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2006/05/18

もうすぐ「没後30年 高島野十郎展」

 本ブログサイトの記事「土屋輝雄・久世光彦・高島野十郎…」の中で高島野十郎のことに触れている。
 が、この時は、作家の久世光彦氏の著書『怖い絵』(文藝春秋社、文春文庫所収)を読んでいる最中で、生涯、蝋燭の焔…というより、燃えて次第に溶け行く蝋燭とその焔を描き続けた高島野十郎を紹介しつつ久世氏の富山での個人的な思い出を語っている、その久世氏や彼の著書の感想に比重を架けていた。
 実際、この記事を書いて間もなく、やはり『怖い絵』の中で扱われていたベックリンの「死の島」に遠い昔、ベックリンの絵に魅せられたことを思い起こしつつ、「ベックリンの「死の島」と髑髏」なる記事をも派生させていた。
 高島野十郎については、上掲の記事で大凡のことは触れているが、どちらかというと、どういったサイトへ行けば(飛べば)情報が得られるかに終始している。
 その後、実物を観たわけではないのに、多くはパソコン上のいろんなサイトで、あるいは借り出した本の表紙という形で雰囲気を愉しむ、それとも想像し思い入れているに過ぎないのに、高島野十郎の特に「蝋燭」(油絵)の絵がずっと脳裏の片隅に居座り続けている。

没後30年 高島野十郎展」の会期が近づいてきたからであろうか、我が記事「土屋輝雄・久世光彦・高島野十郎…」へのアクセスもこのところ増えている。
(最近、アクセスが多いのは、「青葉繁れる…目に青葉」である。一年前の記事だが、五月らしいからなのか…。)

Siongakuajisai

→ おなじみ紫苑さんに戴いた額紫陽花の画像です。相変わらず多彩な活躍をされているようです。小生とは好対照?!

 朝日新聞(5月17日付け)に関連の記事が載ったこともあるし、せっかくなので、ここでもう少し、若干の、例によって雑多な情報を追加しておきたい(あるいは一部、ダブりがあるかもしれないがご容赦を)。
 医学(癌)に関する専門家によるきちんとした情報が欲しい時、とりあえずは覗かせてもらうサイトに「外科医・山内昌一郎のホームページ」なるサイトがある。
 我がブログをたまにでも瞥見される方は、あるいは、ああ、また登場願うのかと思われるかもしれない。
 このサイトの中に、「野十郎の炎」(高島野十郎)という頁がある(「土屋輝雄・久世光彦・高島野十郎…」の中で既に紹介は済ませてある)。

 山内昌一郎氏のこの頁は、多田茂治著の『野十郎の炎』(葦書房……当然のように表紙には弥十郎の「蝋燭」!)を読んで感銘を受けての記事のようである。
 この中に、「野十郎は生前ほとんど無名であった。野十郎の作品が初めて世に紹介されたのは没後10年たった昭和61年のことである。出身地の福岡県立美術館の学芸員である西本匡伸氏が野十郎の作品を発掘し、個展を開き、注目を集めた」とある(西本匡伸氏については末尾を参照)。

「その後NHKの日曜美術館で紹介され、全国的に知られるようになった。」と山内氏の記事は続く。
 実際、5月17日付の朝日新聞に故・久世光彦氏が昨年11月、「没後30年 高島野十郎展」福岡会場開幕時の寄稿「蝋燭抄」が載っていて、その中に、「私は二十年ほど前の昭和六十三年、目黒の美術館の一室で、三十本余りの蝋燭が、揺らめきながら展示室を仄かに浮かび上がらせているのを見たことがある。その年開かれた野十郎の回顧展だった」というくだりがあった。
 昭和63年頃は、小生も憑かれたようにして画廊巡り、展覧会巡りをしていた頃だったが、彼の名は全く銘記することがなかったような。残念だ。

千葉県野田市の老人ホームで静かにその命の炎は消えた。見守る親族もない、孤高の死であった。85歳であった。」という高島野十郎の生涯については、「野十郎の炎」(高島野十郎)という頁を是非、参考してもらいたい。決して長くはないけれど、かの青木繁(の油絵)とのことなど、エピソードが幾つも紹介されている。

