砂漠で一人、こんな光景の只中にあったら、心は荒廃するかもしれない(あるいは人によっては反ってノビノビするかもしれないが)。
「スパニッシュ・モスは木に着生する植物」ということで、「エアー・プラント」(又は、「エアプランツ」)という一般的な呼称で呼ばれる植物の一種である。
「「モス」という名にかかわらず、スパニッシュ・モスは苔(コケ)ではなく、寄生植物でもありません。根は無く、水分は空気中から、養分は漂う塵から採るのだそうです。湿気の多いところでないと生きていけないわけです。」というが、小生、「水分は空気中から、養分は漂う塵から採る」という点にイメージが掻き立てられ、小説の題名に採ったわけである。

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2006/05/25

読書拾遺…樹の花にて

 あと一時間ほどで仕事も終わろうという、今朝の未明、「日本一遅く咲く桜として有名」だという「千島桜」の話題がラジオから聴こえて来た。
 小生には(多分)初耳の桜。桜の好きな人、旅の好きな人なら知っているのだろうけど。
 ネットで検索してみると、「根室見所情報室 千島桜 18年5月22日の状況」という頁が浮上。画像ではほぼ満開となっているが、ラジオの話は今朝だから、今日など転記も良さそうだし、目一杯に咲き誇っているのだろう。
根室見所情報室 千島桜 開花状況! 平成18年5月12日~」を覗くと、つぼみの状態から徐々に芽吹く様子が画像を通して愉しむことができる。
「千島桜」は、「高さ1~5m、直径5~10cmぐらいになる落葉低木」とのことで、画像を見ても、本土の桜並木とは明らかに雰囲気が違う。気候風土が違いを齎したのだろうか。
 目に付く違いは花びらにもあるようで、「花の径は2~4cmで花びらの先はわずかに凹んでいる」のだとか(太字は小生の手になる)。

Kikuti1

→ 樹の花の香り漂う銀座かな

 東京では、昨日は午前中から午後にかけては晴れていて暑いくらいだったが、午後の四時前から一気に天候が急変。雷雨となった。そのため、普段はタクシーを利用されない方も乗られるということで、やたらと忙しい一日となった。さすがに本は読めない。
 それも、夜半を二時間ほど回ると、雨も峠を越し、仕事も落ち着いてきた(暇になってきた)。

 開くのは本。水曜日に持ち込んだ本は、菊地信義氏著の『樹の花にて』(白水Uブックス―エッセイの小径)というちょっと変わった題名の本。

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2006/05/24

加藤楸邨と隠岐と

詩人の眼 大岡信コレクション展」では、個々の作家に深入りはしなかった。
 せっかくなので、折々、このコレクション展で展示されていた作家たちのうちの誰彼に触れていきたい。
 今日は、表題にあるように、加藤楸邨である。
 なんといっても、このブログサイトは、「国見弥一の季語随筆読書創作日記」と銘打っていて、筆頭には季語随筆となっている。当初は、俳句に関係する記事を綴るつもりだったが、だんだん、欲が出たというか話題が広がって、今では「季語随筆読書創作愚痴日記」と相成っているのである。
 一昨日も「三鷹市美術ギャラリー カレンダー」なる頁を参照したが、小生はどのような方々との交流があるのかは知らないで会場に行ったので、まさか俳人の加藤楸邨とも交流があり、同氏の作品とのコラボレーション作品が展示されているとは思わなかった(小生の想像力の貧困を物語っているに過ぎないけれど)。

 加藤楸邨との交流を示す作品群の脇には大岡信氏によるコメントが寄せられている(文中の「花神社」とは出版社名):
 前から、藤原俊成の和歌や加藤楸邨の句に付け句をしていたので、そのうち五編くらいを持って大田区の楸邨さんを訪ねました。花神社の大久保憲一君が連れて行ってくれました。楸邨さんは友人の安東次男の俳句の師匠でしたし、その句風からも、親しい気持ちを持っていました。楸邨さんは、すばらしい筆や硯をお持ちで、いつもそれを使わせてくれて、いくつか僕もいただきました。竹をささらにした筆などもあって、それを使って、宇佐美爽子さんの絵に僕が字を書くという試みをしたこともあります。

 さて、どんな連句の試みが展示されていたのか、その全てを紹介はできない。以下、二つだけ。
 前者(のんのんと)は、「三鷹市美術ギャラリー カレンダー」に画像が載っているので、雰囲気を感じてもらいたい。

 のんのんと馬が魔羅振る霧の中   楸邨
        差す手引く手も魔羅もまぼろし   信

 牡蠣乃口も開かば月さし入らむ   楸邨
        りんりんと鳴れ舌も潮も   信

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2006/05/23

紫と言えば醤油!

紫陽花の花言葉は…移り気」なる記事に興味深いコメントを戴いた。内容はコメント欄をどうぞ。
 小生は、戴いたコメントに以下のようにレスしておいた:
 そう、紫陽花はまさに淡い中途半端な色合いですね。固執執着しないが故に移り気なのか、それとも(花びらの色合いは、土壌の酸性度に敏感に反応してのものだという事実を鑑みると)目の前の現実(土壌、相手)に固執するが故に次々と目前の相手に惚れ賛美するから、(その浮気っぽいかのような行動が他人には)移り気に見えるということかもしれないですね。

 濃い紫は、特に日本においては尋常な色とは看做されていない。古代だと高貴な色であり、神秘の色、一般人には使いこなすのが難しい色でもあったような。
 現代だと、紫色のボディの車に乗っているのは、高貴な人じゃなくて、大概、暴走族まがいのチンピラだしね。
今、映画で話題(?)の「イエス・キリストはその死に際して、紫の衣をまとわされていた」とか(古代ローマでは王が死の時は紫の衣を纏う)。
 色の事は、人の気持ちを昂ぶらせるものですね。

 あ、そうそう、今朝、バイクでの会社からの帰り道、路肩に今の時期にしては珍しく鮮やかな色合いの紫陽花を発見。あまりに意外で、思わずハンドルが取られそうになった!

 このレスを書いていて、ふと、そういえば、なるほど、紫陽花という花の名前の中にも含まれる「紫」について調べてみるのも面白いかとネット検索しようと思った。
 けれど、「紫 - Wikipedia」にて話は尽きているような気がする。
 あるいはここから話を膨らませるのも楽しからずや、だが、「江戸紫」という言葉や、それ以上に「筑波山の別名は「紫峰」である。これは、紫に霞む山裾に因んでいる。又、昔は醤油が「紫」と綽名されたが、これは筑波山に因んで「紫」というブランドを付けた事が始まりらしい。」という記述にビビビと来た(太字は小生の手になる)。

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2006/05/22

詩人の眼 大岡信コレクション展

 久しぶりの晴れ。風もそよ吹くようで、土曜日のように午後、遅くになって急変する予感も漂っていない。気温は25度以上だったと思う。
 そんな陽気に誘われて、それとも誘い出されて、「三鷹市美術ギャラリー」へ行って来た。
 会期が残すところ一週間となった「詩人の眼 大岡信コレクション展」へ足を運んだのだ。
 家を出たのが遅くて三時半を回っていたか。バイクで一路、三鷹へ。駅の周辺で会場を探すのに手間取り、会場に入ったのは四時半過ぎだったろうか。
 この頃、外出というと、帰省も含め電車を使うので、バイクでのクルージングは快適だった。吹く風が心地いい。

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→ 壁の悪戯書き…じゃない!
 
