花篝は闇を深くする
四月には季語(季題)が多い。やはり芽吹いていた命が花開く季節だからだろうか。日曜はただでさえ風が強い上に、夕方前後の雨が花散らしの雨となって、ああ、花見も終わりかなと思わせられた。
今日、月曜日も(少なくとも東京は)強い風が吹き荒れて、一層、花びらが吹き飛ばされ散っていった。近くには小川さえもないし、かといって池があるわけでもないので、小生の近所の桜の花びらは、ただ敢え無く散るばかりである。
路肩に、玄関先に、庭先に、電柱の根元に、歩道の柵に、自転車やバイク、車のボディや車輪の周りに、花びらたちが吹き溜まっている。花びらは散るまでが命ということなのだろうか。散ってしまった花びらは、ただのゴミなのだろうか。見ていると、歩道の花びらを踏まないようにと、殊更、足元に気をつける人もいない。
やはり、地に落ちた花びらは、美しさもその命もその役目さえも地に落ちてしまったというわけだ。
一度咲いた命は散るのだ、この世から、視界から消え去るのが、潔いというわけか。桜は平和の象徴ではなく、武を象徴する花だということが、つくづくと思い知らされる寂しい現実。
誰も花を花として愛してなどいない。散った花びらは踏みつけにされる。ゴミ扱いにされる。路上を汚す邪魔者に過ぎない。誰かが余儀なく掃き集め一塊に纏め、そうしてゴミ収集車に乗せられ、夢の島へでも運ばれていく。
→ 近い将来の枝なのだろうか、幹の中途から芽生え始めている。花も咲かせながら。
花の命が短いのか長いのか。いずれにしても美しいとか、綺麗とかと愛でられる時間は短い。
だからこそ、せめて短い花の命を少しでも堪能しようと、あれこれと工夫する。
といっても、花の枝を折らないようにして、桜の木が折られた枝の部分から感染症に冒されるのを防ぐとか、桜の木の根元付近で茣蓙を敷くのを止めて、桜の木の根っこが痛むのを少しでも回避しようとか、そんな優しさを示そうというのでは、毛頭ない。
あくまで咲いている花の時を享楽しようという、健気な楽しみを、もっと濃厚な愉悦の時にしようとあの手この手を繰り出すというのに留まる。
さて、「花篝(はなかがり)」もその一つなのか、どうか。
「俳句歳時記」サイトの「春の季語(行事・暮らし編-種類順)」、その「花篝(はなかがり)」の項によると、「花雪洞(はなぼんぼり)」という傍題(類義語)があり、「花の名所などで夜焚く篝火」のことだという。
この季語の周辺には、「花見(桜狩 観桜 花見弁当 花見茶)」、「花人(花見人 桜人)」、「花衣(桜襲 花の袖)」、「花筵(花見茣蓙 花の幕)」、「花守(花の主 桜守)」などと、さすがにそれぞれに興趣の湧く季語が居並ぶ。果ては、「花疲れ(花見疲れ)」などといった季語さえも。
「花篝」に戻る。「花雪洞(はなぼんぼり)」も、なかなかに味わい深い言葉である。「雪洞(ぼんぼり)」という言葉の、字面もいいが、何しろ語感がいい。
そういえば、雛祭りの頃には、「あかりを付けましょ雪洞に~♪」などといった唱歌(童謡?)やそのメロディがラジオからも流れてきたっけ。
曲名は、「うれしいひな祭り」で、サトウハチロー作詞・河村光陽作曲である。
この曲に付いては、「勿忘草 ( わすれなぐさ )」なるサイトの「うれしいひな祭り~名曲スケッチ」が詳しい。
全くの偶然だが、このサイトの最新の記事が「桜散る」となっている。「昨夜来の風雨、そして今日も強い北風が吹き荒れ、桜の花も無残に散りその短い命を終え、花吹雪となって地面に舞い降りた。」と、小生の関心事をうまく丁寧に掬い上げてくれている。嬉しい出逢いだ!
