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2006/04/22

飯田龍太…山本玄峯…ポツダム宣言

 車中では先週来、折々、飯田龍太著の『俳句入門三十三講』(講談社学術文庫)を読んできた。
 季語随筆を一昨年の秋口より綴ってきたが、飯田龍太氏の名はほとんど初耳である。図書館で本書を見つけた際も、連句を学ぼうと物色していたが、適当な本が見つからず、車中で気軽に読める本ということで選んだ。
 俳句に多少でも関心を持つ人には顰蹙を買いそうだが、事実だから仕方がない。
 レビューによると、「「ホトトギス」を源流とする「雲母」に育った龍太は、父蛇笏の写実的俳句を継ぎながら、その作品は近代俳句の正嫡ともいうべく、勢いがよく魅力的で、しかも広がりと深さを持つ。本書は、「雲母」の例会の実作指導のなかから選りすぐった俳論・俳話で、いずれも文学の根源に触れるおもしろさがあり、読者は居ながらにして句会の現場に立ち会うような、しかもその語り口から著者の人柄にも触れることができる、好個の入門書といえよう。」とある。
 そう、名前からして、そうだろうなとは思ったけれど、(多くの方には、多分、言うまでもなく)飯田龍太氏は飯田蛇笏の子息なのである。
 困った時の「Wikipedia」で「飯田龍太 - Wikipedia」なる頁を覗いてみる。あまり詳しくはないが、小生には非常に参考になる。
 飯田龍太(いいだ りゅうた)は、「1920年、山梨県東八代郡五成村(現・笛吹市)に生まれる。折口信夫を尊崇していた彼は旧制甲府中学(現山梨県立甲府第一高等学校)から國學院大學へ進み、句作にふける」というくだりに惹かれてしまった。少なくとも本書を読む限りでは、折口信夫の影も匂いも感じなかったので意外ではあるが、折口信夫を若くして尊崇し彼の教授する(していたことのある)國學院大學へ進んで句作にふけったというのは、さすがに「俳句と俳人に囲まれた環境」といった彼の生まれと育ちを物語るものでもあるのか。

 順番からして飯田龍太の本を読む前に飯田蛇笏の本や句に親しむべきなのだろうが、そこはそれあちこち関心が飛んでしまう抓み食いの弥一なので仕方がない(以下、尊敬の念を篭めて飯田龍太・飯田蛇笏の両氏については敬称を略させてもらう)。
 飯田蛇笏については、この季語随筆でも「すすきの穂にホッ」にて「おりとりてはらりとおもきすすきかな」なる句を、さらに「冬に入る」にては「凪わたる地はうす眼して冬に入る」なる句を掲げさせてもらったことがあるだけである。
 きっとこの先、改めて蛇笏の句境や仕事に触れる機会が来るに違いない。
 
 上で示したレビューの中に、「本書は、「雲母」の例会の実作指導のなかから選りすぐった俳論・俳話で、いずれも文学の根源に触れるおもしろさがあり、読者は居ながらにして句会の現場に立ち会うような、しかもその語り口から著者の人柄にも触れることができる、好個の入門書といえよう」とある。
 実際、例会の実作指導での語り口そのままのようで、笑いが絶えず、句会の雰囲気が彷彿とするようだ。
 若くして(というより、物心付いた頃には既に、なのか)俳句の世界に馴染んできたとはいえ、ぶっつけでこれだけのことを笑いを取りつつ余裕を持って語れるというのは、相当な研鑽と実作に裏打ちされた自信があってのことだろう。
 何の学識も経験もないくせに僭越というか生意気な言い方に思われるかもしれないが、正直な感想である。
 たとえば(あるいは卑近な例に過ぎないし、素養のある方には常識の部類に属することかもしれないが)、洛中・洛外の「洛」の意味合いについて初めて知ったのは本書の記述、というより、本書の中での飯田龍太の語りを通じてだった。
「洛中」が「みやこの中。京都の市中」であり、「洛外」が「京都の市外。みやこの外」だということくらいは、さすがに小生も知っていたが、何ゆえ「洛中・洛外」がそのような意味を担うのかは、探求したことがなかった。
洛中洛外図屏風」という有名な屏風がある。中学か高校の教科書に載っていたはずである。

「洛中をすぎゆく風も朧にて」(長谷川双魚)の句を引き合いにしたくだりで、以下のように飯田龍太は語っている:
 

