ユダの福音書とマリヤと
最近、「ユダ」についての衝撃的(?)なニュースがネットや新聞に踊っていた。さすがにテレビでは採り上げられたのかどうか、小生はテレビ鎖国の状態にあるので分からない(ニュースとして流れても、見逃したかもしれない)。
ネットで関連の記事を探すと、「ZAKZAK」では、「解読で判明!「ユダの裏切り」はキリストの指示だった」という題名の記事が見つかる。
その一部を転記すると、「米地理学協会(本部ワシントン)は6日、「異端の書」としてほとんどが破棄されたとみられていた「ユダの福音書」の写本を解読したと発表した。キリストを敵に売った使徒として知られるユダが、実はキリストの指示を受けていたと記されており、今後論争を呼びそうだ」とか。
このサイトではさらに、「写本は古代エジプト語(コプト語)でパピルスに記され、放射性炭素による年代測定などで、3-4世紀(約1700年前)の本物と鑑定された」とか、「ギリシャ語の原本から訳されたとみられ、キリストは、自分を人間の肉体から解放する手助けを、教えの本当の意味を理解していたユダに頼んだとの内容になっている」とも記述されている。
「中日新聞ホームページへようこそ」では、「ユダの汚名すすぐ 米で福音書の写本を英訳」と題されたより詳しい記事が見つかった。
ここには、新聞でも載っていたが、写本の画像も掲げられている。
「聖書を元に、イエスの受難はユダの裏切りが原因という解釈から、ユダとユダヤ人が重なり、世界史の悲劇であるユダヤ人の大虐殺が起きたとの見方がある」といった記述がある。
破棄されあるはずのないユダの福音書(翻訳)の出現は、関心のあるものには、マリア像(女性像)をどう描きなおすかも含め、場合によっては哲学・思想・宗教観の根幹を揺るがすかもしれない事態かもしれない。
「イスカリオテのユダ - Wikipedia」を覗いてみる。
さすがにネットの事典の凄いところで、「イスカリオテのユダは福音書、使徒行伝や外典のユダの福音書など新約聖書に登場するイエスの使徒の一人でイエスを裏切ったことで有名。裏切り者の代名詞ですらある」云々以下の、ある意味、常識ですらある記述の間に、「ユダの福音書」という項目があって、「2006年4月6日にパピルスの写本断片の発見復元と翻訳がナショナル ジオグラフィック協会のチームによって行なわれたと公表された。内容詳細は「ナショナル ジオグラフィック日本版」2006年5月号(4月28日発売)および、CS「ナショナル ジオグラフィック チャンネル」内「禁断の聖書:ユダが残した福音書の衝撃!」(初回放送4月9日) により公表予定」とあるのだ。
ネット情報の速さを痛感させられる。
「芸術作品の中に見られるユダ」という項目も非常に面白いが、今回は話題の焦点に乗せないで、「参考外部リンク」としてリンクしてくれている、「1700年前のパピルス文書『ユダの福音書』を修復・公開 ユダに関する新説を提示」というサイトへ飛んでみる。
そう、「ナショナル ジオグラフィック 日本版」なるサイトの頁である。
冒頭に、「ナショナル ジオグラフィック協会の支援する専門家の国際チームが、エジプトで発見された1700年前のパピルス文書を鑑定し、その修復と翻訳を行いました。調査の結果、この文書は『ユダの福音書』の名で知られる初期キリスト教文書の、現存する唯一の写本であることが判明しました」とあるように、「ナショナル ジオグラフィック協会」もプロジェクトの一端を担っているわけだ。
「パピルス文書は冊子状の写本(コデックス)で全体は66ページあり、26ページが『ユダの福音書』です。紀元3~4世紀にコプト語(当時のエジプトの言語)で書かれたこの写本は、ギリシャ語の原典に基づくとみられています。パピルスの断片をつなぎ合わせて文章を読み取り、英語に翻訳する作業は、コプト語の世界的権威であるスイスのロドルフ・カッセル博士の率いる専門家チームが行いました」など、さすがに関連情報が詳細である。
『ユダの福音書を追え』なる本が緊急出版されるとか。
雑誌では、「ナショナル ジオグラフィック 日本版 2006年5月号」が「緊急特集 「ユダの福音書を追う」」だという。
「コプト学者ロドルフ・カッセル博士に聞く」という記事も今なら読める。
「写本が公開されるまでの経緯」という頁を覗くと、既に70年代、文書は発見されていたが、紆余曲折があって、2001年2月になって、「チャコスとフェリーニの交渉が決裂。写本はスイスのバーゼルにあるマエケナス古美術財団の管理下に置かれ」、2001年7月になり、「マエケナス財団の理事長マリオ・ロバーティーの要請で、コプト語の専門家ロドルフ・カッセル博士が写本の読み取りと翻訳の指揮を取り、パピルス修復専門家フロランス・ダルブルが修復を進める形でプロジェクトが始動」ということのようだ。
