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2006/04/13

「春光」とは春の色のこと

 夜半に読了した久世光彦氏著の『時を呼ぶ声』(立風書房 学研M文庫)の感想文を書こうかとも思ったが、これは後日に回して、今日の季語随筆の題材は、「春光」とする。
 
季節のことのは・季語 春 の 章 Ⅰ」の「季語 2  春光(しゅんこう)」の項に「「春の日」は日光をさしますが、「春光」 春の風光すなわち、春のやわらかい日の光りをいいます。春は空と地中からいち早く動き始めるという通り、光りと影が相まって春を実感させる言葉といえます」とあるように、とても爽やかさを感じさせる季語だ。

 実は、ふと、この季語、昨年、扱ったことがあるはずと、「2005年04月の索引…悲しい二周年」を覗いてみたが、ない。「風光る…杉菜…こきりこ」にて、「風光る」という似た(ような)語感を持つ季語は載っているが。
 勘違いなのか。でも、扱ったはずと遡ってみると、やはり、あった。
 四月ではなく昨年の三月に「春光・色の話」という表題で採り上げていたのだ。
 それにしても、「春光」と「色の話」を結びつけるのは我ながら強引だなと読み返してみたら、ネット検索の結果もあって、「春の色 春色 春景 春景色」などを傍題に持つ、「春光」に行き当たったのだった。
 肝心の季語である「春光」については、実際には糸口乃至は申し訳程度に触れているに過ぎず、大半は「色の話」に終始している。なんといっても、「古代には色の表現はなかった、あったのは、(色の)濃淡であり、明暗なのだ」というラジオで聴いた話のインパクトが大きかったのである。

 ということで、ここに改めて、季語としての「春光」に焦点を合わせてあれこれ綴ってみたいのである。このところ天候に恵まれない日が続くだけに、春らしさを待望する意味も篭めて。

 サイトが失われているが、「三省堂 「新歳時記」 虚子編」に拠ると、「柔かく暖かい春の陽光をいふのである。しかし春の日とか、春日影とかいふのとは違つて、春の風光といつたやうな感じの方が濃く出てゐる」と説明されているようだ。
 ここには以下のような句が掲げられている:

春光の谷に沈みてくぬぎ原   耕雪
春光やちやんちやんこ着て庵主   感来
春光や波又波のいたゞきに   櫓水
春光や到る處にいぬふぐり   黙禅
ステッキを振れば春光ステッキに   王城
春光の燦々として小笹原   拓水
春来れば路傍の石も光あり   虚子

 一方、「YS2001のホームページ」では、「春光(しゅんこう:春の風光につつまれた景色)」と説明されている。
 一体、春の光、春の陽光なのだろうか。それとも、風光に重きを置くべき季語なのだろうか。類義語に「春の色 春色 春景 春景色」などがあることからして、陽光、それもアウトドアでの風景、景色としての陽光だと解したほうがいいようだ。

 ネットで見つかる春光を織り込んだ句を幾つか、順不同で。鑑賞などはリンク先を参考願いたい:

ひとつ咲き春光そこに集まれり   かわなますみ
春光や堰落つ水のある小川   よっち
舌を煮て春光の壺しずかなり   雀の生活
すずめ来て茅葺き屋根に春の色   vivaldi
磔像の全身春の光あり   青畝俳句研究
春光に包まれ電車南へと   飯島治蝶
うれしさは春のひかりを手に掬ひ   野見山朱鳥
春光の向こうに柩運ばれて   氷室町雑詠
春光や眼狩りの友となりにける   マウイの達人
春光の底よりあがる大碇   増田陽一
春光やくさめで曇る雨の粒   賢治
春光を掬うごとくに鍬振るふ   安西さゆり

 他に、「石の会 平成17年」の「三月:弥生 「春光」 4月25日 「ゐなか」にて」の項に幾つか載っている。
「春光」や「春の色」などは人気のある季語のようで、ネットでもまだまだたくさん見つかる。以上は、ほんの一部だと思っていい。

 ちょっと気になったことがあった。それは、「芭蕉作品集 春の季語を持つ句 -芭蕉と伊賀」なる頁に、芭蕉の有名な句「行く春を近江の人と惜しみける」が掲げられていて、その鑑賞に「春光うららかに打ち霞む琵琶湖の湖上に、去りゆこうとする春の情緒がたゆとうている。この春を、自分はこの近江の国の人々とともに、心ゆくばかり惜しんだことである」とあったこと。
 この句の「行く春を」は、「去りゆこうとする春の情緒がたゆとうている」のは理解できないことはないが、「春光うららかに打ち霞む」云々という解釈は、今ひとつ、納得できなかった。
 何か違和感を覚える…と思ったら、どうやら「春光うららかに」の「春光」は季語ではなく、単純に春の光のつもりで使っているに過ぎないと感付いたら、なるほどと思った。季語や句の説明をする地の文章の中に、うっかり表記上、季語とつい取り違えて詠みがちな言葉を入れると、余計な詮索をするはめになりかねないのだ。

 この句の鑑賞は、定番なのだろうか、『去来抄』に拠るに如くはない。「行く春を近江の人と惜しみける」なる頁を覗いてみて欲しい。

 と思ったら、「黛まどか「17文字の詩」2002年2月の句」の中にも同じ事例を見出した。
 この頁の中に、「雪解の水に映して旅の衣」という句が載っている。その鑑賞文中に、「春の到来を告げ、春光を反射して輝く雪解水。その眩しいばかりの雪解水に映された旅衣は、春の訪れた喜びを、そして旅ができる喜びを象徴しているかのようです」(太字は小生の手になる)とある。いつもながら素敵な文章だが、この文中にある「春光」も、季語ではなく、春の光といった意味合いを持たせた通常の言葉として使われているのだろうが、やはり、句の説明(鑑賞)文の中に「春光」なる言葉を織り込むのは紛らわしいような気がする。
 神経質すぎるだろうか。


春光を待ちわびている籠の鳥
春光を眩しげに見る朝の人
雑踏のビルの谷間も春の色
こぼれてるその光にも春の色
二の腕や眩しさ競う春の色

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