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2006/04/11

風車が春の季語なのは

 例によって、「季題【季語】紹介 【4月の季題(季語)一例】」なる頁に並ぶ季語の数々をぼんやり眺めていた。今日はどの季語を扱うか。どの季語も俳句上での使われ方、歴史、篭められてきた意味合い、知らないものばかり。
「チューリップ、ヒヤシンス、シクラメン、スイートピー、シネラリヤ、アネモネ、フリージア」と並んでいる。
 昔からお袋が田舎の我が家の庭で丹精篭めて育ててきた、富山県の産する花としても有名なチューリップを扱おうか。
 そういえば、先週末、仕事で都内某所の住宅街を走ったら、公園の片隅の歌壇に色とりどりのチューリップがはちきれんばかりに咲き誇っていて、思わず写真に収めようと思ったが、折悪しく、そこにはお子さん連れの若奥さんが憩いのひと時を過ごされていて、そんな傍にタクシーを止め、車を降りて写真を撮りにいくのも、窮屈な気がして、後ろ髪を引かれる思いをしつつ、走り去ってしまった。惜しかった!
 でも、富山じゃ、四月の終わりか五月の頭にピークが来る。気持ちが田舎の富山と居住している東京の両方に跨っている小生、どっちつかずになってしまって、その気が失せてしまった。

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→ 先週末、都内某所の公園にて。八重桜だろうか、雨上がりの空の下、今にも芽吹きそうな蕾たち。青空になったら一斉に咲こうとでもいうようだ。

咲くを待つ蕾も我も空見つめ

 ヒヤシンス、シクラメン、スイートピーのどれもいい。「赤いスイートピー」は、誰しも…、少なくとも小生は松田聖子の歌を連想してしまう。そしてその時代の破れた恋のことも。以前、この季語随筆でちょっとだけ触れたことがあるし、まだとことん書ききるには早すぎる気がする。

 ぼんやり眺めていたら、ふと、「風車」に焦点が合った。
 が、「風車」は、「ふうしゃ」なのか、それとも「かざぐるま」なのか、分からない。分からないままに、頭の中では、昔、流行った「回れかざぐるま かざぐるま いつまでも♪」というメロディと歌詞がリフレインしている。誰の歌だったか…。そう、松山千春の歌「かざぐるま」だ。彼の歌には好きなのが幾つもあるが、特に歌「恋」にはこれまた思い出も思い入れもある。「男はいつも~またせるだけで~. 女はいつも~待ちくた~びれて~♪」

 実のところ、松山千春の歌「恋」と松田聖子の「赤いスイートピー」とは、同じ人に絡むのだが。ま、これ以上は野暮になるから書かない。
 とにかく、今日は読み方が分からないままに「風車」に決定!

 とりあえず、「ふうしゃ」か、(恐らくはきっと)「かざぐるま」なのかを確定しておく必要がある。
 ネット検索してみると、「[ 花鳥風月 ] ○季語の部屋○ 弥生の季語」なる頁が浮上してきた(ホームは、「花鳥風月【日本の伝統ミュージアム】」)。
 この頁の「風車【三春の季語】」の項に、「風を当てたり、息を吹きかけて回す玩具です。古くからヨーロッパにも中国にもあり、日本には平安時代に入ってきたとか」云々という説明があり、三好達治の「街角の風を売るなり風車」という句が例として掲げられている。
 どうやら、やはり、「かざぐるま」と読ませるらしい。というか、玩具の「かざぐるま」が季語として想定されているということだろう。
(以下、「風車(ふうしゃ)」については探求の対象でなくなる。「ふうしゃ」に関連する記事としては、「風力発電というドン・キホーテ」や「文殊の知恵かも」を参照願いたい。)

 少なくとも「風車菊(フウシャギク)」 などの花ではないのだろう。いつもお世話になっている、「春の季語(行事・暮らし編-種類順)」でも、「風車」の項は、類義語として「風車売」で、「セルロイドや紙で作った玩具」とある。
 尤も、「YS2001のホームページ」の「季語(て)」の頁では、「風車の花」という季語も見つかる。
 その項を転記させてもらうと、「鉄線(てっせん:中国原産のキンポウゲ科の蔓性植物で、鉄のような強い蔓が巻きついて伸び、六弁の花を咲かせる) [夏-植物] 別名⇒鉄線花(てっせんか)、鉄線葛(てっせんがずら)、菊唐草(きくからくさ)、クレマチス(くれまちす)、風車の花(かざぐるまのはな)」である。植物にも疎い小生だが、「風車」という植物の花だと、夏の季語になるのだろう(やや覚束ない)。
 ただ、この説明だと、「鉄線(てっせん)」と「風車の花(かざぐるまのはな)」とが同義語になりかねない。