大岡が活躍を始めた60年代とは文学、音楽、美術がそれぞれの狭い垣根を外して立体的に交錯した時代でした。そのような中にあって大岡は国や分野をはるかに超え出てあらゆるジャンルの芸術家と出会い、幅広く交流し、互いに触発し合い時代の空気を共有してきたのです。そして数多くの共同制作をも生みだし、大岡の手元には400点を超える作品が残されてゆきます」という。コレクションの数だけなら、もっと凄い人は日本に限っても少なからずいるに違いない。
 が、凄いのはその所蔵する数よりも、その作品の良質なこと、否、それよりも、どの作品も大岡氏が交流する過程で貰ったり買ったりしたものだという点である。大岡氏へ、と名指しで寄贈された作品もサム・フランシスを始め、何点もある。

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2006/05/21

生命の起源 地球が書いたシナリオ

 中沢 弘基著の『生命の起源 地球が書いたシナリオ』(新日本出版社)を読了した。
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 車中で読むには嵩張るし、興味津々の話題を扱っているので、読みかけの本を差し置いて、一気に読んでしまった。

 版元である新日本出版社による紹介は、以下の通りである:
「生命は地下で発生し海に出た――依然、謎とされる「生命の起源」にまったく新しい観点から挑む探求。完全な無機世界からの有機分子の出現、生命の発生は、いつ、どのように起きたのか。解く鍵は、46億年のダイナミックな地球の歴史にあった。「太古の海は生命の母」という常識がくつがえる豊かな世界が見えてくる。 」
 この頁には、目次も細目に渡って載っているので、勘のいい人なら目次をつらつら眺めるだけで本書の概要が分かるかもしれない。

 著者の中沢 弘基氏に付いては小生は本書を手に取るまで全く未知の人だった。
 が、「生命の起源・地球が書いたシナリオ 紀伊國屋書店BookWeb」によると、「物質材料研究機構フェロー、1940年長野県生まれ。元東北大学大学院理学研究科教授、元無機材質研究所総合研究官、特別研究官、元日本粘土学会会長。主な受賞など―日本結晶学会賞(1978)、科学技術庁長官賞(1986)、井上春成賞(1992)、日本発明協会発明賞(1999)ほか。紫綬褒章(2000)」とあって、実績も業績もあって(本書の奥付けにある紹介もこの程度の著者紹介である)、その筋の人なら知らない人はいないのかもしれない。

「生命の起源」はいずこにありや、いかにして成るや、についてはこれまでも様々に語られ研究もされ、仮設も立てられてきた。

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2006/05/20

葉桜の季節も過ぎ去って

 午前中は昨日の仕事(といっても終わって帰宅したのは朝の七時過ぎ)の疲れが残っていて、グロッキー状態で、午後、トーストと牛乳の朝食をとったら、少し体が戻ってきたような。
 机に向かうちょっと前までは晴れていて、野暮用があって外を出歩いたら汗ばむほどの陽気だった。久しぶりに上はポロシャツ一枚での外出。

 が、帰宅して一時間も経ったろうか、窓の外がざわめくような。
 まさか、雨?
 まさか、だった。雨だ。それもシトシトじゃなく、ザーという本格的なもの。
 慌てて洗濯物を取り込む。
 そういえば、晴れてはいたけど、風が強く、天気が変わりやすいのかなとは思っていたけれど。
 晴れと雨と五月の空。

 ホームページの掲示板に北海道はライラックの季節を迎えているという書き込みがあった。
 せっかくなので、ライラックをキーワードに季語随筆を綴ろうかと思ったが、あれ? これは前に扱ったことがあるぞ…。
 そうだった! 昨年の四月、「ライラック…リラ冷え」にて渡辺淳一氏が書いた『リラ冷えの街』という小説を糸口に、さらっとだが綴っている。
 渡辺淳一氏というと、小生が思い出すのは、彼の原作を映画化した同名のタイトルの『阿寒に果つ』(1975 東宝)である。
 ロマンポルノやピンク映画以外は、誘われでもしない限り、一人では映画館へ足を運ばない小生が、学生の頃、主演の女優さんを見たい一心で、ちょっとドキドキしながら映画館の入り口をくぐったものだった。
 小生のお目当ては主演の五十嵐じゅんさん。後に五十嵐淳子さんと改名され、或る日、俳優で歌手の中村雅俊さんと結婚されてしまった。

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2006/05/19

紫陽花の花言葉は…移り気

 このところ東京(に限らないけれど)は曇天続きで雨の日が多い。梅雨に入ってしまってるんじゃないかという話題がラジオから聞こえてくるし、車中でも交わされる。
 今も外はシトシト雨。
 そこで、梅雨と言えば紫陽花と、単純に連想する小生のこと、一ヶ月ほどの間、眼福の時を恵んでくれたツツジの季節も終わりつつあることだし、次は紫陽花に期待するしかない。
 紫陽花をテーマに季語随筆日記を綴ろうかと思ったりもする…けれど、せっかちな小生のこと、既に昨年の五月、連日、「紫陽花」を巡っての雑文を綴っている:
「シーパラダイスで紫陽花」(2005/05/29
「季語随筆拾遺…紫陽花と雛罌粟」(2005/05/30

 さて、上掲の「シーパラダイスで紫陽花」は、その日、サンバのイベント「エンコントロ・ジ・アルモニアEncontro de Harmonia 》 」が場所は横浜・八景島シーパラダイス内、野外広場で催され、小生はスタッフ兼ギャラリーとして参加(というより実質)見物してきたのだった。
 すると、その会場の八景島シーパラダイス内のあちこちで紫陽花の咲く光景に恵まれたので、早速、あれこれ雑文を綴ったのである。
 ちなみに、昨年のサンバのイベント「エンコントロ・ジ・アルモニア《 Encontro de Harmonia 》 」については、以下のような簡単なレポートをメモっていた:
エンコントロ・ジ・アルモニア(1)
エンコントロ・ジ・アルモニア(2)
エンコントロ(3)…サンバ写真

 その「エンコントロ・ジ・アルモニア」は今年も同じ場所にて開催される。ホームページのスケジュール頁を覗いても、もう一週間余り先に迫っているというのに、詳細が書いてないのが残念だ。
 小生が知っているのは、開催日は5/28(日)だということだけ。実際に始まるのは午後(昨年も午後だった)だろうということ。
 リベルダージ(G.R.E.S. LIBERDADE)のホームページ公式スケジュールの頁)に詳細が載ったら、改めてお知らせするつもり。

 季語随筆を書き始めた一昨年の秋口以前にも、例えば、「梅雨のあれこれ(紫陽花編)」を綴っていた。
 ちょっと異例な(?)雑文だと、「紫陽花ばなし?」がある。ほとんど、沈丁花の話題なのだが、しかし微妙に紫陽花の話でもあるのだ。

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2006/05/18

もうすぐ「没後30年 高島野十郎展」

 本ブログサイトの記事「土屋輝雄・久世光彦・高島野十郎…」の中で高島野十郎のことに触れている。
 が、この時は、作家の久世光彦氏の著書『怖い絵』(文藝春秋社、文春文庫所収)を読んでいる最中で、生涯、蝋燭の焔…というより、燃えて次第に溶け行く蝋燭とその焔を描き続けた高島野十郎を紹介しつつ久世氏の富山での個人的な思い出を語っている、その久世氏や彼の著書の感想に比重を架けていた。
 実際、この記事を書いて間もなく、やはり『怖い絵』の中で扱われていたベックリンの「死の島」に遠い昔、ベックリンの絵に魅せられたことを思い起こしつつ、「ベックリンの「死の島」と髑髏」なる記事をも派生させていた。
 高島野十郎については、上掲の記事で大凡のことは触れているが、どちらかというと、どういったサイトへ行けば(飛べば)情報が得られるかに終始している。
 その後、実物を観たわけではないのに、多くはパソコン上のいろんなサイトで、あるいは借り出した本の表紙という形で雰囲気を愉しむ、それとも想像し思い入れているに過ぎないのに、高島野十郎の特に「蝋燭」(油絵)の絵がずっと脳裏の片隅に居座り続けている。

没後30年 高島野十郎展」の会期が近づいてきたからであろうか、我が記事「土屋輝雄・久世光彦・高島野十郎…」へのアクセスもこのところ増えている。
(最近、アクセスが多いのは、「青葉繁れる…目に青葉」である。一年前の記事だが、五月らしいからなのか…。)

Siongakuajisai

→ おなじみ紫苑さんに戴いた額紫陽花の画像です。相変わらず多彩な活躍をされているようです。小生とは好対照?!