 ここではネットでは読めないようなので、故・久世光彦氏の寄稿「蝋燭抄」をもう少し。
 上掲の「その年開かれた野十郎の回顧展だった」に引き続き、以下の文が続く:
「その部屋には、他の照明器具は一切なく、光と言えば高い天窓から、僅かな午後の外光が射し込んでいるだけで、辺りは陰鬱な薄闇と言ってよかった。それなのに部屋はうっすらと明るかった。体を硬くして凝視している数人のギャラリーの影が、海坊主のように膨れ上がったり、小児みたいに縮んだり見えるのは、野十郎の蝋燭が音を立てて生きているせいだった。秋の夕暮れ、美術館は魔術の館であり、その部屋は幻の部屋だった。」
(以下、野十郎が八十五年の生涯にわたって、六十数点もの蝋燭画を描いた。晩年は千葉の片田舎で晴耕雨読のような生活を送り、関わりを持った人には挨拶代わりに蝋燭の絵を与えていた、云々と続く。)
 野十郎が久留米に生まれた明治二十年代は、洋風のランプはまだ普及していなくて、夜の明かりは、ほとんど蝋燭に依っていた。蝋燭一本では、夜は暗かった。だから彼は眠れない夜を、目に見えるたった一つのものである、蝋燭その物を描いたのだろう。そう言ってしまえば何事でもないが、辺りの薄闇と同じくらいに、ぼんやり沈んだ彼の心の中を想うと、私は人間というものが堪らなく怖くなってくるのだ。」

 蝋燭の焔については、小生は幾度も語ってきた(「蝋燭の焔に浮かぶもの」参照)。
 ここでは、焔と言えば影、影と言えば影絵ということで、小生には「影絵の世界」なる記事のあることをメモしておく。

 さて、ここまで久世氏の寄稿「蝋燭抄」を転記してきたので、どうせなら、その冒頭の文章も読みたい(でしょ?!)。
「一人の痩せた男が、ひねもす庭の隅の納屋に篭って、戸や窓を閉ざし、電燈を消して一本の蝋燭と対している光景を想像すると、私の胸は冷え冷えとして、あまりの息苦しさに口が渇いてしまう。――男は画家である。名を高島野十郎という。
 彼は粗末な木の卓に裸蝋燭を一本立て、その孤独な蝋燭がジリジリ身を焦がし、文字通り涙のような蝋燭を滴らせる様を、克明に画布に写し取った。彼は炎の燃え盛る音だけでなく、蝋涙(ろうるい)の嘆き哀しむ声さえ描いた。こんな凄愴(せいそう)な音を描いた画家を、私は他に知らない。
 その上、彼の描いた蝋燭は自ら発光する。」(尚、文中に出てくる「凄愴」だが、「凄愴」の「凄」は立心偏である。)
 以下、上掲の一文に続くわけである。

 既出の西本匡伸氏については、「土屋輝雄・久世光彦・高島野十郎…」の中であるサイトへのコメントからということで、同氏による野十郎の紹介文を既に載せている。
 ここでは、もう少し、西本匡伸氏と野十郎との関わりを通じて野十郎の画に接したい。
EPSON~美の巨人たち~」の中の「高島野十郎・作『風景画4点』」(2006年5月13日 放送)を覗かせてもらう。
「福岡県立美術館の学芸員・西本匡伸氏が久留米のある企業が所蔵していた油絵『すいれんの池』を目にしたことがきっかけとな」って、「野十郎の名は、美術界」や一般にも知られるようになったという。
「野十郎の絵の中で一番大きな作品『すいれんの池』は、夏の新宿御苑にある池が舞台です。噎せ返るような緑の木々に囲まれ、鏡のように静かな水面に白い蓮の花が点々と浮かんでいます」と、その絵が不鮮明な画像ながら載っている。
「西本氏は絵の所有者を尋ね、資料や断片的な手記などを集めていると、次第に特異な画家の肖像が浮かび上がってきたと」いう。
「やがて39歳のとき、3年ほどヨーロッパに留学し、油絵を勉強します。しかし帰国後も、作風が大きく変わることはありませんでした。」というが、見方によっては頑ななまでの姿勢・資質の持ち主の野十郎は、ヨーロッパでどんな生活を送っていたのだろう。
 学究肌で勉強に余念がなかった…とは、到底、思えない。「4年間パリで修業した。このパリ時代のことはあまりよくわかっていない」というけれど、想像を絶する孤独感との戦いだったのではないか。己の資質を思い知らされたのではなかったか。
「ヨーロッパの画壇の流行を追うこともなく」というが、追うような彼だったとは思えない。
 野十郎の作品『れんげ草』の画像が載っている。澄明とさえ思えるような風景。
『れんげ草』や『夕月』、『月』『太陽』を小さな画像で観ると、背中を向けている人物像(つまり描き手に対してさえも背を向けている、見方によっては、画家と同じ視線を共有している、画家の視線で風景を見ることを暗に求めているようでもある、孤独な、漂白の魂を持つ人物像)の欠如したフリードリッヒの風景画にも見えなくもない(実物を観たら、まるで印象が違うかもしれない)。
 そして最後に描かれ続けた『蝋燭』。
 それにしても思うのは、西本匡伸氏は久留米のある企業が所蔵していた油絵『すいれんの池』を目にしたことがきっかけとなって、高島野十郎を再発見したとのことだが、仮に小生が(『蝋燭(や、せめて『絡子をかけたる自画像』か『満月』、あるいは『月』ならともかく)『すいれんの池』を観ただけだったら、それとも『菜の花』や『雨 法隆寺塔』などの作品だけの鑑賞だったら、いい画家だとは思っても、他の多くの立派な画家たちの作品群の印象の中に埋没してしまっていただろう。
 慧眼を思うしかないということか。

没後30年 高島野十郎展」は、「三鷹市美術ギャラリー」にて「2006年6月10日(土)~7月17日(月・祝) 」といった会期にて催されるとか。

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コメント

僕もこの展覧会楽しみにしています。
この人についてはまったく知らないものでー。
弥一さん、大岡信の展覧会とか宮内庁三の丸の若冲には行かれたのかな?
大岡の展覧会はともかく三の丸は入館無料です、行ってそんはないですよ!