「風車」という植物について詳しい説明を与えてくれるのは、「カザグルマ:広島工業大学」なる頁だ。しかも、素敵な画像も載っている。
 冒頭に、「初夏の心地よい微風をうけて,今にも回りだしそうな紫の花。風をうけてくるくる回る子供の玩具の風車に花の形が似ていることから,この名前がつけられたそうです」という説明がある。やはり初夏の花の咲く植物であり、季語上も初夏と理解していいのだろう。
「クレマチスのグループは,世界に約300種分布しています。その中でカザグルマは,日本原産種」だという。いつか、花(植物)としての「カザグルマ」に焦点を合わせつつ、季語「風車の花」の周辺を探ってみたい。

 ということで、玩具としての「風車(かざぐるま)」に今日は着目。
(但し、季語ではないが、「風車(ふうしゃ)」も文を綴る素材として、棄てがたい。既に採り上げたことはあるが、後日、改めて違う視点から探ってみたい。)

 それにしても、誰しもが浮かんでくる疑問だろうが、何ゆえ「風車(かざぐるま)」は春(四月)の季語なのだろうか。さすがに冬は寒々しい気がして無理なのは分かるとして、夏や秋ではダメなのだろうか。誰かが最初に句に「風車(かざぐるま)」を織り込んだ時の情景が春の風景だったということなのだろうか。
 こうなると、季語としての「風車」の成り立ちを調べる必要が生じてくる。ちょっとネット検索では手に余る仕事かもしれない。
「風鈴」だと、夏が似合うのは分かる。小生も、一昨年の七月に句(俳句と川柳の区別も覚束ないままに)を初めて捻った際の一つが、「風鈴を揺らしてみても夏は夏」だった(これは俳句? 川柳?)。
 が、「風車(かざぐるま)」はどうだろうか。夏だと風が逆に暑苦しい? でも、それだったら風鈴だって、揺らす風が暑苦しいと感じられないのかしら。風鈴は涼しげな音色が奏でられることで、一抹の涼風を想像の中で感じられるということか。 
 だったら、風車の羽根の色を水色にするとか、涼しげに感じられるようにする工夫は幾らでも可能なような気がする。
 やはり、最初に「風車(かざぐるま)」を句に織り込んだ人の責任というか、勝利なのだろうか。
 ヒントは、もしかしたら「風車」の類義語である「風車売」にあるのかもしれない。
 長い冬の時をなんとかやり過ごして春風の吹く頃、何処からともなく「風車売」の小父さんが台車を引きながらやってくる。そこへ村の子供たちが群がる。お母さんか、それとも祖父・祖母たちが、やれやれと思いつつも、子供たちのために一つくらいは買ってやる。子供らは、名残の雪もようやく消え去って、水分をタップリ含んだ黒々とした田や畑の畦道を、それとも鎮守の森の境内を、買ってもらった風車を手に駆け巡る。
 風車は口でフーフー吹いても回るようになっているが、すぐに息が苦しくなる。それより、駆けたほうが風車が勢いよく回る、というわけだ。
 そんな子供たちのはしゃぎようを見て、春を大人は感じる…。
 そんな構図だろうか。
 上で示した三好達治の「街角の風を売るなり風車」なる句は、ちょっと垢抜けているような雰囲気だ。都会風とでも言うべきか。市街地のほうが風車は売れるのだろうし、商売本位だとそのほうが賢い。
 でも、願望としては人家が点々と散在している里をリヤカーか何かを引いて行商する小父さんの売る風車のほうが訳もなく嬉しくなる。

 ネット検索したら、「今週の花 - 第153回 カザグルマ」という頁が浮上してきた。ここには、正岡子規の句として、「名月や巡 りて見する風車」という句が掲げられている。以下、季語としての「風車」についてあれこれ書いてある。人によっては、若干の違和感を感じさせる季語なのかもしれない。
 思えば、「季題【季語】紹介 【4月の季題(季語)一例】」なる頁を覗いてみるまでもなく、「春風、 凧、風車、風船、石鹸玉」といった一連の季語があるが、少なくとも「凧」は、冬、それも正月の季語だと小生は思い込んでいた。凧は正月に揚げるものという思い込みは、遊びが多彩になって、正月くらいにしか凧を揚げなくなった時代の感覚に因るものなのか。昔は、春にこそ凧揚げという遊びに飛びついたのだろうか。
 時代の変遷と風俗とは相俟っているということか。