 朝日新聞(5月17日付け)に関連の記事が載ったこともあるし、せっかくなので、ここでもう少し、若干の、例によって雑多な情報を追加しておきたい(あるいは一部、ダブりがあるかもしれないがご容赦を)。
 医学(癌)に関する専門家によるきちんとした情報が欲しい時、とりあえずは覗かせてもらうサイトに「外科医・山内昌一郎のホームページ」なるサイトがある。
 我がブログをたまにでも瞥見される方は、あるいは、ああ、また登場願うのかと思われるかもしれない。
 このサイトの中に、「野十郎の炎」(高島野十郎)という頁がある(「土屋輝雄・久世光彦・高島野十郎…」の中で既に紹介は済ませてある)。

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2006/05/17

胡蝶の蝶はアゲハチョウ?!

深山霧島…坊がつる賛歌」の中で、都心の路側帯や街路を彩るツツジは厳しい環境の中で健気に咲いていて素晴らしい…云々という話をし、ところで、都心の植物を眺めていて気づくある特徴のことに話が及んでいる。
 つまり…、
 住宅地は、場所によっては違うかもしれないが、その特色とは、花というと付き物のはずの蝶や蜂などの昆虫類の姿を見ることが極めて稀だということ。
 都心の植物にだって花もあれば蜜もあるだろうに、蝶が舞うとか、蜂がブンブン飛んでいるとか、天道虫がサンバを踊っている、なんて姿は一向に観られないのである。
 花粉は風任せなのだろうか。受粉はどうやっているのだろう。

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→ 15日、たまたま通りかかった歌舞伎座。タクシー稼業を始めて一年にもならない新人の頃、タクシーから降りてくる杉村春子氏を見かけたっけ。それから一年あまりほどして女史は惜しくも亡くなられたのだった。歌舞伎座の前を通ると、何故か、あの日、タクシーを降りる女史の姿が思い出されてしまう。

 この頁では、「そんなことを、「ミヤマキリシマ(深山霧島)大群落/霧島」なる頁の一番冒頭の写真に写っているアゲハチョウ(アオスジアゲハ?)の雄姿を見ながら、なんとなく思った」としているが、実のところ、都心を車で流していて、しばしば思うことでもあった。
 今、受粉のメカニズム云々の話題にここで入ろうとは思わない。
 たまたまお気に入りのサイトで「濡縁に揚羽蝶来ぬ忍び足」なる句を見つけた。
 無論、季語は「揚羽蝶」で、夏(三夏)の季語である。
 何かの縁と、せっかくなので遠い昔、昆虫採集に打ち興じた懐かしい思い出もないわけではないし、ツツジの話から蝶々の話へと美しく舞うように話が展開することでもあるし、少し、調べてみたいと思った。

 それに…、そう、東京の都心では、めったに蝶々の雄姿には出会えないし。

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2006/05/16

W杯メンバー発表!

 昨日は仕事だったが、W杯メンバー発表の時間である2時前には都内某所で休憩に入った。仮眠を取る時間でもあるが、この日に限っては、ジーコ監督が発表するW杯メンバーの顔ぶれを逸早く知りたくて、1時半過ぎには車を回送にして発表を待ち受けていた。
 川渕氏の話の後、いよいよジーコ監督がメモを読み上げる。
 別に小生がここにメンバーの名前を紹介する必要がないのだが、個人的な関心事でもあるので、「@niftyジーコ公式サイトジーコジャパン レポート」よりメモしておく:


選手名   生年月日 身長 体重  所属
GK
土肥 洋一 1973.7.25 184cm 84kg FC東京
川口 能活 1975.8.15 179cm 78kg 磐田
楢崎 正剛 1976.4.15 185cm 76kg 名古屋

DF
田中  誠 1975.8.8 178cm 74kg 磐田
宮本 恒靖 1977.2.7 176cm 72kg G大阪
三都主アレサンドロ 1977.7.20 178cm 69kg 浦和
中沢 佑二 1978.2.25 187cm 78kg 横浜M
中田 浩二 1979.7.9 182cm 74kg バーゼル
坪井 慶介 1979.9.16 179cm 67kg 浦和
加地  亮 1980.1.13 177cm 73kg G大阪
駒野 友一 1981.7.25 171cm 73kg 広島

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2006/05/15

田中恭吉の版画に再会する

 絵は描くのは苦手だが、観るのは好きで、美術関係の本も買うし展覧会や画廊へもしばしば足を運んだ。大概は名前は知っているが実物を観るのは初めてで、実物に対面する喜びを感じる。
 で、その余韻を少しでもというわけでもないが、美術展があれば画集(図録)を売っている限りは入手に努めてきた。
 というより、画集は本屋さんで求めるのではなく、あくまで展覧会へ行った記念に図録を手元に置くというポリシー(?)だったのである。
 結構、その点に付いては依怙地なところがあって、画集というと、美術全集とかあるいは画集の形で出版社から刊行された本ではなく、図録に拘るというのは基本的に続けてきたように自負(?)している。

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→ 青梗菜さんからいただいた月の画像です。題して「月に吼える」だとか。小生には月を呼ぶように願っているというメッセージを送ってくれました。
 そういえば、この頃、なかなか月影に恵まれない。曇りがちの日が多い。夜、月影があの辺りにあるなと分かっていても、分厚い雲が視界を遮る。

月影を面影に見て募る恋

 そうはいっても、数年前に経済的に不如意になってからは展覧会へも足が遠退いていった。交通費や入場料もさることながら、小生は美術展に行ったなら必ず図録を手にして帰るというパターンへの固執の念を自分で払拭することができなかったのである。
 そうして展覧会の類いから縁遠くなって、それでも、絵を観たいという気持ちは抑え難いものがあり、ついつい画集を入手してしまうようになった時期も僅かだが、ないではない。

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2006/05/14

深山霧島…坊がつる賛歌

 図書館が来週一杯、連休に入るということで、冷たい雨の降る中、徒歩でビニール傘など差して夕刻、向かった。五月も半ば近いからと、ジャケットは羽織ったものの薄着だったもので、寒いこと!
 欲したのは、自宅で読む本は既に四冊、借りているので、車中で読めるような薄手の本。
 が、こんな時に限って単行本で掘り出し物に遭遇する。
 新刊本のコーナーでいきなり二冊。
 一冊は、ジェイムズ・モートン著の『わが名はヴィドック』(栗山 節子訳、東洋書林)である。ヴィドックというと、知っている人は知っているのだろうが、小生はほとんど初耳だった。サブタイトルが、「犯罪者、警察密偵にして世界初の私立探偵の生涯とフランス革命時代」で、レビューには、「ポーが一目置き、バルザックがモデルにした男、ヴィドック。一犯罪者に過ぎなかった彼は、その狡智によってフランス警察の要職にまで上りつめ、ついには世界初の私立探偵となった。知られざる怪人の波瀾万丈の物語。」とある。
 そう、ヴィドックであって、今、流行のデトックス(Detoxification detox)の本ではない!
[ 正確には、デドックスなのか、デトックスなのか。ネットでは両方ともに使われている。ネット情報の危ないところだ。英語が「detox(解毒・解毒する)」ならば、デトックスなんだろうが。それにしても、こんな健康法(ダイエット)が流行るなんて、不思議な現象だ。痩身商法が限界に来たから新手の商法だ、というわけか。
 小生、当初はラジオから情報を随分前から漏れ聞いていたので、デトックスなのかデドックスなのか、ゲドックスなのか、聞いていて分からなかった。最近は、新聞での広告も含め文字情報に接する機会が増えて、恐らくはゲトックスなのだろうと判明した次第。
 ただ、その中身は不明のままだ。  (06/05/21 追記)]

 この頃、理屈っぽい本を読み続けているので、ちょっと痛快(?)な本をということで、バルザックも好きな作家だし、波瀾万丈の物語を久々に堪能してみたかったのだ。

 もう一冊は、中沢 弘基著の『生命の起源 地球が書いたシナリオ』(新日本出版社)で、「生命は地下で発生し海に出た-。流動する地球の歴史をふまえた探求が、「太古の海は生命の母」との常識を覆す。原始地球における分子の自然選択による斬新な生命起源論。 」といった本。
 生命の誕生説については、様々な説が出ているが、「生命は地下で発生し海に出た」といった説は小生には初耳。
 困ったことに二冊とも単行本で車中で読むには嵩張って困る。
 でも、読みたいという欲求には勝てないので、一応、新書や文庫本を物色はしてみたけれど、とりあえずはこれに勝るものが見当たらず、雨中、二冊の本をビニール袋に詰め、ビニール傘を差しつつ、帰宅の途に付いたのだった。

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2006/05/13

「サンバでガンバ」新作!