西行の、「風にちる花のゆくへはしらねども をしむ心は身にとまりけり」なる歌の冠せられた画像なども実に素晴らしい。
なんだか、小生の感傷的な散る花びらへの、あるいは花びらに対する世間の扱いへの狭量なる心の結果としての憤懣が、やんわり窘められたような気がしたりして。
余談だが、「雪洞」は、もともとは文字通りに近い読み方で、「せっとう」と読んでいたとか。「お茶席にお客様が居ないとき、炭を長持ちさせるために炉に 被せておく 覆いのことでした。白い紙で作り、くりぬいた窓を開けていたので、 雪の洞穴に見立ててそう呼ぶようになったのでしょう。」といった説明を与えてくれるサイトがあった。
では、その「雪洞(せっとう)」が、何ゆえに「ぼんぼり」と読まれるようになったのか。あるいは、「ぼんぼり」という呼称と「雪洞」という表記が何処かで出会い重なったということなのか。
同じサイトには、「「ぼんぼり」は、ぼんやりとか、ほのか と言う意味の言葉。灯りがぼんやりと見えるので、こう呼ぶようになったのですね?」とクエスチョンマークが付いている。
この辺り、調べる余地がたっぷりありそう。
話が逸れすぎた。
花篝の画像を見てみたい。「春の生活、桜 … [桜でしっとり、うるおい生活]」なる頁に、「花あかりに誘われて、祇園新橋を漫ろ歩き…(写真:今西亮仁)」といたキャプションの付いた写真を見ることが出来るが、残念ながら画像が小さい。
ネット検索すると、『花篝り』という曲についての検索結果が上位に浮上する。歌手は滴草由実だとか(調べてみたら、木曜ミステリー「京都地検の女」の主題歌だとか。そういえば、見損なったが、月曜日の午後、テレビで再放送していたっけ。これも偶然だが。ちなみに、演歌歌手の岩本公水にも「花篝」という曲があるようだ)。
また、ネット検索では、『花僧』『羅城門』『天平大仏記』『闇の絵巻』などの作家・澤田ふじ子作の『花篝 小説日本女流画人伝』も上位に散見される。
「俳句回廊」(サイト主は太田かほり氏)の中に、 鷹羽狩行の句「つねに一二片そのために花篝」を鑑賞した頁がある。
ここでは味読するに留めるが、「「つねに」はいつも・たえずということだが、すべての花の一片一片の終焉をより美しく演出するために篝火を焚くのだとする」など、読み応えがある。
文中、「もしも絵に描くとすれば縦長の画布となろう」以下、「現代的な画風の中に伝統美が息づく」に結語する記述がある。
そういえば、横山大観に「花篝」なる画があるという。ネットでは画像を見つけられなかった。
その代わり、「花篝火気厳禁の城に焚く」という坂上史琅の句(碑)を見つけた。
桜にもいろいろな種類があって、八重桜などはピンクの色も紅梅のようなほどよい濃さがあって、俗かもしれないが、小生はソメイヨシノよりも好きである。
ソメイヨシノを曇天や夜に楽しむには、やはり篝火でなくとも適度な照明が必要になる。ライトアップして脚光を浴びせないと、あまりにピンクの色が淡くて、真っ青な空のもとの陽光、それとも篝火や街灯の力を借りないと、負けてしまうのである。
けれど、だからこそ、京都の祇園の花篝のように、効果を知悉した演出をするなら、この上なく幻想的な世界を現出できるのであろう。
でも、花びらの一つ一つは地味な桜、篝火に映えることを望んでいるのだろうか。
花篝一片の夢幻に
花篝裏に表に映しける
花篝映える姿を晒すのか
花篝闇を深めて燃え盛り
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コメント
ご挨拶、遅くなりましたが
TBありがとうございます
花の盛りに吹く風の悪戯は
美しいものへの嫉妬でしょうか?
いずれにしても
生あるものは必ず死す
形あるものは必ず滅す
美しく咲いた桜も例外ではなく
その命を終えて散っていきました
また来年の桜が見られることを楽しみに
ご挨拶方々、御邪魔しました
プロフィールからも拝見させていただきました。
どうぞよろしく!
投稿: 勿忘草 | 2006/04/05 00:38
追記
我がサイトの身に余るお言葉での紹介、
ありがとうございます。
他のサイトも含め、
薀蓄の数々大変勉強になりました。
投稿: 勿忘草 | 2006/04/05 11:52
勿忘草さん、こんにちは。
TBだけして失礼しました。このブログを書いたあとはその朝からの仕事のため就寝。今朝、仕事から戻ってきて、また就寝。今頃、ようやくパソコンに向かっています。
小生はこの季語随筆日記を綴る際、ネットに随分とお世話になっています。ネットにお世話になるということは、数知れない先人の方にお世話になるということです。また、多くの方に出会えるということでもあります。
勿忘草さんのサイトは画像も素晴らしいけれど、なんといっても画像と文章の組み合わせに小生には羨ましい絶妙さがあります。
今日の日記は、星野富弘さんでしたね。学生時代に知ってから、小生は彼の世界のファンになっています。
ダンス(どんな分野なのだろうと覗いてみたら、フロアでのペアダンスのようですね。インストラクター!)を仕事にされているとか。サンバのファンになってからは、違うジャンルのダンスも含めてダンスに関心を抱くようになりました。
投稿: やいっち | 2006/04/05 12:06