 久しぶりに、「e船団ホームページ」の「週刊:新季語拾遺バックナンバー 2001年4~6月」、その「2001年4月8日 風車(かざぐるま、kazaguruma)」なる項を覗いてみる。
 さすがに、「風車(かざぐるま)、風船、シャボン玉、ぶらんこ。こんな子どもの玩具は春の季語。風車は中世に現れているが、江戸時代の『雍州府志』は、京都の祇園が風車発祥の地と伝え、風車は「自カラ春初発生ノ気アリ」と書いている。たしかに風車は春の風とともにクルクルッと生まれる感じだ。そんな感じで道端で売られている。今の風車はセルロイド製が普通だが、昔は色紙やかんな屑で花型が作られていた」と詳しい。「たしかに風車は春の風とともにクルクルッと生まれる感じだ」と、結構、素直に春の季語として受け入れている。
 違和感を覚え、あれこれ探ってやっと春の季語として納得(本当は、必ずしも得心が行ったわけではない!)した小生のほうが鈍感ということか。

 ここは気分一新、これまた久しぶりに「黛まどか「17文字の詩」2000年4月の句」なる頁に載っている句を詠ませてもらう。
 それは、「しやぼん玉吹いて淋しくなりたくて」という句。
 いつも感じることだが、彼女は、句もいいが、その鑑賞文が秀逸だ。
 

 気持ちが春愁に染まってゆくと、なぜだかふっと“淋しい気持ちになってみたい…”と思う瞬間があります。そんなときはきっと、すでになんとなく淋しいのでしょうが、もっと淋しくなりたいと思ってしまうのです。
 しゃぼん玉やぶらんこ、風車など春の季語となっている遊びには、明るさの半面、愁いを含んだ淋しさもあります。七色に輝きながら飛んでいき、とつぜんふっと消えてしまうしゃぼん玉。
 しゃぼん玉を吹きながら親の帰りを一人で待っていた子供のころのように、大人になった今でも、しゃぼん玉を吹くときには、ふっと淋しい気分にとらわれます。しゃぼん玉の向こうに、だれかの訪れを待っているからなのでしょうか。恋しいだれかを見ているからなのでしょうか…?

 黛まどか氏が、しゃぼん玉を吹いて飛ばしたり、風車をフーフーして回すところを見てみたいものだ。
 まだまだ探る余地がありそうだが、本日はこれでお終い(これ以上、書くと、風車の弥七の話題に飛びつきそうだし。小生は弥一なのだ!)。
 幸いなことに、「サイコドクターぶらり旅(2005-05-28)」という頁(「ワンダランドへの誘い」の項)で、中井英夫著の『虚無への供物』からの引用として、以下の一文が掲げられているのを発見。一昔前は、春の風物詩だったことを実感させてくれるではないか:
 
 いかにも、のどかな春景色が、川沿いに遠くひろがっている。『乗合船』の書割りめいて、“柳、桜をこきまぜた”この隅田公園には、平日のせいもあるのだろう、子供づれの花見客がゆったりと往き戻りして、八分どおり咲き揃った花の、桃色ぼかしの雲の向うには淡い水色の空がどこまでものび、四人があとさきにつながって歩く土堤の上では、赤や黄のセルロイドの風車売りが、いっせいに風車を廻しながら何人もすれちがった。


 風車駆けて回した日の遠く
 セルロイド組み立てる手ももどかしく
 風車空の青より煌いて
 冬去って春の風呼ぶ風車
 風車吹く息の辛さは年のせい?
 風車弥七の名の代わりかも

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コメント

毎日通る道に停めてある自転車のハンドルに、
幾つもの風車がつけてあります。
風のあるときは、幾色ものその風車がくるくる回り、
涼しげです。
風車って子供に還してくれますね。

投稿: 勿忘草 | 2006/04/11 08:58

勿忘草さん、こんにちは。
そういった遊び心で自転車に乗るのはいいですね。楽しそう。
小生も自転車を買いたいという気持ちが高まっている。でも、昔、自転車が盗まれたのがトラウマになっていて、自転車=盗難という意識が邪魔をしている。
それでも、田舎では買い物の際に乗っていることだし、東京でも春風に吹かれながら乗ってみたい!

投稿: やいっち | 2006/04/11 09:25

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