 洛は洛水、つまり中国河南省を流れる黄河の支流だが、その北にあるところから古都洛陽の名が生まれたという。これにならって京都を洛と称した。したがって洛中は京都市中の意。頬のあたりを吹き過ぎる夜風がしだいに鮮やかになる不思議な感触の句。つまりは下句の「朧にて」が、一切の物音を消して旅の孤心をはぐくむためか。あえて朧月を仰ぎ見るまでもなく古都の春宵は千金の風雅。そのなかにいくばくか哀愁のただよいをおぼえながらも。(以下略)

 こんな風に薀蓄が(しかし薀蓄を語るという気取りなど一切なく)句境を語り、あるいは俳論を語る際にさらっと口を突いて出てくるわけである。

 できれば、どんな箇所で笑いを呼んでいるか、しかも殊更に笑いを取るのではなく、俳句に携わるものには欲しい資質である、自己客観視(これが滑稽と余裕とを生む)の結果に過ぎないことを例で示したいが、ま、それは本書を読まれる方の楽しみに取っておこう。

 あるいは、もっと一般的にも関心を持たれるのではないかというポツダム宣言に関わるエピソード(といっても、飯田龍太は脱線だと断って話している)を本書から引いておこう。少々長い引用になるが、語りの口調を感じてもらうためもあるし、敢えて転記しておく(「山本玄峯」は本書の表記。ネットでは、「山本玄峰」という表記でのデータが圧倒的):
(蛇笏と師弟の関係にあり、一時期レベルの高い句を発表されていたが、その後の二十年ほどは俳句を発表していない、三島の龍沢寺(りゅうたくじ)の和尚さんである中川宋淵(なかがわそうえん)師が、飯田龍太のもとを訪ねて来た際、以下のことを洩らされたことがある、として)
 

 あの方(中川宋淵)の師匠は山本玄峯(げんぽう)というやはり龍沢寺の先師ですが、これまたたいへんな高僧で、その先師があるときニコニコほほえまれながら「宋淵よ、俳句も結局お前にとっての迷いのひとつなんだよ」と、こう言われたというんです。
 山本玄峯さんという方は、非常な傑物だったそうで、たとえばあのポツダム宣言を受諾したときに、天皇がお示しになった終戦の詔勅。あのなかに「耐エ難キヲ耐エ、忍ビ難キヲ忍ビ」というなかなかうまい文句がある。これは鈴木貫太郎という、時の総理大臣が、ポツダム宣言をはたして受諾すべきかどうか、その結果日本の将来はどうなるだろうということで非常に悩まれて、こころ千々に乱れて、思いあまって三島の龍沢寺に山本玄峯老師を訪ねたらしいんです。そうしたら玄峯老師は、玄関でチラッと顔を見ただけで、なんにもいわない前にただ一言、「いまは耐え難きを耐え、忍び難さを忍べ」と言ったというんです。いわれた鈴木大将もまた、黙って深く頭を垂れて辞去したのですが、それがそのまま勅語のなかに生かされた。(以下略)

 こうした話が飛び出してくるには、それなりの流れがある。
「無用の用」という言葉があるが、「要するに俳句というものは、一番無駄なものはなにか、そういうことを考える文芸ではないか」と、本書の32講「「無用の用」が名句の要素」という章の冒頭に書いてある。
 久保田万太郎の「俳句余技説」が紹介されている。西脇順三郎が俳句は「超一級芸術」だとある座談会で言っている。詩人の清水氏がある雑誌の中で俳句は「名人芸」だと発言している。井伏鱒二が開高健との釣り対談の中に、人間は一流なら小説は書かない、という発言がある。俳句というのは、実用から一番遠い無駄なものに思えがちだ。
 そうしたあれこれが語られた上で、一時期、レベルの高い句を発表されていた中川宋淵(なかがわそうえん)師が、彼の師である山本玄峯老師に「宋淵よ、俳句も結局お前にとっての迷いのひとつなんだよ」と言われたという話が出てくる。
 中川宋淵師は、玄峯老師にそのように言われて、恐らくは相当に才能もあり、句にのめりこみそうだったにも関わらず、以後、二十年余り(あるいは亡くなるまでなのか)句作を試みなかった(少なくとも発表はしなかった)のだろうか。
 只管打座(しかんだざ)、不立文字(ふりゅうもじ)、見性成仏(けんしょうじょうぶつ)……。
 
 まあ、そうした境地には到底、至るはずもないから、少なくとも自分は、心の迷いをそのままに句作や創作に励むのだろう。
 なんだか、本書の感想文にもならなかったが、ま、いっか。

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