 小生がファンになっている「サンバでガンバ」シリーズ記事の新作がアップされた。テーマは、「サンバ(リベルダージ)はインターナショナル」ってところか(ちなみに我が富山には、何年前の資料だか分からないが、約1,700人のブラジル人がいるとか):
サンバでガンバ VOL.15|ネピア
(ホームは、「ネピア」)

 小生はサンバチーム・リベルダージ(G.R.E.S.LIBERDADE)のメンバーだが、実質幽霊会員である。それでも、自称だが、後方担当である。
 勝手に(チームの誰にも断りなく)パレードのレポートを書いたり、画像をアップさせたりして顰蹙気味のようだ…。
 当然ながら、正式の広報担当の方である「おーゆみこ」さんがいるので、気の小さな小生、遠慮して広報ならぬ後方担当というわけである。
 実際、パレードでも練習などの場でも小生の姿を垣間見ることは不可能だから、後方ではなく遠方の弥一と名乗るべきかもしれない。
 一方、「おーゆみこ」さんは、嘗てはダンサー(パシスタ)であり、今はチームのプシャドーラ (女性のボーカル)であり、ライブ活動もされている。

 おーゆみこさんのホームページ:「天使とサンバ!
 人気の頁はいろいろあるが、「おーゆみこ、観て、書く」なる頁もその一つ。「NHKの「朝の連続テレビ小説」)いわゆる「朝ドラ」)を観て、あらすじと感想を毎日!書いてます。」というもの。
 リベルダージのホームページ:「G.R.E.S.LIBERDADE
 小生は、「G.R.E.S. LIBERDADE---About us:毎年恒例の式根島旅行---」が楽しみな頁だ。

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読書拾遺…素数の音楽など

 ハーマン・メルヴィル作の『白鯨』を二ヶ月以上を費やして読んで、なるほど凄い作品だと感じ入ったので、勢い余って、同じくメルヴィルの『ピエール』(坂下 昇訳、国書刊行会)を借り出し、昨日から読み始めた。
 ピエールにメルヴィルと来ると、映画好きな方なら「リスボン特急 (1972) 」や「恐るべき子供たち (1950)」などを撮った、あるいはフィルム・ノワールで有名なジャン=ピエール・メルヴィル監督をつい連想するかもしれない。
 この監督、本名は違っていて(Jean-Pierre Grumbach)、小説家のハーマン・メルヴィルから名前を取ったのである。
 ちなみに、ハーマン・メルヴィル(Herman Melville, 1819-1891)その人の出自についてはまだ調べていないが、小説『ピエール』では、主人公のピエールの先祖はフランスだとか(これもあやふや)。

 小説『ピエール』は、「1846年2月(26歳)、タイピー族部落で暮らした体験を元に第一作『タイピー』を出版」し、一定の成功を収めていたのが、本書で彼の評判は地に落ちたといういわくつきのもの。
 訳の文章に手こずりながらも(読者レビューを読むと、「まず驚くのは、翻訳とは思えない文体の美しさである」とあるけれど、小生には少々古臭くて読むのが辛い。馴れたら違ってくるのだろうか。それでも読むのは『白鯨』の余韻が残っているからということもあるが、図書館で拾い読みした時、地の文に力を感じたからに他ならない)、本書でもメルヴィルの魔性ぶりが面目躍如する予感がタップリで、『白鯨』と相俟ってこれでは、ありふれた海洋モノ、冒険モノ、異境モノを求める一般読者のニーズに応えられないどころか、そもそも理解不能あったのも頷ける。
 ちょっとしたジャングルでの冒険を求めていたのに、居間で寛ぐ格好のまま、いきなりヒマラヤかエベレスト登頂に強引に連れ出されたようなものだ。
 本書の感想は別の機会にする(かもしれない)が、参考のため、「EXPLORE MONOGAMY BLOG 20051123 [読書]『ピエール』ハーマン・メルヴィル(国書刊行会)」なるサイトを示しておく。

 さて、今日は、まだ本書を読み始めたばかりなので、感想ではなく、例によって余談・散歩・脇道である。

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2006/05/12

異色のタクシードライバー…横山博人監督ほか

 異色と言っても、映画やドラマの話ではない。また、小説の中の登場人物の話でもない。
 映画だと、監督がマーチン・スコセッシで主演がロバート・デ・ニーロの「タクシードライバー」を真っ先に思い浮かべてしまう。小生はロバート・デ・ニーロのファンで、めったに映画館には足を運ばない(昔はピンク映画とかロマンポルノには通ったが、他のジャンルの映画はまず、行かない)が、ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ」や「アンタッチャブル」は彼が演じているというただそれだけの理由で映画館へ行ったものだ。
 ただ、「タクシードライバー Taxi Driver (1976) 」は、「ゴッドファーザーPART II The Godfather: Part II (1974) 」での彼の評判を知っていたかどうか危うい。多分、この頃は、仙台の場末の映画館でピンク映画を観るのが息抜きになっていたはずだから、テレビでしか見ていないかもしれない。
 そのほか、観る気にはまるでならなかったが、「TAXI NY」などなどいろいろある。
 日本のテレビドラマでは、「梅沢富美男と前川清がタクシードライバーに扮し温泉街を駆け巡る」という「TBS「月曜ミステリー劇場 駅前タクシー湯けむり事件案内(3)」」や渡瀬恒彦主演の「土曜ワイド劇場「タクシードライバーの推理日誌」(テレビ朝日系)」などは大概は再放送でだが(夜は眠いし、ニュース番組を優先して選ぶので、ドラマモノは見る時間がない。
 仕事が終わった明けの日、日中は断続的に眠るのだが、その合間に再放送ドラマを見つつ食事や居眠りをするのが日課なのである。
 こうしたドラマでのタクシーやドライバーは現実味があまりなくて、多少なりともタクシー業務の実際を知る者には見るに耐えない面もあるのだが、逆に言うと現実離れしていることは歴然としているから、実態と懸け離れていても怒りの念など湧く事はない。まあ、大人の童話ドラマを見ているようなものだ(中身は大概、殺人事件が絡んでいるから童話とは言い難いのかもしれないが)。

 他にタクシーモノの映画やドラマ、小説はリストを作るだけでも長くなりそう。
 まあ、それらはそれらで興味深いが、それはまた後日、ということで。特に小説関係は特集したいね。
 今日は、実際にいる(らしい)異色のタクシードライバーを一人、二人だけ、紹介してみる。

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2006/05/11

タクシー事情追記

タクシー規制緩和の見直し」といった記事を7日に書いたばかりなのだが、今日までの間だけでも若干の追加すべき情報を得ることができた。

目次:
不況と自殺者の増加
タクシーの社会的規制
タクシーの社会的役割
閑話休題:タクシーと防犯
健康増進法と遅れている禁煙タクシー化
タクシー 便利さと安心の両立を(新聞の記事から)

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→ 5月10日頃より自社のタクシーに貼ってある「タクシーこども110番」なるステッカー(5月15日撮影)。
 少子化対策の一環として「タク育児輸送に助成」という構想も国交省が検討しているとか。あるいは「タク運転者の歩合賃金に問題意識」という北側国交相の参院委での発言も注目される。(←「東京交通新聞」)タクシー・ハイヤー・バス・介護などの専門新聞)より。05/16 追記))

不況と自殺者の増加
 上記の記事の中で、「97年8月から始まった橋本龍太郎不況(その年の4月に行われた減税の廃止、消費税のアップなどなどの結果が表面化したのが8月だった。実際は、財務省(旧大蔵省)不況というべきだろう。財務省当局の言いなりで政策を決定したツケが国民に、国に回ってきたのだ)で、一気に流しの営業が不調となった。」と書いているが、データ的な裏付けを施していない。
参考資料:警視庁発表 自殺者数の統計」なる頁に載っている「自殺者数の年度推移」という表が不況ぶりを如実に物語っている。
 特に平成9年(97年)から10年(98年)の間での数字の変化に注目してもらいたい。
 98年は97年に比べ、24,391人から32,863人と、一気に約8,500人も増加している!