その結実の一端が今になって一般にも公開されたわけだ。
イスカリオテのユダ、裏切り者のユダ。サタンが中に入ったユダ。バッハの「マタイ受難曲」では、ヘビに喩えられるユダ。
「イスカリオテのユダ - Wikipedia」には、「絵画の祖とも呼ばれているゴシック絵画最大の巨匠」であるジョット・ディ・ボンドーネ画の「ユダの接吻」なる絵画の画像が載っているが、ユダの顔は意図的にだろう、殊更卑しく描かれている。それが欧米(あるいは「新約聖書」に依拠する人々)の常識的イメージ像なのだ。
それが、「写本には、イエスがユダに対し、「お前はあらゆることがらを越えていくだろう。なぜなら、お前はわたしを包んでいるこの男を犠牲にするからである」と述べたとあり、イエスの肉体からの離脱を手助けすることによって、ユダはイエスの内部にある聖なる「セルフ」の解放を手伝ったと解釈されるという」のだから(「Yahoo!ニュース - 時事通信 - 「わたしを裏切りなさい」=キリストが弟子ユダに命令・古写本解読」より転記)、今後、ユダ像、キリスト像、さらには新約聖書理解も一変するのかどうか。
なんといっても、「初期キリスト教時代の異端グループとされるグノーシス派の流れを汲むとみられる「ユダの福音書」の翻訳」(「世界日報社」の「「ユダの福音書」翻訳本公表」からの転記)なのである。いわゆる正統派(よく分からないが、無難な表現をしておく)は、異端の本来あるはずのない「ユダの福音書」をどう位置づけるのだろうかという疑問がある。
「「ユダの福音書」翻訳本公表」にあるように、「「ユダの福音書」ではイエスが捕らえられて十字架に付けられる前の一週間、イエスとユダの間で交わされた会話などが記載され、イエスは他の弟子には教えなかった秘密をユダには説いたとされている」点なども興味深いが、「グノーシス派は神秘的な「知識」を信仰する異端グループで、初期キリスト教指導者に大きな脅威を与えていた。神がつくった被造世界は本来の神よりも劣る神々によってつくられたとし、人間の霊性は肉体に閉じ込められて不自由な状態にあるとし、「ユダの福音書」では、イエスの霊性を肉体から自由にしたとして、ユダの役割を高く評価している」点が、キリスト教やキリスト像を描くに際し、根幹を揺るがすかもしれない。
この頁には、「またグノーシス派は、マグダラのマリヤを信奉しており、当時のキリスト教指導者の一般的概念だった女性蔑視の考えとは一線を画していた。こうした考えは映画「ジーザスクライスト・スーパースター」や「イエスの最後の誘惑」にも表れており、ベストセラー「ダ・ビンチ・コード」の主要テーマにもなっている。「ユダの福音書」は謎めいたイエスとマグラダのマリヤの関係を探る歴史的資料になる可能性も秘めており、聖書学者だけでなく各方面で大きな議論を呼びそうだ」ともある(「ダ・ビンチ・コード」とは、言うまでもなく、ダン・ブラウン著の『ダ・ヴィンチ・コード(上・下)』(越前 敏弥訳、角川書店)であろう)。
キリスト教は弾圧をされながらも、ローマ帝国のもと、公認の宗教になる。公認に至るには三つの公会議を経ている。その際、アリウス派やネストリウス派などが異端とされた(そのネストリウス派が中国では景教と呼称され、日本にも伝わって、 厩(うまや)で生まれた「厩戸皇子」なる聖徳太子伝説にその名残を見る事ができるわけである。まあ、伝説を作り流すに当たっては、舶来の思想や宗教で権威を付する必要があったのだろう)。
最後に正統派となったのは、アタナシウス派だった。唯一の勝ち残りなのでアタナシウス派と呼ばれることすらないようだ(この項については、福音的たることを望む人には飽き足らない記述かもしれないが、「キリスト教の発展、分裂後の東西ローマ帝国」が一般的な知識を得るには便利だ)。
正統な解釈に至るには、グノーシス派も含め豊穣なる教説や思想の切り捨ての歴史があったわけである(個人的にはグノーシス派について苦い思い出がある。哲学科に入った最初の年の哲学の授業で、先生に、キリスト教の教父アウグスティヌスとの絡みで、プロティノスの「流出説(りゅうしゅつせつ)」を説明せよと言われて、答えられず、立ち竦んでいたものだった。哲学的常識に欠けていて、勉強不足を痛感したのだった!)。