投稿: oki | 2006/05/19 12:27

展覧会のチラシを入手。
「リンゴがリンゴとしてありうるためには私たちはリンゴとともにあらねばならない。そのリンゴと私たちがともにある場がここではカンヴァスであるー蝋燭とともに、月とともに、私たちは高島にみつめられてそこにあるのである。高島は自分自身をそこに観ていた。私たちも高島がそうしたように、そこに、リンゴとともに蝋燭とともに自らを映し出してみる。云々。」

投稿: oki | 2006/05/19 22:16

okiさん、コメント、ありがとう。
小生、全く、動いていない。微動だにしていないのです。情けない。
行きたい場所は数々あるけど。
やはり、okiさんが頼り。情報、お願いします。

引用されている文章、誰のものなのでしょう。カタログの謳い文句なのかな。


投稿: やいっち | 2006/05/20 08:22

なかなか面白いチラシの文句でしょう。
実は三鷹の美術館は館長さんだかなんだかが、西田幾多郎の哲学に詳しいのです、ここだけ単独で展覧会開くとよく西田幾多郎的な引用の文章をカタログに見つけます。
全国巡回の展覧会ではそういうわけにも行かず西田哲学はなりをひそめますがー。
さて今日大雨が降りましたね、僕はちょうど中央線の中でかさはいらなかった。
多摩都市モノレールに乗り換えたら見事な虹がー。
虹を撮影して画像掲示板に投稿すればよかったですねー。

投稿: oki | 2006/05/20 22:37

「西田幾多郎的な引用の文章」の文章ですか。絵画の鑑賞の文章だと、そもそも絵画の世界を言語で説明するのは(技法的なもの、絵画の流派、背景事情などは別として)至難だし、ある意味検討はずれになる恐れが大だから、それだったらというわけじゃないだろうけど、結構、皆さん、それぞれに得意な(?)持ちネタ的なレトリックを駆使されますよね。
鷲田 清一氏の『〈想像〉のレッスン』( NTT出版ライブラリーレゾナント)を読んだ時も、アートをネタに彼なりの日常性を読み解く試みを展開していたのだろうけど、正直、ガッカリ。
現代の小林秀雄になろうとでも思ったのだろうか。

それはともかく、<虹>の画像、欲しかったです。ザッと降って、一気に晴れ上がると、虹も見事だったりする。都心じゃなかなか得ることのできない観望体験でしょう。

投稿: やいっち | 2006/05/21 05:36

お久し振りです。
この展覧会の初日に行ってきました。
そこで偶然に「野十郎の炎」の著者多田茂治氏にお会いしました。TBします。

投稿: とら | 2006/06/10 23:09

とらさん、コメント、TB、ありがとう。
関連の記事を書きましたので、早速、返礼のTBさせてもらいました。
「野十郎の炎」の著者多田茂治氏に会われたとか。サインも貰ったのですね。羨ましい限りです。

投稿: やいっち | 2006/06/11 01:33

やいっちさん、ありがとうございました。早速新しい記事を読ませてもらいました。

投稿: とら | 2006/06/11 08:56

とらさん、早速のコメント、ありがとう。
とらさんのコメントやTBが記事を書く切っ掛けになりました。

投稿: やいっち | 2006/06/11 09:35

不思議だ。この数日、この記事も含め、「高島野十郎」をキーワードに検索する人が(一時的だろうけど)急増している。
何故だろう。何か催し物とか再放送とかがあるんだろうか。

投稿: やいっち | 2006/09/19 09:34

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 待ちに待った高島野十郎展が始まった。テレビの1枚の絵を見て、その素晴らしさに感動したからである。チラシの内容の一部を紹介すると、 明治23(1890)年、福岡県久留米市の酒造家に生まれた島野十郎(たかしまやじゅうろう)は、東京帝国大学農科大学水産学科に学び、首席で卒業しました。しかし周囲の期待と嘱望された学究生活を投げ捨て、念願であった画家への道を選びます。以来、約4年間の滞欧生活をはさんで東京、久留米に居を構えながら主に個展を作品発表の場として画業を続けました。70歳を超えた1961年(昭和3... [続きを読む]

受信: 2006/06/10 23:13

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