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2006/05/10

「逆癒しの口紅」をへそ曲がり解釈する

 志治美世子氏著の『逆癒しの口紅(ルージュ)』(社会評論社)を車中で読んだ。連休前に(列車中ではなく)車中で読むために図書館から借り出していたが、ようやく連休明けの仕事と相成ったので、梅雨の走りを思わせる小ぬか雨の降る中、待機中の折などに読ませてもらった。
 内容については目次も含め、「社会評論社 逆癒しの口紅 志治美世子」が詳しい。
 出版社サイド(?)のレビューによると、「「セカチュー」「冬ソナ」でメソメソするな! オンナは鏡の中の自分に口紅を引くことで真に孤独から身を守る。自分の足でしっかりふんばって、自分の悲しみや傷の正体を見極める、たった一つの「逆癒しの口紅」のすすめ。 」とある。
 本書では、参考文献として片山恭一氏著の『世界の中心で愛を叫ぶ』(小学館)、酒井順子氏著の『負け犬の遠吠え』(講談社)、キム・ウニ/ユン・ウンギョン著の『冬のソナタ』(NHK出版)が上がっているが、参考文献というより各著(あるいはドラマ化されたものならそのドラマ)が俎板(まないた)の金魚状態になっているというべきかもしれない。
 批判の舌鋒鋭く、できれば各著者の反論があったら、面白いのにと思うが、残念ながらそういう事態には至っていないようだ。

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→ 9日の営業を負え、10日の朝、帰宅の途次、見つけたツツジ。小雨に濡れると一層、慕わしくなる…。

 最初に俎上に上っている片山恭一氏著の『世界の中心で愛を叫ぶ』については、志治氏の舌鋒をもっとちゃんとした作品に向けてほしいと、ちょっと惜しく思った。

『冬のソナタ』にしても、小生自身、評判のドラマだからと、好奇心で覗いてみたが、一分も見ていられなかった。中身が悲劇的で辛いから、ではなく、物語の悪い意味での虚構性、というか、要するに作り物めいた感じがあまりに濃すぎるのだ。
 二十年前の日本の青春ドラマよりパターン通りだし、画面を綺麗にすることで内容の貧しさと拙さを覆い隠している。

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2006/05/09

君影草…鈴蘭

 『十七季』(東 明雅、丹下博之、佛渕健悟 編著、三省堂)を何気なく捲っていたら、初夏(植物)の季語に鈴蘭があることに気づいた。
 けれど、近頃、実際に鈴蘭の花を見た記憶がない。見ているかもしれないが、地味な花なので印象に残らないのか、それとも、高原の花というから、あまり山間の道を歩いたりしない小生には、名前ほどには馴染みの花ではないのかもしれない。
『十七季』には、鈴蘭(初夏・植物)については、「白い壺状の花を総状につける。同類=君影草」とある。
 今日はせっかくだから、鈴蘭のことをもう少し、調べてみたい。

 ならばとネット検索してみたら、いきなり「毒草:スズラン」といった頁をヒットしてしまった。
 素敵な画像が豊富に載っているし、鈴蘭についての説明も詳しい。
 冒頭に、「高原とかに結構自生しています。春から初夏に白い可憐な花を咲かせ香りもよいですが、毒の主成分は水に溶けやすく生けた花瓶の水でも危険なので、家庭では十分に注意したほうがいいですね。花の部分がもっとも毒性が強いそうです。ヨーロッパではこの花で作った水薬を「黄金水」と呼び、片思いの相手にふりかけると気持ちが通じる媚薬としても用いられたといわれます。」とあるが、以下に続く記述も併せると、もうこれ以上、ネット検索する必要がないようでもある。
「「ラン」と付いていますが本当は「ユリ」の仲間」というのはともかく、『鈴蘭畑で眠ってはいけない・・・』という。花などに毒性があるからなのだろう。
 なのに、「ヨーロッパではこの花で作った水薬を「黄金水」と呼び、片思いの相手にふりかけると気持ちが通じる媚薬としても用いられたといわれます」というのは、どういうことなのか。
 相手を殺したいほどに愛しているということ? でも、水薬って、この花に限っては危ないはずじゃないの?
 

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2006/05/08

削除

旧題:「リベジのJFK(副題・ジョーンズの練習日記 5/7の巻)」

 (06/10/14 削除)

 実際に練習のスタジオに行って見物そして体験するのがいいかも。
 次回の練習は5/21(日)で、時間は「10:00- 16:30」(電話:03-5993-4811)

 本年5/28(日)には、恒例となっているエンコントロ・ジ・アルモニア八景島シーパラダイス(予定)で開催される:
 昨年のエンコントロでのリベルダージ(G.R.E.S.LIBERDADE)の模様画像

 以下は昨年の模様を小生がレポートしたもの:
エンコントロ・ジ・アルモニア(1)
エンコントロ・ジ・アルモニア(2)
(「エンコントロ(3)…サンバ写真」)

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真珠夫人…「妾」はどう読む?

 昨日の記事「タクシー規制緩和の見直し」でコラムというか、 社会派ぶった一文を書いたが、続けて、今度は地方衰退の問題を取り上げようと思っていた。
 朝日新聞で「しまなみ海道」が全線開通して、さて、地元は活性化したかというと、さにあらず、逆に地元の働き手も産業も流出してしまった、地方分権といいながら、実際は中堅的な地方都市は寂れる一方という記事が一面から二面に渡って大々的に載っていた。題名も「夢去り沈む中堅都市」とある。サブタイトルには、「今治 念願の橋 人は素通り」だ。
 この記事(キャンペーン記事だろうか)に触発されて、東京在住だが、心は今も故郷である富山にある小生としては、富山と東京という観点からも、能を越えていることは重々承知しつつも、自分なりに俎上に載せてみたいと思ったのだ。

 富山県については、新幹線が開通し富山市や高岡市には止まることを前提に街づくりが懸命に行われている。高速道路も縦横に走ってきている。 
 けれど、小生には重大な懸念がある。
 それは、新幹線が通ることも、高速道路が走ることも頭から反対ではないが、実際には逆効果に終わるのではないか、富山の衰退に繋がってしまうのではと心配でならないのだ。
 東京に居住する立場から、東京から富山を、あるいは北陸を眺めると、どう映っているか。
 飛騨高山は小説にもしばしば登場するしドラマの舞台にも結構、選ばれる。新潟はというと、ちりめん問屋の御老体の出身地という設定になっているし、なんといっても新潟市は大都市である。日本有数の米どころであり、雪国としても真っ先にニュースに登場する。
 隣県の石川県は必ずしも有名ではないが(すみません。テレビでの知名度ではそうでした)、しかし、加賀とか輪島とか金沢となると俄然、脚光を浴びる。作家も石川県は泉鏡花、桐野夏生、徳田秋声、室生犀星、深田久弥、唯川恵、加賀千代女と、輩出している
 越前(加賀)という名前はやはりドラマや小説の舞台に恰好だったし、これからもそのようである。
 だが、わが町・富山はどうか。頑張ってはいるが、今ひとつ、脚光を浴びるというには、越後の縮緬問屋と加賀や越前という名前の間にあって、やや苦戦を強いられている。