現代でも異端には違いない「ユダの福音書」をキリスト教の世界ではどのように扱うのだろうか。既に織り込み済みなのか。アメリカで研究成果が公表されたということは、政治との絡みもあるのだろうか。
自分なりにウォッチしていきたい。
20世紀に発見されたキリスト教、あるいはユダヤ教関連の文書というと、死海文書(の発見と公表をめぐるドタバタ劇)が有名だろう。「死海文書 - Wikipedia」を覗いて一読されると興味深い記述が満載だ。
小生自身、死海文書に関連する雑文を綴ったことがある(「死海文書と陰謀説と」「田川建三著『書物としての新約聖書』に窘められる」など)。
遅れ気味だった死海文書の研究成果の公表については、「1990年代になって、新たに国際チームを編成し、その40巻にも及ぶ公表は、2003年の時点で完結寸前に至っている」とか(「死海文書・聖書外文書研究/和田幹男」が詳しい。引用も同サイト頁から)。
[ 聖書については膨大な情報が溢れている。どの立場を選ぶか、どの立場の情報を信頼するか、門外漢にはなかなか難しいことだ。キリスト教、ユダヤ教、イスラム教のみならず、それぞれの宗教の中にも宗派がある。キリスト教に限ってさえも、カトリックとプロテスタント。話を新約聖書に限定しても事情は同じ。
宗教人の立場で見るか、その中でも福音書に忠実になのか、学問的な検証を事とするのか。もっと自分の思想や信条に立脚するのか、あるいは中には興味本位から、それとも知的な遊戯として聖書に接する、齧ってみるという人も居るに違いない。
ここではネットで見つかった「新約聖書成立の謎(異端との戦い)・・・・・聖書の権威と矛盾」という頁を紹介しておく(ホームページは、「聖書の呼ぶ声」)。
新約聖書の成立の経緯全般を知るにはとても参考になる。
「新約聖書 - Wikipedia」も例によって参考とさせてもらった(使い切れなかったが)。
グノーシス主義については、やはり、「グノーシス主義 - Wikipedia」から入るのがいいだろう。本文その外でダン・ブラウン(『ダ・ヴィンチ・コード』)を、コメントでホルヘ・ルイス・ボルヘスとグノーシス思想との関係が指摘されていたが、やはり本文でも言及しておいたように、ウンベルト・エーコ(『薔薇の名前』)を逸するわけにはいかない。
例えば、「松岡正剛の千夜千冊『薔薇の名前』上下 ウンベルト・エーコ」を一読すると面白いし、できれば、『薔薇の名前』を読むのが一番だろう。ボルヘス並かどうかは分からないが、『ダ・ヴィンチ・コード』よりは遥かに深い。
松岡正剛氏の名前が出てきたので、というわけじゃないが、「松岡正剛の千夜千冊『ヴァリス』フィリップ・K・ディック」で紹介されている『ヴァリス』は面白そう!
最後に、しかし、ことは宗教の事柄だし、信仰に関わること。コメントを寄せてくれた、Mr.sheep さんのサイト「聖書から人生を考えよう」は、知的遊戯に走りがちなものには頂門の一針となるかも。 (06/04/12 追記)]
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コメント
新聞の片隅と知人のブログで知りました。
ユダの福音書ですか、トマスの福音書なんかもありましたね、荒井献さんが研究している。
マルコが一番古いというのが真相でしょうがマルコにせよマタイにせよそれぞれの生活共同体の中で生み出されたものでどれが真実ともいえない、たとえば「貧しいものは幸い」と「心の貧しいものは幸い」とどちらがイエスの本音なのか議論がありますね。
古美術でも次々と新発見がありますが、それだけ古代への情熱は学者のなかにあるということでしょうか。
投稿: oki | 2006/04/10 13:36
okiさん、コメントありがとう。
新約聖書の福音書は、マルコ、マタイ、ルカ、ヨハネの福音書の何れも、全て伝聞を書いたものです。
トマスの福音書については、小生は未読ですが、エレーヌ・ペイゲルス著の『禁じられた福音書』(松田和也訳、青土社)などがあるようです:
http://www.worldtimes.co.jp/syohyou/bk050404-2.html
キリスト教の布教と広がりに決定的な役割を果たしたパウロさえ、キリストのことは伝聞でしか知らない。
というより、だからこそ、新約聖書はローマ帝国の宗教戦略上という観点から取捨選択が為されたのだと考える余地があるわけだ。帝国の支配戦略(思惑)と宗教との不可思議な関係は、小生には想像も付かない考察の余地があるのでしょうね。
キリスト像、人がキリストをどのような人物として描くか、これからも変わっていく予感が大です。
投稿: やいっち | 2006/04/10 14:09
はじめまして。
お邪魔と思いましたが、ちょっと立ち寄らせていただきました。
私は、若い頃から人生について思索し、「生きるとは何か」を問い続け
て来ましたが、20代でクリスチャンになり、もう60代半ばになりました。
病妻をかかえ、看病と家事をしながら、一昨年の11月頃から「ブログ」
に挑戦してみました。
「神の存在」「聖書と人生」「人生の意味は何か」「神の愛とは」「いのち
と死の問題」 などについて、できるだけ”初心者にも分かりやすく”を念
頭において、一年あまり、「ブログ」でキリストの愛の福音を書き綴って
来ました。(でも今は諸事情により、更新を止めて休んでいます。)
どうか、時間のあるとき、ご訪問ください。
http://blog.goo.ne.jp/goo1639/
goo1639@mail.goo.ne.jp
投稿: Mr.sheep | 2006/04/10 21:57
「貧しい」がどういう意味か、こういう議論は面白い。
たとえば「人間イエス」、滝沢武人のように「プトーコス」を「ギリシア語の本来の意味」の「乞食」と訳すべきという主張もある、一方「心の貧しい」をよしとするものは、ここでは神様との関係において「貧しい」意味だと主張する、両方譲らない、どうしたものか、弥一さんはどう思われますか。
投稿: oki | 2006/04/10 23:09
Mr.sheepさん、来訪、コメント、ありがとう。
サイト、覗かせていただきました。
福音書に忠実、そして教えを大切にする人には、こうした話題というのは、小うるさいものなのでしょうね。もっと聖書を読んで深い教えを学ぶべき…、返す言葉もない。
「病妻をかかえ、看病と家事をしながら、一昨年の11月頃から「ブログ」に挑戦」してきたというのは、想像を超えて大変だったでしょう。今は、それもできないでいる。もどかしいかもしれないけれど、大切にすべき営みもあるのだから、仕方がないのでしょうか。
改めて、サイトアドレスを示しておきます:
http://blog.goo.ne.jp/goo1639/
投稿: やいっち | 2006/04/11 02:59
okiさん、小生が気になるのは、処女懐胎したというマリアのこと。原典では乙女が懐妊したとあるのが、正統なキリスト教の訳では、処女懐胎とされてしまった。一番の欺瞞なのか、知恵なのか。
でも、福音書を大事にされる方は、そんな字義の詮索自体を嫌うようです。
投稿: やいっち | 2006/04/11 03:02
はじめまして。熱い考察をされていたのでおもわずTBさせていただきました。
しかし近年の「キリスト教の皮を被った」グノーシス主義思想の波状攻撃(笑)の勢いは、真面目系アニメなどサブカルチャーを中心に目を見張るものがありますね。今もっとも成功しているのはいわずと知れた「ダ・ヴィンチ・コード」ですが、さて、今回のこのネタはどのくらい「主流キリスト教の牙城」に食い込んでゆくのか、何気に目が離せないものがありますね。
ではでは~♪
投稿: 桜樹ルイ16世 | 2006/04/11 21:33
桜樹ルイ16世さんmこんにちは。
紹介されていた「岩波文庫『伝奇集』」(ホルヘ・ルイス・ボルヘス著)からの引用、意味深ですね。さすがわボルヘスならではの世界です。
新約聖書は個々に読めば相矛盾する記述があっても(当時は<聖書>を手に出来るのはほんの一握りの人たちだけ。民衆は読み書きなどできない。だから説教の際に都合のいい文書の都合のいい箇所を取捨選択すればよかった。記述に矛盾があると知的なような批判が生まれるのは、ずっと後代のことだ)、4つの福音書(367年の「アタナシオスの新約聖書」の27文書)でなければならないし(そのことで大概の異端思想に反駁する典拠・論拠が見つかる)、その他のヘブライ書、ヤコブ書、ユダ書などは正典からは外されてしまった。
グノーシス主義については、ヨハネ福音書などは当時のグノーシス派に好まれていて、この思想に魅入られているものにも、思い入れが可能なのが新約聖書の構成の妙のようだ。
その上で、しかし、異端とされ破棄(されたはずの、またルターも正典に加えなかった…だからプロテスタントの国、ドイツでは今回の文書について批判的なのは流れとして自然なのかも)ユダの福音書が読めるような形になったことで、あるいは問題になる可能性はある。
それが処女懐胎に象徴されるキリスト教における女性の扱いだ。小生には、ちょっと気軽には深入りできない課題だ。
投稿: やいっち | 2006/04/12 12:35