 で、そんな中、新幹線が通り、高速道路が充実するとどうなるかというと、要するに素通りされてしまいかねないのである。富山県への観光客は(小生の頑張りにも関わらず)新潟や石川(金沢・加賀)に比べ圧倒的に少ない。
 それが今までは急行や特急だったのが、新幹線や高速道路となると、目詰まりのする細いパイプだったものが、思いっきり吸い込みのいい太いパイプになり、一層、通過する観光客が増え、のみならず、富山から人材が流出してしまう。都心などへ吸い込まれていく一方となりそうで怖いのだ。
 若い人材の流出は今までもあったが、これからは中高年の方々さえも、ドンドン吸い出されていってしまうのではないか。一旦、外へ出たなら、戻ってこないのではないか。
 交通の便が良くなったから、いつでも帰れると言いながら、実際にはお盆や正月に帰れば御の字という状態に一層拍車が架かってしまうのではないか。
 そんな懸念が小生の小さな胸を悩ませている。杞憂で終わればいいのだけれど、新幹線の近々の開通を当て込んで街づくりをしても、大山鳴動して鼠一匹に終わるのではないか。当て込んだ観光客も素通りに終わるのではないか。
 新幹線も高速道路も、ただの公共工事に終わってしまうのではないか。
 小生は、前から主張しているが、とにかく魅力ある街づくりが先決だと思うのである。アルプスの山を歩いて越えてでも、やってきたい魅力ある町、福祉や介護や娯楽や町の景観や環境が充実した犯罪の少ない町にすることが何より先なのではないかと思うのだが、さて、どんなものだろう。
 今、県や市がやっている事業は順番が違うような気がしてならない。

 そんなことを書こうと思ったが、小生には任が重過ぎるので、話題を変える。
真珠夫人』の話題に移る。

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2006/05/07

タクシー規制緩和の見直し

 今年に入って、一度ならず二度までもテレビやラジオでタクシーについて、作家の堺屋太一氏の意見を聞くことが出来た。
 コメンテーター(評論家)として明快な(つまり小生にも理解が及ぶ)簡潔な意見を述べてくれるので、それなりに好感を抱いている。
 とにかく、小難しい理屈を捏ねないのが助かる。
 タクシーについての意見も、明快なものだった。
 同時に、その意見を聞いて、なるほど、日本経済全般については小生の理解力は及ばないものの、タクシー業界から観た規制緩和の意味合いと言うものがどんなものか、実に良く分かった。
 規制を緩和して規制に胡坐をかいている古い業態のものは退出願い、新しい意欲ある企業家が挑戦しやすくする、そんな土壌を作る。
 分かるような分からないような。
 が、タクシーについては、堺屋太一氏の意見によると、規制緩和によりタクシー業界は、以後、定年を迎えた(団塊の世代)やリストラされた負け組みの人たちの受け皿になっているというのだ。
 定年を迎えた世代については、年金を受け取っているので、タクシーはアルバイト感覚で済むのだとも言っていた。だから、タクシーで何十万も稼ぐ必要がないのだとも。

 なんだ、そのために規制緩和したのか。ドライバーのためでも、会社や業界のためでもなく、それどころか、お客さんのためでもなくて、これから定年を迎える段階の世代のためだったのか?!

 まあ、それは言い過ぎだとしても(でも、実際に団塊の世代など定年後の年代の方たちの受け皿となる業界に変わったと堺屋太一氏はテレビやラジオで言っていた)、規制緩和の眼目の大きな一つはそこにあったのだろうと受けとめざるを得ない。

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2006/05/06

草むしり

 夕方近くになってまた自転車に乗って海鮮市場へ買い物へ。
 今夜の分と明日の朝食のためのあれこれや乾電池、お菓子などを買って、いつもの道を自転車で走って帰ったら、富山ライトレール線(旧富山港線)の踏み切りに差し掛かったところでカンカンと踏み切りの音が聞こえてくる。
 電車だ。その名もポートラムだ。絶好のタイミング。
 電車が踏み切りを通り過ぎると、踏み切りの棒が上がる。
 電車は踏み切りの直後に上り下りのホームがある。電車は駅に止まっていて、客の乗り降り。
 絶好のシャッターチャンスだとばかりに携帯電話をポケットから取り出し、止まっている電車を撮った。
 急いでいたことと、ズームしたこともあり、やや画像のピントが甘いが、ま、仕方ないだろう。

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→ 富山ライトレール線を走るポートラム!

 今日は三食の準備と片付けのほか、草むしりをやった。父がタマネギを植える畑の区画周辺を小さな移動式の腰掛に腰を下ろしながら鎌を手にやっているので、黙ってみているわけにいかない。
 決して広いわけではないが、庭や畑などを合わせると少々の土地がある。野菜類を植えない場所は除草剤を撒くが(以前は除草剤を撒くことを知らなくて、庭もせっせと草むしりしていたっけ)、タマネギ、チューリップ、ナス、キュウリなどを育てるエリアは、小まめに草刈、草むしりするしかないわけだ。
 草むしり。当然、雑草を刈るわけである。
 けれど、雑草とは状況によるもので、路傍に咲いていたなら可憐な紫露草 (むらさきつゆくさ)も、タマネギ畑のフィールドで咲かれると、雑草扱いせざるをえない。もう少し、ほんの少し違う場所で咲いていてくれたなら、引っこ抜いたりせずに済むのだけれど。
 何が雑草で何がそうでないのか。結局のところ、人間の我がまま勝手が決めると言うことか…。
 そういえば、路肩や中央分離帯などグリーンベルトの植物としてよく使われるツツジのことを好きだと、あれこれ綴ってきたが、そもそもその場にあって動くことの侭ならない植物の花や葉っぱについてあれこれ思いをめぐらしたことがあったっけ。

 草むしりといっても、普段は小生がするわけじゃない。大概は父が、あるいは可能な時は嫁いでいる姉が来てやる。
 今は五月の初めだが、梅雨が来ると、雑草はうんざりするほど生えてくる。
 梅雨が明けると夏。
 夏は夏で炎天下での草むしりは難行苦行となる。麦藁帽子を被っているけど、辛さに変わりはない。蚊も纏いつくので、蚊取り線香は常備する必要があるし、虫除けのスプレーも使ったりする。
 小生は、帰省の折に、気まぐれに草むしりするだけ。
 その前は、草むしりなどしたことがなかった。父や母が小生がいない間、せっせとやっていたのだ。
 父は田圃や樹木の世話を主にやっていて、母は畑や植木、草花の世話をするという役割分担があったから、普段、草むしりはほとんど母が炊事やその他の仕事の傍ら、時間を見つけてはやっていた(他にも習っている民謡の腕(三味線と歌)を生かすべく、福祉活動で仲間と一緒に福祉施設を回る活動などもやっていた)ようである。
 小生にしても、そんな父母の姿を気付かない筈がないのだが、生来の怠惰さと勘の鈍さがあって、分かっていても気が回らない。頭が動かない。
 そんな人間なのである。ボーとしているばかり。何を考えるわけじゃないのだが、我ながら自分が掴めない。

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芝浦のこと、「城の崎にて」のこと

 小生は78年の春に陸奥(みちのく)の杜の都・仙台から上京してきた。三年ほど落合近辺でアパート暮らしをしたあと81年の三月末から高輪へ引っ越した。
 早々に哲学や文学への自分の能力に見切りを付け、港区は海岸にある会社に勤め始めたのである。それは当時としてはその辺りでは目立つ大きな倉庫の一角にあった。倉庫の屋上にはへリポートがあるから、尚のこと、目立ったものである。
 思えば、天気のいい日など、屋上で運河を眺めたりして日向ぼっこなどしたものだった。へリポートは屋上の更に上にあって立ち入ることはできなかったが。
 会社が港区海岸にあるから、住む場所も歩くかバスで通える範囲ということで物色しようと思ったら、ひょんなことから高輪のマンションの一室が紹介されたのである。狭い部屋だったが八階建ての八階にあったので、当時だと、それなりに高い建物で、眺めも良かった、と書きたいところだが、目の前に都営の巨大な団地が何個も並んでいるし、しかも、それらはやや高台になった地の上に建っているから、眺望を阻まれるような圧迫感があった。
 すぐに馴れたけれど。
 
 さて、地図を見ればすぐに分かるが、会社のある海岸に向かうには芝浦という地を経由する。会社の最寄り駅というと、山手線の田町駅か品川駅なのだが、小生の住む一角からはバスの運行ルートからしても田町駅が一番利便性があるということになる。
 入社した当初はバイクもなく、バスを利用しての通勤となった。
 バスは自宅からは田町駅まで行く。そこで高架ともなっている駅の改札口脇を渡り抜け、駅の裏に出る。そこが芝浦である。
 駅の裏。当時は、まさに駅の裏だった。うら寂れたような、場末の感が濃厚だった。屋形船の店があったり、ポツポツと建物があるのだが、目立つのは倉庫だった。田町駅から海岸にある倉庫へ歩いていくと、途中、運河の支流に渡された橋を幾つか越えることになる。
 溝(どぶ)臭くて、水は濁っているし、橋も古臭く、場末の雰囲気が濃厚だから、映画やドラマの撮影によく使われた。撮影の場に遭遇することもしばしばだった。主に刑事モノ、犯罪モノドラマで、人影の疎らな寂れたような、何処か荒んだかのような、この町に紛れ込んだなら、たまに見かける人はみんな訳ありなような、そんな雰囲気は、横浜の埠頭とか、芝浦や海岸の埠頭と並んで人気の撮影スポットだったのである。
 そんな芝浦を抜けて更に駅からは遠い、海辺(正確には運河縁)に近い海岸へ歩いていく。あるいは相乗りする乗客も疎らなバスに揺られていく。
 なんだか、ものを書くことを諦めた人間の遺棄場所のようでもあった。自分でそのように落ち込んでいた。

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2006/05/05

青いチューリップ

 帰省している。今日は町ではお祭りの日。神輿を担いで回る声が聞こえてくる。写真を撮ることができなかったので、昨年の画像を。

 我が家の庭は今、チューリップが満開。これ以上ないほどに咲いている。おりしも、砺波市では連休の時期に合わせてだろうか、チューリップフェアが開催されている。
 そこで今日は歳時記上は初夏だけれど、春の花チューリップを採り上げる。富山や新潟では平野部だと今が旬の花だし。実際、両県の県花でもある。

Sionreye

→ おなじみ紫苑さんから戴いた画像です。お庭は花盛りだとか。近々ピンクの額紫陽花の画像も届けてくれるというから楽しみ。
 ところで、この花の名は?

 ネットで検索してみたら、いきなり野の花Stepping Out チューリップ (鬱金香)」なる頁が登場した。
「名の語源は、ペルシャの古語の「tulipan(頭巾)」トルコのオーストラリア大使が 花の名前を聞いた時 ターバン(チュルバン)に似ていると答えた通訳の返事から。」と、小生の好きな話題、語源の話が載っている。
 そう、画像の豊富な「毒草:チューリップ」なる頁にもあるように、「チューリップといえばオランダですが、もともとはトルコの花でオランダ同様国花にもなってい」るのだとか。

 チューリップの投機が過熱しすぎてオランダを滅ぼしかねなかったという話は有名なので、今回は割愛する。そのうち、俎上に乗せてみるかも。

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2006/05/04

ポートラム!

庭のチューリップと衣更えと」で書いたけど、夕方、夕食や明日の朝食のための買出しに行った。その帰り、ポートラムの駅舎脇を通るので、電車を待ち受けて、パチリ、パチリ。五枚目を撮ったら、バッテリーが切れてしまった。

200605041811242

 ポートラムのことは、「帰省の列車から」などにて簡単に説明してある。
 来年の秋(?)までは大人は百円、子供は五十円という乗車賃。今が乗り時だ!

 携帯電話のカメラ機能で撮るので、撮るのはともかく、画像の保存に若干の時間を要し、電車の近影をタイミング良く撮影、というわけには行かなかった。電車の運転士やお客さんたちにジロジロ見られて、ちょっと恥ずかしかった。
 驚いたのは、お客さんが一杯で、席は埋まっているのは勿論のこと、立っている方もいたこと。
 でも、一両編成だからね。バスの電車版みたいなもの。
 風景に溶け込んでいるようで、キャワイイ! 
 英語で言うと、キャイーンってか。

乗る人も撮る人一緒にキャイーン


[ この、「富山ライトレール」の「ポートラム」については、「富山 女二人旅 ~ライトレールに乗って~ 小川もこ&FMとやまアナウンサー・田島悠紀子のやじきた旅日記~【YAJIKITA ON THE ROAD】」が読んで楽しいし画像も情報も豊富。
 沿線にはさまざまな、ややローカルな名所(観光地)があるが、この記事では終点の岩瀬近辺についてのレポートが載っている。
 しかも、この記事、レポーターが可愛い女性二人組! 
「流線型の車体と大きな窓がヨーロッパの雰囲気を漂わせていてオシャレ」な外観。実は、「車体デザインは、成田エクスプレスでデザイン賞を受賞した「チームGK」が手がけている」ことを初めて知った。乗っていても、オシャレで乗り心地も滑らかでグッド。
 富山駅の南側も工事が始まって、やがては北側と繋がる、その日が早く来ることを願う。(06/10/03 追記)]

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庭のチューリップと衣更えと

200605041704271

 田舎の我が家の庭に今を盛りにと咲き誇っているチューリップ。
 我が寓居の机にも3輪のチューリップが籐の花瓶に生けられている。

 もう、十年ほどの昔、富山は礪波市のチューリップフェアにお袋を連れて行ったことがあったな。
 その頃はお袋も歩くのも達者だったし。
 今は小生が歩くのがしんどくなっている。
 それでも、昼前は姉と一緒に炬燵を片付け、居間の大掃除。炬燵の上掛け類をコインランドリーで洗濯。持ち帰って庭で干す。今日は快晴なので、気分良く部屋の衣更えだ。
 ただ、今日の午前まで炬燵に入っていただけに、体の弱いお袋には炬燵なしでは寒く、灯油のストーブに頼ることに。
 夕方は自転車に乗って買い物へ。夕食の準備と世話。洗い物。
 そうそう、買い物の帰りに、ポートライナーの駅前を通ったので、電車の来るのを待ちうけ、雄姿をパチリ

咲く花に面影探しただ見入る

衣更え母の監督背に受けて

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お知らせ

落句拾遺 4-2」アップしました!

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2006/05/03

帰省の列車から

 画像は、帰省の列車中から撮ったもので、そろそろ越後湯沢に到着かなという場所からの景色。窓に車内の模様が映っていて、外の様子が分かりづらいけど、遠くに雪の残る連山が見える。
 窓に映る弁当は小生のものじゃなく、お隣の男性のもの。
 小生は、自宅で炊いたご飯が余ったので、でっかいおにぎりを作った。中には梅干を三つ、外には焼き海苔を二重、三重に巻いて。
 海苔が分厚すぎて、食べるのに難儀したけど、案外と美味しかった。
 これが小生のおにぎり作りの初体験なのだった。

 おにぎりの我が手に余るでっかさよ

20060503184612_1

 そうそう、列車のお供に、本は当然、持参している。
 一冊は、菊池寛著の『真珠夫人』(文春文庫)、一冊は、マーカス・デュ・ソートイ著の『素数の音楽』 (冨永 星訳、新潮クレスト・ブックス)である。
 前者は、割合と最近(もう昨年?)、テレビドラマ化されたから、題名を知っている人は多いだろう。昔の大ベストセラーなのだね。
 後者は、「世界で最も乾いた土地」の末尾で若干、触れているが、後日、改めて紹介するかもしれない。面白い。数学(数式)が苦手な人にも楽しめるように叙述する技術に欧米の学者はホント、長けているね。
 出版されて十ヶ月にもならないのに(図書館の蔵書になってからは、当然、もっと短いはずだ!)、本はかなり手垢が付いている。
 ということは、相当、借り出され読まれているということを意味するし、たまたま図書館で物色していて発見できたのは運がよかったということか(実際、数学の本のコーナーは行けば必ず物色するが、目にした記憶はない。素数というのは、小生のお気に入りのテーマだし、見逃すはずがないのだ!)。

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世界で最も乾いた土地

 アリエル・ドーフマン著の『世界で最も乾いた土地―北部チリ、作家が辿る砂漠の記憶』(水谷 八也訳、ナショナルジオグラフィック・ディレクションズ、早川書房)を読了した。
 静謐なる感動を覚えた…と書きたいが、何処か茫漠たる、掴みどころのない憤怒のようなものも、感動という大河の底で渦巻いているようでもある。苦い読後感。

 本書については、「久々の読書拾遺」の中で既に若干の紹介を試みている。
 再度の転記となるが、レビューが簡潔に梗概を示してくれているので、以下、余談を綴る前に、一読しておいていいだろう:
「ノルテ・グランデ―チリ北部の砂漠地帯は一滴の雨も降らない世界一乾いた土地。すべてを砂漠で覆い、過去をも腐食させることなく保っているそこで目にするのは世界最古のミイラ、南北アメリカ大陸最古の足跡、かつて権力者たちが覇権を争った硝石鉱山、一時の夢のように花咲いた工場街の跡、そしてピノチェト政権によって親友が銃殺された現場…。旅はいつの間にか、砂漠の近代史、人類の歴史、さらには生命の起源をも現在に重ねた時間を巡る壮大な瞑想となっていく。無尽蔵に貯め込まれた“砂漠の記憶”が紡ぎ出す過去と未来から垣間見える現在の意味とは…。 」
 この「南米チリで1万3千年前の人間の足跡の化石が発見された」のも、「世界一乾いた土地」柄の賜物なのだろう。
 本書は人類史に近代史、そして現代に生きる人々の亡くなってしまった人々、殺されてしまった人々への思いとが幾重にも重ねられて綴られている。
 人は今に生きているし、これからを生きるのだけれど、過去のない人はいないし、まして過去を引きずらない人などいない、ある程度以上の年代の人でそうした人がいたら、むしろ怖いくらいのものだろう。
 作家のアリエル・ドーフマンは、独裁政権によって惨くも殺されてしまった親友の、あるいはそのほか多くの語ることのない、語りえない、あるいは空漠たる虚空に叫んだであろう言葉と思いを今を生きている人々の伝手(つて)や思い出を頼りに探り出そうとする。
 その結果、何が見出されたか…。
 本書はカフカの城のような迷宮を壁伝いに、痕跡を糸口に、尋ねまわり、少しずつ、あるいは思いがけない僥倖に恵まれて一気に、真実が見出されるその過程こそに味わいを求めるべきなのだろう。

 小生などの感想など脇に退けておいたほうがいいだろう。
 それより、例によって余談である。

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2006/05/02

2005年05月の索引…富山情報…浅野総一郎

 このところ恒例になりつつある月初めの索引作りだが、今月はちょっと変則的だが、索引の頁は2日になって作成することになった。
 例によって昨年の五月の目次・索引である。
 決して今年の五月の索引でも目次でもない!(今年の五月は、これから書く…はずだ!)
 今後とも、基本的に月初めには前年同月の索引・目次(内容)の頁を提供するつもりである。

「青葉繁れる…目に青葉」(「青葉茂れる桜井の」や、小説「青葉繁れる」、「目に青葉…」など 2005/05/01
「五月雨…一期一会」(語義探索 2005/05/02
「立夏…幻想の未来」(カール・セーガン著『百億の星と千億の生命』 2005/05/06
「夏の蜘蛛」(「我が友は蜘蛛!」後日談 2005/05/07
「梅雨の話じゃないけれど」(カメママさんとのこと 2005/05/08
「若葉雨…桜若葉」(ライダーズハイとは 2005/05/09
「五月闇…回り道」(2005/05/10

 富山は、「北陸新幹線の富山駅周辺高架化工事が本格的に始まり、富山市は新幹線開通に向けて大きく変わろうとしている」とかで、この数年で駅周辺を中心に市街地の風景が大きく変わりそうである。

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雨上がりのツツジ

 野暮用があって、雨模様の中、バスで大森駅前へ。
 雨模様と書いたが、自宅を出た時点では、幸いにも小ぬか雨になっていたので傘を持たずに出た。
 手には過日、某所で拾った塩野七生著の『ローマ人の物語 1』(新潮文庫)を持って。駅のみどりの窓口で切符を買う必要があり、どうせ待ち時間があるだろうからと、用心のために持っていったのだ。

 所要を済ませ、帰途は徒歩で。途中、図書館に寄ろうと思ったから。
 そこで一休みすれば、疲れることもないだろうし。
 前日の月曜日も図書館に行ったのに、連日、行くのは、小生が勉強好きだからでも、本の匂いが好きなわけでも(嫌いじゃないが)、図書館の女性たちの働く姿を見たいからでも(見たいのは山々だが)なくて、月曜日に予約した二冊の本のうち、一冊が早くも翌日の今日、届いたという連絡を昼過ぎに貰ったからだ。
 ならばと読了していた一冊を手に図書館へ。

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 届いた本とは、志治美世子氏著の『逆癒しの口紅(ルージュ)』(社会評論社)である。 
 選書の大きさの本なので、車中で読むことにする。楽しみだ。

 図書館を出てしばらくすると、ツツジが一叢(ひとむら)咲いているのが目に。雨上がりで日頃、陽光を真正面から浴びて、へたれかかっている花びらたちが、一息ついている。
 ホッとする、その溜め息が聞こえてくるようだ。雨滴が花びらに付着していて、シャワーを浴びたあとの女性という風情。
 思わず、携帯電話のカメラ機能を生かして撮影。


陽を浴びし日頃を忘れ吐(つ)く息仄か

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2006/05/01

漱石とモナリザ・コード

 通常なら小生は日曜日は営業の日に当たらないよう日程が組まれている。が、昨日、日曜日は連休での日程調整もあって営業の日となった。
 が、土曜日の営業はかなり忙しかったらしいのだが、日曜日は都内はいつもの休日とは比べ物にならないほど閑散。
 けれど、営業しているタクシーも極端に少ない。営業が忙しいかどうかはお客さんとタクシーの台数との比による。お客さんが少なくても、稼動しているタクシーが少なければ、相対的に忙しいことにありえる。
 その意味で昨日は中途半端に暇なような忙しいような、つかみどころのない一日だった。
 駅などに車をつけてお客さんを待つと、普通なら休日ならば空車のタクシーの列が延々と続くはずだが、案の定、休みを取っているタクシー(ドライバー)が多いらしく、列は数台。なので、タクシー乗り場にポツポツといらっしゃるお客さんを数人、待っていたら自分の番が来る。
 感覚的には、駅に車をつけて実際にお客さんを乗せるまでの待機時間は普段とあまり変わらないような気がした。
 駅やホテルなどに空車のタクシーが溜まりがちになる一方、街頭ではタクシーを待つお客さんもポツポツといる。流して走っているタクシーが、お客さんが見つからず諦めて駅や繁華街に向かってしまう傾向にあるので、お客さんの数は人数としては多くはない(はず)だが、結果的に空車のタクシーを待ちわびているお客さんが目立つようになる(のだろうと推測される)。

 それでも真夜中過ぎともなると、車中での読書時間が増えてしまう。思い出したように流してみるが、お客さんとの出会いの機会に恵まれなくて、結局は何処かに車を付けてしまうようになるのだ。
 そして……、朝方までに読了してしまった!

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→ 勿忘草 ( わすれなぐさ )さんから戴いた「墨田区東白鬚公園の鯉のぼり」の画像です。ホントに五月の空を飛んでいるようで、爽快! 五月早々の頁を飾るに最高! 勿忘草さんはダンスのインストラクターをされています。「DANCIN' FUJI」へ飛んでみてください。

あの空は鯉の踊るステージさ!

 それより、昨夜というか未明近く、NHKラジオで作詞家の丘 灯至夫氏の特集があった。恥ずかしながら、この名前だけ聞いてもピンと来ない。「あこがれの郵便馬車(岡本敦郎)」や「高原列車は行く(岡本敦郎)」の作詞(カッコ内は歌手名)をされた方だと言って分かったら、あなたは小生よりちょっと年上。
 他に、「山のロザリア(スリー・グレイセス)」「東京のバスガール(コロムビア・ローズ)」…。
 これでも分からないなら、「高校三年生(舟木一夫)」の作詩をされた方なのだ。
 え? まだダメ? じゃ、極めつけ(?)だ。「ハクション大魔王のうた(テレビまんが「ハクション大魔王」から)」の作詞家であるぞよ!
 →「Amazon.co.jp:あの青春(ゆめ)この詩(うた)~丘灯至夫作品集 音楽」参照。

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